正しく人を判断すること、キリスト者の義務
1 John 4:1-6P. G. Mathew | Sunday, April 21, 2002
Copyright © 2002, P. G. Mathew
Language [English]
「愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうかを、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。」
「子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。彼らは世から出たものである。だから、彼らは世のことを語り、世も彼らの言うことを聞くのである。しかし、わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである。」(1ヨハネ4:1-6)
私たちは何度も人々が「人を裁くな。批判的になるな。あなたは他人を裁く権利はない」というようなことを何度も聞いたことがある。それらの背後にある思想は、「絶対的な真実や偽りなどはどこにもない、正しいか間違いかなど誰も言えない」ということである。この思想を受け入れる人々は、「何事も判断するには、絶対的な基準の存在を認める必要があるし、我々にはそのようなものはない。現代の教育を受けた我々には、すべてが相対的であってしかるべきだ。何事でも断定的に判断するのは間違っている」と言う。このような者達は、「全ての考え方が全く平等に扱われねばならず、多様性を愛すべきである」と考えている。そして彼らは、「批判すべきはただ一つであって、独善的な教えであるキリスト教やそれを支持しているキリスト者に対してだ」と言ってはばからない。
神の民として、我々はこの悪魔からくる嘘を拒絶する。あることは常に真実であり、あることは常に偽であるからだ。従って、我々は、すべての思想や考えが平等に取り扱われるべきなどという、偽善を拒否する。キリスト者として、世界の人々、教会の人々、家族の人々、その他誰に対してであっても、全ての人々を正しく判断する義務がある。聖書のみが神の言葉であって、誤りのない判断の原則であり、これに基づいてすべてのものを判断する必要がある。
1コリント2:15-16で、パウロは霊的な人(プニューマティコス)について述べている。 それは聖霊を宿し、聖霊によって整えられている人のことである、「霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。『だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている」。したがって、キリスト者は、すべてのものを判断する能力を持つ。なぜなら、彼は聖霊が宿る人であり、彼はキリストの心を持っているからである。
1ヨハネ4:1で、使徒ヨハネは「すべての霊を信じてはならない」と言っている、「愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい」。言い換えれば、キリスト者は、人を判断することにおいて、気まぐれでも、執拗でも、無知でも、ナイーブでも、怠惰でも、あるいは反神学的でもない。人々を信頼する前に判断することは、聖書が命じている霊的な活動である。特に宗教的な人々、教会の人々を正しく判断するように命じられている。この箇所から、人を判断する理由、判断のルール、判断の結果という3つの点を検討したい。
人を正しく判断するその理由
キリスト者が人々を正しく判断するようにと、ヨハネが言っているその理由は、「多くのにせ預言者が世に出てきているからである」。この節で、ヨハネは人々には2つのタイプがある、と言っている。最初に、彼はギリシャ語のフレーズ「エク トウ セオウ」即ち神からの人々について語っている。それは、彼の存在の源が神であることを意味する。この言葉は、6節に6回出てくる。主なる神から生まれ、神から生命を与えられている人々について語る。彼らには聖霊が住まれ、イエス・キリストに信頼した人たちである。
次に、ヨハネは悪魔の人々、すなわち1ヨハネ4:5に記しているように、「エク トウ コスモー」、すなわちこの世の中の人々について語る。 世の人々は、ヨハネの手紙のいくつかの言葉によって記述されており、1ヨハネの2:18では、彼らはイエスキリストに反対しているという意味で、反キリストと呼ばれている。 1ヨハネ2:22では、彼らは嘘つきと呼ばれている。ヨハネは書いている、「偽り者とは、だれであるか。イエスのキリストであることを否定する者ではないか。父と御子とを否定する者は、反キリストである」。ギリシャ語では、それは「セウテス」(嘘つき)の意味である。1ヨハネ4:1では、彼らは「スードプロフェタイ」(偽預言者)と呼ばれている。2ヨハネ7では、彼らは「プラノイ」(詐欺師)と呼ばれている。
