主は我らの裁き主

Romans 14:10-12
P. G. Mathew | Saturday, June 23, 2012
Copyright © 2012, P. G. Mathew
Language [English]

教会の家族には、大人も子供も乳児もいる。それぞれ成長の度合いも違う。強い人、弱い人、霊的賜物も異なる。霊的なことに関係のないこと、救いに重要でないことについては、お互いを受け入れる。しかし、神の家族であれば、イエス・キリストが主であると信じている。我々は、イエス・キリスト死んだ後、甦ったと信じているので、生きている聖徒に対しても、死んで既に天に召された聖徒に対しても主であると信じる。弱くて強くても、神の家族はすべて父なる神の国に受け入れられているのである。キリストはこの家族すべての為に犠牲を払って死なれた。従って、パウロは「あなたの兄弟を裁かなければならないことは一体何ですか?」と尋ねている。言い換えれば、霊的に救いに関して重要ではない(アディアフォラな)ことでは、我々は兄弟の裁判官ではない。

キリストが与えられた権威、それが、親、警察、牧師であっても、彼らは我々を治めるために与えられた人々であり、その責任がある。神の言葉に従って我々を治めるのである。しかし、特に救いや霊的な重要なことに関係のない問題では、神の教会で上下はなく平等である。この場合は、誰もが他を受け入れなければならない。パウロは書いている、「そこには、もはやギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである」(コロサイ3:11)。我々はキリストになる兄弟姉妹であって、お互いを裁いてはいけない。主の兄弟は言っている、「しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか」(ヤコブ4:12)。

兄弟姉妹を愛すべきである

キリストが教会を愛されるように、我々は兄弟姉妹を愛すべきである。主イエスお一人だけが教会を支配する方である。我々全ては、キリストの裁きの座に立つのである。こう書いてある、「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった」(ヨハネ5:22–23, 27)。

神の家族である兄弟姉妹を愛そう。パウロは「兄弟」という言葉をローマ14章の至る所で使っている(10, 13, 15, 21節)。つまり、神の家族という点を強調している。そして、主イエスは我々の兄である。パウロは書いている、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」 (ローマ8:29)。 新約聖書の他の箇所には、こう書いてある、「実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。すなわち、『わたしは、御名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ、教会の中で、あなたをほめ歌おう』と言われた」(へブル2:11–12)。

キリストを信じる者は、兄弟の中で最初の方であられるキリストに似る者になるよう主なる神に従う。主なる神は日毎に我々を清くなるようにされる。だから、霊的なことに関わりのないことで、兄弟を裁いてならない。いつかその兄妹も、キリストの裁きの前に立たされるのである。主であるキリストは力を帯びておられ、その兄妹を守り、裁きの座に立つことができるようにされるであろう。

神の子であるならば、キリストのゆえに裁かれて滅びることはない。だから、神の教会を離れる者は神の民ではないと結論できる。神の民でない者は救われていないのである。主なる神は彼らを救わなかったのである。12人の弟子の間でさえ、1人は悪魔の子であった。主イエスは意図的に彼を選んだが、イスカリオテのユダは主イエス・キリストを裏切り、死んで地獄に行ったのである。

ローマ14:3で、パウロは弱い者と強い者の両方を戒めている。ローマ14:10でも同じことを教えている。弱い者は強い者を裁き、強い者は弱い者を軽視していた。しかし、裁くのは我々ではなく、主なる神である。我々は、主なる神の代わりに裁いてはいけない。 むしろ、主の究極の裁きの日を待つべきである。

主なる神の裁きの座

我々が裁くべきではなく、裁きの日まで待つべき理由は、ローマ14:11にある、「わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである」。すべての信仰者は、ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、弱くても強い。信じない者も、神の裁きの座の前に立つのである。誰もこの裁きを免れることはできない。

この節では、主なる神はご自身より大いなる者はいないため、ご自分に対して誓っておられる。パウロはイザヤ書45:23を引用して、例外なくすべての者がキリストの裁きの座の前に立つことを教えている。 パウロは、「主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」と言っている。誓いはなんでも悪いことではない。霊的な誓いというものがある。「すべての膝」と「すべての舌」に重点が置かれていることに注目したい。イザヤはイスラエルの神が、全ての者によって礼拝されることを語った。だから、我々はイザヤ書45章のこの引用の言葉の前の節、即ち21-22節に書いてある次の言葉に目を留めよう。「あなたがたの言い分を持ってきて述べよ。また共に相談せよ。この事をだれがいにしえから示したか。だれが昔から告げたか。わたし、すなわち主ではなかったか。わたしのほかに神はない。わたしは義なる神、救主であって、わたしのほかに神はない。地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ」。

