主なる神が笑われる時、気をつけよ
Joshua 10-12P. G. Mathew | Sunday, March 13, 2005
Copyright © 2005, P. G. Mathew
Language [English]
「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。」(ローマ11:22)
神の裁きの教理
ヨシュア10-12は、イスラエルがカナンを征服した記録である。これらの章が新約聖書を信じる者として、私たちにどんな関係があるのか、と思うかもしれない。しかし、ローマ15:4は言っている、「これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐となぐさめによって、望みをいだかせるためである。1コリント10:11は、旧約聖書についてこう言っている、「これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」。2テモテ3:16は言う、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」。だから、旧約聖書の全ては私たちに大いに関係がある。
ヨシュア記10~12章が記していることは、現代の殆どの説教者や教師は放棄した教え、それは神の裁きについての教えである。これはウェストミンスター信仰告白33章「終わりの時の裁き」で教えられていることでもある:
第1部: 神は、イエス・イエスキリストにより、義をもってこの世界をさばく日を定められた。すべての権能とさばきとは、御父から彼に与えられている。その日には、背教したみ使いたちがさばかれるだけではなく、かつて地上に生きたことのあるすべての人も、彼らの思いと言葉と行いとのために申し開きをし、また善であれ、悪であれ彼らがからだで行ったことに応じて報いを受けるために、キリストの法廷に立つ。
第2部: 神がこの日を定められた目的は、選民の永遠の救いにおいて神のあわれみの栄光が表わされ、邪悪で不従順な捨てられた者の永遠の刑罰において神の正義の栄光が表わされるためである。というのは、その時に、義人は永遠の命にはいり、主のみ前からくる満ち足りた喜びと慰めを受けるが、神を知らずイエス・キリストの福音に服さない悪人は、永遠の苦悩に投げこまれ、主のみ前とみ力の栄光とからの永遠の破滅をもって罰せられるからである。
第3部: キリストは、すべての者に罪を犯すことを思いとどまらせるためにも、逆境にある信者の大いなる慰めのためにも、わたしたちに審判の日のあることを確実に信じさせることを欲すると同時に、その日を人に知らせずにおかれる。それは、彼らはいつ主がこられるかを知らないから、一切の肉的な安心を振り捨て、常に目をさまし、いつも備えして、「来てください、主イエスよ。すみやかに来てください」と言うためである。
裁く神という考えは、多くのクリスチャンにとって異質だ。彼らは神を、決して裁かない親切な祖父のように誤解している。彼らは、罪を悔い改めもせずに、単に「イエスを受け入れる」だけでクリスチャンになる、と間違って信じている。
これは、歴史的なキリストの教えが、その神学内容において変質していることを示している。かつて説教者たちは、人が救われるためには罪を悔い改めなければならないと教えていた。主イエスは、私たちを罪から救うために来られ、彼のように清くするために、十字架で死なれたという宣言を聞いたはずである。しかし、その教えは、今は変わり果て、神は裁かれる方ではない、と私たちに罪を犯すことを許す間違った認識を植え付ける。
ヨシュア10-12章はそのような誤った教えに反論している。正統な教えは常に宣言する、イエス・キリストは主権者であり、救い主であられる。この2つは密接に関連している。
なぜ人々は罪を犯すのか?それは、神を恐れていないからである。今日の教会では、人々は神を恐れていない。したがって、彼らは罪を犯し続ける。出エジプト記20章は、神を恐れて人々が罪を犯さないようにするため、神がシナイ山でイスラエルの民を厳しく扱われた(出エジプト記20:20)。私たちの神学は聖書でなければならない。神の優しさと厳しさの適切なバランスを正しく認識すべきである。
神の慈愛と厳しさ
ローマ11:22は言う、「神の慈愛と厳しさとを見よ。神の厳しさは倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう」。パウロは不信者ではなく教会に話しているということである。これは私たちへの慰めでもあり警告でもある。たしかに神は私たちを救うことによって、優しさと憐れみを示されるが、私たちはその救いを無駄にしないよう注意すべきである。
私たちの神は道徳的な神である。神は光であって、暗闇はまったくない。道徳の神は、歴史の中で、また歴史を超えて罪を罰される。創世記7章で説明されている洪水は8人を除くすべての人々を一掃した。それは、神の優しさと厳しさの両方の確かな例である。
