教会の背教、第二
2 Timothy 3:6-9P. G. Mathew | Sunday, May 08, 2016
Copyright © 2016, P. G. Mathew
Language [English]
続いて、教会の背教について、2テモテ3:1-9から続けて学ぼう。教会が邪悪になり、それが本来とは全くの逆になることをパウロは警告している。
ハーバード大学は、イエス・キリスト信じ奉仕する牧師を訓練するために1636年に創設された。そのモットーは「ベリタス・クリスト・エト・エクレシアエ」(キリストと教会の真理を求めること)であり、教科書は聖書であった。 しかし、他の多くの大学と同様、その後、異教の場となってしまい、現在は、あらゆる点で聖書と反する教育を行っている。
残念ながら、そのような変化は教会にも当てはまる。キリストの教えに歯向かうようになるのである。前回、背教の21の特徴について触れた。今回、2テモテ3:1-5の勧めに従って、1これらの特徴に着眼し、我々が真の信仰者か、そうでないかを確認していきたい。まず、2テモテ3:6-9の記述を見てみよう。
背教を避けよ
5節では、テモテに対して、クリスチャンの働き人を装った邪悪な背教者のから遠ざかるように教えている。背教者らは教会から追い出される。不従順のため破門された人々、即ち今も悪魔に仕える人々と真の信仰者は交わってはならない理由が6節~9節に書かれている。
背教者は霊的シロアリである
それらの背教者は霊的なシロアリである。彼らは人々の生活圏に忍び込んで破壊する。神の聖なる教会から追放された者たちは悪魔によって支配されている。その者達を通して、悪魔がキリスト者を徐々に信仰から引き離すのである。神の教会に属している人々だけでなく、すでに教会から追い出された者たちなども彼らのターゲットである。また、人格的に問題を持つ者で、特に女性をターゲットにして、金銭を目当てに誘惑する、と警告している。このような背教者を主イエスは、「やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」と言われた(ルカ20:47)。
彼らは、キリスト教を経済的利益の手段と考えており、真理から外れた者、とパウロは呼んでいる(1テモテ6:5)。次のようにも書いている、「また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしないいがみ合いが起るのである」。「実は、法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。彼らの口を封ずべきである。彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないことを教えて、数々の家庭を破壊してしまっている」(テトス1:10–11)。
真の福音に仕える者は、神の教えを説く者である。金儲けではなく、聴衆が永遠の救いを受けるためにと教える。だから、牧師は「金に淡泊でなければならない」し、「人の金や銀や衣服をほしがってはならない」(1テモテ3:3;使徒行伝20:33)。パウロは書いている、「富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲張って銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした」(1テモテ6:9–10)。
これらの邪悪な者は、特にお金持ちの未亡人の家を、嘘や欺瞞で誘惑する。自分に服従させて、金を取る。彼らはまた、特に夫が離れているとき、既婚女性の家をもターゲットにする。目標とされる女性は、以下の特徴を持つ傾向がある:
- 意志が弱く、感情的な、お金持ちの未亡人や既婚女性である。邪悪な霊的シロアリたちは、心の定まらない、感情にあおられる者をそそのかす。被害者の女性は、非批判的でなく、健全な神学を知らず、しばしば罪深い快楽を好む者で、神への愛が乏しい者である。このような女性は神の言葉を理解しておらず、霊的シロアリたちの絶好のターゲットである。愚かな生き方を続けていて、神の言葉に関心を示さない者は、標的になりやすい。当時のアテネに大勢いたこのような者たちは、耳新しいことを見たい、聞きたい、と探し回っているナイーブな女性に多いのである。このようにも書いてある、「いったい、アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのである」(使徒行伝17:21)。彼らは噂話に耳を傾け互いに尋ねる、「あなた、あの話、聞いた?それ読んだ?このあいだやっていた番組見た?」。このような会話ばかりである。彼らは説教や神の言葉が好きではない。彼らは常に新しいものを探しているのである。いろんなつまらない知識に興味を持ちたいと考えている。
- 彼らは、過去と現在の罪の重みに押さえつけられている状態にある。ギリシャ語でそういう意味を表す表現がされている。しかし、彼らは悔い改めを拒否する。代わりに、その罪を犯す機会を毎日探しているのである。
