偽牧師、偽説教、偽教会
2 Corinthians 2:14-17, 2 Cor. 4:1-6, 2 Cor. 11:1-4, 2 Cor. 11:13-15
P. G. Mathew | Wednesday, March 16, 2011
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偽牧師は、本当の福音を説教しない。彼らの行う偽説教は、偽物の教会を産む。イエス御自身、それを「サタンの教会」と呼んでおられる(黙示録2:9; 3:9). パウロは偽牧師について多く語っている、特に第2コリントで語っている(2:14-17; 4:1-6; 11:1-4, 13-15).
今日教会には多くの偽牧師がいる。「(福音の?)防衛者」という近代のキリスト教雑誌がある。南インドのT. S.バラン氏が編集しており、福音派とペンテコステ派のニュースを掲載している。バラン氏は、偽牧師が快楽の生活をするための資金稼ぎのために、福音を腐らせている実態を暴露している。神について考えることはせず、これらの快楽的牧師に従う者たちがいるが、このようなだまされやすい者たちを偽りの福音で釣り上げ、だまして食い物にする商売人こそが、まさに偽牧師である。これら偽牧師を見つけて避ける為、その特徴を分析してみたい。
1) 彼ら偽牧師は神による召命を受けていない
今日、大半のキリスト教牧師と呼ばれている者は福音説教のための召命を受けていない。というより、自分で勝手に召命を受けていると思っている。他の専門職同様、履歴書を提出して仕事を得た、それが牧師職であるだけである。説教はするが、それは本当の福音ではなく、偽物である。パウロはそのような偽牧師を見て言っている、「なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです」(2コリント11:4; ガラテヤ1:6-9)。彼ら偽牧師は、招かれていないのに、裏口から入ってきてパウロの伝える福音と矛盾することを教えるのだ(ガラテヤ2:4を見よ). 彼らは、自分の利益の為に神のことばを利用する。パウロが言っている、「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」(2コリント2:17)。
偽りの牧師は、「信仰心を装いながら、その実を否定している」 (2テモテ3:5)。中身のない貝殻のような彼らは、誰をも罪から救うことはない。パウロが警告する、「こういう人々を避けなさい。彼らは心理に逆らっています。彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です」(2テモテ3:8)。神は彼らを空しい思いに引き渡し考えるべきではない、すべきではないことをするに任せられる。自ら召命を受けたと勝手に思っているこれらの偽牧師は神によって拒絶されている。
2) 彼らは自分たちなりの福音を発明する
偽りの牧師は偽りの福音を発明する。それは通常、心理学に基づく福音である。真の福音を信じることを拒否する。つまり、「福音のみ」(聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ、キリストのみ、キリストの栄光のみ)という点を拒絶し、代わりにプラスチック製の偽福音を教えて人々を地獄に送る。我々は、聖書のみを教えなければならない。本当のキリスト者が頼る権威は、聖書に何か別のものを加えてはならない。聖書+伝統、聖書+心理学であってはならない。また、夢や、幻、偽物の奇跡を通して、私に主は語っておられる、とかいうものであってはならない。常に、聖書にこの何かを加えているのなら、そのような説教者はあなたをもてあそび、閉じ込めて、あなたは彼らの奴隷となってしまうのだ。真の福音説教は、そのような者からあなたを解放する。パウロは宣言する、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」(ガラテヤ5:1)。我々は、聖書のみを教えなければならない。本当の救いは恵みのみ、信仰のみ、キリストのみが初めから終わりまでを貫く。神にのみ栄光があるように!