だから、神の人々とこの世の人々の2種類の人々がおり、彼らは2つの異なる霊で満たされている。神の民は聖霊によって満たされ、感化されているが、世の人々は悪霊、悪魔に感化されている。1ヨハネの4:6で、神の民は真理の霊によって霊感を受けており、この世の人々は誤り、欺瞞、嘘の霊によって霊感を受けている。これが、人を正しく判断しなければならない理由である。
どのように判断すべきか
この人を正しく判断すべきであるという考え方は、旧約聖書の中で初めて明らかにされている。申命記18:21でモーセは言っている「あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が主の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう」。
メッセージを伝える人々は旧約のどの時代にもいたが、彼らが真の預言者であることを、どうやって判断できたのか?主なる神はこの点で我々を試される。神の民は知的に預言者と預言を判断しなければならなかった。この義務は、教会の牧師や長老に限定されるものではない。1ヨハネ4:1は、すべてのキリスト者に知的な分別を求めている。即ち、キリストの心を持ち、聖霊に満たされ、正しく判断するよう、聖書を学ばねばならないことを教えている。
だから、申命記18:21は質問している「われわれは、その言葉が主の言われたものでないと、どうして知り得ようか?」その答えは、22節にある、「もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない」。
今日、この判断を実行する必要がある。手術が必要な人がいると聞いて、癒しの力を持つという者がやってくることがある。この者は癒しを祈ったが、何も起こらなかった。 そのような者は嘘つきであり、偽りの預言者である。
我々が預言者(説教者)を正しく判断するための最初のテストは何か?この聖書の箇所は、彼らの預言が成就すれば、信じるに値すると言っている。しかし、申命記13:1-5は別のテストがあると教えている。「あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、しるしや奇跡を示し、あなたに告げるそのしるしや奇跡が実現して、あなたがこれまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、彼を恐れ、その戒めを守り、その言葉に聞き従い、彼に仕え、彼につき従わなければならない。その預言者または夢みる者を殺さなければならない。あなたがたをエジプトの国から導き出し、奴隷の家からあがなわれたあなたがたの神、主にあなたがたをそむかせ、あなたの神、主が歩めと命じられた道を離れさせようとして語るゆえである。こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。」
1列王記22章では、裁判官として任命された預言者たちが、勝利を得るためアハブに戦いに行くよう励ましていたことが記録さている。しかし、これらの預言者たちは真の預言者ミカヤとは違い、アハブに嘘を語った。19-23節には次のように書いてある。ミカヤは言った、「それゆえ主の言葉を聞きなさい。わたしは主がその玉座にすわり、天の万軍がそのかたわらに、右左に立っているのを見たが、主は『だれがアハブをいざなってラモテ・ギレアデに上らせ、彼を倒れさせるであろうか』と言われました」。列王記には続けて書いてある、「するとひとりはこの事を言い、ひとりはほかの事を言い、その時一つの霊が進み出て、主の前に立ち、『わたしが彼をいざないましょう』と言いました。主は『どのような方法でするのか』と言われたので、彼は『わたしが出て行って、偽りを言う霊となって、すべての預言者の口に宿りましょう』と言いました。そこで主は『おまえは彼をいざなって、それを成し遂げるであろう。出て行って、そうしなさい』と言われました。それで主は偽りを言う霊をあなたのすべての預言者の口に入れ、また主はあなたの身に起る災を告げられたのです」。
したがって、彼らが聖霊によって語っているか、それとも、偽りの霊の支配下にあって語っているかをテストしなければならない。我々は、だれに対しても疑いを持たず、気が利き、神学的に無知で怠けものであることは許されない。語る者の心をテストしなければならない!