- 彼らは、様々な罪深い欲望に絶えず支配されている。いつもの罪に飽きており、新しいエキサイティングな罪を思いつくのである。パウロは言う、「それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代えた」(ローマ1:26)。ペテロが警告するように、彼らは信仰のないもののように生きているのである。「過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている」(1ペテロ4:3–4)。肉の働きに身をまかせているのである。パウロは説明している、「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない」(ガラテヤ5:19–21)。
- モルモン教、イスラム教、エホバの証人、ヒンズー教、ニューエイジ思想、キリストを敢えて除いたキリスト教など、あらゆる種類の宗教的アイデアに親しんでいる。また,健康、富、権力、楽しみ、反律法主義、不道徳、神の一方的な愛など誤りの福音を教えることでナイーブな人を欺いているテレビ伝道者がいるが、これを見て楽しんでいる。
- 彼らは不安定で、愚かであり、気楽で、常に混乱している。愚劣な思考、汚れた心がほったらかしにされており、よって悪魔に捕らえられている。救いの福音を真っすぐに語る本当の牧師の言うことに耳を傾けない。そのような者のことをパウロは書いている、「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう」(2テモテ4:3–4)。彼らの多くは、テレビの説教者が人をだまし手お金巻き上げているのに、その説教者に耳を傾けるのである。
彼らは悪魔の罠にかかっているので、悔い改めて福音を信じるには至らない。破滅を待っている神の怒りの器である。真実を信じることができないので、救われることがない。福音を聞いて悔い改めることはない。真理を知り聖なる生き方ができないのである(テトス1:1)。
背教者のごとく、これらの女性は罪の奴隷である。毎日、罪の喜びの泥沼に深入りし、その邪悪さは、テモテ2:20で呼ばれている泥の器のようなもので、中が腐りきっているのである。
エバが悪魔に騙されたように、これらの女性たちは、悪魔の力で偽りの教えをふりまく背教者騙される。パウロは書いている、「御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善の仕業である」(1テモテ4:1–2)。こうも言っている、「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである」(2コリント4:4)。偽宗教のいかさま説教者は、いつの時代でも、愚かで快楽に傾倒しやすい女性たちを食い物にしてきたのである。
巨大教会の罠
今日、間違った神学を持つ背教者たちは、昔のように、罪を抱えた女性の家にわざわざ潜入して彼らを利用する必要はない。彼らはテレビの説教者ほれ込み、自分から献金を送るのだ。彼らは、誘惑され、口のうまい嘘にそそのかされ、同じような人々が大勢集まる巨大教会に引き寄せられるのである。
巨大教会のほとんどすべては、罪の悔い改めとイエス・キリストへの信仰を教えない。代わりに、人々の感情的なニーズを満たすために教会を訪ねてくる人々に甘い扱いをする。来るものを楽しませ、魂を救うためではなく、気分を良くする物語を伝えるだけである。人々に悔い改めを求めないし、福音を信じて清い生活を送ることも求めない。
これらの巨大教会の牧師が教えるイエスは、本当の主イエスではない。間違いの福音、異なる霊について説く。パウロはこのような働き人のことをこう言っている、「こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、その仕業に合ったものとなろう」(2コリント11:13–15)。パウロはエペソの長老たちにそのような説教者に気をつけるようにと警告した、「わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう」(使徒行伝20:29–30)。
そのような偽者説教者の終わりはどうなるだろうか?パウロは書いている、「あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである!」(ガラテヤ1:6–9)。
ヤンネとヤンブレの間違った働き
背教者たちは、偽物の福音で気の弱い女性をそそのかし、地獄に送る者どもである。ちょうど、悪魔に支配されたエジプトの魔術師、ヤンネとヤンブレのような者である。彼らの名前は旧約聖書には記載されていないが、出エジプト記7:11のヨナタンのターガムに記録されている。催眠術や魔術によってモーセに対抗した(出エジプト記7―9章)。主なる神は彼らの嘘をあばいて罰を与えられた。
