聖徒の堅忍

Romans 8:28-30
P. G. Mathew | Sunday, February 16, 2020
Copyright © 2020, P. G. Mathew
Language [English]

聖徒の堅忍という教理を分析したい。ジョン・マレー師は、これは「信仰者」のものではなく「聖人」のものだと言う。聖人は聖なる生活を送る人たちである。彼らは悔い改めと信仰の従順によって生きている。今日の福音主義者は、必ずしも罪を悔い改めて神に従って生きていなくても、たとえ罪を行いながらでも救われることができる、と言っている。しかし、これとは異なり、悔い改めと信仰によって生きる聖徒の堅忍について我々は考えてみたい。

ウェストミンスター信仰告白は、聖徒の堅忍を教えている:「神がその愛する御子において受け入れ、聖霊によって有効に召命され、清められた人々には、恵みの状態から全的にも最後的にも堕落することはあり得ない。かえってその状態に終わりまで確実に堅忍し、そして永遠に救われる」(ウェストミンスター信仰告白、第17章、第1)。これは、TULIPという頭文字5つでまとめられる改革派教理の最後のPに該当する。即ち、Tは人間の完全な堕落、Uは無条件の選び、Lは限定された贖罪、Iは拒否できない神の恵み、そしてPが聖徒の忍耐である。

エペソ1:4は言っている、「御前にきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、[父なる神がキリストにあって] わたしたちを選ばれた」。選びの人は、聖なる責められるところのない生活を送るであろう。彼らは神に愛され、神の前で聖く、責められるところのない(聖人を意味する)ように、世界の創造される前からキリストに選ばれている。彼らはイエス・キリストのようになるよう運命づけられており、神から遣わされた人々の福音説教を通して有効に召される。

選びの民は福音を聞き、聖霊によって再生され、罪を悔い改め、主であり救い主であるイエス・キリストに信頼する。 これらの選びの民は、父なる神によって義とされ、神の家族に受け入れられる。彼らは徐々に清められて聖別され、神の栄光を受けるため最後まで忍耐する。

エペソ1:13–14にあるように、選びの民は福音を信じるだけでなく、聖霊との結びつきも経験する、「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである」。また、ローマ8:28–30に書いてある、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」。ジョン・マレー師によると、あらかじめ知っておられる、とは、あらかじめ愛しておられる、という意味である。これらの人々は、神に愛されるように導かれ、義とされ、栄光を受けるのである。

選びの民は最後まで忍耐する。以下の聖書の箇所にあるように、三位一体の神は選びの民を忍耐させられる。

  • 黙示録2:9–10:「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」。即ち、聖徒が堅忍されるのだ。
  • 2テモテ4:17–18:「しかし、わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて、すべての異邦人に聞かせるように、主はわたしを助け、力づけて下さった。そして、わたしは、ししの口から救い出されたのである。主はわたしを、すべての悪のわざから助け出し、天にある御国に救い入れて下さるであろう。栄光が永遠から永遠にわたって主にあるように、アァメン」。
  • 2コリント12:9:「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」。これは、キリストが与えられる聖霊の力について言っている。

I. 神の選びにない罪びとは福音を信じない

選ばれていない罪人は忍耐しない。彼らは悪魔から出た者なのである。世界の大多数の人々は、選ばれていない者である。彼らはこの世の罪の喜びを楽しむために生きている。彼らの父は悪魔である。しかし、目に見える教会に属している。サウル、ユダ、デマスなどのように、信仰者を公言することさえある。彼らは罪の悪い実を生み出す悪い木のようなものである。それらは、イエスが語られた最初の3つの土のようなものである。彼らは再生しておらず、罪と不法の中に死んでいるので、実を結ばない。彼らは神の救いの安息には決して入らない。彼らは荒野で死んだ603,548人のようだ。1コリント10:5は言っている、「しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった」。

彼らは、ヨハネ15章に書かれている、やがて捨てられ、乾き、集められ、燃え尽くされる実のない枝のようなものである。それは彼らが地獄に行くことを意味している。マタイ7:21–23で主イエス言われた、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」。言い換えれば、「地獄にいけ、反律法主義者よ!」なのだ。

1ヨハネ2:19は言う、「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである」。この真理は、福音が伝えられ、神に従う人々によって世界中の教会で何度も証明されている。

ペテロは、神の教会を去るそのような選びの罪人ではない人々を犬や豚に形容している。2ペテロ2:20–22に彼は書いている、「彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。ことわざに、『犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く』とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである」。