危険なしるしや奇跡
イエス・キリストは、大きな徴候や奇跡を行うという偽預言者について警告された。マタイ24:4に、「そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう」とある。また11節には、「また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう」とあり、これは教会の数多くの者という意味である。24節でも繰り返しておられる、「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう」。しるしや不思議、奇跡を行う説教者を、騙されやすい気まぐれな者が信じ込む。奇跡的なしるしをたとえ行う人間が現れても、その人間が神から来たことを保証しない。これを理解していないのであえる。エジプトの魔術師は不思議としるしを常に演出していた。ここでイエス・キリストは、偽の預言者たちが奇跡と不思議を演じると言っておられる。テサロニケ2:2章で、パウロは無法者が、大きな奇跡と不思議を行う、と書いている。
しかし、騙されやすい人たちは、「これ以上のしるしはあるだろうか?それはまさしく奇跡的な業だった。それを目の当たりにして、目が飛び出そうだった。そんな大きな業は、神から送られてきた本当の預言者でなければできないことだ」といってすぐに信じてしまう。多くの人がそのように惑わされるであろう。
パウロはまた教会に入ってくる偽預言者について警告をしている。使徒行伝20:29では、彼はエペソの長老たちに語っている、「わたしが去った後、狂暴な狼が、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒らすようになることを、わたしは知っている」。パウロが狂暴なオオカミと呼んでいる偽預言者は、神の民を滅ぼすために教会入ってくるであろう。30節で警告している、「あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう」。31節でも言っている、「だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがた一人一人を絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい」。
ガラテヤ1章でも、パウロはまた警告している、「たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである」。2コリント11:4でも言っている、「というのは、もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受けいれたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる」。それは、ナイーブで、怠惰で、分別がなく、なんでも勝手に受け入れてしまい、感情に作用されやすく、はっきりと物事がわかっていないキリスト者に起こることである。偽預言者が、聖書とは異なるイエス像を語っても、間違った福音を語っても、それに対して疑問も持たない。真理について注意深く検討しようとしないそのような人々は、誤った教えに容易に引っ張られていく。指導をしています。
1テモテ4:1-2にこう書いてある、「しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善の仕業である」。これは悪霊のはたらきである。
ペテロは、2ペテロは2:1-3でこう言っている、「しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。また、大勢の人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである」。
旧約聖書も偽預言者について語っている。主イエス・キリストは、偽預言者について語っておられる。パウロとペテロも偽預言者について警告した。嘘と偽りの説教者、彼らは詐欺師であり、悪霊の嘘の霊の影響下にある。彼らは反キリストで、そのはたらきに反対する。外側から教会に入り込んでくる者や、教会の中から出てくる者もいるが、神の民を惑わすために荒らすのである。ヨハネも、彼らに警戒し、彼らを見分け、神学的に理解を深めるできであるといっている。
偽預言者の嘘
使徒ヨハネは生涯に多くの人々を見た。ある者は、「主イエスは肉体をとって来なかった」と言い、「肉体のように見えただけで、実は幻を見ていたのだ」と主張する異端者もいた。この異端は、「ドセティズム」として知られている。 コリント人は、グノーシス思想をもっており、「神聖なキリストの霊がバプテスマの時にイエスに入って来て、十字架にかかられる前に去っていかれた」と言っていた。彼らに共通する一つのことは、キリストの教えの中心部分を否定したことである。これは主イエス・キリストの御人格と業に関わる重要なことである。
イエス・キリストは、別個に神と人間として存在されるのではなく、神/人 二者の性質を もたれる。偽教師たちはこの真理を曲げ、結果、イエス・キリストが我々贖罪を行われたということを否定した。「彼はもともと生きた人間ではなかった」とドセシスト達は言い、「彼は唯の人間だ」とセリンシアン達は言う。これらの者達は、イエス・キリストの人性と神性を否定し、その贖いを無価値だとする異端者である。「イエス・キリストの死と復活を通らなくても救われる」とグノーシス主義者達は言う。