新約聖書は、処罰された魔術師について語っている。シモンは金銭で聖霊を買いたいと思っていた。そこで、ペテロが彼に言った、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか」(使徒行伝8:20)。ペテロは、シモンに地獄に行けと言った。使徒行伝13章では、バルイエス(イエスの子の意)と呼ばれる魔術師エルマのことが記録されている。彼も悪魔の支配下にあった。パウロは言った、「ああ、あらゆる偽りと邪悪とでかたまっている悪魔の子よ、すべて正しいものの敵よ。主のまっすぐな道を曲げることを止めないのか。見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる。おまえは盲になって、当分、日の光が見えなくなるのだ」。すると、「かすみとやみとが彼にかかったため、彼は手さぐりしながら、手を引いてくれる人を捜しまわった」と記録されている(使徒行伝13:10–11)。また、スケワの七人のむすこ、というのが市東行伝19章に記録されている、「ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。すると悪霊がこれに対して言った、『イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ』。そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した」(使徒行伝19:14–16)。
拝金主義の一獲千金で大邸宅に住んでいるかもしれないが、これらの邪悪な者には、永遠の刑罰が待っている(マシュー牧師解釈)。彼らは神秘的で悪魔的な力を振り回しているが、主なる神はやがて彼らに必ず罰を与えられる。
だからこそ、我々がどのような教会に行くかが重要で、福音を教える教会に行くべきである。十字架につけられたイエス・キリストを教えない、聖書の真の福音を教えない牧師は、嘘つきでサタンの使いである。 救いを与える真理、これに反対するヤンネとヤンブレのような者たちのようである。反律法主義と悪魔の教えをまき散らし、キリストと真の牧師に逆らうのである。
しかし、イエスは、ヤンネとヤンブレを罰されたように、偽牧師を罰するであろう。こうして、すべての背教者は処罰されるのである。ユダは使徒であった。しかし、主イエスよりも金を慕い求め、悪魔が彼に入り、主イエスを売り渡した。彼は裏切ったあと、出て行き、殺され、地獄に行ったのである。
人を誘惑する反律法主義者や牧師、上述の騙されやすい女性たちは、ユダの運命、つまり地獄に向かうのである。パウロは彼らのことを次のように言っている、「そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた」(ローマ1:28)。パウロはまた言っている、「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。」(ローマ8:5-8)。ジョン・マレー教授は、次のように教えている。罪の本質は、神に対してのみならず、神の民、神の言葉、神の真理、神の倫理に対しても敵意を持つ。これらの人々は、たとえそのふりをしたとしても、元々神から生れていないので、神を喜ばせる力は与えられていない。
そのような人たちは、「神も隣人も共に愛する:私とあなたの共通の言葉-キリスト教的応答」という、非聖書的な妥協的宣言に署名してしまうのである。2 ジョン・ストット博士は、数多くの福音派の人々と一緒にこれに署名した。キリスト教徒とイスラム教徒の間の妥協声明。その基本的な考え方は、私たち全員は同じアッラーに仕えます、ということである。これらの福音派の人々は、署名してしまってから慌てているのである。イエスは言われた、 「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。このみ言葉を見たら、そんなものに署名できるはずはない。
もう一つの妥協宣言は、「福音派とカトリック教徒:第三千年紀のクリスチャン合同宣教会」3というものである。これはJ. I.パーカー他有名な福音主義者によって署名された。これらの宣言内容を自分で読んでみられることを勧める。これらの人々は、ルターやカルバンをはじめとするすべての改革者に背を向けた。マーティン・ロイド=ジョーンズ博士は、ローマカトリック教会が改革派のキリスト者を焼き殺したイギリスのスミスフィールドを訪ねてみよ、と言っている。4 つまるところ、聖餐や祭司の儀式主義者はイエス・キリストご自身に反対してしまったのである。
クリスチャンはみんなが交わりを持つのは良いことである。しかし、それはあくまで、嘘ではなく、真理にもとづく交わりである。イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。その後父なる神に言われた、「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」(ヨハネ14:6; 17:17)。我々は、バプテスト、長老、改革、正教、のどれであるかについて案じてはいない。聖書の絶対的な権威を信じている限り、本当の交わりを持つことができるのである。
彼らは腐敗していて、既に捨てられている
彼らの信仰に関する限り、偽牧師と背教の者は神に拒否される。彼らは自分自身の愛好家というべきで、ある者は快楽の愛好家でもある。内実を伴わない形だけの敬虔さをひけらかし、人々を欺く詐欺師、宗教的な暴力団ともいうべきである。神の真理とその力を拒否する者であり、嘘と悪魔の力によって事を行っているのである。彼らのことを聖書は言っている、「きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である」(テトス1:15–16)。
