4つの土の比喩

Mark 4:1-20
P. G. Mathew | Sunday, February 19, 2017
Copyright © 2017, P. G. Mathew
Language [English]

種まきの喩えは新約聖書の3箇所にある:マタイ13:1-23、マルコ4:1-20、ルカ8:1-15。4つの土の比喩とも呼ばれる。ここを学ぶとき、自分がどの土かを注意して考えなければならない。

道ばたの土のような人

主イエスは言われた、「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった」(3–4節)。道の上の土は、福音を理解しようとしない教会の人々を表す。彼らは気にしない。聖書に関心がない。天の国と地獄、人間の罪の状態、イエス・キリストについて、神の御子が人間となられた理由について、主なる神が言われることに、彼らは興味がないというか、知りたいとも思っていないのである。彼らにとって、献金は無駄であり、神の言葉で子供たちを訓練することにも興味がない。なぜか?たとえ教会に来ていても、彼らは信仰を持っていないからである。しかし、この世の様々な楽しみのことなら、彼らは熱心に参加する。

石地のような人

次に言われた、「ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった」(5–6節)。石地のような人は感情的で、人生のあらゆるトラブルを嫌う。彼らは、イエスを何か苦しみを和らげてくれる存在、人生を快適にしてくれる手段と考える。しかし、本当の悩みが来ると、彼らは去り、福音とイエスを拒否する。彼らはこの世の様々な悩みに対してアレルギーである。

いばらが生えた土

主イエスは続けられた、「ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった」(7節)。いばらの土は、二心の人である。彼らはイエスを愛していると言うが、本当は心で金の法を愛している。そして言われた、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24)。

いばらの土のような人々は二心なので、不安定であり、やがて脱落する。彼らはいつもなにかに心配している(19節)。常に健康、富、力、名声を優先的に求める。健康と富が与えられると吹聴する偽福音を宣べ伝えて成功している教会がある。そのような教会はサタンの宮である。彼らは神の真の教会とは何の関係もない。だから、教会を選ぶ場合、神の言葉を説教しているかを見分ける必要がある。

いばらの土のような人々は、富によって欺かれる(19節)。彼らはこの世の欲望によって動かされ、常になんらかの新しい喜びを求めている。ヨハネは警告する、「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」(1ヨハネ2:15–17)。

全世界が悪の支配下にある。すべて主イエスを信頼しない者は悪魔の支配下にある。主イエスがマタイ16:26で言っておられる、「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」。最も愚かな者とは、お金こそ頼れるものだと、金を崇拝する者である。そのような者は、主イエスと、真の福音、神の聖徒が語る言葉を拒否し、やがて倒れていく。福音が宣べ伝えられる本物の聖なる教会に背を向けるのである。

3つの土に該当する人々は、すべて主によって選ばれていない者たちであり、彼らは人生から真の益を得られない。即ち偽のキリスト教徒である。彼らは反律法主義的であり、悪魔の子供たちである。主イエスは言われた、「このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである」(マタイ7:20)。彼らは悪い実をならせる悪い木であり、教会の中の雑草でありいばらである。彼らは福音を理解せず、信じようともしない。即ちイエス・キリストの敵である。時が来ると、彼らは福音が語られるキリストの聖なる教会から離れていくのである。おそらく、教会を出る前に牧師と話し合うだろうが、使徒ヨハネはそのような人々について書いている、「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである」(1ヨハネ2:19)。

3つの土はすべて偽キリスト教徒を表す。彼らはなんらかの益を得ようと、教会から教会へと巡るであろう。偽キリスト者と解るのである。

良い土の人

ところが、主イエスは言われた、「ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」(8節)。4つめの土の人々は神によって選ばれた者たちである。主イエス・キリストを信じる者は、「神によって選ばれた」という言葉を誇りに思うものである。それは何故か? 天地創造の前から、神があなたを永遠に選ばれたので、あなたは主イエスを信じるようにされたからである。

4つめの土の人は、生まれ変わった者である。彼らは、もはや異邦人ではなく、パウロが言うように「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント5:17)。4つめの土の人々は神が選ばれた者なので、新生を経験し、神の前に正しい良い心を与えられる(ルカ8:15)。

そのような人々は福音を聞き、聖霊の力でそれを理解し、信じる。 彼らは主イエス・キリストを信頼する。福音に確実につながり、忍耐して福音を自分のものとして得る。主イエスは、自分を否定して、十字架を背負い、死にまで従順に従え、と弟子たちに言われた。もし我々が神から生まれた者であれば、そのように従おうとするであろう。即ち、聖霊の力がなければ主イエス・キリストに従って生活を送ることはできない。聖霊は、我々が福音のために最後まで忍耐するのを助ける。

良い土の人々は、神の栄光のために、30倍、60倍の良い実を結ぶ。そのような人々は自己中心的ではない。彼らは、必要をもった兄弟姉妹を助ける。我々は神の家族であって、教会は食べ物に困る兄弟姉妹を放置できない。私は、何年も前に南インドの霊的リバイバルの時、父親が夕食の席についた時のことを思い出す。その時、教会に食べ物がない兄弟がいることを御聖霊は示された。父は食事することをやめ、その兄弟の家にその夕食をもっていって食べさせた。父は彼の夕食がその人の口に入ったことをとても喜んでいた。

