キリストと一つとされること

Galatians 2:20
P. G. Mathew | Sunday, March 08, 2020
Copyright © 2020, P. G. Mathew
Language [English]

キリストと一つにされることが今日の主題である。福音は主イエス・キリストと交わりを持つように我々を導く。主イエスは言われた、「私はぶどうの木、あなたがたは枝です」。キリストの命は、我々に絶えず流れ込んでいる。ジェームズ・ボイス師は、パウロが書簡で164回キリストと一つにされることについて語っている、と言っている。これこそ我々の救いの中心である[1]キリストと一つにされることとはどういうことか? ジョン・マレー師は以下のように教えている:

キリストと一つにされることは、世界の創造の前から、父なる神が御自分の民を選ばれたことにその起源を持ち、神の選びの子たちが栄光を与えられることに至る。神の選びの民と言う場合、その視野は狭くない。それは広く長い時間にわたる。即ち、空間と時間に限定されない永遠の広がりを持つ。その軌道に2つの焦点があり、1つは父なる神の愛の選びの業である。もう一つは、神の栄光の現れであるキリストの栄光である。前者には始まりがなく、後者には終わりがない。なぜ信仰者はこの神の決定的業を喜ぶのか?そして、現在の困惑や逆境に忍耐できるのか?未来について主に信頼して、神の栄光を期待して喜ぶことができるのか? それは、キリストと一つにされることである。このことを無視して、過去、現在、未来を正しく位置付けることはできない。[2]

キリストにある永遠の選びは我々の救いの基礎

  1. 父なる神はキリストによって救われる罪人を永遠から選ばれた。
    • エペソ1:3–4:「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選ばれた」。
    • マタイ7:13–14:「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」。
  2. 選びの民は、キリストの死と復活においてキリストと一つとされる。
    • ローマ6:4–5:「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう」。
    • ローマ4:25:「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」。
  3. 選びの民は福音を聞き救われるであろう。
    • 悪霊につかれた男も選びの民の一人であった。この一人の中に、二千人の悪霊がいた。主イエスは彼を捜し、悪霊から救い、民を伝道するために彼を遣わされた。
    • その取税人も選びの民の一人であった(ルカ18:13–14). 彼は祈った、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」。そして、主イエスによって永遠に義とされて戻っていった。
    • 使徒パウロは最悪の罪人であったが、神によって選びだされた民の一人であった。彼は、1テモテ1:15で言っている、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである」。すべて選びの民とされている罪人は最悪の罪人である。しかし、神は彼等を救われることを選ばれた。
  4. 選びの民でない者は福音を聞いて拒否する。
    • 彼等は、道端に落ちた種に喩えられている。サタンはすぐに来て、神の言葉である種を奪っていく。そのような人々に会うであろう。そのほとんどは、神によって選ばれていないのである。世界の創造の前に、父なる神から選ばれた者はごくわずかだ。そして、あなたが選びの民の一人なら、今私が言っていることで唯々栄光を主に帰すであろう。
  5. 選びの民は、天の国に行くためにキリストにおいて死ぬであろう。

我々は死を恐れていない。キリストが我々を永遠の死から救い出しましたからだ。

    • 1テサロニケ4:14,16:「わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえる」。
    • 詩篇116:15:「主の聖徒の死は神の前において尊い」。
  1. 選びの民は、永遠に主と共に住むために栄光を受けるであろう。
    • 1テサロニケ4:17:「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」。
    • ピリピ3:20–21:「わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」。
  2. 選びの罪人は、かつて神の怒りのもとにいたが、キリストによって永遠に救われるために運命づけられていたのである。
    • エペソ2:3:「わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった」。
    • エペソ2:12–13:「またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである」。
  3. 我々がキリストと一つになるという根源は、父なる神による選びである。罪のなく正義のみが永遠に宿る新しい天と新しい地で神と共に住むことになる選びの民、このような栄光へとつながるのである。
    • 黙示録21:1–4:「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』」。
  4. 神から召命を受けて遣わされている牧師の語る福音を聞いて、選びの人々は神の子イエス・キリストとの交わりに導かれる。
    • 1コリント1:9:「神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである」。父なる神は我々を伝えられた福音によって呼び出された。それは、御子イエス・キリストと交わりをもつようになるためである。
    • 1ヨハネ1:3:「わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」。

この交わりには言葉にあらわせない喜びがあり、きわめて栄光に満ちている(PGM)。ジョナサン・エドワーズはこの極限的経験をし、私もそうであるので言おう、それは言葉にできない喜びであり、栄光に満ちている。

