信仰者の最後の裁き

Matthew 25:31-46
P. G. Mathew | Sunday, August 16, 2020
Copyright © 2020, P. G. Mathew
Language [English]

キリストは、イエスを信じる人々を救うために、我らの罪のために犠牲の死を遂げる救い主として来られたのである。御聖霊は、選びの罪人を再生させ、罪を悔い改めて主イエスを信じ、従い、兄弟姉妹を互いに愛することができるようにされる。ヨハネの手紙の最初の部分で、「愛」という言葉が、動詞と名詞の形で44回記述されている。それは、神から生まれた者は、神を愛し、神を信頼する兄弟姉妹を愛するということを教えている。善行は、我々が新たに生まれ変わらされたことの証拠である。

1ヨハネ5:1–3は、言っている「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである」。

ヨハネ14:15で、主イエスは言われた、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」。そして、ヨハネはあ続けている、「このいましめは、重荷にはならない」。他の箇所でも、主イエスは「私のくびきは易しく、私の荷は軽い」と言っておられる(マタイ11:30)。主イエスはまた言っておられる、「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:10)。これは永遠の命のことである。

キリストが私たちを愛されたように、神の民は犠牲的に愛する。御霊の最初の実は犠牲的な愛である。

キリストは救い主としてではなく、すべての人々の裁判官として再び来られる。キリストは、イエスを信じる人々を祝福し、不信者を呪うために、再び栄光もって来られる。祝福は今からも続いている永遠の命にある。呪いは地獄での永遠の罰である。

審判者は来る

イエスは栄光のうちに来られる。彼が再び来るとき、彼の敵はかつてのように彼の顔に唾を吐いたり、叩いたり、嘲笑したり、十字架につけたりすることができなくなる。 次の聖書の箇所にあるように、彼は再び栄光をまとって来られるのである。

  • マタイ17:2:「ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」。
  • マタイ25:31:「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう」。

彼を信じたくない人はどうなるのか? 彼らが主イエスを見るとき、恐れと震えで満たされるであろう。主イエスは、王の王であり、主の主である。

  • マタイ28:18–20:「イエスは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである』」。イエスは全ての権威を持たれる。栄光と共に来られる。
  • ダニエル7:13–14:「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない」。

イエスが再び来られるとき、人々を引き離される。右側に信仰者を置き、左に不信者を置かれる。イエスは、誰が誰であるかを知っておられる。この世界のほとんどの人々は、滅亡に向かう。彼等は、本当はイエス・キリストを憎んでいる者である。しかし、信仰者は違う。イエスは真の信仰者に言われる、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい」(マタイ25:34)。永遠の命とは、神と共に存在することであり、永遠の幸福を意味している。神は、世界の創造の時から、神の国を備えておられる。

  • エペソ1:3-4:「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、御まえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選んでおられる」。神は世界の創造の前から我々を選ばれた。名前がいのちの書に書かれていること知れ。選びの民であれば、福音を聞いて悔い改めて信じるのである。

主イエスへの信仰それが裁きの根拠

主イエスを信じる人々は、主を信じる兄弟姉妹が困っているときに彼等を助ける。

  • マタイ25:34–36:「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』」。そのような犠牲的な愛の行為は、20世紀の初めに聖霊が注ぎと共に文字通り起こった。聖霊がロサンゼルスに注がれ、リバイバルは世界中に広がり、私の出身地インドのケララ州にも広がった。私は、人々が犠牲的にお互いを助け合っている様子を見た。病気になった人の癒しを断食して祈り求めたりしていた。それは、当然ながら、医者に行くべきではないというような意味ではない。

だから主イエスは言われた、「『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。神の家族に属しているので、クリスチャンは兄弟姉妹である。教会は神の家族であるため、そこに差別はない。次の聖書の箇所にあるように、我々は主イエスの兄弟姉妹である。

  • マタイ12:46–50:「イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。それで、ある人がイエスに言った、『ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます』。イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、『わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか』。そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、『ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである』」。イエス・キリストへの信仰は我々を神の家族に導く。そしてこれらの節では、信仰の従順が教えられている(ローマ1:5も参照)。主イエス・キリストの兄弟姉妹であるならば、父なる神の御心に従うのである。
  • へブル2:10–12:「なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。すなわち、『わたしは、御名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ、教会の中で、あなたをほめ歌おう』と言っておられる」。ここでも、我々全員、神の家族に属していることがわかる。長兄である主イエスの兄弟姉妹である。
  • マタイ25:37-39:「そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』」。
  • マタイ25:40: 王である主は答えておられる、「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」。我々は神の家族に属している。その家族は世界中にいる。

