父なる神による義認

Romans 4:5
P. G. Mathew | Sunday, January 26, 2020
Copyright © 2020, P. G. Mathew
Language [English]

序論

義認とはなにか? ウェストミンスター小教理問答、問33の回答は以下のように教えている、「義認とは、神の一方的恵みによる決定である。それによって神は、我々のすべての罪をゆるし、御前に正しいと受け入れでくださる。それはただ、我々に転嫁され信仰によって受けとるキリストの義のゆえである」。

神から背いて堕落したこの世界で、最も重要な問いは、「どれだけのお金を稼ぐことができるか?」ではない。主イエスは言われた、「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マルコ8:36)。最も重要な問いは「人はどのようにすれば神の前に正しくありえるだろうか?女から生れた者がどうして清くありえようか?」(ヨブ25:4)である。その答えはローマ4:5にある:「しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである」。

ピリピの獄吏はふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。パウロは答えた、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:30–31)。

人にとって、最も重要な必要は神による救いである。聖書は言う、「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される」(ローマ1:18)。罪人が神の怒りから救われるのは、イエス・キリストだけを信じて救われるしかない。

父なる神は、神の御子が罪人のために罪のなだめの犠牲と贖罪を行われたことに基づいて、その信じる罪人が永遠に義とされることを宣言される。なだめの犠牲とは、父なる神の怒りを取り除くイエス・キリストの死を意味する。JIパッカー博士は、義とされること、即ち義認は「罪人を罪から解き放ち、恵みによって、キリストへの信仰を通して義とする神の業である」と教えている。それは、罪人の力ではなく、信じる罪人の代わりに行われた[1]―主イエス・キリストの正しさ(義)と十字架の血による贖いである。

I. 選びの民だけが義とされる

最初のポイントは、選びの民だけが義とされることである。選びについて完全に理解することはできないが、聖書はそれを教える。我々は選びを信じるべきだ。以下の聖書の箇所について熟考せよ。

  • マタイ24:22:「もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう」。
  • マタイ24:24:「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう」。
  • マタイ24:31:「また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」。
  • 2テモテ2:10:「それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである」。(テトス1:1と1ペテロ1:1も参照)
  • 2ペテロ1:10:「兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない」。

あなたが選びの民であるかどうか、どうして判断できるか?それは、説教される福音を聞いたとき、あなたがイエス・キリストを信じ、イエス・キリストに従い、永遠に救われる、ということで判断できる。

エペソ1:4でパウロは教えている、「御前に清く傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選ばれた」。ウィリアム・ヘンドリクセン教授は、子の箇所について次のように系統立てて教えている[2]

A. 父なる神が義とする者を選ばれる

誰が義とする者を選ばれるのか?それは主イエス・キリストの父なる神である。

B. 選びの特徴

我々は堕落したアダムの子孫であって、邪悪であった。しかし、神はご自分のために、我々を愛し選ばれたのである。ローマ5章でパウロは言っている、「このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められた」(ローマ5:18a). 彼はまた言っている、「すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされた[伝搬した[3]] 」(ローマ5:19a)。しかし、神は我々をご自身の栄光のために、永遠に共にいる彼と永遠に住むために、とがめられることのない子として選ばれた。

C. 選びの対象

選びの対象は、神の家族に属するすべての真の信仰者である。ガラテヤ6:10は言っている、「だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」。救われる者は少ない。主イエスは言われた、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」 (マタイ7:13–14)。世界の大部分の人々は選ばれず、したがって救われず、義とされない。

D. 選びの根拠

我々は、父なる神、子なる主イエス・キリストによって選ばれている。だから、我々は主イエスを映すのである(ローマ8:29)。主なる神は我々が主イエスを映すようになるよう変えられる。

E. 選びの時

神はいつ我々を選ばれたか? 神は、世の創造以前、永遠から我々を選ばれた。

F. 選びの目的

神は永遠にご自身との交わりを喜ぶ聖なる民を備えられる。ペテロは教えている、「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである(1ペテロ1:15–16)。我々の父なる神のように神に近づく。主イエスは言われた、「心の清いものは幸いである。その者は神を見るであろう」(マタイ5:8)。へブル12:14は言っている、「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」。

II. 義とされることの基礎

義とされることの基礎は何か? 罪人である人間は主なる神に敵対し、主なる神は罪人に敵対している(ローマ1:18)。罪人はどうして神と一緒にいることができるが? どうすれば神の怒りから救われるか?