どのような説教者であっても、聖書の完全な権威を信じることを拒否するなら、ウェストミンスター信仰基準が言っているように、それは偽りの牧師である。彼らの教える全ては誤りである。
3) 彼らは人が聞きたいと思う事を教える
偽牧師は、人が聞きたいと思っていることを教える。神が彼らに伝えたいと考えておられることではない。テレビやラジオで説教されているもののほとんどは偽りの福音である。再生を教えない。即ち、我々人が新しく生まれ変わることを教えない。新しく生まれなければなにもならない。悔い改めを教えない。人間が完全に堕落しているとは言わない。神の律法を教えない。神は清い方であるので、我々人間にも清くあるように要求される、とは教えない。神は清い方であり、「主なる神は我々を聖別する主である」(レビ記22:32)。もし清い生き方をしないなら、我々はキリスト者ではない。
偽りの牧師は、我々が神に従う者となるような、すなわち救いの信仰を教えない。偽りの牧師は、審判と地獄について語らない。代わりに、自主性、反律法主義、自尊心、(結局すべての人は救われる、と教える)ユニバーサリズム、無条件の愛、心理学、感情学、「役に立つものならなんでもOK」という単純な実用主義を説く。特にアメリカの実用主義、それは金儲けや快楽を与えてくれるものはなんでも良いという考え方である。彼は、排他的な救い、つまり救いはイエス・キリストのみによって与えられる、という教えを拒絶する。代わりに、ロック音楽であれ何であれ、人々を喜ばせ、その必要を満たしてくれるものであれば、なんでもよいと教える。彼らは、人は生まれながらに罪人であるとは言わず、良い人間として生まれた、と教える。むしろ、毎日徐々にではあるが良くなっていると教える。彼らは、どのような性的活動も許されると教える。それが結婚の前であれ後であれ、同棲生活であれ、姦淫であれ、同性愛の性行動であれ、両性愛の性行動であれ、トランス・ジェンダーの性行動であれ、それは許される、と教える。
偽りの説教者は、健康、富、力、名声を高めるというような、偽福音を教える。かれらは、どんな信仰心もオープンに受け入れ、間違ったキリスト教の教育、またマルクスの自由神学を教える。イエスの為に苦しむことは決して教えない。パウロは言う、「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くようになります」(2テモテ4:3-4)。
4) 彼らは、お金儲けのために説教する
偽りの牧師は、お金儲けのためにだけ説教する。事実これ以外の動機はないのである。贅沢でなまける生活のためにお金を欲し、これによって様々な不品行を行う。T. S.バラン氏は、そのような牧師がお金を設ける5つの方法を指摘している。まず、寄付を募るのである。比較的豊かな欧米の国に住むナイーブな者達に向かって、架空の伝道事業を助けてほしいと物乞いするのである。たとえば、インドやそれ以外の国でも、孤児院があるが、そこでリーダーシップをとる者が、性的に乱れた行いをするためである。次に、偽りの癒しを行う。彼らは言う、「私が祈れば、あなたの病は癒される。」しかし、あなたは癒されず、お金を盗られる。3つめは、偽りの予言である。その偽りの牧師は言う、「子供が欲しいのでしょ。祈ってあげよう。今、男の子が宿っているのが見える。その子をダニエルと名付けなさい。」都合のよい予言が終わるころに、あなたはお金を差し出すだろう。4つ目として、その牧師は結婚の世話、中古車の販売、大学への入学のはからい、旅行チケットの手配など、いろんな活動をしている。偽りの牧師は、人の所有物を盗むこともある。あるアメリカ人がインドのある牧師を訪問中別の部屋にいる間に、牧師はその人から10万円をバッグから抜き取ったということを、バラン氏は書いている。
これらの人間の目当ては、お金である。彼らはナイーブな人達が受け入れやすいように福音を曲げて、代わりにお金を儲けているのだ。罪、悔い改め、再生、清い生活、地獄、裁き、などのナイーブは人たちが好まない教理をすべて取り除く。彼らは、イスカリオテのユダである。最後に、悪魔に乗り移られ、イエスを銀貨30枚で売った。彼らは、シモン・マガスのように、聖霊をお金で買いたいと思う者達である(使徒言行録8章)。偽りの牧師は、ペテン師で全世界にいる。彼らは汚い生き方をしている。偽りの牧師は、本当は泥棒で心の腐った者達である。
牧師は、お金を愛してはならない。ペテロは次のように言っている「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい」(1ペテロ5:2)。
5) 彼ら偽牧師は、真の教会から追い出された再生していない者たちを集めて教会を作ろうとする
偽牧師たちは、 再生していない者たちや真の教会から追い出された者たちを集めて教会にしようとする。偽牧師たちは、 これらの追い出された者をほめたたえ、喜んで受け入れ、彼らの教師に抜擢する。これらの偽教師は、追い出された者たちをさらに集めてくるようになる。巷のふきだまりで、ならず者を集めて偽の教会を建てようとするのだ。巷のふきだまりには、雑多な建材が無断投棄されている(レビ記14:33-57)。
彼ら偽牧師たちは、教会から追い出された者たちに、「悔い改めて、生活を正し、元の教会にもどれ」とは決して言わない。したがって、彼らはサタンの輩に他ならない。我々の教会は、他教会から追い出された者を受け入れてはいない、カルトから追い出されたものならば例外である。このように、偽牧師は真の教会から追い出された者やキリストを信じようとしない者を集めて教会にしようとする。
