教会の戒規

Titus 3:9-11
P. G. Mathew | Sunday, July 12, 2015
Copyright © 2015, P. G. Mathew
Language [English]

テトス3:9–11で、パウロは教会の戒規について語っている。これには2つの側面がある。それは、教えることと罰することである。家庭、教会、社会それぞれの機関に対して神が設立された戒規がある。

両親、特に父親は、家庭の秩序維持を担当する。旧約聖書の祭司エリは、自分の家族の規律を治めることに失敗し(1サムエル記3:18)、サムエルも失敗した(1サムエル記8:3)。牧師は神の教会の規律に責任がある。だからパウロは、エペソ教会の長老に指導している、「どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧会させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」(使徒行伝20:28)。へブル人への手紙の著者も教えている、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、『神に』言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない」(へブル13:17)。社会も神が権威を与えた人によって治められている。

両親は家庭の秩序を維持するため、鞭打つ権限が与えられている。鞭打つ権限が行使されると、愚かさを戒め、神への畏れを来たらせる。これが即ち知恵である。社会には、その秩序維持のために警察権威が与えられているように、教会には鍵が与えられている。イエスは弟子に言われた、「よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ 18:18)。イエスはまた宣言された、「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ16:19)。イエスは言われた、「イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」(ヨハネ20:23)。

この鍵の権限は、我々を震え上がらせるものである。霊的に最強の機関は、家庭や社会ではなく、教会である。この鍵は最も強力な権限である。イエス・キリストが、ご自身の教会を建てておられるので、地球上の力が真の教会を破壊することはできない。キリストは聖なる教会の唯一の主人である。真の牧師や教師は、キリストと御聖霊によって任命されているので、真の信仰者は、そのような真の福音を説く牧師や教師の言うことに従うのである。

イエス・キリストは、個々の信じる者を教会に導き、そこで彼らを訓練されるのである。キリスト者は、父なる神の御心に従う。真のキリスト者は聖霊を与えており、聖霊に従い、神の御心を行う。個々のキリスト者は、真の福音の牧師の言うことに従い、教会の主であるキリストのすべての教えに従う。

目に見える教会には、真の信仰者と偽の信仰者がいるのである。目に見える教会は我々の目から見た教会で、目に見えない教会は、神の目から見た教会であり、真の信仰者で構成されている教会である。偽の信仰者は、神から生まれていない。これら偽りの信仰者は実を結ばない枝である、とイエスは言われた、「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである」(ヨハネ15:2,69)。これは永遠の裁き、即ち地獄について語っているのである、「しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。『主は自分の者たちを知る』。また『主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ』」(2テモテ2:19)。

やがて、偽の信仰者は、自分がユダやデマスのような悪魔の子であることを証明する。彼らの多くは、教会が戒規を行う時に、キリストと彼に属する清い人々によって、教会から追い出されるのである。それは、偽の信仰者が悪魔の破壊から救われるために、悪を悔い改めて残された生涯を歩む中でキリストに従うようになるためである

キリストの教会には自治というものはない、ということを覚えよ。神が治めておられるこの世界では、神から離れて自分で何かを行うというような自律性は存在しない。我々はキリストの権威の下にいるか、または悪魔に支配されているかのどちらかである。従って、神から離れて、自分で律するとは、悪魔に従うことに他ならない。

キリストの教会の秩序と規律に関して、パウロは次のことを実行するようテトスに指示している。

 

I.避けるべきこと

パウロは言っている、「しかし、愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを、避けなさい。それらは無益かつ空虚なことである」(9節)。牧師は唯一の権威ある神の言葉を説教すべきである。他の箇所でパウロは宣言している、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」(2テモテ3:16–17)。真の牧師はそれ以外のことを説教すべきではない。人間の意見というものは全て嘘である。我々は人間の意見という糞では自らを救えない。我々は福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である (ローマ1:16)。

教会は福音を宣べ伝えていないならば、本当のキリストの教会ではない。それは悪魔の集会である。悲しいことに、今日、非常に少数の教会しか聖書の福音を説いていない。だからパウロは説教する、「しかし、愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを、避けなさい。それらは無益かつ空虚なことである」。ほとんどの教会で教えられていることは役に立たない無価値な糞である。彼らの教えは、いわゆる何か深い話、即ちサタンの話である。イエスはサタンについて言っておられる、「テアテラにいるほかの人たちで、まだあの女の教を受けておらず、サタンの、いわゆる『深み』を知らないあなたがたに言う。わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない」(黙示録2:24)。それらは愚かな(すなわち、神を恐れぬ)憶測であり、福音に反するものである。