アダムが罪を犯したとき、彼の子孫はすべて罪を犯した。今、すべての人々は、生まれた時から神に対しては死んでおり、悪魔の子供として毎日罪を実践しているのである。これは人間の完全な堕落と呼ばれている。我々人間は思考、意志、愛情において完全に堕落している。パウロは書いている、「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」(ローマ3:20,23)。

したがって、罪人は「神の怒りから救われるには何をしなければならないのか」と叫ばなければならない。そして、答えは天から来る。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたは救われる」これが福音である。邪悪である人間にとってこれこそ朗報である。

永遠の計画により、父なる神は選びの罪人を救われる。神の御子キリストは、自らの意思により、父なる神に服従され、人となって生まれ、我々の罪のために死んで葬られ、復活して救いを達成された。こう書いてある、「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」(ローマ4:25)。パウロも言っている、「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちで」(ローマ6:23)。

さらに、御聖霊は選びの罪人に対して、救いの計画を永遠に適用される。パウロは書いている、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ローマ8:28–30)。選ばれたすべての罪人は福音を聞き、罪を悔い改め、イエス・キリストに信頼し、義とされる。

義とされる根拠は神の義、すなわちイエス・キリストの義である。この義はすべて選びの罪人、信じる罪びとに与えられる。罪、これに対する罰、そして地獄は、私たちに代わって、主イエス・キリストが引き受けられたのである。これは、一般に二重の福音と呼ばれている。我々の罪はキリストに、キリストの義は我々来る。

キリスト信仰の基礎の本で、ジェームズM.ボイス博士は次のように説明している。イエスはまず、二つのことを行われた。即ち、清い神に対するなだめと、人間に対する罪の贖いの両方である。我々人間はなにもできない。なにもしないで、義と贖いを受け取るのである。なにかすることで受け取れない、ということである。[4] これらは明らかに神からの良い恵みである。

主イエスは、我々が主なる神に仕えるために、罪とサタンの奴隷状態から救い出された。そのために想像できない代価を払われた。それが十字架での死である。パウロは書いている、「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ6:23)。主イエスは、我々に対する神の怒りを、十字架上の贖罪の犠牲によって取り除かれた。

ピリピ2:8でパウロは言っている、「(イエスは)おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。神の清い怒りに対するなだめの犠牲と罪の贖いを主イエスはささげられた。これに基づいて、父なる神は主イエスを信頼するすべての罪人を義とされる。 パウロは書いている、「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受けるべきあがないの供え物とされた。それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」(ローマ3:24–25a, 26)。

我々が選ばれていることをどのようにして知ることができるか?それは、我々が罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じるということによってわかる。これこそ、全世界で最も良い取引であるのだ。(PGM)取引といっても、お金儲けではない。それは、永遠の救いという偉大な贈り物を受け取るということである。悪しき者が神によって義とされるのだから、神の正しさに基づく義である。神の御子キリストは我々罪の代わりに死に、我々を義とされる。

ローマ5:17–19, 21で、パウロはこの二重の福音について、これらの聖句は次のように知ることができる。

  • 17「もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか」。つまり、アダムは神に仕えず自分に仕え、罪を犯したため、死を受けた。しかし、イエス・キリストにおいて、我々は恵みによって義と永遠のいのちを受けたのである。
  • 18「ひとり(アダム)の罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及んだ」。義とされることは、罪の呵責と死の真逆である。
  • 19「ひとりの人(アダム)の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとり(イエス・キリスト)の従順によって、多くの人が義人とされるのである」。.
  • 21「罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させる」。我々が肉体的に死ぬとき、主なる神は我々の霊を完成させられる。これは、我々が永遠に神と交わるための神の国に来ることとなるためである。