偽りの教会はサタンの館であるので、キリストの教会にある本物を持ちあわせていない。つまり、聖書の言葉を説教すること、有効な礼典を行わず、信徒を訓練もしない。偽牧師たちは決して聖書的な訓練を行わず、教会はまるごとガンでできているようであり、手術しても意味がない。代わりに、彼らはやたらと無条件の愛を唱える。それはまさに、ほったらかしの無法地帯である。
6) 彼らは悪魔から派遣されている
偽りの牧師たちは悪魔に抜擢され、派遣されている者達で、見かけ上はキリスト牧会者のなりをしていても、悪の王国を前進させるのを仕事としている。C. S. ルイスのThe Screwtape Letters を読んでみよ。そのような者たちのことをパウロは次のように書いている。「この世の神が、信じようとしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」(2 Cor. 4:4)。偽りの牧師たちは、悪魔によって霊的な意味で目が見えない状態に陥っており、回心していない。したがって、回心していない者や真の教会から拒絶された者を回りに集める。霊的に目の見えない偽りの牧師は、同様に霊的に目の見えない者たちと共に地獄の溝に落ちていくのである。
パウロは偽説教者に警告する、「ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています」 (2コリント11:3)。パウロは言う、「サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません」 (2 コリント11:14-15)。 偽りの牧師は、悪魔の召使いである。偽りの使徒、騙し屋、キリストの仲間になりふらした忌むべき者たちである。
7) 彼らは昔の偽り予言者と同じである
今日、偽りの牧師は、聖書に記録されている昔の偽予言者と同じである。イエスは彼らについて言われた。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける」 (Matt. 7:15-16).注意して彼らの話をきてみたら、その間違いがわかるであろう。
パウロは警告する。「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」 (使徒言行録20:29-30)。
ペテロも言っている、「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師たちが現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません」 (2ペテロ2:1-3)。
彼ら偽牧師は、昔の高ぶった偽予言者と同じである。アハブは400人の偽予言者を使っていた。しかし、彼らに属さない1人の真の予言者がいた。それが予言者ミカである。ミカだけが、神のことばと聖霊をもっていた。アハブに雇われていたこれら400人の偽予言者は、アハブが聞きたい嘘しか語らず、「戦争に行こうとしているのか?あなたアハブは勝つ」と語った。しかし、アハブはそのかわりに死んだ。ミカの予言どおりであった。このように偽予言者は悪から力をえており、真の神の予言者ミカを迫害する。
旧約聖書には、偽教師についての引用が多い
- イザヤ8:20: 「そして、教えと証しの書についてはなおのこと、『このような言葉にまじないの力はない』というであろう。」
- イザヤ30:9-11: 「まことに、彼らは反逆の民であり、偽りの子ら、主の教えを聞こうとしない子らだ。彼らは先見者に向かって、『見るな』と言い、預言者に向かって、『真実を我々に預言するな。滑らかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ。道から離れ、行くべき道をそれ、我々の前でイスラエルの聖なる方について語ることをやめよ』と言う。」
- エレミヤ5:12-13: 「彼らは主を拒んで言う。『主は何もなさらない。我々に災いが臨むはずがない。剣も飢饉も起こりはしない。預言者の言葉はむなしくなる。『このようなことが起こる』と言っても実現はしない。」
- エレミヤ5:30-31: 「恐ろしいこと、おぞましいことが、この国に起こっている。預言者は偽りの預言をし、祭司はその手に富をかき集め、わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。」
- エレミヤ6:13-15: 「身分の低い者から高い者に至るまで皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに、『平和、平和』と言う。手軽であるなら、なぜキリストが十字架につかれる必要があったのか?エレミヤは続ける、「彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず、嘲られていることに気付かない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ、わたしが彼らを罰するとき、彼らはつまずく。
- エレミヤ14:14-15: 「主はわたしに言われた。『預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むないしい呪術、欺く心によってお前たちに預言しているのだ。』それゆえ、主は預言者についてこう言われる。『彼らはわたしの名によって預言しているが、わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らは剣も飢饉もこの国に臨むことはないと言っているが、これらの預言者自身が剣と飢饉によって滅びる。