この国でも世界中でも、こんな自由主義神学を信じている。前世期終わりに、J.グレシャム・メイチェン師は、「キリストの教え・対・自由主義」という本の中で、自由主義はキリストの教えに相反する、と宣言している。しかし、この国では自由主義が蔓延化し、ローマカトリック教会を初め、聖公会、メソジスト教会、バプテスト教会、長老派教会、ルーテル教会、ルター派のいずれであろうと、「イエスキリストは歴史上の偉大な人物」としてだけ信じられるようになってしまった。
この見方は、イエス・キリストの人格を損ない、アリアニズムという異端でもある。新正統主義を唱える神学者は、現在もこの考え方を支持している。ライホルド・ニーバーは、「キリストが神であり人である」というような教えは論理的にナンセンスだ、とさえいっている。
このニーバーの考え方こそナンセンスである。のみならず、これこそ異端そのものである。エホバの証人、クリスチャンサイエンス、モルモン教、その他様々な異端やカルトを調べてみよ。イスラム教はどうか。これらの宗教などは、イエスも良い人として説くかもしれないが、イエスが神であることを否定する。
カリスマと自らを呼んではばからない者たちも、真の神を礼拝するのではなく、人々を拝金主義に導いている。貪欲な者は、純粋な福音を説かない。これらの詐欺師は、お金を稼ぐ方法を教えてくれるかもしれないが、ナイーブな者達をだましている。
これらはすべて偽預言者である。使徒ヨハネの時代であれ現代であれ、純粋な福音を曲げて、人々が受け入れやすくする、安売りの販売者である。ある者は、科学的に受け入れられない、といって聖書のある個所を曲解する。こうするのは人間の知的発達のためだと言っている。しかし、そのような者達はサタンの影響を受けている、と聖書は断罪する。 彼らの曲げられた福音は、悪魔の活動によるものであり、知的な進歩とは全く関係がない。
使徒ヨハネに反対していた者達は、自分たちは聖霊に満たされたキリスト者であると自称していた。しかし、この偽者のキリスト者は、キリストと福音を曲げて教えていた。彼らは敬虔さを備えているように見えたが、それは本物ではない見せかけのものであった。彼らは、実際にはサタンの僕であり、光の天使に化けた偽物であった。
これらの偽預言者達が、それなりに成功していた様子を聖書は記録している。ヨハネの黙示録4:5は、「彼らは、偽物の教師、偽りの預言者、反キリスト、詐欺師、世から出た者」と言っている。だから、彼らは世のことを語り、世も彼らの言うことを聞くのである。ああ、これらの嘘つき偽預言者が、なんと世の中で成功していることか!人々は、このような飛躍的に成長している教会に集まってくる。しかし、問題が一つある。そこでは、本物の福音は決して語られないのである。そこで教える者も教えられる者も、共にこの世に属する者であり、福音とは全く関係がない。
判断の基準
2つ目の重要点は、判断基準である。聖書は、キリスト者が正しくが裁く義務を負っている、と言っている。しかし、我々はどのような基準を用いているか?
一部の人々にとって、その基準は単に自分の主観やさとり、または感情でしかない。そのような人々は、「その教会に行って、私は元気が与えられ、本当に励まされました。本当に幸福感を味わえました」と言う。彼らの基準は、どう感じたかという気持ちだけである。
「しかし、その教会には不思議としるしがある」と言う人がいる。彼らは異言で祈り、中には、ぴょんぴょん飛び跳ねたりする。そんなに素晴らしい教会なのだろうか?このような人々は聖書を正しく理解していない。サタンも、不思議としるし、奇跡を行ったり、異言を話したり、色々と興味深いことを行って見せるものである。あなたは、モルモン教徒もこれらの不思議や奇跡を信じる、ということを知っているだろうか? 実は、誰でもそのようないかさまを複製できるのである。そのようなものであれば、モーセの時代にエジプトの魔法使いも奇跡のようなものを行っている。
「この教会には青少年のためのプログラムがあります。素晴らしい音楽プログラムもあって、良い教会にちがいないでしょう」という人々もいる。これも正しく判断する基準とはならない。
では、主なる神が、我々に与えられる客観的な判断基準とは何か?ヨハネの4:2で、使徒は次のように書いる、「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものである」。
キリスト者であるという証には2つの種類がある。1つは教理的な証、もう一つは倫理的な証である。ヨハネの第一の手紙は、これら両方を正しく判断する基準を教える。特に、ヨハネは、イエス・キリストを誰であると考えているか?どのように信じているか?という教理的な基準を示している。ヨハネは、「イエス・キリストが肉体をもってこの世界に来られたことを告白する者かどうか」という教理的な基準で、その人が聖霊に属するか、それとも悪霊に属するか、ということを判断できると言っている。
人となられたキリスト