4つめ土は真剣なキリスト者の生き方である。彼らは、世界の創造の前から神によって選ばれ、新生へと導かれる。主イエス・キリストは、正に、彼らの為に死んで犠牲を払われたのである。主イエス・キリストは、この世の中にいる全ての人、一人一人、全員のために死の犠牲を払われてはいない。主は、彼が選ばれる人々のために死の犠牲を払われたのである。これは神学的には、「限定贖罪」と言い、キリストの償いは、主なる神が選び分かたれる者だけに与えられる、ということである。このことについて、主イエスご自身がヨハネ17章で言っておられる、「わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。彼らはあなたのものなのです」(ヨハネ17:9).

キリストがあなたのために死の犠牲をささげられたと、どうやってわかるのか?永遠の救いのためにイエス・キリストだけを信頼する、これに関する いくつかの聖書の箇所を考えてみたい:

ローマ8:28–30.「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる(愛しておられる)[1] 者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。」

主なる神の予知、それは世界の創造の前から、我々を愛しておられた、ということである。神の御子主イエスは、肉体をとって、罪なき完全な生き方をされ、我々の罪のために十字架の上で義税を払う死を負われた。御聖霊はすべて神が選ばれた者に贖いを与えられる。それで、福音があなたに来たとき、あなたは新生させられ、悔い改めを与え、あなたは子のように救われ、信仰を贈り物として与えられて信じる者となったのである。

知るべきことは、主なる神が我々をあらかじめ愛されたかどうかである。主なる神が、我々を信じる者にされたということである。我々は神から来る安全を与えられている。だから、「何も思いわずらうな。父なる神が我々のことを気にかけておられる」とイエス・キリストを信頼する者は言えるのである。

ローマ9:13–14.「『わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてあるとおりである」とパウロは始めている。ある人々は、これを曲解して「憎んだ」という言葉を「より少なく愛した」と解釈する。しかし、本当は「憎んだ」という意味である。パウロは言う、「では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない」。これは、堕罪以後説といい、神が堕落した世界から救う罪びとを選び、その他の罪びとをそのままにし、罪の裁きに残される者とされることである。あなたが福音を聞いた聖書を教える教会で、あなたの永遠の救いのためにイエス・キリストへの信仰を主なる神が与えられたのなら、それを神に感謝せよ!あなたはそれほど祝福された者なのである。

ローマ9:22–23.パウロはたずねる、「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか?」。神は罪人に怒りを示す権威を持たれる。彼は続ける、「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか?」。我々は、本来、断罪されるべきであった。しかし、主なる神は我々に慈悲を示されたのである。

神のあわれみは大いなる恵みと自由、

主の恵みは増し加わり、

我が重き心は、カルバリにて解き放たれた。

我々は、なぜ神に礼拝し、賛美し、奉仕するのか? それは、主なる神が我々に慈悲を示されたからである。我々は、主から慈悲をいただく者とされ、それは栄光を与える主が備えて下さったのである。そうだから、「神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである」。我々のほとんどは、ユダヤ人ではなく異邦人であるが、主なる神が呼び出してくださった。

ヨハネ17:2.「あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから」と主イエスは祈られた。これは神によって選び分けられた者について言っている。永遠に、創造の前から、主なる神は御子イエス・キリストに対して、ある者たちをゆだねられた。父なる神が主イエスに与えた人々の罪を贖うため、主イエスは人となって来られ、その者たちの罪を贖うために十字架の死の犠牲を払われたのである。

私は母が死んだ葬儀で贈る言葉を朗読していた時に、1行を読んで止まってしまい、私は涙が出た[2]。私は母のために泣いたのではなく、主なる神が私やあなたに大いなる慈悲を与えられたことを再認識したからである。主なる神は、世界の創造の前に我々を愛し、自らの御子キリストを、我々一人一人の為に犠牲として与えられたのである。主は我々に永遠の命を与えられたので、我々はいつまでも滅びることがないのだ(ヨハネ10:28)。

ヨハネ17:6. 再び主は祈られた、「わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました」。もしも誰かが福音を好まず、主イエス・キリストに従うことを好まない場合、その人はキリストに属していない。ここでは、「彼らはあなたの言葉に従いました」と書かれている。もしも我々が、イエス・キリストに従わなければ、イエスは主であるとの告白は偽である。反律法主義者は「キリストの一方的な愛」について語る。しかし彼らは、主イエス・キリストへの服従については決して語らない。繰り返して言おう、もしあなたが、主イエス・キリストに従っていなければ、あなたはキリストに属してはいない。それだけである。あなたが望むどんな世の中の嘘を信じて生きてもあなたの勝手である。しかし、決してキリストの天の国に行くことはない。

マタイ13:11. 「そこでイエスは答えて言われた、『あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない』」。喩えを解く鍵はこれである(Mathew牧師の解釈)。特定の神の人々は、聖霊の働きによって神の言葉を理解するのである。他の人はそれを理解しない。