- エレミヤ23:16: 「万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ、主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。」
- エレミヤ23:21-22: 「わたしが遣わさないのに、預言者たちは走る。わたしは彼らに語っていないのに、彼らは預言する。もし、彼らがわたしの会議に立ったのなら、わが民にわたしの言葉を聞かせ、彼らの悪い道、悪い行いから、帰らせることができたであろう。」
我々がどういう教会に行くか?その牧師はどのような牧師か?それは問題なのである。偽りの牧師は、サタンの牧師である。偽りの牧師は人々を地獄に送る。神が我々を再生し、新しい思考、新しい意志、新しい好み、神のことばを求める新しい心を与えてくださるように。牧者の仕事、それは命のことばを羊に食べさせることである。
8) 彼ら偽牧師は人々を再生に導けない
偽りの牧師の教会には、再生した人がいない。なぜなら、再生は2つの必須条件、福音説教と聖霊、があって起こるからである。偽りの牧師の教会に行くと、そこには再生した人が一人もいないことに気付く。だれかが、間違ってそこに行ってみたら、聖霊はすぐにそこを出て、福音説教のある教会へと導かれるだろう。
偽りの牧師はサタンの遣いであって、決して福音を説教しない。再生は神が送られた牧師が聖霊の力により福音を説教するところで起こる。そのような説教で、神が再生の奇跡を行われる。
この奇跡は、偽りの牧師が牛耳っている偽りの教会では起こらない。そのような偽りの教会では、聖霊と神のことばの種は存在しない。それは、サタンの宮である。ヤコブが言っている、「神は御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです」(ヤコブ 1:18)。ペテロは言っている、「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。『人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。』 これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです」(1ペテロ1:23-25)。
我々は、人の決心による救いを教えない。決心ならだれでもする。それは我々を救わない。問題は、再生の奇跡である。我々は生まれ変わらねばならない。自分で生まれ変わることはできない。だから、神場我々を生まれ変わるようにされるしかない。ある人が言ったことがある。「福音が説教されない教会に行っていました。しかし、なにかの集まりで初めて福音を聞き、家に帰ってからローマ人への手紙全体を一気に読みました。自分に起こった奇跡のためです。」 再生すると、我々は神と神の言葉を愛する。
2コリント4:6で、パウロは言っている、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」。そして、私は言う、我々は神に会う、福音において会う。 神の栄光に会う。神の言葉が核心であることを理解せよ。
9) 彼ら偽牧師は、偽物の福音を説教する
偽物の説教者は偽物の福音を説教する。それは真の福音の真反対である。パウロは警告している、「だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです」(2コリント 11:4)。 悪しき霊が人に来て「イエスは呪われよ」と言う。パウロは、聖霊によるのでなければ誰も「イエスは主なる神である」とは言えない、と教えている (1コリント12:3)。
反キリスト、すなわち悪しき霊が来て、福音に反する偽りの福音を教えているのである。その偽りの教えにあるイエスは誰をも救わず、清くできず、それは悪しき知らせであり、あらゆる不品行を許す。(Mathew牧師による解釈) 人々は、聖書のイエス、真の福音、聖書の聖霊、聖書の福音を教える牧師を嫌う。聖書は、清く生きることを求めるからだ。
イエスは忠告された、「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(マタイ24:4-6)。そして、イエスは言われた、「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイ24:10-12)。パウロは書いている、「ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」(ガラテヤ1:7-9)。最悪の呪いは、偽りのイエス、偽りの霊、偽りの福音を教える者達にやってくるのだ。
パウロは宣言する、「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです」 (ローマ16:17-18)。
10)偽牧師は、人々を奴隷化する
偽牧師は、人々をもてあそんでおり、奴隷化し、やがて地獄に送る。これらを行っている間も、偽牧師は真の牧師を非難し、人々をもてあそぶ。彼らの元凶は、偽福音に他ならない。サタンの遣いであって、サタンが行うことをしているのである。イエスは言われた、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」(ヨハネ10:10)。