神はカナン人の邪悪さを400年間忍耐して見過ごしておられたが、聖書は言っている、「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか」(ローマ2:4)。彼らの悔い改めない心は、怒りの日における神の怒りを増し加えた。彼らの不義が満ちたとき、神はヨシュアに対して、神の怒りを和らげるようにと命じられた。
申命記7章と20章で、神はモーセとヨシュアにカナン人に憐れみを示すのではなく、男性、女性、子供たち全員を滅ぼすように命じられた。神がどのような方であるか、罪が何であるか、そして人間がどのような者であるかという点で、人間は世俗的な漠然としたイメージを抱いている。なので、神がそのような破壊を行われることを好まないのである。私たちは、宇宙の主であるイエス・キリストを、常に私たちを許し受け入れてくれる単なる愛の人などというように、過小評価してしまった。しかし、神ご自身がヨシュアにすべてのカナン人を滅ぼすように命じられたのである。これは、400年の忍耐の後の神の裁きの厳しさである。
それでも、神はすべての人を、一度死んで後に、裁きが下されるように定められた(ヘブル9:27)。しかし、今日は恵みの日、救いの日である。神は、私たちが悔い改めてイエス・キリストに立ち返ることを望んでおられる。そうすれば、私たちは来るべき神の怒りから救われるであろう。ローマ1:18は言っている、「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される」。
詩篇2篇は、神が邪悪な者たちに怒りを注ぐ前に、邪悪な者たちを笑われる、と語っている、「なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさはともに、はかり、主とその油そそがれた者とに逆らって言う、「われらは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう」と。天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう」(1-3節)。これらの人々は、神の律法が、人を不自由にする鎖のように思って居る。したがって、神と神の律法から解放されることを望んでいるのだ。しかし、4節はいっている、「天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう」。10-12節は言っている、「恐れをもって主に仕え、おののきをもってその足に口づけせよ。さもないと主は怒って、あなたがたを道で滅ぼされるであろう、その憤りがすみやかに燃えるからである。すべて主に寄り頼む者はさいわいである」。神が笑われるとき、気をつけよ!
彼らは真理を聞いた
カナン人は、ヨシュア率いるイスラエルの民がカナンを通ってどのように進んでいたかを聞いた。ヨシュア10:1は、南軍の指導者であるアドニ・ツェデクについて次のように述べている、「エルサレムの王アドニゼデクは、ヨシュアがアイを攻め取って、それを全く滅ぼしたことを聞いて恐れた」。北部同盟のリーダー、ハゾルの王ヤビンは、これを聞いて恐れた、とヨシュア11:1に書いてある。
これらのカナン人の王たちは、神の国の力強い侵攻について聞いた。彼らは、ヨシュア率いる全スラエルがどのようにしてエリコとアイを完全に破壊し、今や他の都市を征服しようとしている状況について聞き、ギブオン人がどのように降伏したかを聞いた。北と南の連合軍はこれらすべてを聞いても降伏を拒否した。
エルサレム国王アドニ・ツェデク率いる南部の王たちはギブオン人を攻撃することを決め、北部の王たちはハツォルの王ヤビンの指揮のもと、イスラエルに立ち向かった。彼らは降伏せず、頑固に和平を拒否した。彼らは、ギブオン人のように、ヨシュアの配下になることを拒否した。「私たちを憐れんでください! 私たちは罪人です」ということを拒んだのである。悔い改めていたら、神も彼らを救われただろうと私は考える。
この状況は、今日私たちが置かれている立場とおなじである。福音が伝えられ、神の国が近づいていることが告げられるが、大多数はこれに対して心をかたくなにする。
しかし、すべての人が神の平和を拒否するわけではない。ラハブは福音を聞いて悔い改め、家族全員が救われた。ギブオン人が降伏したとき、ヨシュア彼らを彼等の命を救った。ヨシュア9:24節のギブオン人の言葉を見よ、「彼らはヨシュアに答えて言った、「あなたの神、主がそのしもべモーセに、この地をことごとくあなたがたに与え、この地に住む民をことごとくあなたがたの前から滅ぼし去るようにと、お命じになったことを、しもべどもは明らかに伝え聞きましたので、あなたがたのゆえに、命が危いと、われわれは非常に恐れて、このことをしたのです」。
彼らは心をかたくなにした
しかし、南部と北部の連合は神の国の侵攻ついて聞いたが、降伏しなかった、「ギベオンの住民ヒビびとのほかには、イスラエルの人々と和を講じた町は一つもなかった。町々はみな戦争をして、攻め取ったものであった。彼らが心をかたくなにして、イスラエルに攻めよせたのは、もともと主がそうさせられたので、彼らがのろわれた者となり、あわれみを受けず、ことごとく滅ぼされるためであった。主がモーセに命じられたとおりである」(ヨシュア11:19-20).
