私たちの神に見捨てられた救い主

Mark 15:33-41
Gregory Perry | Friday, April 02, 2021
Copyright © 2021, Gregory Perry
Language [English]

今夜の受難日のメッセージの題は「私たちの神に見捨てられた救い主」である。ご存じのように、この一年ほど私たちはマルコによる福音書を学んできた。そして今夜の受難日礼拝では、マルコ15:33–41を見ている。この箇所は、十字架におけるキリストの死を私たちに語っている。そして日曜日の朝には、スペンサー博士が復活についてのマルコの箇所を見る予定である。

私たちがキリストの十字架刑に来るとき、私たちは、永遠の神の御子がこの地上に来て人性を取られたまさにその理由に来ているのである。彼は死ぬために生まれたのである。彼は十字架につけられるために来られたのである。これこそ福音のまさに中心である。すなわち、キリストは私たちの罪のために死なれたのである。十字架において、キリストは私たちが受けるべきであった刑罰を受けておられた。彼が私たちが負っていた死を死なれたというだけではない。それは真実である。しかし十字架において、私たちのために意図されていた神の御怒りが、私たちの身代りの犠牲として彼の上に注がれたのである。そこで、この箇所から、死にゆく私たちの救い主の十字架について何を学ぶことができるかを、さらに詳しく見てみよう。私たちは次の三つの点を見る。第一に、見捨てられたキリスト。第二に、死なれたキリスト。第三に、明らかにされたキリストである。

見捨てられたキリスト

33節と34節に、次のように書かれている。「さて、昼の十二時になると、全地が暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イエスは大声で叫ばれた、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』。これは、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」

十字架において、キリストに何が起こっていたのか。それは、彼がただ死んだということではない。十字架におけるこの三時間の間に、彼は私たちに代わって神の御怒りを受けておられたのである。そこで、真昼のさなか、正午から午後三時まで、暗やみが地をおおった。この宇宙的な現象は、より深い意味を示していた。

三時間のあいだ十字架の上で、神の御子は神の御怒りの注ぎを受けて苦しんでおられたのである。この三時間の暗やみは、長子の死の災いの前にエジプトに下った暗やみの災いを思い起こさせる。同じように、ここでも、神のひとり子の死の前に暗やみが地に下ったのである。

この三時間の暗やみの終わりに、主は叫ばれた、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。これはただの偶然の問いではなかった。イエスは詩篇22篇の第一節を引用しておられた。この詩篇は、来たるべきキリストの苦しみを預言していた詩篇である。

イエスはこの重要なメシヤ的詩篇を指し示しているだけでなく、その問いそのものが、その瞬間に十字架の上でキリストに実際に起こっている現実を反映している。偉大な宗教改革者ヨハネ・カルヴァンはこれを次のように述べている。「イエスは、この大いなる暗黒の恐怖、この神に見捨てられている状態を、それを実際に描写しており、しかも彼が完全に成就された唯一の聖書の節を引用することによって表された。」

イザヤ59:2が明らかにしているように、私たちの罪は必然的に聖なる神から私たちを引き離す。罪人である私たちは、神の祝福された御臨在から疎外されている。究極的に、これこそ地獄の本質である。すなわち、永遠にわたって神の祝福された御臨在から完全に引き離されることである。罪なき私たちの救い主イエス・キリストが人性を取り、進んで私たちの罪を彼の勘定に移されたとき、彼は自分が父に見捨てられることを知っておられた。彼は、光であり、そのうちには少しの暗やみもない神から引き離されるという宇宙的な苦悩を経験しなければならなかったのである。

キリストは、私たちの罪の正しい刑罰を受けられた。それは、彼の死によってだけではなく、彼の霊が体を離れたときだけでもなく、十字架で苦しんでいるときにもである。キリストの苦しみの本質は、彼の手と足を貫いた釘の痛みではなかった。ピラトの前で裸にされ、打たれた恥でもなかった。普通の犯罪人たちとともに十字架に掛けられた屈辱でもなかった。いや、キリストの苦しみの中心的側面は、十字架において神の御怒りを経験されたことであった。永遠から神に愛されていた御子が、初めて父から断たれたのである。彼は初めて神から引き離されたのである。彼は神から疎外されたのである。常に父と一つであった方が、神に見捨てられた御子となられたのである。