真の牧師のみが人々を愛し、福音を説教する。福音は救いに導く神の力である。真の説教者のみが悪魔の束縛から解放しようとする。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません」(ガラテヤ5:1)。どの教会であっても、真の福音を説教するのであれば、人々を真の自由へと解放する。神はあなたを愛されるのであって、神が送られる説教者は、あなたを愛し、真の福音をあなたに伝える。神を畏れる両親は子供を愛する。神の聖なる者達もあなたを愛するのである。
R.J.ラシュドニー(R. J. Rushdoony)は、「成熟への反抗」(Revolt against Maturity)という本の中で言っている。人々は、キリスト者としての生活において、無責任な状態、甘えの状態にとどまることを好む。しかし、そこにとどまるなら、様々な偽りの教えに翻弄され、やがて腐敗していき、騙されていく。神は、我々を成長させるために真の牧師を送られる。パウロは書いている、「天より高く昇られたキリストは、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることはなくなります」(エペソ4:11-14)。
我々は福音を理解しなければならない。明晰で賢明であれ。霊的に成熟し、異端や偽牧師に対抗せよ。偽牧師はあなたがたを奴隷化するだけである。パウロは言っている、「潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした」(ガラテヤ2:4)。また、他の箇所でも言っている、「しかし、今は神を知っている。いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」(ガラテヤ4:9)。真の福音を説教しない牧師はだれでも、聞く者をもてあそび、奴隷化する。「あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです」(ガラテヤ4:17)。それは、人々を奴隷化したいということにほかならない。
あなたを愛する牧師、それは誰か?おそれは真の福音を説教する者である。あなたが天の御国を目指して永遠に生きるように真実の福音を説教するのである。しかし、偽牧師は、人々を奴隷化し、神の恵みの救いの業をもたらす真の福音を説教せず、清さを説教せず、結果人々を奴隷化する。
11)彼らは自分自身のことを説教している
偽牧師は、自分自身のことを説教する。パウロは書いている、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(2コリント4:5)。彼らは、彼ら自身を褒め、彼ら自らの行いを奨励し、自分の栄光を求める。彼らは、霊的自己宣伝家で、いつも彼ら自身が注目されることを好む。テレビでもそのような宣伝家を見る。人々を喜ばせる説教をして、自分自身を喜ばせている。
彼らは、十字架につけられたイエス・キリストを説教しない。パウロは言う、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」。ガラテヤの人たちは、催眠術にかかったように偽牧師に惑わされていたのである。「だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(ガラテヤ3:1)。
彼らは、十字架につけられ、死から蘇り、王として支配しておられるイエス・キリストを説教しない。彼ら自身を説教している。彼らの言うことをあなたが信じて永遠に滅ぶことを望んでいるのである。これはまさに悪魔が望んでいることである。悪魔は、自らがやがて地獄に行くことを知っているので、他の者も一緒に行くことを望んでいる。偽牧師は、その地獄の穴へ導く遣いである。
真の説教者は、イエス・キリストを主なる神として説教する。これによって人々がキリストにより頼み、救われるためである。
12)彼らは、偽の奇跡を行う
偽牧師は、ある種の超自然現象尾を行う。それは、悪例の行いである。彼らは、偽物の霊的賜物を持っていて、これによって予言や霊媒、いろんな奇跡などを見せびらかす。あなたの足を延ばしたり、茶色いバッグに悪霊を吐き出させたり、吠えたり、噛んだり、ダンスや、酔っ払いのようにさせる。いわゆる、霊によって「打ちのめされた状態」というのをやる。これらは単なる呪術で、見せびらかして人々をひきつけて騙すだけのものである。かれらは前に、後ろに倒れる。みんな悪霊の活動である。
個人的に知っているある牧師が、近くの教会を訪ねたところ、そこには他の教会を追い出された者が数多く集まってという。偽物の霊的賜物をやっている教会であった。その教会の集まりで、ある人が預言をして、その牧師がポーランドに行って働きをするように夢で示された、と言ってきたそうである。これに対して、「それはまずい、私はそのようには示されなかった」と、その牧師は言ったそうである。
スポルジョンは同様の出来事を言っている。ある若者が来て「木曜日に、ここで説教することになっている」と言ったそうである。スポルジョンは言った、「神からそのようなことは聞いていなかった」。そのような預言は、悪霊の活動である。人々をもてあそび、奴隷化するのである。
イエスは言われた、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ7:21-23)。
マーティン・ロイドジョーンズ牧師が、ウェスト・ミンスター教会を引退した後、その後任牧師として、着任した者がいた。当初は福音を説教する本物の牧師のように見えていたが、実は偽物であった。偽福音を説教し、悪霊のカリスマ活動を教会に持ち込み、教会を破壊した。
1
だから、羊のなりをしたオオカミに注意せよ。時が来ると、羊の毛皮を脱いで貪欲なオオカミの正体を現し、羊を切り裂いて食い物にするのである。
福音を説教する真の牧師