現代のほとんどの教会に見られる憶測の教えについて、使徒たちは次のように頻繁に警告している:

  • テトス1:10–11: 「実は、法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。彼らの口を封ずべきである。彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないことを教えて、数々の家庭を破壊してしまっている。」
  • テトス1:15–16: 「きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。」
  • 1テモテ1:3–7: 「わたしがマケドニヤに向かって出発する際、頼んでおいたように、あなたはエペソにとどまっていて、ある人々に、違った教を説くことをせず、 作り話やはてしのない系図などに気をとられることもないように、命じなさい。そのようなことは信仰による神の務を果すものではなく、むしろ論議を引き起させるだけのものである。わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。ある人々はこれらのものからそれて空論に走り、律法の教師たることを志していながら、自分の言っていることも主張していることも、わからないでいる。」無知で愚かな説教者から離れよ。必要なのは、よく学んだ敬虔な牧師である。
  • 1テモテ1:19–20: 「ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った。その中に、ヒメナオとアレキサンデルとがいる。わたしは、神を汚さないことを学ばせるため、このふたりをサタンの手に渡したのである。」
  • 1テモテ4:7: 「俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。」
  • 1テモテ6:3–6: 「もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば、彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしなくいがみ合いが起るのである。しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。」
  • 2テモテ2:14: 「あなたは、これらのことを彼らに思い出させて、なんの益もなく、聞いている人々を破滅におとしいれるだけである言葉の争いをしないように、神のみまえでおごそかに命じなさい。」
  • 2テモテ2:16–19: 「俗悪なむだ話を避けなさい。それによって人々は、ますます不信心に落ちていき、彼らの言葉は、がんのように腐れひろがるであろう。その中にはヒメナオとピレトとがいる。彼らは真理からはずれ、復活はすでに済んでしまったと言い、そして、ある人々の信仰をくつがえしている。しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。「主は自分の者たちを知る」。また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。
  • 2テモテ2:23: 「愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。」
  • 2テモテ3:5–9: 「信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。彼らの中には、人の家にもぐり込み、そして、さまざまの欲に心を奪われて、多くの罪を積み重ねている愚かな女どもを、とりこにしている者がある。彼女たちは、常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない。ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。しかし、彼らはそのまま進んでいけるはずがない。彼らの愚かさは、あのふたりの場合と同じように、多くの人に知れて来るであろう。」
  • 2コリント11:3–4: 「ただ恐れるのは、エバが蛇の悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。というのは、もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受けいれたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる。」
  • ガラテヤ1:6–8: 「あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。」偽牧師は呪われており、彼らをパウロは地獄に閉じ込める。

牧師は永遠の命に有益な、唯一の神の言葉を宣べ伝えている。イエスは尋ねられた、「全世界を得ても、もしあなたの魂を失ったら何の益があろうか?」だから我々は悪魔の反福音の宣伝を避けなければならない。悪魔の教会からそれぞれ離れよ。ロトがソドムを離れるように警告を受けたように離れよ。牧師は聖書の言葉を伝えなければならず、イエスと使徒たちのように、神の言葉のために戦う必要がある。パウロは言っている、「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである」(1テモテ6:12)。

イエスは戦って十字架につけられた。ペテロは戦い、十字架につけられた。ヤコブは戦い、斬首された。ステパノは戦い、投石で殺された。パウロは戦い、殺される前に次のように書いている、「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」(2テモテ4:6–7)。すべての真の大臣であるように私は、毎日この戦いで午前。我々は、内側と外側の両方に、教会、福音の真理のために戦っています。私もこのような戦いに中にあり、真の牧師であれば、毎日この戦いの中にある。福音の真理のために、我々も教会の中でも外でも戦わなければならない。