パウロ自身がコリントのガリオの判決の座に連れて来られた。彼はフェストゥスとフェリックスなどの裁判官の前に来た。キリストはピラトの裁きの座に連れて来られた。しかしガリオ、フェストゥス、そしてピラトとは誰か?彼ら自身は不公正で腐敗していが、裁く権限を神から委任されていた。しかし、彼らを含むすべての人間は、正義であり完全であられるキリストの前に立つようになる。これは、そういうこともあるとかいう、オプションではない。我々は皆、そこへ召し出されるのである。我々は言い逃れができず、そこに出頭することになるのである。

これが、ギリシャ語で「デイ」、つまり我々は出頭するのである。他の箇所で、パウロは言っている、「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(2コリント5:10)。我々は嘘をつけないのである。主なる神はすべてを知っておられる。我々がしたこと、しなかったこと、考えたこと、考えなかったこと、全てである。

パウロは書いている、「これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう」(ローマ2:16)。へブル4:12–13にはこのように書いてある、「というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない」。” David says, 「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます」(詩篇139:1–2)。

しかし、この裁きは、父なる神の特権であり、それは子なる神キリストに与えられている。誰もがイエス・キリストに直面することになるのである。イエス・キリストは神であって主であり、そして審判者なのである。主イエスは自らを謙虚にされ、十字架の死に従うことによって贖いを完成された。だからこう書いてある、「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、ある者は愛をもって、そして他の者は強いられて、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ2:9–11)。我々は、なんと告白するであろうか?それは、イザヤ書45:23には書かれておらず、代わりにこう書いてある、「わたしは自分をさして誓った、わたしの口から出た正しい言葉は帰ることがない、『すべてのひざはわが前にかがみ、すべての舌は誓いをたてる』」。

主イエスは、第宣教命令をされた、「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」(マタイ28:18)。全世界の全ての権威はキリストが持っておられる。「父なる神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒17:31)。ペテロは言った、「それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです」(使徒10:42)。主イエスご自身が言われた、「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」(マタイ25:31–33, 46)。ヨハネは書いている、「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった」(黙示録20:11)。聖書に書かれていることは、確かにその通りになるのである。

ファラオによって、エジプト人はヨセフにひざまずくよう命じられた(創世記41:43)。 あなたは、父なる神が権威を与えておられる救い主イエス・キリストに敬い礼拝しているだろうか?(PGM)イエス・キリストが主であると信じ告白しているだろうか? あなたがそうしていないならば、主イエス・キリストに不敬を、そして父なる神に不敬を行っているのである。

父なる神を敬うように、すべての者が子なる神を敬うことが、主なる神の御心である。しかし、人々は御子を敬わず、父なる神を敬うことはない。あなたが、そうではなく、もし膝を曲げて主なる神を敬い自分の人生の主として告白するのであれば、幸いである。神に仕えるために救われているのである。

我々は、キリストの裁きの座の前に現われることになる。それはキリストを信仰する者としての立場で現れることになる。罪ある者とされるのではなく、地上での我々が行ったことに対する報酬を受けるためである。聖書は言っている、「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」(ローマ8:1)。我々は、死から命に移されている(ヨハネ3:14; 5:24)。我々は、恵みによって行った良き業の報酬を受けるのである。パウロは言っている、「あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう」(エペソ6:8)。伝道の書にはこうある、「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」(伝道の書12:13–14)。 そして主イエスご自身が言われた、「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう」(マタイ16:27)。

あなたは命を与える主イエス・キリストへの信仰によって、主と結びあわされ結果として良い実をもたらしているだろうか? 主の栄光のためにあなたは生きているだろうか?あなたの人生を主の益(ト クリオ)の為に生きているだろうか?あるいは、自分自身の喜びと名声のために生きているのか? 福音のため自分の努力、才能、お金をつかっているだろうか?主イエスは、父なる神に全面的に従い、主の栄光のために生きられた。

パウロは、かつて自分流の良き業のために力を尽くしていた。1コリント15章に、「実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」と言っている。この証は的を射ている。神の恵みは、彼の人生を変え、さらに豊かな実を結ぶようにしたのである。「わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである」(1コリント15:9–10)。最後にこう言っている、「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」(1コリント15:58)。