これは冷静に考えるべきことである。人が心をかたくなにするなら、神は、その人が滅びにいたるまでかたくなになるに任せらえる。それが神の厳しさである。ファラオは、主なる神に対して心をかたくなにして滅ぼされた。心をかたくなにした者はみな滅んだ。だから私たちは自分の心を調べなければならない。福音を聞いて私たちの心は柔らかくなっているか、それとも固くなっているか?
主なる神に対してかたくななこれらの王たちは、たとえ周りが滅ぼされているという荒廃の知らせを聞いても、依然、主なる神と戦うことを決意していた。北連合の首謀者はハツォルの王ヤビンであり、その名は「輝かしい者」を意味した。アドニ・ツェデクが南のグループを率いた。しかし、聖書は言っている、「知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか」(1コリント1:20)。神は賢者の知恵を滅ぼされる。彼らにとって、十字架のメッセージは愚かである。アドニ・ツェデクとヤビンはヨシュアとイスラエルに反対することを決心した。天の座におられる全能の神は彼らを笑われた。
これらの王は勝ったか?もちろん敗北した。ヨシュアとイスラエルが勝ったのである。万軍の主が勝たれた。私たちは、ここからカナンの地の傲慢な者達が完全に根絶されるという、恐ろしい記録をここに知るのである。御聖霊が私たちにこの偉大な神への恐れを与えてくださるように祈る。そうすれば、神が語られるときに、私たちはサムエルのように、「主よ、聞いております」と言う。聖書は、主なる神が私たちに「新しい霊を授け、石の心を取り去って、肉の心を与える」ことができる、と教える(エゼキエル11:19)。
彼等は木に架けられて殺された
「その時、主はヨシュアに言われた、『彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手にわたしたからである。彼らのうちには、あなたに当ることのできるものは、ひとりもないであろう』」(ヨシュア10:8)。神は誰をも恐れられない。神は主だからだ。主なる神から独立したいと思って居る者に対して神は敵対される。神のいましめは、実際は私たちの自由のために与えられているのであるが、それを神からくる束縛と見なすすべての傲慢な人々に神は敵対される。
ヨシュア11:6で、主はヨシュアに言われた、「彼らのゆえに恐れてはならない。あすの今ごろ、わたしは彼らを皆イスラエルに渡して、ことごとく殺させるであろう。あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼かなければならない」。私たちは、神に対する認識を変えなければならない。
ヨシュア10:11は、神に勝つことができると考えていたこの連合に何が起こったのかを示している、「彼らがイスラエルの前から逃げ走って、ベテホロンの下り坂をおりていた時、主は天から彼らの上に大石を降らし、アゼカにいたるまでもそうされたので、多くの人々が死んだ。イスラエルの人々がつるぎをもって殺したものよりも、雹に打たれて死んだもののほうが多かった」。ああ、これが神の厳しさだ! このことを肝に銘じておけ。父が子に生き方を教えるが、その子が父を嘲り、軽蔑し、従わなかったらどうなるか。その子は、単に父を嘲っているのではなく、生ける神を嘲っているのである。彼には、必ず神の厳しさがやってくる。
主が雹を降らせ、5人の傲慢な王は命拾いをした。彼らは、神から身を隠すことができると考え、マケダの洞窟に身を隠した。繰り返すが、私たちは彼らが、神について誤った認識をもっていたと知る。主なる神はすべてを知っておられ、神の目には全てが明らかである。詩編作者は正しく述べている、「わたしはどこへ行って、あなたの御霊を離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか」(詩篇139:7)。私たちが神から身を隠すことができる場所はこの世界のどこにもない。
ヨシュアは王たちを見つけ出して、地にひれ伏させた。それからヨシュアは指導者たちに命じて言った、「近寄って、この王たちのくびに足をかけなさい」。そこで近寄って、その王たちのくびに足をかけた」(ヨシュア10:24)。これらの王に対するこの公の屈辱は、神の民の士気を高めた。それだけではない。ヨシュアを打ち負かすことができると思っていた彼等5人は、最終的にヨシュアの手によって滅ぼされたのである。このように、より大いなるヨシュアである主イエス・キリストは、彼の王国の侵攻に敵対するすべての人に対処されるのである。
ヨシュアは聖書に従うことを求められていた。したがって、彼は申命記21:22で、その指示に従った、「もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない」。彼ら5人は神に呪われた者達であった。このため、これらの王は殺され、木に吊された後、降ろされ、彼らが隠していた洞窟が彼らの墓になった。神のおきてを逃れることができる、と信じることはなんと愚かなことであろう。