II.異端者を拒否し/破門する

パウロはテトスに2つめの命令を行う。それは、異端者を破門することである。「異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい」(10節)。異端者は、清い生活と福音に反対し、分裂を起こす人である。神の国の権威を示す両親や牧師の権威に対しても反対し、聞こうとしない。イエスは言われた、「悔い改めよ。神の国は近づいた」。使徒も同様に言っている。我々は神の権威のもとにいなければ、悪魔の権威に服しているのである。

異端者は福音に反対し、清さにも反対する者たちである。異端者は、正統な教義や聖書の倫理に反対する。彼らは悪魔の手先として、姦淫、同性愛、貪欲を喜び、悪魔とすべての罪の教えを推奨する。彼らは十戒に反対し、神の言葉に基づく神の教会のきずなを破壊しまくるのである。

聖書だけが神の言葉である。聖書のみが、正しい教えと倫理を決定する。最高裁判所、米国の大統領が聖書に反対しても、彼らの言うことは気にしてはならない。我々は、神の言葉が何を言っているか、それをすべきである。イエスは祈られた、「わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、父なる神をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました」 (ヨハネ17:6)。我々がもし神の言葉に従いたくないなら、それはイエス・キリストに属していないからである。イエスは祈られた、「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」(ヨハネ17:17)。神のみが真実であり全ての人間を偽り者とすべきである(ローマ3:4)。

イエスはまた祈られた、「わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」(ヨハネ17:22)。分裂があるところには、悪魔の働きがある。分裂には注意せよ。分裂を引き起こすこのような者について、「その者は異端者です」と牧師に伝えよ。我々は全員、お互いに訓戒し合う責任がある。さて、わたしの兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互に訓戒し合う力のあることを、わたしは堅く信じている(ローマ15:14)。

キリストの教会には一致という特徴がある。パウロは書いている、「平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」(エペソ4:3–6)。

悪魔は破壊だけを行う。盗み殺し、そして破壊する、のである。悪魔は、神の教会の一致、結婚の一致、家族の一致を破壊しまくる。神の言葉に反対して、異端の教えを広める、そのようなすべての分裂に関してパウロは警告している(1コリント1:11–12)。

このような異端の教えは、今日増殖している。たとえば、元大統領ジミー・カーターは、最近日曜学校の先生をしているときに次の質問をされた、「主イエスは、同性愛者同士の結婚に賛成でしょうか?」。カーターは、「私はイエスが同性愛者同士の結婚に賛成されると思う。これは私個人の意見ですが、同性愛が正直で誠実なものであり、誰にも危害を与えない場合は、イエスがこれを奨励されるだろうと思うし、私は危害を与えている同性結婚を知らない」と回答した(注1)。カーターの見解は新しいものでない。私は1965年、新しい道徳を推進しているという司教ジョセフ・フレッチャーの話を聞くため、コーネリアスバンティル教授と一緒にその講演会に行ったことを覚えている。その新しい道徳とは、実は古い不道徳であった。

この箇所では、教会の異端者や分裂を引き起こす者に対処するよう、パウロはテトスに指示を与えている。我々は、聖書から彼らの間違いを示して初めから警告するべきである。警告するとは、神を恐れぬその者の愚かな心に神の言葉をたたきつけ、間違いを指摘して自分の罪を悔い改めることができるように彼を叱責することである。もし悔い改めを拒否した場合、我々は彼をもう一度警告するのである。牧師は、特にこれを行う義務がある。主なる神がその者を変えられることを願って促すのである。それでも悔い改めを拒否した場合、教会はキリストの教会の安全のために、彼を追放して悪魔の破壊的な手に引き渡すことになる。

悔い改めない者たちは神の教会から投げ出され、神の権威によって、悪魔の支配下に下るのである。ヨハネは書いている、「イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである」(1ヨハネ5:19)。パウロは言っている、「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである」(2 コリント4:4)。ヨハネはまた書いている、「犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている」 (黙示録22:15)。

破門された者が、本当に悔い改めた場合、彼は戻ることができる。しかし、このような真の悔い改めは非常にまれである。むしろ、悔い改めず、何の質問もされることなく別の教会に歓迎されることが多い。このように、だれかれと見境なく破門された者を受け入れる教会は、サタンの集まりに他ならない。彼らは「愛」の教会であると主張する。即ち、「愛」とは罪を飲み込む「愛」であるということを教える教会なのである。彼らは、罪を犯してもなんら問題はない良い状態にある、それが愛なのだと教える。