励ましの言葉
パウロは励ましの言葉でこの警告を締めくくる。悪魔と悪霊、これらに仕える人間たちの図りごとはやがて失敗い終わる。反律法の説教者、真理を嫌う者、快楽を愛する者は、ヤンネとヤンブレの運命を辿るのである(8-9節)。
キリスト・イエスは、神の永遠の御子であり、生、死、復活によってすべての敵を打ち負かしたのである。「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」(へブル2:14–15)。
悪魔には地獄が用意されている。悪魔につき従う人々もそうである。「それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ』」(マタイ25:41)。次のようにも書いてある。「そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。…「このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(黙示録20:10, 15)。
あなたは、イエス・キリストにのみ信頼して、永遠の救いをうけているだろうか?主イエスはいわれた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」(ルカ24:46–47)。「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」 (ローマ4:25)。
あなたは救われるために何をしなければならないか? 主イエス・キリストを信じなさい。すると、あなたもあなたの家族も救われます。他に救いの方法はない。
真の教会の特質
ここまで、背教者の教会について話してきた。四つのしるしを持つ真の教会にのみ加わるように、ここで、あなたにもう一度勧める。
その四つの印とは何か? 最も重要な第一のしるしは、福音の説教、すなわち使徒の教えである。6 パウロはテモテに言っている、「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」(2テモテ3:15-4:2)。
第二のしるしは聖書が命じる2つの霊典、即ち聖餐式と洗礼式を行うことである。真の教会は、イエス・キリストを主として告白する者たちにバプテスマを与える。しかし、バプテスマが人を再生させるとは信じない。バプテスマが人を再生させるとか、神の恵みがバプテスマに用いる水に注がれるとかは、嘘である。聖餐式は、主の聖餐であって、キリストが聖なる民に与えられるものである。
第三のしるしは、教会の訓練、規律である。教会は、必要ならば、信徒が悔い改めるように、叱責し、正し、教える必要がある。多くの教会はこれを実践していない。しかし、これが真の教会のしるしである。
第四のしるしはキリスト者の生き方である。ヨハネ第一の手紙は全てこれについて語っている。ヨハネは神の家族について話しているので、「お互いに愛しなさい」という言葉を繰り返す。神の家族の中では差別はない。もし兄弟姉妹が食べ物や衣服を持っていないなら、我々はいくつかを与えるべきである。バプテスマのヨハネは言った、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」(ルカ3:11)。
前述のように、背教者たちは永遠に非難されるべきである。しかし、キリストの聖なる教会に属する本当のキリスト者は、その人生を終えた時、祝福の言葉を主なる神から聞くであろう、「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。』」(マタイ25:34)。 それは我々が受ける永遠の命という財産である(マタイ25:46)。主イエスは言われた、 「そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」(ヨハネ10:10)。我々が罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じて救われるように、主なる神が助けてくださるように。
1 http://www.gracevalley.org/sermon/the-church-apostasy-part-one/
2 http://www.acommonword.com/loving-god-and-neighbor-together-a-christian-response-to-a-common-word-between-us-and-you/
3 http://www.firstthings.com/article/1994/05/evangelicals–catholics-together-the-christian-mission-in-the-third-millennium-2
4 マルティン・ロイド=ジョーンズ著:ローマカトリック教(London: Evangelical Press, n.d.), 14–15.
5ブデルクトス、ギリシャ語で「排泄物」という強烈な意味の言葉が使われている。
6 ウェストミンスター信仰告白、第一章:聖書について。
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