ヨハネは、イエスの神性を表現する時に「キリスト」という言葉を用いている。言い換えれば、キリストは、ヨハネによれば、神の御子を意味している。「イエス」とは、彼の人間性を指し、「キリスト」とは、主なる神が人に受肉しておられることを示す。即ち、ヨハネは、イエス・キリストが神であると理解していたのである。ヨハネの黙示録1:5-20に書かれているように、「さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである」。
我々は、キリスト者であって、同時に愚かでナイーブな者であることはできない。先ず、主イエスが誰であるか?という観点から始めなければなにも始まらない!主イエスが人間と神の両方の性質を持っておられる、神/人 – テオス/アンソラポス – 神の性質と無罪の人間の二つの性質を持っておられること、これを知っているかどうか?が問題である。
イエス・キリストは神であり人であられる。これに対して、ドセティズムという異端は、キリストの人の体を持っているように見えるだけで、実際には存在していない、と主張する。この異端は、キリストは神が人の形をとって受肉された形である、と教えない。むしろ、イエスは、バプテスマを受けられた時に霊としてこの世に来て、十字架で死なれる前に去っていかれた、と誤ったことを教える。しかし、聖書は、永遠の神がマリアの体内で、人間の本性と結ばれたことを教えている。イエス・キリストは、神/人として生まれ、神/人として死んで甦り、神/人として全ての権威の座に座り、再び神/人として来られる。
キリストの業
キリストが、どのような業をされたと認識するかも、その判断基準である。異端者たちは、「キリストは本当には死んでおられなかった」とか、「十字架で死んだのは、人なるイエスで、神の霊が去った後である」とか言う。また、他の異端者は、「普通の人間性を持つイエスが十字架で死んだのだから、その人は誰も救うことができない」と言う。このよう異端者は、我々の罪は無限の神に対してなされたために無限の罪となっており、単なる人間であるイエスの死によって赦されることはない、と主張する。
真実は、「イエス・キリストは神/人として生き死なれた」ということである。したがって、主イエスによる罪の償いは、彼に信頼する者を救う効力を持っている。初めから存在しておられる方(1ヨハネ1:1)であり、父と共におわれた方(1ヨハネ1:2)は、神ご自身である(1ヨハネ5:20)。「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1:1,2,14)。
イエスはなぜ人間の性質を取られたのか? 罪の代価は死である。人間の罪の死を死なれる為に他ならない。イエス・キリストは神/人として死なれたのだ。したがって、彼は我々のみならず、彼に信頼するすべての民の贖いそのものである。
ヘブル2章では、神が人になられたことについて書かれている。さらに、ヨハネの手紙では、イエス・キリストが我々に命を与えられたことについて書かれている。主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである(1ヨハネ 3:16)。彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である(1ヨハネ2:2)。彼は聖なる方であり罪がない。従って、その死によって悪魔の業を破壊できる。その血によって我々の罪を取り去り、完全に赦すことができる。この世において、救い主であり、父なる神によって送られ、我々を新しく生き還らせることができる。神が我々に命じて信頼する方であり、再び来られる審判者である方である。
キリストの受肉がなければ、誰にも救いと希望はない。キリストの人格とその業を正しく理解しているかが重要である。神/人としてキリストが、我々の罪のために死に、神/人として甦り、そして神/人として再臨されるキリストを知っていること、それが重要な基準である。
したがって、基準を決める権威は聖書のみであり、それがイエスキリストの人格と業を我々にはっきりと提示している。これが聖書全体の真髄であって、教える者を客観的に判断するテストである。だから、聖書の完全な権威を否定する者は、イエス・キリストの人格と業を否定する。そのような者の中に、イエス・キリストが肉体をとって来られたことを否定する者がいる。実際には、これが1ヨハネ5:16の教えているところの「死につながる罪」であり、この聖霊に対する罪の赦しのためには、祈ってはならないと書かれている。
キリストが実際に存在されたことを否定する者は実際おり、それらの者は救われることはできない。キリストの神性と人性が我々の救いの根拠である。だから、人はこのように信じない者は神から生まれていない。本当の神の子供ではない。その者は、以前神の怒りのもとにある。神の永遠の救いを拒絶し、自分で発明した救いの考えに騙されている。そのような者は、悪しき霊、この世の霊の支配下にある。反キリストの霊、誤りの霊、悪霊に支配された霊に支配されているのである。
2ヨハネ7章には、「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」とある。キリストの教えには様々なグループがあることはわかっている。しかし、キリストの人性と神性を拒否した場合、その人は聖書の権威を拒否している あなたがどこかの教会に参加するとき、「あなたは聖書の完全な権威を信じるか拒否するか、のどちらか?」と、そこの牧師に聞くべきである。