また、2コリント5:19, 21を見よ。

  • 19パウロはまた、主なる神がキリストにおいて世をご自分に和解させた、と書いている。そして「罪過の責任をこれに負わせることをされなかった」と言っている。我々は罪を犯したが、神はその罪を数えることをされなかった。イザヤ53:5では、主イエスかかれている。キリストに関してパウロは書いている、「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」(ローマ4:25)。完全な神/人であるイエス・キリストが我々に代わって清い神との間の平和を与えて下さったのだ。このことに神に感謝せよ!
  • 21「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」。繰り返すが、これは二重の福音である。我々は自分の義ではなく、恵みによって神が御自身の自由意思をもって、義の立場を我々に与えてくださった。これはイエス・キリストを信じるすべての人に当てはまる。従って、我々は永遠に義とされる。つまり、神の義を着ているのである。

ジョン・マレー師は、このことを次のように要約している。霊的再生は我々の中に起こる神の働きであり、義とされることは我々の立場に関しての神の働きである。[5]キリストの義が我々個々人の中に注がれることで、審判者としての神は、我々を無罪とし、永遠に義と宣言される。これこそ、ローマ4:5が言っているように、「働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである」。

我々は罪人であっても、主イエスを信じるならば義とすることができる、それが神である。申命記25:1に書いてある通りである、「人と人との間に争い事があって、さばきを求めてきたならば、さばきびとはこれをさばいて、正しい者を正しいとし、悪い者を悪いとしなければならない」。裁判官は誰も無実にすることはできない。しかし無罪を宣言することは可能である。信仰によってキリストの義が我々に移されたのだ。我々は無罪と宣言された。だから以下のように書いてある:

  • 1コリント1:30:「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。イエス・キリストは我々の義であり、清さであり、我々の贖いであられる。
  • ピリピ3:8–9: パウロは書いている、「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、排泄物のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰にもとづく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」。これは無償であり、我々自身では獲得不可能である。
  • マタイ1:21:「彼女(処女マリヤ)は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
  • 使徒4:12:「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。この世に、救い主は他にない。
  • エレミヤ50:20:「主は言われる、『その日その時には、イスラエルのとがを探しても見当らず、ユダの罪を探してもない。それはわたしが残しておく人々を、ゆるすからである』」。
  • ガラテヤ3:13: 「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、『木にかけられる者は、すべてのろわれる』と書いてある」。
  • ガラテヤ2:15–16:「わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである」。

III. 義とされる方法

義とされる方法はキリストへの信仰である。即ち、キリストを信頼することによって、義とされる。信仰のためではない。我々の信仰は根拠ではない。義とされることの根拠は、あくまでも神の義、キリストの義である。しかし、手段はキリストへの信仰である。

しかし、この信仰でさえ神からの贈り物である。この信仰は、丁度、乞食が手を上げてパンを受け取るようなものだ。これこそ、当時人々から嫌われていたある取税人がしたことだ。彼は叫んだ、「主よ、罪人である私を憐れんでください!」。主イエスは言われた、「あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」 (ルカ18:14)。言語ギリシャ語の文では、デキタイオメノス(デカイオオの完全受動分詞形)が使われ、この取税人は永遠に義とされた、を意味する。

信仰は、私たちが神を信頼し神に従うことである。これは神の賜物である。だから、信仰を誇りに思うことはできない。エペソ2:8は言っている、「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」。1テモテ1:14でパウロは自らを最も悪い罪人であるとしたうえで、「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた」と言っている(ピリピ1:29を参照)。選びの民は、イエス・キリストを信じて義とされ、豊かな信仰と愛を与えられる。

我々の罪の贖いを成し遂げられたキリスト、そのキリストへの信仰は、我々の救いと同時に義とされることの手段である。以下の聖書お箇所を学べ。これらはすべて、救いの手段として信仰について語っている:

  • ローマ3:22:「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差異はない」。
  • ローマ3:25–28:「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」。
  • ローマ3:30–31:「まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」。
  • ローマ4:5:「しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである」。神はすべての選びの民に信仰を与えられる。その信仰によって、我々は、実際にイエス・キリストを、罪からの救い主、王の王、主の主として信頼する。そして、信仰の従順によって生きる。このことをローマ1:5でパウロが教えている:「わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務とを受けた」。

我々に与えられるこのような罪からの救いの根拠は、イエス・キリストが従順を全うされた、ということに尽きる。ガラテヤ4:4-5は言っている、「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった」。イエス・キリストは完全な従順を示された。我々の従順は不完全である。だからこと、毎日、私たちは罪を赦されるよう神に求めなければならない。これは、神に従わないという意味ではない。従順は我々が義とされることの根拠ではない。それはキリストの完全な従順だけである。主イエスは父なる神に祈って言われた、「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました」(ヨハネ17:4)。

神は信仰によって不信心な者を義とされる。その場合、すべての自己を誇る心は除外される。そして、神が我々を義とされるならば、誰も我々を非難することはできない。パウロは書いている、「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」(ローマ8:1)。パウロはまた言っている、「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」(ローマ8:33–34)。

義とするこの信仰は、悪魔の信仰ではなく、ローマ1:5に説明されている生きた信仰である。これについては、ヤコブが言っている、「あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている」(ヤコブ2:19)。しかし悪魔は決して主イエスに従わない!

結論

  1. 我々は神の恵みのみによって義とされる(ローマ4:16)。
  2. 我々が義とされるのは、神の義によっている(ピリピ3:9; ローマ1:17)。
  3. 我々が義とされるのは主イエス・キリストによる(使徒13:39)。
  4. 我々はキリストの服従によって義とされる(ローマ5:18)。
  5. 我々は、キリストの義の無償の賜物によって義とされる(ローマ5:17)。
  6. 主イエス・キリストへの信仰によって救われる。
  7. 主イエスは全世界で唯一の救い主である(マタイ28:18–20)。
  8. 主なる神が我々を義としたら、我々は永遠に安全である。
  9. 義とされた者は、従順を伴わない信仰ではなく、信仰の従順によって生きる(ローマ1:5)。

最終的な結論は何か? 既に学んだように、我々は神の栄光の恵みを永遠にほめたたえるために義とされるのである:

  • エペソ1:6:「これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである」。
  • イザヤ45:24–25:「人はわたしについて言う、『正義と力とは主にのみある』と。人々は主のもとに来、主にむかって怒る者は皆恥を受ける。しかしイスラエルの子孫は皆主によって勝ち誇ることができる(栄光を受ける)」。
  • イザヤ61:10:「わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである」。
  • ローマ8:33:「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである」

神を賛美せよ! 使徒16:30–31では、看守とその家族が主イエスを信じ、救われたその夜に洗礼を受けたと記録されている。

朗報は:イエス・キリストを信じてバプテスマを受け救われたいと願うなら、あなたの罪は赦され、永遠に義とされる。もしそうなら、長老たちに連絡し、話してみよ。このメッセージを聞いたすべての人が救われ、義とされることを祈る。

[1] J. I. Packer, “Justification,” The New Bible Dictionary, edited by J.D. Douglas et al. (Grand Rapids: Eerdmans, 1962), 683.

[2] William Hendriksen, Exposition of Ephesians, New Testament Commentary series (Grand Rapids: Baker, 1996, combined volume), 74–78.

[3] ジョン・マレー師はこの言葉を著書の中で義の説明に用いている:Redemption Accomplished and Applied (Grand Rapids: Eerdmans, 1955), 123.

[4] James Montgomery Boice, Foundations of the Christian Faith, rev. ed. (Downers Grove, IL: InterVarsity, 1986), 323.

[5] Murray, Redemption Accomplished and Applied, 121.