イエス・キリストの真の教会には特徴がある。聖書全体、神の言葉全体が説教されている。洗礼と聖餐が行われている。そして、教会戒規が行使されている。このように、真実の愛の社会生活が必須である。ルカは書いている、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。また、自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(ルカ10:27)。

偽教会にはこれらの特徴がない。真の教会は数少ない。我々は、聖書が教えるこれらの特徴を持つ教会である。だから、悔い改めないで分裂をもってくる者を破門しなければならないのである。我々は彼らを除名し、彼らとは何の関わりをもってはならない。教会は、キリストによって与えられた、この鍵を開けたり閉じたりする権威を行使すべきである。この鍵を開けて、人を招き入れ、同じ鍵を閉じて、悔い改めない者を締め出すのである。

だから、パウロは悔い改めない者に言っている、「彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである」 (1コリント 5:5)。破門された者が救われる保証はない。しかし、教会はこれらの者たちを破門する権威を持ち、それを行使すべきである。パウロは言う、「ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った。その中に、ヒメナオとアレキサンデルとがいる。わたしは、神を汚さないことを学ばせるため、このふたりをサタンの手に渡したのである」 (1テモテ1:19-20)。また別の箇所で書いている、「さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである」(ローマ16:17–18)。神学に関して無知な者は、悪魔のターゲットになる。あなたが、牧師の説教を理解していないなら、どっちつかずの二心と没落の危険にさらされているのである。

パウロは書いている、「こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう」(2 コリント11:13–15)。彼らがそこらを分裂し回り続け、天国に行きつくということは決してない。

だから、教会は悔い改めない異端者を悪魔の支配のもとへ追放しなければならない。異端がかつて有力な教会員であったとしても、微力な教会員であったとしても、偏見なしに破門する必要がある。彼らが二回目の警告の後も悔い改めない場合、追い出されるべきである。

教会は、清さを維持する必要がある。しかし、それは教会を通して、キリストご自身が行われる。牧師の教会ではない。キリストの教会である。キリストが戒規を行使されるのである。キリストの輝くような花嫁が、即ち教会である。不道徳、姦通、姦淫、同性愛、偽り、騙しごとは教会に属さないのである。キリストは、我々を清くする方である。パウロは書いている、「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである」 (エペソ5:25–27)。黙示録19:7–8には次のようにある、「わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。

もしも牧師が罪を犯した場合、その牧師を公に叱責する必要がある。牧師は公人であり、誰もがそのような牧師を訴えることができる。従って教会は、2人または3人の証人がなければ牧師を訴えるべきではない。しかし、それらの証言が真実であれば、その牧師は自らの罪のために公に叱責されなければならない。

1コリント5章に示されている教会戒規を見よ。性的不品行を行った男性を教会から追い出すようにと、少なくとも5度パウロは繰り返して言っている。それは公的な罪であった。「その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい」(1コリント5:13)。彼を追い出せ!これはセプトゥアギンタ(ギリシャ語訳旧約聖書)の申命記のからの引用であり、「追放せよ」という言葉が6回現れる(申命記17:7)。旧約聖書の他の箇所での、コラやアカンなどを見よ。彼らは追い出されて滅んだ。今日も彼らを追い出さねばならないのである。

神の聖なる教会のメンバーであれば、神が我々の行うすべてのことを見ておられることを知って畏れ震えるように祈る。神は我々の罪をもしっておられ、行動の動機も見ておられる。そのような神に我々は申し開きをしなければならないのである。

1コリント5:1–5を覚えるべきである。使徒パウロは遠方にいながらにして、すでにその邪悪な男を見分けたということが3節で語られている(牧師の解釈)。教会の人々または長老たちが集められたとき、4節でパウロが言っているように、「キリストの権威で」行動を取る必要があった。長老たちは、戒規の処分を行うとき、キリストの権威によって行動している。それは同じ個所で「我々の主イエスの力で」行動することであると言っている。そのように、我々が教会の戒規を行使するとき、キリスト自身が聖霊によってそのための力を行使されるのである。イエスが言われたように、「二人または三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)。