偽りの福音を伝え、罪人に悔い改めと信仰の従順を要求しない説教者がいる。パウロは彼等のことを次のように言っている、「こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、その仕業に合ったものとなろう」(2コリント11:13–15)。

ヘブライ書の数カ所で読んだように、そのような「信仰者」は救われていない。

  • へブル3:18:「また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか」。言い換えると、不従順の人々は地獄に行く。

へブル4:2–3:「というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 4:3ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、

『わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように』と言われているとおりである」。

  • へブル4:6:「そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのである」。
  • へブル4:11:「したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」。真の救いの信仰を持つ者は、主イエス・キリストを主人として従う。悪魔でさえ、おそれつつ神を信じている。しかし、悪魔は決して悔い改めて従わない。

偽物の信仰者は霊的に死んでおり、主なる神に従わない。エペソ2:1–3に書いてあるように、「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった」。

彼らは審判の日に、焼き尽くす火として神を体験する。へブル12:29は言っている、「わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である」。彼らは主なる神を畏れていなかった。へブル10:28–31は警告する「モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。『復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と言われ、また『主はその民をさばかれる』と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである」。

彼らは、偽者の兄弟として教会の中にいる。パウロは書いている、「それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった」(ガラテヤ2:4)。やがて教会の偽者兄弟は忍耐が切れてしまう。彼らは、家族全員で教会を立ち去り、霊的に再生していないこと、主イエス・キリストを信じていないことを、証明するようになる。即ち、彼らは最後まで忍耐しない。

多くの教会は悪魔の子供である人々で満ち溢れたサタンの宮である。これらの教会では、真の福音は説教されておらず、人々は娯楽を楽しんでいる(PGM)。このようなな人々は最後まで「忍耐」しているように見えても、それは自分の罪に忍耐しているだけであり、永遠の地獄に入るのを待っているのである。彼らについて主イエスは言われた、「それから、[王は]左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ』」(マタイ25:41)。

II. 聖徒の堅忍

我々の教会は、聖徒(ハギオイス)の堅忍を信じる。聖徒は聖なる生活を送る人たちである。性徒については、次の聖書の箇所に説明されている。

  • ローマ1:6–7:「あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者となったのである。ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ」。
  • ローマ8:27:「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」。
  • マタイ5:8: 主イエスは言われた、「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」。
  • へブル12:14:「そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している」。人々が罪を行っていても天国に行くことができる、と言うのは嘘だ。
  • 1ヨハネ3:2–3:「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする」。

ローマ8:28–30は以下のことを教えている:

  1. 主なる神は彼を愛する人々のために働かれる。主なる神ご自身の目的に従ってすべてのことを行われる。
  2. 主なる神は永遠の過去から選んだ人々のために働かれる。あらかじめ愛された者、即ち神によって選ばれた者のためである。エペソ1:4は言っている、「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選ばれた」。永遠の時間において、主なる神は、数少ない人々を堕落から救い出そうと選ばれる。そして、彼らを聖く責められるところのない者とし、義の新しい天と地に共に住まうことを彼らが待ち望むようにされるのだ(2 ペテロ3:13)。
  3. 主なる神はこれらの選ばれた人々を、兄であるイエス・キリストのように帰られるよう運命づけられた。彼らは栄光を与えられるであろう。
  4. 主なる神は、御自身が遣わした牧師たちによって、福音を伝えさせ、神の民にイエス・キリストを信じるように導かれた。
  5. 御聖霊はこれら選びの民を罪の死から再生させた。
  6. 再生した選びの民は、悔い改め、イエス・キリストを主として信じ、悔い改めと信仰によって救われることによって、生きることができる。
  7. 選びの民は父なる神によって義とされる。
  8. 選びの民は神の家族に受け入れられる。
  9. 選びの民は、聖化のプロセスにいる。これは漸進的な聖化と呼ばれる。主なる神は選びの民に働かれ、彼らが恵みとイエス・キリストの知識に成長するよう助けられる。
  10. 選びの人々はすべて主イエス・キリストが再臨される時、栄光を受ける。だから、ピリピ3:20–21にこう書いてある、「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」。また、1ヨハネ3:2に書いてあるように、「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである」。

選びの民は最後まで忍耐する。彼らは、30、60、100倍の実を結ぶ良い土壌である。彼等は、神の栄光のために多くの実を結ぶ、ヨハネ15章に書かれている枝を表している。我々は聖書の至る箇所でこれら選びの民についての記述を見ることができる:

  • ヨハネ6:37–40主イエスは言われた、「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
  • ヨハネ10:28–30主イエスはまた言われた、「わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。わたしと父とは一つである」。
  • ヨハネ8:31–32イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。真の自由は聖書からくる。
  • マタイ10:22主イエスはまた言われた、「またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。
  • 1テサロニケ2:13パウロは書いている、「これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである」。神の言葉は聖書のみである。パウロは言う、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」(2テモテ:16–17)。聖書のみが神の言葉である。
  • ピリピ3:13–14パウロは言っている、「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」。我々は最後まで忍耐する。
  • ピリピ1:6パウロは書いている、「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」。
  • 1ペテロ1:4–5ペテロは我々に神が与える新らしい命について説明している、「あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである」
  • 1ヨハネ2:5–6 ヨハネは書いている、「しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。『彼と共にいる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」。

ペテロ、パウロ、ステパノについて考えてみよ。ペテロは十字架刑、パウロは斬首刑、ステパノは石打ち刑に処せられたが、最後まで忍耐した。そして、御聖霊は彼等とすべての神の民の中に住み、救いの保証を与え、最後まで忍耐することを可能にするのである。だから、以下のように書いてある:

  • ローマ8:15–16:「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」。我々が神の子どもであることを、聖霊御自身が我々の霊と共に証言される。これは、我々に与えられる最高の保証である。御聖霊が我々の霊に対して証明されるのだ。だから、我々にとって究極のところ心配する必要はない。我々は神の子供である!
  • 2ペテロ1:10:「兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない」。神の主権による目的に従って永遠に愛されている人々は、栄光を受けるために最後まで堅忍される。我々が最後まで忍耐できるのは、神ご自身が私たちに忍耐する力を与えられるからである。
  1. 命の冠(黙示録2:10);
  2. 栄光の冠(1ペテロ5:4);
  3. 義の冠(2テモテ4:8)。

我々は一人ではないので、最後まで忍耐できる。困難なとき、神ご自身が我々を助けられる。パウロは主なる神が彼の側に立っておられる、と書いた(2テモテ4:16–18)。これはパウロが斬首刑に処せられる直前に書かれた。主なる神はパウロと共におられ、その苦難に耐えるように力を与えられた。ペテロは十字架につけられたが、主なる神は彼と共におられ、彼に力を与えられた。ステパノは石打ち刑に処せられたとき、使徒7章にある様に、「人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える』と言った」(使徒7:54–56)。主なる神は、ステパノが死に直面して、天国の様子を見させることによって彼を強められた。ウェストミンスター神学校の創設者J.グレシャム・メイチェン師は、同様のことを経験した。彼が肺炎で死の床にあるとき、主なる神は彼に天国のビジョンを与えられた。彼は友人の牧師に言った、「栄光だ。なんと輝かしい栄光か。栄光だ」。天の国はある。我々はそこに行きつつあるのだ。

マタイ28:20で主イエスは言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。主イエスは我々と共にいて、内在される御聖霊によって我々を慰め、強められる。主イエスは決して我々を離れることも見捨てることもない。

主イエスご自身、御聖霊の力に信頼しておられた。へブル9:14に書いてあるとおり、「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」。この聖書の箇所は、主イエスに十字架の死という最大の試練に対して、御聖霊がどのように立ち向かわせられたかを教える。主イエスは「できることならば、この杯[十字架の死の苦しみ]をわたしから取り除いてください」と祈られたが、父なる神は、その代わりに、御聖霊を通して彼に御自身を主なる神に捧げものとされることを可能にされたのである。

御聖霊に感謝せよ! 彼は決して我々を離れたり、見捨てたりしない。共におられ、我々を強くし、天の国に導かれる。

ヨハネ14:23で主イエスは言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」。これは人間にとっての最高の喜びだ。父なる神、御子なる主イエス、聖霊なる神が来られ、我々の心に宿られるなら、それはどんなに喜ばしいことかを想像せよ? 父なる神、子なる神、聖霊なる神との交わりは、1ペテロ1:8–9で、言葉にできない喜びと栄光に満ちた喜びとして描写されている。そして、この喜びはすべての人間の苦しみを超越するのである。神はそばにおられるのだ!

神の子たちと悪魔の子たちは、それぞれ別の意味で最後まで忍耐する。このことは、詩篇1篇に書いてある、「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみ殻のようだ。それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる」。

友よ、私は天の国に向かっている。私の祈りは、このメッセージを聞くすべての人も天の国に行くことである。我々全てが御聖霊の力によって最後まで忍耐するように主なる神が助けてくだるように。