今我々が神の栄光のために良い働きをしていることは報われるであろう。我々が行ること、それが誰かに与えるコップ一杯の水であっても、主なる神はすべてを覚えておられる。それゆえ、毎日主イエス・キリストに従って生き、良い業につとめよう! そして、全員がキリストの裁きの座の前に現れる時に、それは大いに喜ぶ根拠となるのである。

しかし、人がイエス・キリストに対して膝をかがめることを拒否した場合、どうなるであろう。父なる神は敵となり、子なるキリストも敵となり、聖霊も、その者の敵となられるのである。聖なる教会も彼の敵となる。パウロは、主なる神のことを「燃え尽くす火」と形容しているのである。へブル書の著者は言っている、「モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。『復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と言われ、また『主はその民をさばかれる』と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである」(へブル10:28–31)。

裁きの日について主イエスは教えられた、「そして彼ら[心の曲がった者]は永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」(マタイ25:46)。また、黙示録20章にもこのように書いてある、「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(黙示録20:11–15)。

友よ、ゲーム終了はすぐに来る。主なる神を無視すること、主に従わないこと、それはもうすぐ終わる。主を敬わない態度に終止符が打たれる。主なる神の恐れが、主に従わない者たちを取り巻く。冷徹な現実に彼らは直面する。すべての嘘が追い払われ、すべては、主なる神の審判に出される。主は、悪しき者を非難し、悪しき者の罪を責め、彼らを火の池に投げ捨てられるのだ。 彼らは永遠の懲罰に入る。しかし、主イエスの義を与えられた者は永遠の命に入る。

これが歴史のいきつくところである。パウロは審判をローマ14:12でこのように締めくくっている、「だから、わたしたち一人一人は、神に対して自分の言いひらきをすべきである」。我々神の国の兄弟姉妹は、お互いを本質的なこと以外で裁くことは止めるべきである。我々は、他の者に責任転嫁をしてはならない。主なる神は我々の行動のみならず、動機も判断される。パウロの警告に耳を傾けよう、「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる」(2コリント 13:5)。

すべてがキリストの裁きの座の前に立つ。すべての膝が屈むであろう。すべての舌は神に告白する。それぞれ兄弟についてではなく、自分自身についての責任が問われるのである。だからパウロは、自らに気をつけ、判断するよう促している。自分の目から丸太を取り除き、主の兄弟を愛し、助け、成長できるように教えよ。

キリストにある兄弟姉妹を軽蔑し、非難するなら、神の栄光のために生きていないことになる。それは主の名によって行っていることにならない。神に感謝できるものでもない。神の民は、キリストの犠牲によって生かされているので、神の贖いにふさわしい生活で主に仕えるべきである。

だからこう書いてある、「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」(2コリント5:14–15)。主イエスは教えられた、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。

ある人が最近言った、「激しい説教は柔らかい心を作り出す」。我々の教会では、神の言葉を語る。即ち、我々罪人が神の怒りの下にあることを説くだけでなく、キリストが我々の罪のために死なれたことを信じて救われることを語る。そうすれば、我々は神の栄光のために人生を生れるようになるのである。きのびましょう。

適用

  1. 教会は些細なことで分裂してはならない。神の聖なる教会を、本質的ではない理由で離れてはいけない。聖書に立脚する教会を離れた者は、自らが悪しき状態、贖われていない状態にあることを示している。
  2. 教会は神の家族であって、お互いに一致し、愛、平和を守って勝利しなければならない。
  3. すべてのキリストの兄弟姉妹は、お互いを愛し合うべきである。これはキリストが我々に与えた新しい戒めである。「主なる神があなたを愛されたように、あなたがたも互いに愛しなさい。」
  4. あなたは膝をかがめて、イエス・キリストを礼拝し、イエス・キリストがあなたの主であると告白したことをまず喜ぶべきである。このことは、一番大切なことであり、あなたはそれをしたのである。
  5. イエス・キリストに対して膝をかがめて、主を信じる告白をしていないならば、今すぐに告白し、救われよ。
  6. 最後の審判で、我々は与えられた恵みによって行った良い業に対する報酬を受け、永遠の命に入るである。しかし、信じない者は永遠の懲罰に送られるであろう。
  7. 権限を主なる神から委ねられている者は、本質的に大切な事柄について正しく判断するべきである。そして、教会に与えられた権限をもって、悪しき者を教会から戒規するのである。しかし、あなたが神を愛し、膝をかがめて主イエス・キリストを礼拝し、主として神として告白したならば、その絶大な慈悲のゆえに主なる神を賛美せよ!