    • ヨハネ14:23:「イエスは彼に答えて言われた、『もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう』」。言葉に表現し難い喜び、まさに主の栄光!
    • 1ペテロ1:8:「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている」。神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである (ローマ14:17)。キリスト者は、憂鬱で悲惨な生活をしない。喜びに満ちた生活をする。それはなぜか?キリスト者は、聖霊なる神を通して父なる神と子なる神と交わっているからだ。
  1. キリストと一つにされることは霊的状態であり、霊的な人が神の言葉を通して内住される神の霊によって支配されている状態である。
    • コロサイ3:16:「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい」。
    • エペソ5:18:「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされ[続け]よ」。
    • 1コリント2:14–15:「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない」。霊的な人は再生しているのでキリストと同じ思考を持つ。新しくされた知性、新しくされた意志、そして新しくされた好みを持つ。
  1. キリストは聖霊によって我々に内住しておられる
    • ローマ8:11:「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」。御聖霊は我々に内住しておられる。最大の現実は我々の中に存在しておられる。無限の神、永遠の神が、実際におられ、我々を啓発し、力を与え、意思決定プロセスの隅々で我々を導いておられる。あなたが祈るとき、無限の神はあなたを導かれるのだ。
    • 1ヨハネ4:13:「神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る」。
  1. キリストと一つとされることは、救いの全教理の中心的な真理である。
  2. キリストにあって、我々はキリストの血による贖い、即ち罪の赦しを得ている
  3. キリストに会って、選びの民は聖霊の証印を押されている。我々が神の選びの民なら、御聖霊によって証印を押されている。これは保証と神の所有権の印だ。神に所有されており、神御自身が我々を守り抜かれるのである。
    • エペソ1:13:「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである」。
    • エペソ4:30:「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである」。
  1. キリストにあって、我々は富む者とされた。
    • 1コリント1:5:「あなたがたはキリストにあって、すべてのことに、すなわち、すべての言葉にもすべての知識にも恵まれた」。
    • エペソ1:3:「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福してくださった」。
  2. キリストにあって、我々は生きる者とされた。
    • エペソ2:5:「[主なる神は]罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かしてくださった―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである」。
  3. キリストにあって、我々は義とされた。
    • ガラテヤ2:17:「キリストにあって義とされることを求めることによって、わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、キリストは罪に仕える者なのであろうか。断じてそうではない」。
  4. キリストにあって、我々は聖められた。
    • 1コリント1:2:「コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる」。
  1. キリストにあって、我々は良い業と神への従順を行うために創造された。
    • エペソ2:10:「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。
  1. キリストにあって、我々は永遠の命を持つ。
    • ローマ6:23:「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。キリスト・イエスと一つにされているのである。
  1. キリスト・イエスは我々の知恵、義、聖、贖いとなられた。
    • 1コリント1:30:「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである」。キリストにあって我々は全てを持っている。欠けているものはなにもない。

キリストと一つにされること、その描写[3]

  1. 我々はキリストの花嫁

選びの信仰者がいる教会は、キリストの花嫁と呼ばれる。それはキリストが救うために死なれたほどの教会だからである。罪から贖うために最高の代価を教会の為に払われたのである。

  • エペソ5:25–27:「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである」。
  • 黙示録19:7–8:「わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣(聖徒の義の行い)を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。

我々は、全員、主なる神に対する貧しい債務者であった。今、我々教会の主人となっておられるイエス・キリストが全てを所有しておられ、ゆえに我々は非常に恵まれている。我々の負債はすべて彼が払われた。それが結婚というものである。彼の富はすべて我々に与えられた(ローマ8:17)。 聖書は、我々は神の宝だと言っている。これこそ不思議な事実である。

  • テトス2:14:「[イエス・キリストが]、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない」。
  • 申命記32:9:「主の分はその民であって、ヤコブはその定められた嗣業である」。神の宝。誰の宝?神の宝。ハレルヤ! 神の宝だ。我々は約束の聖霊によって証印をおされており、完璧に安全である。神が我々を所有しておられるのだ。
  1. ぶどうの幹と実を結ぶその枝

ヨハネ15:5–6で主イエスは言われた、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである」。これは、永遠の地獄のことである。

我々はキリストによって呼び出され、福音の説教によって、効果的に召された。1コリント1:9にあるとおり、「神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである」。この効果的な呼び出しは、キリストとの交わりをもたらし、絶えず良い実を結ぶ。キリストの命が常に流れてくるからである。我々自身には何もない。