マタイ11:25–27. 「そのときイエスは声をあげて言われた、『天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません』」。主イエスはご自身を誰にでも示されるわけではない。主は、ご自分の民である人々に自分自身を明らかにされるのである。

マタイ16:15–17. 「そこでイエスは彼らに言われた、『それでは、あなたがたはわたしを誰だと言うか』。シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』。すると、イエスは彼にむかって言われた、『バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である』」。

ヨハネ6:37.「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない」。あなたは、もうイエス・キリストのところに来ただろうか?もし来ていないなら、あなたはまだ主イエスに属していない。主の民であれば、主のところに行くことである。

ヨハネ6:39. 「わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである」。

ヨハネ6:65. 「そしてイエスは言われた、」それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである』」。我々が主に属する者となったのは、父なる神がそうしてくださったからである。だから我々は神の民である。

なぜ人々は神の言葉を理解しないのか?パウロは書いている、「神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。」(1コリント2:10)。聖霊が我々の心を開かない限り、我々は神の言葉を理解することはできない。パウロはまた言っている、「ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである」(1コリント2:12)。聖霊が我々に理解力を与えられる。 神の言葉を理解できるように、我々の心を照らされるのである。そして神の言葉を理解する時、我々はそれを喜んで受け入れるのである。その時、栄光に満ちた喜びで満たされる。

パウロは言う、「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」(1 コリント2:14)。 イエス・キリストを信じない人は誰でも愚か者である。その者は、霊を持たない。ユダはそのような人々について書いている、「彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである」(ユダ19)。すべての不信者は聖霊をもたない。彼らは暗闇の中を突き進む。世界の大半の人々は聖霊を持っていない。しかし、あなたがイエス・キリストを主であると告白しているならば、あなたは聖霊を持っている。

ヨハネ17:23で主イエスは祈られた、「わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります」。考えてみよ。父なる神は、御自分の御子を愛しておられるが、我々をも愛しておられる。だから、何事も心配すべきではない。死が近づいても、心配してはならない。死によって、我々は神の存在の中に入るのである。

もう2つの節について考えてみよう。エペソ1:4でパウロは言う、「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選ばれた」。それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。「神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基づき、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵みである」。これらの節を学んでいくと、我々の不安は消えていく。考えてみよ。神が我々を愛していない時は一度もなかったのである。創造の前から、主なる神は我々を愛しておられる。そして神は今も未来も我々を愛されるであろう。我々への神の愛には終わりはない。

主イエスに対する信仰のために我々が死ぬこともあり得る。主イエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16:24)。主イエスは真実を語られた。今日でも本当のキリスト者は、実際にキリストを信じる信仰のゆえに世界中で殉教しているのである。殺されています。

我々が、神によって愛され、選び分かたれ、栄光へと前進するようにされていること、それはどのようにしてわかるのか?その答えは、もし我々が悔い改めと信仰によって生き、良い実を結んでいるかどうかを見ればわかる。パウロは書いている、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」(エペソ2:10)。即ちこれが、神が我々を召して選ばれていることを確実に知る方法である。にする挙を確実にする方法です。

信じる者がもつ最高の祝福は、我々信じる者たちが、キリストによって永遠に救われるように神に選び分かたれていることに気付き、信仰によって主に従って生きることである。だからペテロは言った、「兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい」(2ペテロ1:10)。これは、ペテロが十字架につけられる前に書いたことである。ペテロは神の前に行くことを知っていて、自身の選びを確認していたのである。

本当の神の人々は、キリストの聖なる教会を離れることはない。彼らは最後まで忍耐強く、神の栄光のために実を結ぶ。キリストの聖なる教会を離れる人々は、最初の3つの土に喩えられている。彼らは神によって選び分かたれず、再生されず、その人生は変わらず、実を結ぶことはない。彼らは決して神に従わない。彼らは神によって愛されておらず、予定されておらず、神に召されることがなく、義とされず、神の子とされる栄光も与えられることはない。

これらのことを考えてみよ。我々がすべき一つのことは、神の呼びかけと選びを確認することにつきる。自分自身に質問してみよ。我々は、主なる神を信頼して従って、生きているか? 主として告白したイエス・キリストにあなたは従っているか? 答えが「はい」の場合は、その結論を引き出すことができ、すべてが正しいと解る。

我々は、悔い改めと信仰によって生きるべきである。我々もこの世で罪を犯すことはある。罪には、してはいけないことをする罪もあれば、すべきことを怠る罪もある。例えば、我々は心、思考、魂、力をもって隣人を自分自身のように愛するべきである。しかし、正直に言って、これらを実行できるだろうか? できない。我々が罪を犯した場合、どうすればよいか? 我々は、その罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じなければならない。そして、神に感謝する。キリストは我々のそのような、罪を赦される。キリストが十字で死に、すべての我々の罪、それも過去、現在、そして未来の罪のために死なれたのである。だから、我々はこの栄光ある救いを喜ぼう!

[1] ジョン・マレー教授によると、ここで使われている言葉は、「前もって愛された」という意味である。

[2] “Tribute to a Godly Mother” (http://www.gracevalley.org/sermon/tribute-to-a-godly-mother/)