5節には「その人をサタンの力に引き渡すように」とある。目的は彼の体に罰が与えられ、肉体が滅ぶに任せられるようになるためである。申命記28:28にはこのように書かれている、「また主はあなたを撃って気を狂わせ、目を見えなくし、心を混乱させられるであろう」。人が罪を犯すと、彼の心は突然機能しなくなる。もはや何をも正しく判断できなくなる。狂気がでてくるのだ。彼は普通の良識あることも行えなくなる。心が混乱する。罪を懐に抱いているので、何が正しく何が間違いかがわからなくなる。突然、善悪の区別ができなくなる。

そのような人は、キリストの支配領域から引き離されて、悪魔の支配領域に投げ出されるのである。そして5節には「肉体が滅ぶためである」とある。ほかの箇所でパウロは書いている、罪のために、「あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである」(1コリント11:30)。人は罪を悔い改めないならば、処罰が卒業証書のように手渡されるようなものである。たとえば、まずどこかに不調をきたす。まだ悔い改めないなら、それは病気になっていく。そこで医者に行くと、癌の告知を受ける。それでも彼は、なぜ癌になったかの真の理由を知りたいと思わない。そして、彼は死ぬ。

もしもサタンの支配領域にお投げ出された人が、実は神から生まれたている者である場合、時が来ると罪を悔い改めて神の支配領域に引き戻される。そうでない場合、キリストと教会は、彼を地獄に送るであろう。我々は、教会から戒規処分になっている人がすべて悔い改めしようとしていると考えてはならない。私自身の経験では、大多数は悔い改めようとはしていなかった。

主イエスは羊と山羊のたとえを用いてこのことを教えられた、「それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。』」(マタイ25:41)。地獄は、悔い改めようとしない人のために既に用意されているのである。誰がそれを定められたのか?主イエス自身である。もしもあなたが、イエス・キリストを自分の主として受け入れないならば、イエスは、あなたを外の暗闇に捨てられるであろう。あなたは、そこで嘆きと歯ぎしりをするであろう。だから、分裂をもたらす者や邪悪な者がいるなら、その者を諭せ。もしその者が罪を悔い改めるなら、彼は大丈夫である。しかし、悔い改めないならば、それを教会に知らせよ。

III.神の保証

第三の点は神の保証である。パウロは書いている、「たしかに、こういう人たちは、邪道に陥り、自ら悪と知りつつも、罪を犯しているからである」(11節)。

教会に分裂を引き起こす異端者には、一度目に悔い改める機会を与えた後、悔い改めない場合は、再び二度目の機会を与える。しかし、もし悔い改めをかたくなに拒否した場合、その者はどうなるだろうか?祭司エリは98歳の時、神は彼を放り投げられ、彼は首を負って死んだ。彼は神を尊ばず、自分の子供たちの栄光をたたえた。そのような悪をやめるのを拒否したのである。箴言29章は次のように教えている、「しばしばしかられても、なおかたくなな者は、たちまち打ち敗られて、助かることはない」(箴言29:1)。神は自らそのような者を滅ぼされる。

ほとんどの人は、主イエスを信じることは単に一つの信仰のありかたに過ぎないことで、別の選択肢もある、と考えている。「あなたがキリストを信じたいなら、そうすることができます。しかし、信じたくないなら、信じる必要はありません。」このように彼らは言う。しかし、我々に起こり得る最大の出来事は、神が遣わされた人から福音を聞くことである。福音は我々に到達し、我々は悔い改めて、イエス・キリストを信じるならば、永遠に救われる。

教会は、意図的に教会との契約に違反する邪悪な者を追放する。そのような追放された者には、三つのことを言い聞かせなければならない。ヘブル書の著者によって書かれた次の教えを考えてみよう。

いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込で、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。しかし、いばらやあざみを生えさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。(へブル6:4–8)

もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基づいて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。(へブル10:26–31)

教会は戒規を行った者について次の3点について知っておく必要がある。まず、彼は心がねじれている。ギリシャ語で、エグゼストラプタイという、裏返しやねじれを表現する言葉がつかわれている。かつてキリストからの警告にもかかわらず、過去においても、現在もねじれた心を持ち続けているのである。詩篇78:57とホセア7:16は、曲がった弓について語る。これは、根本的に先天的な問題なのである。その弓で矢を何度放っても、矢は間違った方向に飛ぶ。