私たちは、1960年12月、この国に行くことになった。ある貧しい牧師の奥さんが、私に5ルピー(2ドル)をくれた。何年も経ってインドに戻ったとき、その奥さんを訪ねたが、彼女は既に主の御もとに召されていた。 帰りにスイスで、時計を買った。それで、母親が見せてくれた優しさを思い出しながら、彼女の息子に時計を渡した。

1961年、私はニューヨークの学校に通っていた。夏休みに滞在する場所が必要だったので、アドレス帳を見て牧師が紹介してくれたハビブ夫人を訪ねることにした。オイスターベイから夫人の家まで電車に乗って行った。翌日、彼女は私を、妻を最近亡くした改革派の牧師のところへ連れて行ってくれた。その牧師は、私を家に泊めてくれ、銀行にも連れて行って、必要なお金を口座から引き出せるように手続きをしてくれた。私自身にも、充分な生活費があり、それ以上に必要な資金は必要なかった。私はしばらくの間、その牧師の家に家族のように住んでいた。実際、我々は主にあって兄弟姉妹、母親、父親も、神の家族の一員なのである。

王なる主イエスは、生きている者と死んだ者を裁くために再び来られる。すべての国の者は、彼の前に立つことになる。問題は、あなたの名前はいのちの書に書かれていか、ということである。次のことを考慮せよ。

  • 黙示録20:11-15:「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はその仕業に応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのその仕業に応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」。これは、主イエスを信じなかった者達についてのことである。
  • ルカ10:20:「しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。
  • 使徒16:30–31:「ピリピの監守はパウロとシラスを解放して尋ねた、『先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか』。ふたりが言った、『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます』」。
  • 使徒10:42:「イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです」。
  • 2テモテ4:1:「神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる」。あなたが死ぬ前かもしれず、死んだ後からかもしれない。いずれにしても、主は再び来られる。既に、二千年が経ちまだ、着ておられない。だから、最後の選びの人が、彼を信じるようになるまで、その時までは来られないのだと知れ。
  • 使徒24:15:パウロが言った、「正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです」。
  • ヨハネ5:22:「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである」。主イエスが裁かれる。
  • 使徒17:31:「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。主イエスは来られる。しかし世界中の殆どの人間は悪魔に属している。使徒ヨハネは書いている、「また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている」(1ヨハネ5:19)。そのような人々は、継続的に罪を行う。

主イエスは、少ない者、そして多くの者について言われた、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命(永遠の命)にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ7:13–14)。主イエスを信じる人はごくわずかである。多くの教会はサタンの宮である。彼らは教会の最初の印、すなわち本当の福音を説教しない。しかし、我々は本当の福音を教える。

邪悪な者は主イエスを拒絶し、主イエスは最後の審判で彼らを拒絶される。不信者はイエスを信じることを拒否する。そう、彼らは教育を受けているかもしれない。ハーバードに行く人もいる。しかし、「福音は神話だ。死はすべての人の最終的な運命。まず、引退してからも十分なお金があることを心配すべきだ」と彼らは言う、主イエスが不信者全てを永遠の地獄に送る裁判官として栄光と共に来るとは信じていない。しかし、聖書は来られる、と言っている:

  • マタイ25:41–43:「それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』」。
  • 2テサロニケ1:7b–9:「それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう」。

地獄は邪悪な者に対する永遠の裁きである。やがて不信者は尋ねる、「主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか」(v.44)。主イエスは答えられる、「あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者達(兄弟姉妹や母たち、即ちすべて神の家族に属する者達)のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである」。

多くの人々の最後の運命はこれである:「彼らは永遠の刑罰を受ける」(46節)そして、信じる者は少ないが、正しい者は永遠の生命に入る」(46節)。私はそう信じている。正しい者は絶えない永遠の祝福にいる。

良い働きに富むことは救いの証拠である

信仰者は愛と犠牲を与えることに富んでいる。主イエスを信じる真の信仰者は、聖霊の力によって善い行いに富んでいる。

  • ピリピ2:12–13:「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。従順とは、神の民を愛することによって神を愛することを意味する。我々の教会ではこれを行う。

主イエスが再び栄光のうちに来られることを常に心に留めておかなければならない。パウロは書いている、「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ2:9–11)。不信者は、永遠の地獄に送られる直前、それは既に遅いが、ひざまずいて恐れと震えをもってイエス・キリストが主であることを知るであろう。