ヨシュアのこれらの3つの章は、私たち自身の救いを、恐れとおののきをもって達成することがいかに重要であるかを教えている。私たちは、主イエスは罪を裁く方ではない、などという全く間違った見方をする時代に生きている。これらの章を読んだ後で、私たちは主イエス・キリストについて、そうではない見方をするようにと願う。主イエス・キリストは厳しく、且つ優しい方であるのだ。
ヨシュア10:28は言う、「その日ヨシュアはマケダを取り、つるぎをもって、それと、その王とを撃ち、その中のすべての人を、ことごとく滅ぼして、ひとりも残さず、エリコの王にしたように、マケダの王にもした」。これはまさに神が申命記7章と20章で、彼らに命じられたことである。ああ、神の厳しさを見よ!罪を悔い改めて主イエス・キリストを信じることを拒むなら、やがてあなたは神の厳しさに服することになるであろう。
ヨシュア10:29-30にあるように、「こうしてヨシュアはイスラエルのすべての人を率いて、マッケダからリブナに進み、リブナを攻めて戦った。主が、それと、その王をも、イスラエルの手に渡されたので、つるぎをもって、それと、その中のすべての人を撃ち滅ぼして、ひとりもその中に残さず、エリコの王にしたように、その王にもした」。
それからヨシュアは前進していった。10:32には、主がラキシをイスラエルの手に渡されたので、ふつか目にこれを取り、つるぎをもって、それと、その中のすべての人を撃ち滅ぼした。すべてリブナにしたとおりであった、と記録されている。そして、ヨシュアがこれらの場所をどのように破壊したかについても記録されている:ゲゼル(10:33);エグロン(10:35); ヘブロン(10:37); デビル(10:39);北部連合全体(11:12)。
ハゾルはどうか、カナンの最主要都市である。「その時、ヨシュアはひきかえして、ハゾルを取り、つるぎをもって、その王を撃った。ハゾルは昔、これらすべての国々の盟主であったからである。彼らはつるぎをもって、その中のすべての人を撃ち、ことごとくそれを滅ぼし、息のあるものは、ひとりも残さなかった。そして火をもってハゾルを焼いた。(ヨシュア11:10-11)。イスラエルは、エリコとアイにしたようにハゾルを焼きはらった。
40年前に偵察隊が見た背の高い種族アナキムはどうか?「しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、『わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです』。そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、『わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません』」(民数記13:31-33)。偵察隊は、信仰の目で見たので、彼らを倒すことは不可能に思えた。しかし、ヨシュア記11章21-22節で、モーセは言った、「わたしと共におる民は徒歩の男子だけでも六十万です。ところがあなたは、『わたしは彼らに肉を与えて一か月のあいだ食べさせよう』と言われます。羊と牛の群れを彼らのためにほふって、彼らを飽きさせるというのですか。海のすべての魚を彼らのために集めて、彼らを飽きさせるというのですか」。
これらの種族を征服したのはヨシュアやイスラエルではない、万軍主ご自身が、主に反対するすべての者に敵対されたのである。
主ご自身によって木に架けられた
主自身がこれらの王を絞首刑にされたということである。これらの章は、ヨシュアとイスラエルが大暴れし、カナン人に対して大量虐殺を行ったという報告ではない。カナンの種族が400年間もの間罪の中に生き続けた後、彼らに対する主なる神の忍耐が尽きたとき、主ご自身が彼等を滅ぼされたのである(PGM)。主なる神は、その権威を持たれ、それにふさわしい判断をされたのである。再考すべきは、イエスが主であるという聖書の教えを、私たちは十分に理解しているか、ということである。主イエスは主であり、救い主である。主とは主権を意味する。主は、天でもと地でも、自らの好むことを権威を持って行われる。
アテネの知識人に、パウロは使徒言行録17:30-31で言った、「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしておられた」。神は彼等の偶像礼拝を見過ごしておられたのである。しかし「今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる」と言っている。唯一の主、神であり人である主が全地の主である。彼は、人に物乞いをしたりへつらったりしない。彼は世界中のすべての人々に悔い改めるように命じておられる、「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。