では、本物の牧師をどのように見分けることができるのか?第一に、真の牧師は、神によって呼ばれ、牧師となっている。パウロは言っている、「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです」 (1 コリント12:28)。人が任命するのではない、神が任命するのが本当の牧師である。
そのような牧師はキリストから教会に与えられている賜物である。神の民に神のことばを教え、神の働きにふさわしく整えることができる(エペソ4:11-14)。真の牧師は、教会にとって賜物である。その牧師は、父なる神、子なるキリスト、聖霊から召命を受けている。その牧師は、神の民の世話をする仕事を任されている。パウロがエペソの長老に教えている、「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」(使徒言行録20:28)。
そのように神からの召命を受けている牧師は、聖書を説教することで羊を養う、これに集中している。だから、聖書のみという原則に尽力している。教会をキリストの花嫁のように整えていく、それが目標であり、すなわち神の民がその力強い清さに満ち溢れるようになることを目指しているのだ(2コリント11:2;エペソ5:27)。
本当の牧師は、神の民が神のことばで養われるように世話する責任を心得ている。イエスは言われた、「私の羊を養いなさい」。パウロは言った、「御言葉を説教しなさい」。このために、真の牧師は神から賜物が与えられており、福音を説教して教えるようになっている。神は、真の牧師に、常に、どこでも、試練や、誘惑、迫害、死の影の谷、生死の中から勝利を与えられる。勝利者であるキリストに従っているからである。牧師に教えられる人々も、同様に勝利する。パウロは宣言する、「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました」(コロサイ2:15). イエスは言われた、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33). パウロはまた言っている、「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(ローマ8:37).
これが、真の牧師が恐れない理由である。勝利のキリストに従うので、雄祐としているのである。イエスにあって我々は、毎日勝ち得て余りあるのである。イエスにあって、我々は克服者である。契約の箱が我らの前を進む。キリストは我らを導き、イエスの名を叫ぶとき、エリコの城壁は崩れ落ちる。
勝利の主に導かれ、我々はすべての種類の人々に福音を宣言する。なぜなら、福音は神の香り、信じる者には死に変えて命を与え、拒絶するものには死をもたらす(2 コリント2:14-16)。パウロは言う、「我々は香りである」。神は、ご自身の知識の香りを伝えるものにしておられる。我らはキリストの香り、すなわち福音に満ちておりキリストに満ちている。蓋のあいた香水のボトル、中からよいにおいが香る。どこへ行っても、その香りが出てきて、霊的に死んでいる者を生かして信じる者にする。福音を拒絶する者を、霊的に葬る。罪びとが悔い改めるとき、天では喜びの勝どきが上がる。それは神の香りである。信じるものすべてに与えられる香りである。真の牧師に与えられる香りである。
神は、ご自身の知識の香りを、いたるところで我々を通して拡散させられる。家でも、仕事場でも、教会でも、旅行中も、その香りが拡散する。パウロは言う、我らは神へのキリストの香りである。我らは、キリストの人格とその業を現すという意味である。ゆえに、パウロは勧める、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイ3:16)。福音は天からきた最も高価な香水である。マリアの捧げた300デナリの香水より高価なのだ。
神は、真の牧師がその困難な任務を行える力を与えられる。我々はキリストが与えてくださる力でなんでもできるのだ(ピリピ4:13)。神の恵みは我々に十分に与えられるので、神が委ねておられることはできるのである。神はそのように言っておられる(2 コリント9:8)。キリストは教会のリーダーであり、すべての主である。キリストは永遠に生きておられる方であるので、我らもともに生かされるのだ。
三位一体の神から召命を受けている、真の牧師が与えられていることを感謝しよう!パウロは、自分自身について言っている、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(ガラテヤ1:1)。パウロは人から召命をうけたのではない、神ご自身から送られたのである。
本当の牧師は、その人格と真の福音を説教することで、それと見分けることができる。本当の牧師は、利益や、人の評判、権力のために神のことばを曲げない。神に対して申し開きをしなければならないことを知っている。へブル人への手紙にある、「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたの益となりません」(へブル13:17)。ペテロも同じことを言っている、「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります(1ペテロ5:1-4)。
本当の牧師は、福音の香りを拡散させ、これにより人々信じて生かされ、また信じない者は滅びに行く。これは、大変な任務である。我々が、偽りの説教者を避けることができるように、また、神が召命され真の福音を説教する本当のキリストの牧師を、喜ぶことができるように、祈る。