これは、罪人である私たちが受けるべき刑罰であった。キリストは私たちのために神に見捨てられた。私たちの罪はキリストに帰せられた。すなわち、私たちの罪が彼の勘定に置かれたのである。彼は罪がなかったが、私たちの罪を自らの上に負われた。それゆえ彼は、私たちの罪のために私たちにふさわしい刑罰を受けられたのである。

さらに、キリストの義が私たちに帰せられた。それは私たちの勘定に置かれたのであり、それによって私たち、すなわち彼の選ばれた信者たちは、神と和解し、神との交わりに導き入れられるのである。これが二重帰属の栄光ある教理である。コリント第二5:21に書かれている二重の取引である。そこにはこう書かれている。「神は罪を知らないかたを、わたしたちのために罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」

キリストは私たちの罪を取り、それを自らに帰せられただけではなく、恵みによってご自身の義を私たちに与えてくださった。それによって私たちは今も永遠も神の前に義と認められて立つことができる。父と永遠の交わりと結合を持っておられた方が、私たちにそれを与え、私たちの罪が受けるべき疎外と御怒りをご自身の上に負われたのである。私たち罪人は本来、御怒りの対象であった。しかしキリストは進んで、私たちの代りに御怒りの対象となられたのである。

ペテロ第一3:18はESVと欽定訳では「キリストもまた苦しみを受けられた」と訳されている。NIVは「死んだ」と訳しているが、これらの訳はこう言っている。「キリストもまた罪のために一度苦しみを受けられた。正しいかたが正しくない者たちのために苦しみを受けられた。それは私たちを神に導くためであった。」私たちはキリストの死について多く考えるが、十字架におけるキリストの苦しみも非常に重要である。なぜならそのとき神の御怒りがキリストの上に注がれており、彼は神に見捨てられることの意味を経験しておられたからである。

キリストはただ死んだのではない。彼は苦しまれた。多くの人は苦しまずに死ぬ。しかし彼は死に、しかも苦しまれた。そして彼はただ痛みを受けただけではない。私たちは釘の痛みなどを考える。しかし彼はとりわけ神の御怒りを受けて苦しまれた。私たちの罪のゆえに、神は十字架において彼を見捨てられたのである。十字架におけるキリストの苦しみは、彼が十字架で成し遂げておられたことの重要な側面である。そこで今、キリストの死に目を向けよう。

死なれたキリスト

37節と38節に、次のように書かれている。「イエスは大声をあげて息をひきとられた。すると神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」歴史的事実は、キリストが死なれたということである。

今や、歴史の中で、すべての人は死ぬ。しかし、これは歴史の中で最も重要で重大な死である。そして答えるべき重要な問いは、なぜキリストは死んだのか、ということである。イエスは十字架の上である種の霊的死を経験したが―すなわち、彼が父の祝福された御臨在から引き離され、神に見捨てられたとき、それは一つの霊的死の形である―それでも最終的にイエス・キリストは、神の律法の正しい要求を満たすために、肉体的に死ななければならなかった。というのも、初めから神の律法は同じであったからである。罪の報酬は死である。善悪の知識の木から食べてはならないという律法を破る日に、必ず死ぬと、神はエデンの園の時から最初の人アダムに告げていたのである。彼は死ななければならないのである。

死とは究極的には分離によって定義される。肉体の死は、魂あるいは霊が身体から分離するときに起こる。それが死である。イエス・キリストは十字架の上で肉体的に死んだ。彼の霊は彼の身体から分離した。これは彼の大声の叫びにおいて特に明らかである。私たちはマルコにおいてその大声の叫びについて読み、ルカの記述はその大声の叫びが何であったかを告げている。ルカは、イエスが叫んで言ったと告げている、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます。」そしてこう言ったあとで、イエスは息を引き取った。彼の霊は彼の身体から分離したのである。

キリストの死は、彼の真の人性を指し示している。彼は人間の本性を取ったのである。確かに、イエスは神性を持っている。そして私たちはすぐにそれを見ることになる。彼は三位一体の第二の位格である。しかし彼は神であるだけではない。実際、もし彼がただ神であるだけなら、彼は死ぬことができなかったであろう。なぜなら、不死の神は定義上死ぬことができないからである。そして単純に言えば、もしイエスが死ぬことができなかったなら、彼は私たちの罪の代価を支払うことができなかったのである。イエスは完全に、真実に人である。