キリストの復活は、神が死からよみがえられた方によって私たちに審判を下されることの証拠である。イエス・キリストだけが審判者であり、彼は、あまねくすべての人々を裁かれるのだ。ローマ人への手紙第2章16節でパウロはこう言っている、「これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう」。主イエスが再臨されるとき、悪しき者に宣告されるのである。
この邪悪な者たちの中には、悔い改めや信仰のない偽りのクリスチャンが含まれる。彼等は偽りの教えをまき散らす愚かな説教者の嘘を信じた人々である。罪を続けていても赦される、という偽りの教えである。
聖書全体は、主なる神を強力な戦士と表現している。主は戦う主であり、その名自体が主である、と出エジプト15:3は宣言している。出エジプト記14章は、エジプトの大群と戦い、彼らを打ち負かしたのは主であると明確に述べている。申命記20:4も言っている、「あなたがたの神、主が共に行かれ、あなたがたのために敵と戦って、あなたがたを救われるからである」。ヨシュア5:13-15で、ヨシュアは、主の軍隊の長と遭遇し、その神の人は、手に抜き身の剣を持った男性である、と言っている。この男性は、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である」と命じた。すべての不信者と戦うために来られるのは主ご自身である。そして、主は必ず勝たれる。
主ご自身が裁きを行われる
ヨシュア10章はイスラエルの敵がどうなったかを記録している、「主は彼らを、イスラエルの前に、恐れあわてさせられた」(10節)、「主がアモリびとをイスラエルの人々にわたされた」(12節)、「主が彼らをあなたがたの手に渡されたからである」(19節)、「主がラキシをイスラエルの手に渡された」(32節)、「イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたので、ヨシュアはこれらすべての王たちと、その地をいちどきに取った」(42節)。そして、ヨシュア11:6にあるように、「その時、主はヨシュアに言われた、『彼らのゆえに恐れてはならない。あすの今ごろ、わたしは彼らを皆イスラエルに渡して、ことごとく殺させるであろう。あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼かなければならない』」。このような出来事は今日人気がないだろうと思われるが、主なる神のみが主権者であって、主がそれを義をもって行われるのである。それは、主ご自身の栄光のために行われる。即ち、裁きと救い両方において、主は自らの栄光を表されるのである。
ヨシュア11:8-9は記録している、「主は彼らをイスラエルの手に渡されたので、これを撃ち破り、大シドンおよびミスレポテ・マイムまで、これを追撃し、東の方では、ミヅパの谷まで彼らを追い、ついにひとりも残さず撃ちとった。ヨシュアは主が命じられたとおりに彼らに行い、彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼いた」。
主ご自身がこれを行われた。無限であり、個人的に関わられ、自ら存在され、何ら不足のない、全知・全能の契約の神が行われた。主を嘲笑し、自らにより頼む横暴な者達を混乱に陥れたのは主である。主ご自身が、警告を聞いても心をかたくなな者達を滅ぼされた。ヨシュアは、神から権威を委任されてこれを行っただけである。彼に逆らった人々は主に逆らったのだ。しかし、神に逆らうすべての人は、この世においても、死後も神の厳しさを経験する。
主は確かに偉大な戦士であられる。私たちはすべての間違った神学を心から取り除き、聖書の現実に戻る必要がある。私たちは主の厳しさと優しさの両方を理解しなければならない。
最後の審判
主は決して変わらない。永遠不変の主は、旧約聖書と新約聖書の主であられる。ヨハネの黙示録は、主イエスが誰であるかをはっきりと示している。
「またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、『忠実で真実な者』と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。彼は血染めの衣をまとい、その名は『神の言』と呼ばれた。そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。その着物にも、そのももにも、『王の王、主の主』という名がしるされていた」(黙示録19:11-16)。