  1. キリストは頭(かしら)であり、教会はその体

エペソ1:22–23にある通り、「そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」。教会は頭であるキリストと一つになっていると、教会に必要なすべてが満たされる。それはキリストご自身が与えられる。イエス・キリスト、「私は教会を建てる」と言われたとおりである。

非常に多くの教会はサタンの会堂である。そして、反律法主義に落ちている教会である。そのようなサタンの会堂にいる牧師は純粋な福音を教えようとしない。彼らは、キリスト者が自分の実際行っている罪を必ずしも悔い改める必要はない、と言う。また、必ずしも人生の主として、主イエスに従う必要がない、と言う。あるいは、神の救いには、一切の義務が付きまとわないという嘘のような嘘を説く。そのような牧師達は、悪霊につかれた者達である。説教壇から嘘を語っている。そして、罪を悔い改めよ、人生の主としてイエス・キリストに服従せよ、とは教えないので、そのような教会には大勢の人間が集まってくるのだ。

しかし、このような教会は大ペテンである。主イエスはマタイ7:21–23で言われた、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」。

反律法主義を持ち込んでいる数多くの福音主義教会はこれらの以上のような異端を教えているのである。そのような教会の長はサタンであり、決して主イエス・キリストではあり得ない。

  1. 霊的な礼拝のための神殿
  • エペソ2:20–22:「[この礼拝の神殿である我々は]使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる神殿へと成長し、 そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである」。
  • イザヤ28:16:「それゆえ、主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに
    一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。
    信ずる者はあわてることはない』」。
  • マタイ7:24–26:「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう」。
  • 1ペテロ2:4–5:「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい」。

これは、キリストが土台であり、信じ従う者はキリストの土台の上に築かれていることを描写している。また、神の教会では、それぞれの信仰者がお互いにつながりをもっている。体のように、キリストである頭にすべてのメンバーが体の各部分としてつながっている様子である。だからこう聖書は教えている、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない。そこで、この律法学者はイエスに言った、先生、仰せのとおりです、神はひとりであって、そのほかに神はない、と言われたのはほんとうです」(マルコ12:30–31)。

神の家族

キリストが、選びの民のからなる教会の長であるから、本当の信仰者は神の家族だ。神の息子であり、娘であり、兄弟姉妹である。皆、キリストとの結びつきを喜んでおり、結果、神との交わりと、お互いの交わりが生じている。だから、「元気だろうか? 何か必要があるだろうか?」と兄弟姉妹の状態に注意を払うのである。

  • ガラテヤ6:10:「だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」。
  • ルカ10:27:「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

これは、互いに祈り、奉仕し、神の家族の一員として互いのニーズを満たすべきだ、という意味である。

  • エペソ6:18–19:「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい」。
  • 使徒2:42:「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた」。
  • 1コリント14:26:「すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高めるためにすべきである」。他の兄弟姉妹を力付ける責任ありである。
  • ローマ12:6–8:「このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである」。もしも、兄弟姉妹が必要をもっているなら、喜んで助けるべきだ。「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」(エペソ4:28)。
  • 1ヨハネ3:16–18:「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」。
  • 使徒2:44–45:「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた」。
  • 使徒4:34–35:「彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた」。
  • ローマ12:13:「貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい」。神の選びの民には聖霊が内住され、その証拠は犠牲的な愛に表れる。だから、キリストが教会を愛し、救うために死なれたように兄弟姉妹を愛すべきである。

キリストと一つにされることの中心は、主イエスがヨハネ15:10で言っておられる、「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」。また、主イエスは「御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となられた」(へブル5:8–9)。必ずしも具体的な罪を悔い改める必要なない、とか、必ずしも人生の主として主イエスに従う必要はない、と言うのは真っ赤な嘘である。悪霊と同じところに送られる者が、そのような嘘を語る。また、そのような嘘を喜ぶ者も同じである。

キリストと一つにされるとは、父なる神の栄光のために徹底的に実を結ぶために、キリストの命が絶えず流れ込むということである。主なる神が我々を御言葉と聖霊で満たされるように。そうすれば、永遠から我々を選ばれた我々が、神の喜ばれることを行い続け、きよく責められない者となるのだ。神にすべての栄光あれ!

[1] James M. Boice, Foundations of the Christian Faith, rev. edition (Downers Grove, IL: InterVarsity, 1986)), 390.

[2] John Murray, Redemption Accomplished and Applied (Grand Rapids: Eerdmans, 1955), 164. 要参照Wayne Grudem, Systematic Theology (Grand Rapids: Zondervan, 1995), 840.

[3] 例はBoice, Foundationsより引用, 393–395.