私たちは、イエスは死ぬために人である必要があったと言う。しかし、よく考えてみるなら、死は人間に特有のものではない。あらゆる種類の被造物が死を経験する。しかし、ヘブル10:4で告げられているように、雄牛や山羊の血が罪を取り除くことは不可能である。そして真理はこれである。人の罪のために代価を支払うためには、イエスは人でなければならなかったのであり、真の人でなければならなかったのである。

そしてキリストは真実に死んだ。彼はただ死んだように見えただけではない。懐疑論者やイスラム教徒はともに「気絶説」と呼ばれるものを語る。そこでは、キリストはただ死んだように見えただけで、墓の中で単に蘇生しただけだと想像するのである。この説にはさまざまな問題があるが、ここではそれらには立ち入らない。しかし私はこの説の神学的問題に焦点を当てたい。神学的問題とはこれである。もしキリストが真実に死ななかったなら、単純に言えば、私たちは真実には救われていないということである。キリストの死は私たちの罪のための必要な支払いであった。もし彼の支払いが現実でないなら、もし彼の死が偽物であるなら、身代金の代価は真実には支払われていない。それは偽金で支払っているようなものである。したがって私たちは贖われることができない。もし彼が私たちの罪のために支払わなかったなら、私たちはなお自分の罪のために支払わなければならない。そして私たちが自分の罪のために支払う唯一の方法は、地獄において永遠に神の怒りを受けて苦しむことである。それが私たちが永遠の死として知っているものである。

あざける者たちは、マルコ15:30で、イエスに向かってこう呼びかけた、「十字架からおりてきて、自分を救ってみよ!」。しかし、もしキリストがその悪魔的助言に従って自分を救ったなら、私たちの誰一人として救われることはできなかったであろう。私たちの罪の代価は支払われなかったのである。

イエス・キリストは罪がなかったので、死ぬに値しなかった。そして義なる神は、罪のない者を死なせることはない。しかし主イエス・キリストは私たちの罪を自分の上に負い、私たちの罪は彼の勘定に置かれた。したがってイエスは私たちの罪責を負い、私たちのために死んだのである。これこそ福音のまさに中心である。私たちはこれを1コリント15:3で読む。使徒パウロは言う、「最も大事なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと」。キリストは私たちの罪のために死んだのである。パウロはまたローマ5:8で言う、「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」見よ、キリストは私たちのために死んだのである。彼は私たちの代わりに死んだ。彼は私たちの場所で死んだ。彼は私たちの身代わりの犠牲であり、身代わりの贖罪であり、旧約の犠牲制度の究極的成就であった。私たちの罪はイエス・キリストの上に移されたのである。それはレビ16で読むように、祭司が自分の罪と民の罪を身代りの山羊の上に移したのと同じである。

キリストが私たちの罪のために死ぬか、さもなければ私たちが自分の罪のために死ぬか、そのどちらかである。第三の選択肢はない。罪に対する刑罰は、この二つの方法のいずれかで必ず執行されなければならない。完全に義なる神は、有罪の者を罰せずに放置することはしないし、実際それはできない。律法の義なる要求は必ず執行されなければならない。私たちはこれをローマ3:25–26で読む。そこでは神の義がキリストにおいて成就することが語られている。そこにはこう書かれている、「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは、神の義を示すためであった。すなわち、神は忍耐をもって、これまでに犯された罪を見のがしてこられたが、それは今の時に神の義を示すためである。こうして神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」

私たちの罪のための十字架におけるキリストの死は、神の愛と神の義の両方の究極的な証明であった。そしてキリストが死んだとき、神殿の幕は奇跡的に裂けた。それは罪ある人間が聖なる神に近づく道が今や開かれたことを象徴していた。私たちは今、以前にはできなかったことを行うことができる。私たちは今、確信をもって恵みの御座に近づくことができる。そうしてあわれみを受け、また時機を得た助けとなる恵みを見いだすことができるのである。

永遠に父と交わりを持っていたキリストは、神に見捨てられた。それは神から疎外されていた私たちが、今や彼との交わりへと導き入れられるためであり、今も、そして永遠に至るまでもそうである。主をほめたたえよ。これが第三の点へとつながる。それはキリストの証明である。