では、あなたはその権能を受け入れているか?「キリスト教にはさまざまなグループがある。しかし、キリスト者であると主張する人が、これを否定した場合、その人は聖書の権威を拒否しているのである、あなたはその権威を受け入れるか?」もしもその人が聖書の権威を拒絶するなら、その牧師もそこに集う人々も悪霊につかれているのである。彼らはこの世に属していて、本当のイエス・キリストを嫌っているのである。彼らは、神の救いを受けていない。世界中の多くの教会はこのように聖書の教えることを拒絶している。
黙示録2章では、イエス・キリストがエペソの教会を承認されたと知る。 エペソの教会に遣わされている天使にキリストが語っておられる、「右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている」。即ち、使徒であると主張しているが、実はそうでない者であり、教えていることが間違っているのを発見した、ということである」。つまり、エペソの教会は知的で分かりやすいものなのである。彼らは自らを正しく判断することのできる者達であった。
だれの声を聞いているかを判断せよ
ヨハネはもう一つの判断基準を与えている。それは使徒とそれをとりまく交わりについてである。1ヨハネ4:6に書いている、「わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである」。ここには、神の言葉を聞くというテストもある。
あなたはどうか? あなたにとって礼拝は退屈だろうか?神の言葉はあなたにとって退屈だろうか?講壇から語られる説教はどうか?神の言葉が語られると、とたんにあなたは眠るか?これらがあなたに当てはまるなら、それはあなたがまだ新生していないという証拠を示している。
も一度ヨハネの書いていることに目をとめてみよ、「わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである」。子供であれ十代の若者であれ、親であれ、この点において自分を吟味するとよい。聖書や礼拝や説教がもしあなたに退屈であるなら、あなたは「エク トウ セオウ」まだ、神の民となっていないと結論づけなければならない。
ヨハネ8:47で、主イエス・キリストは言われた、「神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである」。これは1ヨハネ4章での理解と同じである。これとは対照的に、使徒行伝2:42では、神からきた者たちはどうであったかがうかがえる、「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた」。これらの人々は神から生まれていた。ペテロが福音を語ったとき、彼らは心を動かされ、罪を悔い改めて主イエス・キリストを信じた。彼らはバプテスマを受けて一つの場所に集まり、「使徒たちの教え」に専念した。
あなたの子供たちが、説教が退屈であると言い、家族の祈りの時に、何も聞いていないような無関心でいるなら、彼らは神から生まれたものではない。あなたは彼らに悔い改めて、主イエス・キリストを信じるように言うべきである。
聖書によって判断すべきである
この世は、だれをも裁いてはならない、という。全ての宗教はそれなりに真理を教えているし、間違っている者はいない、という。このような考えは、悪霊から来ている。そうではない、究極の真理は在る。そしてそれは聖書に教えられている。
聖書は人によって書くかれたたものではなく、神によって書かれたものである。人が書いたものなら、我々はそれを忘れてもよいだろう。悪霊の書であればなおさらである。しかし、神自身が著者であって、聖書は人々を含むすべてのものを判断する基準をはっきりと提示している。我々は、主観と気持ちに基づいて判断するのではなく、聖書の言うことに基づいて判断しなければならない。
物事を正しく判断するためには、まず聖書が何を教えているかを理解すべきである。即ち、イエス・キリストとその御業について理解することが必要である。3日目に死人の中から復活されて方であるイエス・キリストは、聖書全体がご自身について教えていることを、弟子たちに教えられた。これを信じる者に、罪の悔い改めと赦しを与えられる。
イエス・キリストの以外に救いはない。永遠の命は御子イエスの中にある。したがって、御子を持つ者は命を持っている。あなたはイエス・キリストが実際におられたことを知っているか?そうであれば、主イエス・キリストが誰であるか?その業がどういうものであるか?これら二つのことを知っていることを表明している。そして、単にそれを口で表明するだけではなく、聖霊によって告白されたものである。「イエス・キリストが主である」ということを告白させるのは御聖霊の力による。
しかし、あなたがこの告白をすることができなければ、あなたはキリストに属する者ではなく、あなたはキリストに敵対しており、偽りを信じており、希望も命もなく、迷っている。神があなたを救いに導かれるように、神に願い求める必要がある。
正しい判断の結果