第二に、そのような者は、的を外す(ハマルテナイ)ように継続的に罪を犯している。彼は永遠の命につながるまっすぐな狭い道を歩もうとしない。カインのように、自分の罪を愛し、エサウとユダのように、彼は悔い改めことができないのである。ああ、彼はつくり笑顔でなにも問題はないとうそぶるのであるが、キリストを欺くことはできない。

第三に、そのような者は自らを罪に定めること(オートカタクリトス)を行っている。彼は自分の罪によって、自分自身の行動によって罪に定められているのである。彼は貰った1タラントを地中に埋め、主の前に自分を正当化するようなものである。「主人は彼に言った、『悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。わたしがきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと、知っているのか。では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに。』」(ルカ19:22–23)。彼は自らを罪にさだめているが、自分を正当化し、教会、特に牧師を非難する。それは間違いない。

従って、牧師と教会は、邪悪で分裂を引き起こす、悔い改めない者に対して戒規を行うことで、自分を責めてはならない。実際には、神はそのように戒規を行使された。エペソの教会はそのことで称賛されたのである(黙示録2:2, 6)。同時に、邪悪な者たちを教会から追い出さないペルガモとティアティラの教会を、ヨハネは責めている(黙示録2:14, 20–23)。キリストは、彼に従い、戒規を行って規律と清さを保つ教会を喜ばれるのである。

IV.教会戒規の目的

教会が戒規を行うには5つの理由がある。

  1. 教会はその邪悪な者がその肉が滅ぼさせるようにサタンにひき渡さなければならない(申命記28:28; also 1コリント5:5; 11:30; 1テモテ1:20). 教会は罪をおおめにみてはならない。
  2. 2.教会は不純から守られねばならない。言い換えると、清さを維持しなければならない。だからこう書いてあるのである、「気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい」(へブル12:15; 1コリント5:6–7)。
  3. 教会はキリストの名誉を保つ必要がある。罪を犯しているキリスト者は、不従順な子供が両親の名誉を傷つけているように、キリストに不名誉を与えているのである。聖書は言っている、「両親を敬え」。パウロはローマ人への手紙で教えている、「聖書に書いてあるとおり、『神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている』」(ローマ2:24)。罪を犯しているキリスト者は、世界に向けて神の名を汚しているのである。
  4. 教会は、罪を犯している者が、その罪を悔い改めるかどうかを判断基準にすべきである。その者が本当に主を信じる者であれば、悔い改める。しかし、教会から追い出されたほとんどの者は、本当に悔い改めるということがない。
  5. 主を信じる者は注意するべきである。聖書に記録されているアカンやユダ、アナニヤとサフィラのことを考えてみよ。教会の主である神は彼らを滅ぼされた。使徒行伝5章にある、「教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた」(使徒行伝5:11)。神は、頑固な者、反抗する者、邪悪な者を、御自分の方法で取り除かれるのである。神が全てを見ておられるただ中で、我々は罪を犯すのである。主イエス・キリストは、決して眠ることもうたた寝することもない。キリストは常に起きておられる。

V.聖書が教える教会からの追放の理由

罪を悔い改めない場合、教会を追い出される。その罪とは、聖書の中でどのようなものと教えているか?