キリストの証明

39節で私たちはこう読む、「イエスに向かって立っていた百卒長は、その声を聞き、またそのようにして息を引き取られたのを見て、『ほんとうに、この人は神の子であった』と言った。」十字架刑の場所で警備の責任を負っていたローマの百卒長は、これらすべてを目撃した。この百卒長は、戦場でも十字架刑でも、その生涯において多くの死を見てきたに違いない。しかし彼は、キリストの死のようなものを一度も見たことがなかった。

百卒長は三時間の暗闇を目撃した。彼は十字架からのキリストの言葉を聞いた。彼はイエスをあざけるために来た者たちを見た。そして遠くから見守っていた少数の悲しむ女たちさえ見たのである。

百卒長はこれらすべてを見て、正しく結論した、「ほんとうに、この人は神の子であった!」。百卒長が自分の言っていることをどれほど理解していたのかは明らかではない。しかし私たちはこれを知っている。彼は完全に正しかった。このイエスは、父の唯一の永遠の子であり、聖なる三位一体の第二の位格であったし、今もそうである。この神の子としてのイエスの宣言は、ここマルコの福音書の終わり近くに現れる。それはこの福音書がどのように始まったかを反響している。マルコ1:1の最初の節はこう言う、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」

私たちは以前、イエスが真実に完全な人であることを見た。彼は死ぬために人でなければならなかった。そして人のための正しい身代わりの贖いの犠牲として人を代表するためであった。人のために人が死ななければならなかったのである。より正確に言えば、罪のない人、完全な人が、罪ある人々のために死ななければならなかったのである。

しかしイエスはまた神でなければならなかった。人が永遠で無限の神に対して罪を犯したとき、人は神に対して永遠で無限の負債を負ったのである。この無限の負債を支払うためには、その犠牲そのものが無限でなければならなかった。単なる一人の人間の死――たとえ仮に完全な人を想定したとしても――もし彼が単なる人であるなら、その死はこの無限の負債を覆うのに十分ではない。犠牲は人であり、かつ神でなければならなかった。そして完全に人であり、完全に神であるのはイエスだけである。

聖書の明確で一貫した証言は、イエスが神以外の何ものでもないということである。この点は聖書全体を通して明示的にも暗示的にも示されている。キリストの神性について私たちが読む明確な言明を考えてみよ。聖書はイエスが神であるとはっきり言っていないと言う人々に反して、ヨハネ1:1を読め。キリストについて語りながらこう言っている、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」あるいはローマ9:5を読め。これ以上明確なものはほとんどない。「また、父祖たちも彼らのものであり、キリストも肉によれば彼らから出たのである。キリストは万物の上にいます神であって、永遠にほむべきかな。」あるいは1ヨハネ5:20で私たちは読む、「さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、その御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実の神であり、永遠の命である。」あるいはコロサイ2:9で見る、「キリストにこそ、満ちみちている神の徳が、かたちをとって宿っているのである。」

しかしそれだけではない。聖書がイエスが神であることを暗示的に示す多くの方法がある。すなわち、聖書は彼が神であると語るだけでなく、彼が神であることを示すのである。

たとえば聖書は、神にのみ言うことができる神的属性をイエスに帰している。彼には神だけが持つことのできる属性、いわゆる非伝達的属性が与えられている。たとえば永遠性である。永遠であるのは神だけである。ヨハネ8:56–58で、イエスはこう言う、「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ようとして楽しんだ。そしてそれを見て喜んだのである。」彼らは答えた、「あなたはまだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか。」イエスは答えた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである。」イエスは自分を大いなる「わたしはある」として語った。彼は自分の永遠性について語っているのである。

また彼は全在について語る。マタイ28:20の大宣教命令でこう言う、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」あるいは、イエスが神と同じく不変であるという事実を考えよ。彼は変わらない。人は変わる。すべての人は変わる。しかしイエスは変わらない。ヘブル13:8は言う、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも変ることがない。」

さらに、神的働きがイエスに帰されている。彼は神だけができることを行う。聖書はイエスを創造者として語る。創造者は神だけである。しかしコロサイ1:16はこう言う、「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたのである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。」また聖書は、イエスが命を支える者であると語る。命を支えるのは神だけである。ヘブル1:3は言う、「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。」これは、神であるイエスが、その力ある言葉によって万物を保っていると言っているのである。実際、ヨハネ5:19で彼はこうまで言う、「父のなさることは、子も同様にするのである。」彼がそこで何を言っているかを考えてみよ。彼は、神がすることは何でも、わたし子もする、と言っているのである。単なる人が、神だけができることを自分もできると言うことはできない。しかしここでイエスは、父だけができることを自分も行うと宣言しているのである。