神が与えられた基準に基づいて、人を正しく判断するということがどのような結果をもたらすのか?1ヨハネ4:4は教えている、「子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである」。我々が人を正しく判断できるのは、偽の教師に騙されないためでもある。
ヨハネが「神から来ている者」と言う意味は、クリスチャンのことを言っている。我々は、主なる神から生まれたということである。我々が、「自分の決心によってキリスト者になる」という間違った教えを信じてはならない。先ず、人は聖霊の働きによって再生される。それで初めて神を愛する性質が与えられるのである。このような救いが本当の救いである。聖霊は我々の中に住まわれるのである。
「あなたがたは、愛する神の子」である、という表明は、神が存在を与えられたということである。クリスチャンはただの人間ではなく、再生の奇跡を経験した人々なのである。彼らの存在は神から来ており、ヨハネが言っているように、教会を欺こうとしている偽預言者をうち負かすことができる民なのである。
私は、偽りのキリスト者が教会に入り込み、ナンセンスを言いふらして、キリスト者を堕落させるのを見てきた。それはまさに、ヨハネがエペソの教会で教えていた時に起こったことでもある。「あなたは神に属している者達である」とヨハネが書いている通り、彼らは確かに再生された民であった。そして、「それらの偽りの教えを撃退した」のである。従って、彼らはボーっとしていたのではなく使徒の教えをしっかりと心に据え、常に自らを鍛錬していたことがうかがえる。
我々は、キリスト者を自称していても、外見のふるまいが素晴らしいからといって、それらの者を本当のキリスト者であるとは信じてはならない。彼らが、本当は何を信じ、何を行うかを見分ける必要がある。彼らが倫理的にどうか?そしてその神学はどうか?という2つを吟味しなければならない。
偽預言者を打破する
この箇所のギリシャ語では、「あなたは彼ら偽りの者を打ち負かしてしまっており、その勝利を今も楽しんでいる」という現在完了形の表現が用いられている。
「あなた方は、彼らを打ち負かした」とヨハネが書いている偽教師とは、悪霊の教えに囚われている反キリストである。たしかに、彼らは非常に強力であり、1ヨハネ5:19で、サタンの支配下にある者と言われている。
1ヨハネ5:4では、「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たせた勝利の力である」とある。まずこの点を見落としてはならない。我々が神から生まれない限り、偽の教師を見抜いたり、悪しき霊を打ち負かしたり、誘惑を克服したりできないのである。最初に、神から生まれなければなにも始まらない。霊的な奇跡、主イエスが教えられたように御聖霊の働きによる、罪からの解放の新生を体験しなければならない。即ち、「肉から生まれた者は肉であり、霊から生まれた者は霊である」ということにつきる。
次に、1ヨハネ4:4では、「子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである」と言われている。
だから、我々には2つのことが必須である。まず、神から生まれた者であること、そして、御聖霊が内在されることである。御聖霊の内在は、なにかの物理的なことについて言っているのではない。三位一体の御聖霊が、我々の知性、意志、感情に生きて働いておられる状態を御聖霊の内在という。御聖霊は、その力と知恵をもって、生活全体にわたって教え、導き、結果我々が主なる神に栄光を表すことができるように力づけられるのである。
だから、我々は自分の力で悪霊に抵抗しない。聖霊の力で悪霊に抵抗する。我々に内在される方は、この世にいる悪霊よりも偉大であり、このため我々は世に勝つ、とヨハネは言っている。御聖霊は無限である。しかし、この世に徘徊するサタンは有限である。御聖霊は無限の知恵と力を持っておられ、我々を助け、救い、導き、教え、力を与えられる。御聖霊は我々の勝利である。
聖霊の油注ぎ
1ヨハネ2:26-27で、ヨハネは御聖霊を油注がれた状態として形容している、「わたしは、あなたがたを惑わす者たちについて、これらのことを書きおくった。ヨハネは反キリストについて書いており、教会に忍び込む偽りの預言者であって、教会を滅びに向かわせる者である、と定義している、「あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい」。
神が本当の注油ぎをキリスト者に与えられると、ヨハネは言っている。その油注ぎによって、「あなたがたを惑わそうとしている人々」に反対するようにと教えている。誘惑されるときはいつでも、我々が神から生まれたことを覚えなければならない。聖霊の油そそぎが我々にあることを覚えよ。御聖霊は我々を守られる。御聖霊は無活動な方ではなく、我々の心に搭載された鉛の弾丸のような者である。聖霊は、我々信じる者たちの生活の中で活発に働かれる無限の方であり、我々を導き、教え、力を与え、我々が今も後も永遠に神の御心を行うようにされる方である。
聖書が我々のうちにある