我々は、信仰によって救われるが、救われるものの信仰は、信じることだけにとどまらない。最近へブル11章を勉強していたとき、その一章で「信仰」という言葉が少なくとも27回使われていることに感銘を受けた。真の救いの信仰は空虚ではない。(PGM)信仰は良い働きをもたらす。ノアは信仰によって箱舟を建てた。アブラハムは信仰によって息子を犠牲にした。信仰は働くのである。信仰とは、信仰の従順を意味する。 そして、従わない人々は永遠に堕落していく。したがって、次の節にあるように、良い行いはが救われたことの証拠である。

  • ヤコブ2:14–17:「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」。ヤコブは他の箇所で、悪魔はイエスを信じているが従わない、と言っている。悪魔の信仰は、死んだ、偽りの信仰である。
  • 1ヨハネ3:16–18:「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」。
  • 1ヨハネ4:19–21:「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている」。
  • エペソ4:28:「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」。
  • ガラテヤ6:10:「だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」。
  • 2コリント9:6–8:「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである」。
  • ルカ21:1–4: イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた、『よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである』」。貧しい未亡人は2枚の銅貨しか持っていなかった。エドモンド・クローニー師は、ここから説教をされた。この未亡人には3つの選択肢があった。彼女は、「私は貧しいから、神は私に何かをささげることなど期待していない」と思うこともできた。あるいは、「半分だけ期待しておられる」と思うこともできた。しかし、彼女は両方のコインを100パーセントささげたのだ。主イエスは彼女を褒められた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」と言われた。主イエスは、その後の彼女の生活を支えられた、と私は信じる。
  • エペソ2:10:「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。永遠から備えられているのだ。神の民は神の御心を行う。
  • 1テモテ6:17–18:「この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜べ」、特に神の人々に対してである。
  • 使徒2:44–45:「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた」。
  • 使徒4:32–35:「信じた者の群れは、心を一つにし、思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた」。
  • ヤコブ1:27:「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない」。

真の教会には4つの印がある。まず、神の言葉を敬虔に学んだ牧師によって説教が行われている。第二に、バプテスマと聖餐が行われている。第三に、信仰者の訓練が行われている。即ち、4つの土壌を象徴する人々が教会におり、最初の3つの土壌は罰せられ、やがて去るのである。そして最後に、もう一つの印として、私たちが位置づけるところの、神の兄弟姉妹の交わりがある。教会に来ても、すぐに家に帰るのではなく、神の家族の一員であるなら、他の教会員と話し、交わりを通して彼らの必要を知るのである。まとぁ、彼らを助けるために、あなたは何かをするであろう。キリストにある兄弟姉妹を助けるべきである。

結論

ルカ16では、ラザロと金持ちのことを読んだ。ラザロは貧しかったが、神を信じ、死んだ後天国に行った。金持ちは、自分にはなんの問題もないので、天国に行くことを期待していていた。しかし、彼が死んだとき、彼は地獄に行った。そこで彼は火と苦しみにあった。地獄で、彼は信仰者になったが、それは手遅れであった。彼はそこから出て行けず、主イエスを信じなかった5人の兄弟に警告することもできなかった。それは遅すぎた。

マタイ19章に出てくる、若い金持ちの有力者は神に従うことを拒否した。彼は持っていたものをすべて売り、貧しい人々に与え、イエスの弟子になる、ということを拒否した。彼の神はお金であった(マタイ6:24)。彼は寂しくイエスの前を去って行った。

しかし、最後の審判を理解することは、真の信仰者に次のことをする動機を与える。

  1. まず、主イエス・キリストを信頼し、良い行いをする。
  2. 清い生活を行う。
  3. 家族への伝道。ピリピの監守は尋ねた、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。パウロとシラスは言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:30-31)。
  4. 神の家族を助ける。パウロは書いている、「だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」(ガラテヤ6:10)。
  5. 死を恐れない。
  6. 2枚の銅貨をささげた未亡人のように、与えることに寛大となる。
  7. 主イエスに常に目を向ける(へブル12:2)。
  8. 神との永遠の幸福の中で生きる、つまり新しい天と新しい地で生きることを期待して生活する。

すべて選ばれた罪人は聖霊による再生を経験するので、悔い改めて主イエス・キリストを信じ、従い、特に神の家族に対する愛の働きにおいて、善い行いに富む。天の国で不信者を見ることはない。我々の兄弟姉妹に会う。主イエスの名において、兄弟姉妹を助けた報いを受けるであろう。「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい」(マタイ25:34)。これこそ人間の存在の意味である。

我々一人一人が、主であり救い主であるイエスから、永遠の祝祷の言葉を聞けるように、祈ります。アーメン。