私たちは、主イエスを敵と戦う方とは決して考えないかもしれないが、ここでは、彼が王の王であり、主の主であると言っている。彼は鉄の笏を持った支配者であり、神の怒りの罰を与える方でもあるのだ。
主を震え上がって恐れよ、畏れよ。罪を捨てよ。主を畏れて、主に従え。今日、教会に行くのを楽しくすごすだけのものと考えている人々が大勢いる。そのような教会が多い。そのような教会は、人々に楽しみを売り込む。罪が楽しみを与えるということを、そのような教会は心得ているのだ。そのような教会は、決して人がどのように生きるべきかについては何も言わない。そのような教会は、「あなたは、悪を捨てることができなくても、自分の罪から自由になれなくても、キリストの子として愛されている」と教える。そのような教会は聖書が、主なる神が命じていることは何も行わず、ただ見ているだけである。実際、彼らの教会でなされているメッセージを見てみよ。それは、神の真の言葉の説教ではあり得ない。
17-18節は続けている、「また見ていると、ひとりの御使が太陽の中に立っていた。彼は、中空を飛んでいるすべての鳥にむかって、大声で叫んだ、『さあ、神の大宴会に集まってこい。そして、王たちの肉、将軍の肉、勇者の肉、馬の肉、馬に乗っている者の肉、また、すべての自由人と奴隷との肉、小さき者と大いなる者との肉をくらえ』」。これは、ヨシュア記10-12章に語られていることで、私たちの主による最後の勝利を示している。
すべての裁きはイエス・キリストに委ねられている。彼は私たちがしたこと、言ったこと、考えたことのすべてを知っておられる。秘密にできることはないもない。黙示録20章は次のように語っている。
「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はその仕業に応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのその仕業に応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(11-15節)。
神の厳しさを見よ! 神は愛だけだと考えるのは愚かなことである。神は、私たちが罪を犯し続けるに任せておられるが、それは今はだれも投げ込まれていない火の湖であるが、そこがいっぱいになる時までのことである。そこには、悪魔と彼に属する者が投げ込まれる。主ではなく悪に仕えた者全てがそこに入ることになる。
主ご自身が木に架けられた
カナン人の王たちは救いのことばを聞いたが、心をかたくなにして、主ご自身によって滅ぼされた。これで終わりではなく、もう一人、処刑された方がいる。それは神の子、主イエス・キリストである。なぜ、誰も殺したこともなく、悪を行ったこともなく、究極の義なる方御自身が殺され、木に架けられたのか?その死の意味は何か?
イエス・キリストは、十字架の死に至るまで従われ、苦しみを通られ、僕の姿をとって来られたのである。5人の邪悪な王が、次々に滅ぼされていった様子を考えてみよ。彼等は、首に足を置かれ、屈辱の中に殺され、夕方まで5本の木に吊るされた。
イエス・キリストが私たちの代わりにそのような死を経験された。神の永遠の御子が、私たちの罪のために死ぬために与えられたのである。罪のない主が、十字架の呪われた死で死なれた。本来は、私たちが、そのような呪いを受けるべきであった。申命記27:26は言う、「この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる。民はみなアーメンと言わなければならない」。神の律法を完全に満たさない者は誰でも呪われているのである。この神の言葉は、主イエス・キリストを除くすべての人を罪に定める。私たちは、根本的に無法者であり、十字架の呪われた死を死ぬに値すべきなのである。
では、なぜ罪のない主イエス・キリストが、十字架で呪われた者の死に苦しまれたのだろうか。聖書のいくつかの場所でその意味が教えられているが、特にに、ガラテヤ人への手紙第3章では、「この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる」とあり(10節)、これはパウロが申命記27:26を引用しているところである。そして、「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった」(13節)とあるのだ。
従って、その意味は非常に明確である。イエス・キリストは私たちの救いのために十字架で死に、永遠の裁きと火の池から私たちを救われたのである。罪の全くない人が、私たちを神の前で義とするために、罪になられた。神の選びの民のために、キリストが死を滅ぼされたのである。キリストは、選びの民である教会を愛し、自らを捧げられた。彼の死によって、敵を永遠に打ち負かされたのである