  1. 分裂をもたらす罪 教会はキリストの体である。教会には一致があり、平和のきずなで聖霊によって結ばれている。テトス3:9–11には、教会に分裂をもたらす罪について述べている。パウロは、ローマ16:17で、誰かが教会に分裂を引き起こそうとしているならば、その者を面と向かって叱責せよ、と教えている。教会の誰もがその権利を持つ。罪を犯している者の罪に加担するな。加担することを、彼が望んでいるものである。パウロは書いている、「クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、『わたしはパウロにつく、わたしはアポロに、わたしはケパに、わたしはキリストに』と言い合っていることである」(1コリント1:11–12)。分裂をもたらす者たちじゃ非常にナイスに見えるかもしれないが、彼らは分裂の種をまく悪魔である。
  2. 性的な罪 この罪については、1コリント5:1と黙示録2:14, 20–23で警告されている。
  3. 働く能力があるのに、自分と自分の家族の必要のために働こうとしない罪 これは、十戒の第四の戒めに違反する。これは、だれかを教会から追い出す理由となる罪なのだろうか? パウロはテサロニケの教会に向けて書いている、「兄弟たちよ。主イエス・キリストの名によってあなたがたに命じる。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた言伝えに従わないすべての兄弟たちから、遠ざかりなさい。わたしたちに、どうならうべきであるかは、あなたがた自身が知っているはずである。あなたがたの所にいた時には、わたしたちは怠惰な生活をしなかったし、人からパンをもらって食べることもしなかった。それどころか、あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた。それは、わたしたちにその権利がないからではなく、ただわたしたちにあなたがたが見習うように、身をもって模範を示したのである。また、あなたがたの所にいた時に、『働こうとしない者は、食べることもしてはならない』と命じておいた」(2テサロニケ3:6–10)。
  4. 聖書の教えに従わない罪 パウロはテサロニケにいる信仰者に対して言った、「もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば、そのような人には注意をして、交際しないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである。しかし、彼を敵のように思わないで、兄弟として訓戒しなさい」(2テサロニケ3:14–15)。
  5. 冒涜の罪 パウロはテモテに言った、「その中に、ヒメナオとアレキサンデルとがいる。わたしは、神を汚さないことを学ばせるため、このふたりをサタンの手に渡したのである」(1テモテ1:20)。
  6. 異端を教える罪 ヨハネは書いている、「この教えを持たずにあなたがたのところに来る者があれば、その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない。そのような人にあいさつする者は、その悪い行いにあずかることになるからである」(2ヨハネ10–11)。我々は、教えの正統性を維持しなければならない。教会員は神学を真剣に学ぶよう教育される必要がある。
  7. 死に至る罪 ヨハネは書いている、「もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある」(1ヨハネ5:16–17)。死に至る罪とは何か?それは、イエス・キリストが神の子であることを拒否することである。それは、キリストの贖いを拒否している。救われた状態で罪を犯し続けることができる、という誤りである。これらは全て邪悪な考え方、死に至る罪である。

摘用

次のように適用することを考えよ

  1. 我々は神から受けた召しと選びとを、確かなものしなければならない(2ペテロ1:10)。自分自身なりの考え方というものを信じてはならない。自分自身の考え方が、神の考えではないかもしれない。実際に、我々自信の考え方はというものは間違っていることが多い。
  2. マタイによる福音書13章で、教会に属する我々は、4種類の土壌に分けられるとたとえられているが、第四の土壌のみが真のキリスト者であり、最後まで耐え忍ぶ者である、と教えている。
  3. 主なる神が我々を聖なる教会に加えてくださったなら、それは同時に我々を清くされるということを意味する(エペソ5:25–27)。
  4. 本当に神に属する者には次の特徴がある:
    1. イエスが自分の主人であるということを聖霊によって告白する(1コリント12:3)。それが最初の行動である。
    2. 主の言葉を聞いて、それに従う(マタイ7:24)。
    3. 父なる神の御心を行う(マタイ12:50)。
    4. 聖霊に導かれ聖霊に従い、神から遣わされた牧師に従う(へブル13:17; 使徒行伝5:32; ローマ8:14).
    5. 教会から追い出されている者であれば、教会に戻るために罪を悔い改める。
    6. 罪を悔い改め、信仰によって全ての生活を行う。主の聖餐を祝うとき、自分の言葉や思いや行動すべてにおいての罪を悔い改めて神から赦しを受ける。してはならないことをした罪、しなければならなかったことを、しなかった罪の両方を悔い改める。
    7. 世の中に合わせないで、清く生活する。次の様には決して言わない、「この手の罪は、今の世の中では大した問題ではない。それが正しくない、罪だ、とかあなたのような牧師が言えるものだろうか?」これは世の中に合わせる姿である。我々は、そうではなく、キリストに合わせるべきである(2コリント6:14–7:1; ローマ8:29;ローマ12:1–2; 1ペテロ1:15–16).

わたしは祈る。主が我々を清くされるその働きに、へりくだって従うように、キリストの輝かしい花嫁のような教会として、汚れやシワの一切ない清いものとなれるように、我々が教会の戒規も含め、清い主の働きに協力するように、そして屈折し、堕落した世の中に対して命の言葉をもたらし、宇宙の星のように輝く者になるように。