さらに、神にのみふさわしい神的称号がキリストに与えられている。もちろん彼は何度も「主」と呼ばれている。しかし単なる一般的な意味の「主」ではない。神の御名、すなわち主に直接対応する意味で語られる場合がある。たとえばマタイ3:3で、バプテスマのヨハネが主の道を備えると読むとき、彼はイザヤ40:3を適用しているのである。彼は、「わたしは主の道を備えるためにここにいる」と言っている。しかしイザヤ40:3では、それは主の道、すなわち神ご自身の道を備えることである。したがってヨハネは、自分が道を備えているこのイエスこそ主であり、神であると宣言しているのである。

聖書はまた、イエスを王の王、主の主として語る。私たちはこれを黙示録17:14で読む。彼は王の王、主の主である。申命記10:17で旧約聖書はこう言う、「あなたがたの神、主は、神の神、主の主、大いなる神、力ある恐るべき神である。」したがって、もしキリストを「主の主」と呼ぶなら、それは彼を神と呼んでいるのである。1コリント2:8ではこう読む、「この世の支配者たちは、だれひとりこの知恵を悟らなかった。もし悟っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。」パウロはイエス・キリストを「栄光の主」と呼んでいる。それは彼が神であると言っているのである。

さらに聖書全体を通して、神的な栄誉がイエス・キリストに与えられている。彼は礼拝されている。マタイ14:33で、彼が嵐を静めたあと、弟子たちについてこう読む、「すると舟の中にいた者たちはイエスを拝して、『ほんとうにあなたは神の子です』と言った。」彼らはイエスを礼拝したのである。

さて、世の中には、木を拝んだり、さまざまなものを拝んだり、自分自身を拝んだり、人を拝んだりする宗教がある。カイザルのような人も拝まれていた。しかしキリストの時代のユダヤ教においては、神だけを礼拝したのである。それにもかかわらず、これらの弟子たち、これらのユダヤ人の信者たちは、イエスを礼拝した。なぜなら彼らは、「あなたは神である」と言っていたからである。

今朝私たちが読んだように、「それゆえ、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがひざをかがめ、また、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するのである。」(ピリピ2:10–11)。イザヤ45:22–23では、神について、そして神だけについてこう言われている。彼の前にすべての膝がかがみ、すべての舌が告白する。そしてそれが今イエスに適用されているのである。

したがって、この十字架の百卒長は聖書学者ではなかった。彼はこれらの節を引用することはできなかったであろう。その多くはまだ書かれていなかったのである。そして彼は旧約聖書を知らなかったであろう。しかし彼自身の目で、この十字架につけられたイエスが神の子以外の何ものでもないことをはっきり見ることができたのである。

この聖金曜日に、私たちがイエス・キリストが十字架で私たちのために行ったことを覚えるとき、私たちもまた驚嘆し、「ほんとうにこの人は神の子であった」と言うべきである。神の父によって遣わされ、十字架の死によってその民を罪から救うという明確な目的のために来られた神の子である。三時間の間、彼は十字架の上で神に見捨てられた。それは私たちが永遠に神に見捨てられなくてよいようにするためであった。私たち罪人のために定められていた神の怒りの杯を彼は取り、それを完全に飲み干した。それゆえ今やキリスト・イエスにある者には罪に定められることはないのである。

キリストは私たちのために死んだ。これは厳粛な真理である。しかし私たちが祝うべき真理である。なぜなら日曜日に祝うことがあるからである。このイエスはただ死んだだけではない。彼は死に勝利し、よみがえって命を得たのである。キリストの死によって、私たちは今、彼にあって新しい命を与えられている。彼は私たちが生きるために死んだのである。私たちは2コリント5:15で読む、「そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために生きるためである。」

神の子キリスト、苦難のしもべは、私たちのために死んだ。それゆえ私たちは行って彼のために生きなければならない。彼は父の栄光によって死人の中からよみがえらされた。それは私たちが新しい命に生きるためである。私たちは神の作品である。私たちは彼の再創造である。神は私たちをキリスト・イエスにおいて創造した。だから神があらかじめ備えて下さった従順の良いわざを行うために行こう。すべては神の栄光と、私たちの究極的で永遠の益のためである。主をほめたたえよ。アーメン。