もしあなたが心をかたく閉ざし、福音を拒否して罪を悔い改めることを拒んだとしたらどうなるのだろうか。そうすれば、イエス・キリストの足元にあなたは倒れることになる。やがて彼はその厳しさ表され、あなたは決して彼に勝つことはできない。コロサイ2:15は私たちに告げている、「そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである」と。キリストの十字架の死は勝利である。これにより、キリストは死とすべての敵を滅ぼされた。キリストはよみがえり、勝者であり、キリストは主であられる。彼は救い主であり、決して忘れてはならない、彼は審判者でもある。すべてが彼の足の下に置かれる。
福音を聞け、「悔い改めよ。神の国が近づいた」これは、力を帯びて来ているのである。その王は救い、また裁くために来られた。彼に来る者の心を開くようにされるが、逆に、耳を傾けない人々の心をかたくなにされるのである。 カナン人がヨシュアの勝利を聞いたように、私たちはイエスの勝利について知る。これを告げよ。罪の悔い改めを語れ。悔い改めなくして救いはあり得ないからだ。イエスご自身がルカ13:3で言っておられるように宣言せよ、「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」と。そして、そして、ラハブやギブオン人のように、「主の名を呼び求める者はみな救われる」と宣言せよ。
我々の責務
では我々の責務はなにか?
まず、私たち自身が悔い改め、主イエス・キリストを信じ、救われるべきである。でなければ、今そうすることを勧める。このキリストを今すぐ恐れよ。彼の前に伏せ、彼に降伏せよ。彼の怒りが高まる前に、御子イエスキリストに忠誠をせよ。彼の怒りはいつ燃え上がるかわからないのだ。明日生きているという保証はあるか?必要なことは、1つである。そしてそれが急務である。もし、クリスチャンであって、しかも罪を犯しているなら、今すぐ悔い改めて神に立ち返れ。
次に、私たちは福音をのべ伝えなければならない。 ヨシュアは、神にひれ伏さない者を滅ぼすように命じられたが、私たちは、福音をのべ伝え、人々が救いに導かれるように命じられている。私たちは人々に言うべきである、「今が受け入れていただく時で、今が救いの日です。主イエス・キリストにひれ伏す時は既に来ています。神の怒りから身を守るように勧めます。もし、あなたが主権者である主イエスに対して心を固くするなら、主イエスはあなたを裁かれるでしょう」と。神は、あらゆる所のすべての人々に、悔い改めて主イエスのところに来るように命じておられる。私たちが福音を伝えるとき、神は人々に悔い改めを命じられる。私たちは誰も滅ぼすことはないが、宣言するその福音自体が、信じない人々にとって死の匂いになる。悔い改める 他の人、神の選びの民にとっては、それは永遠の命の香りである。
第三に、私たちは、自身に残る罪を殺さなければならない。私たちは罪を養うべきではない。私たちはそれを殺すのである!2テモテ2:19は言う、「神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。『主は自分の者たちを知る』。また『主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ』」。私たちには、自分の中に残存する悪を毎日悔い改め、天の国にふさわしい聖い生活を送る責任がある。聖霊の力によってこれを行うべきである。
ガラテヤ5:17は、罪がまだ私たちの中に宿っていることを私たちに思い出させます。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。私たちの中には戦いが起こっている。私たちは戦うべきである。ローマ人8:13節は言う、「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう」。私たちは、死ぬ日まで罪と戦わなければならない。だから、クリスチャンが罪を犯し続けていても、救われることができるという現代の見方は誤りである。主なる神は、「あなたがたは聖なる者でありなさい。わたしは聖なる者だからです」と命じておられる。これ以外は悪魔の教えである。
最後に、キリストが再び来られるとき、私たちに何が待っているかを考えよ。これこそ恐れおののくべきことである。
「すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。その日に、イエスは下ってこられ、聖徒たちの中であがめられ、すべて信じる者たちの間で驚嘆されるであろう――わたしたちのこのあかしは、あなたがたによって信じられているのである」(2テサロニケ1:6-10)。
神の優しさと厳しさを考えよ。反逆する人々には厳しさがもたらされる。しかし、私たちが神に留まるならば、神のやさしさに留まることになる。アーメン。
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