1ヨハネ2:14は言っている、「子供たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが父を知ったからである。父たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。若者たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが強い者であり、神の言があなたがたに宿り、そして、あなたがたが悪しき者にうち勝ったからである」。我々が神から生まれたとき、我々の中に御聖霊がおられることを理解する。聖霊がおられるなら、聖書が我々の中に住むことも理解する。神から生まれた人を私に見せてください。 私はあなたに聖書のために貪欲な食欲を持っている人を見せます。 聖霊があるところには聖書があります。御聖霊があるところには、キリストの言葉もまた豊かに住むのである。聖霊はいつも聖書を理解できるように、我々を導かれるのである。
あなたが聖霊で満たされていると言いつつも、神の言葉に関心がなければ、あなたの油そそぎは偽物である。もしそうなら、「私はキリスト者であって、聖霊で満たされている」と言っているだけで、実は自分自身をだましているのである。
ヨハネは次のように書いている、「若者達よ、あなたは悪しき者に打ち勝った」。どのようにして経験の浅い彼らが、悪しき者に打ち勝るのか? 彼らの中に神の言葉が宿っていたからである。あなたも神の言葉を宿しているか?我々に神が下さった新しい性質が宿り、聖霊が住んでおられ、聖書が我々の心を満たされる。御聖霊は我々が神の言葉を愛するようにされる。実際、御聖霊の目的は、主イエス・キリストの栄光を示すことである。それゆえ、聖霊は神の聖なる言葉を理解できる力を与えられるだけでなく、その言葉を行う者になる力も与えられる。だから、新しい性質が与えられて、御聖霊が住んでおられ、聖書が我々を治めているのである。
圧倒的な勝利者になる
ヨハネは書いている、「子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである」。我々は神によって生まれ、聖霊が内在される。だから、悪霊に打ち勝てるのである。ヤコブは、まず神に従い、悪魔に抵抗せよ、と教えている。この順番が大事なのである。主なる神は、そのときに我々を打ち勝つ者にされるのだ。悪霊は逃げていくのだ。
その結果は何か? それは大きな勝利である。あなたは、もう既にそれを克服したことになるのである。偽教師たちは、1ヨハネ2:27にあるように、神の民を惑わそうとしたが失敗した。彼らは、エペソの教会で人々を使徒の教えから離れさせようとしたが、逆にやられてしまったのである。そしてどうなったか?1ヨハネ2:19は、「彼らはわたしたちから出て行った」と記録している。そのような者達が出ていくと、大いに祝福されるのである。彼らは人を惑わしたが、そのたくらみは成功しなかった。だからヨハネは言う、「しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである」。
ヨハネが教会に言っていることは、つまるところ、「主なる神をほめ讃えよ。あなたはこれらの偽教師を追い出したのである。彼らの陰謀は失敗に終わった。彼らの方が教会から出ていくべきであったのだ」ということである。主イエス・キリストはこの世に打ち勝たれ、「喜べ。私は既に世に勝った」と言われた。これこそ我々の喜ぶべき勝利である。イエス・キリストにあって、我々は征服者以上の者である。それが意味するものを表現することばがない。のみならず、コリント2:14で、パウロはイエス・キリストが我々を常に勝利から勝利に導かれると教えている、「しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである」。
時々、教会の外側に知性を置き去りにして、礼拝にくる人がいる。これは適切ではない。我々は、神によって創造された我々の知性をもって、神を礼拝する必要がある。我々は動物ではなく、神との交わりを持つように、神の姿に似たものとして創造されたのである。聖アウグスティヌスが教えているように、「我々の心は、動植物等の自然界では満たされず、神によってのみ満たされる」のである。
1ヨハネ3:23にあるように、「その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちに命じられたように、互に愛し合うべきことである」。これは誰の命令か? 永遠の神の命令である。主なる神のもう一つの命令は、すべての人に悔い改めを求められるという命令である。だから、我々がへりくだって神の子である主イエス・キリストとの霊的な関係が与えられると、本来の知性を働かせることが可能となるのである。そうすれば、我々の知性は非常に適切に働き始め、正しい思考に満たされるのである。我々が悔い改めて、主イエス・キリストを信じる時、真の幸福、本当の喜び、満足を見いだすようになる。
我々が神から生まれ、御聖霊が内在され、神の聖なる言葉をよく理解し、愛し、これを行い、サタンに打ち勝てるようにと祈る。また、すべての虚偽に打ち勝ち、ヨハネの黙示録12:11にあるように、神の民である我々が、子羊の血と御言葉によって悪魔を打倒するようになるように。今日、主なる神が我々を助けて下さり、主イエス・キリストにあって、勝利者になるよう助けてくださるように! アーメン。
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