祈り (第二部)
P. G. Mathew | Saturday, June 10, 1995Copyright © 1995, P. G. Mathew
Language [English]
キリスト者の祈りについての学びを続けたいと思う。キリスト者の祈りは聖霊によって、イエス・キリストを通して、父なる神に祈るいのりである。聖書は、個人的な祈りや、共に祈る公的な祈りがあると教えている。マタイの福音書には次のようにある、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」。これらは偽善的な祈りである。祈る姿を人に見せて、外側から見ると、いかにも敬虔そうに振舞っているが、イエス・キリストは言われる、「彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父なる神に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父なる神が報いて下さる」。個人的な祈りにおいて、個々人はイエス・キリストを信じ、聖霊の力づけと示しによって父なる神に祈るのである。
さて、個人的な祈りは聖書に記録されており、旧約、新約の時代の様々な人々が祈っていることがわかる。個人的な祈りもあり、神を信じる人々が集まって、いわゆる公的な祈りもある。イエス・キリストは、エルサレムの神殿を、祈りの家と呼ばれたが、人々はそこを泥棒の巣にしてしまっていた。商売と物欲の場所にしたと叱咤されたのだ。確かにかつて神殿は祈りの家であり、神殿に人々が集まって祈った。使徒行伝 4:23では、イエス・キリストの弟子たちが集まって祈った様子を記録している、「ペテロとヨハネは、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。『主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました …。』」。
だから個人的な祈りにおいては、一人ひとりが常に日々祈り、そしてより公的な祈りでは、人々が集まって祈っているのである。我々も同様に、礼拝で神の家である教会に集まって祈っている。一回の礼拝で祈りが何回あるかを数えてみれば、3、4、5回、あるいはもっとあるかもしれない。一人が祈って、他の人がそれに同意している様子をうかがえる。
祈る場合の動機は何か?正しい動機をもって祈らないと、神はその祈りを聞かれない。なぜなら、神の心にかなっていないからだ。ヤコブの手紙4:3にはこう書かれている、「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」。間違った動機とは何か?「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」。悪しき動機というのもある。「1台一千万円するメルセデス・ベンツEクラスが欲しい」とか、「そこらへんで売っているのとは違うファッション・デザイナーの服が欲しい」というような祈りをする人もいる。そんな祈りが聞かれるだろうか?答えは、NOである。これは、メルセデス・ベンツEクラスを買ってはいけないということではない。このような動機で祈るのは宜しくないという意味である。これは神の御心に基づく祈りではないので、神はそのような祈りを聞かれないということである。
祈りは、聖書の言葉で吟味された動機で祈るべきである。神の栄光が現れるようにというのが動機である。神の栄光のために祈っただろうか?イエス・キリストの名、その権威に基づいて祈っただろうか?祈りが答えられた時、神に感謝しただろうか?自分で確かめてみるきである。正しい動機で、その祈りは神への愛が動機だろうか?神の栄光を求めているだろうか?さて、食べ物など日々の必要が与えられるようにも祈るべきである。それはお願いの祈りである。食事をして生きるように創造されている我々には、それが必要だ。同様に、着る物、家屋も必要なものとして与えられるように神に願い求めるべきである。仕事の報酬で、衣服を買い、家屋に住むことができるように、仕事のためにも祈るべきである。神からの知恵が与えられるようにも祈る必要がある。これらは我々の勉学のためで、将来の仕事のためでもある。従って、「神様、理解力や知的能力を与えてください。よく学んで、仕事に備えられますように。食べ物や衣服が与えられますように、必要をもった他の人を助けられますように」と祈ることは適切である。そして、「神様の制御、導き、力に守られて生るように、私たちを日々聖霊でみたしてください」と祈るべきである。我々が誘惑されるかもしれない時、「誘惑に勝てるよう、誘惑に加担せず、救い主イエス・キリストによって信仰が成長できるようにしてください」と祈るべきである。
我々の友人、子供、伴侶、隣人が救われるように、と祈らなければならない。これらは適切な祈り、聖書が求める祈りである。また、信仰が増すように祈るべきである、「神様、わたしの信仰を大きく成長させてください。信仰が小さいと、心配に右往左往し、混乱してしまします。信仰がなければ、それは神様を知らない、神の国に属さないということです。しかし、私はあなたに益々信頼するように、信仰を増してください。神様が言われたとおりになると信じます」。実際的な必要のために、次のように祈るべきである、「私の心に愛を満たしてください。それは先ず主なる神様の為に、そして次に人のためにです。それは主の大いなる掟であります。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なるあなたの神を愛せよ。次にあなた自身のように隣人を愛せよ、と書いてあります」。
どのような心で祈るのか?まず、真摯に祈る。パリサイ人のように批判的な心、それは愚かにも外側が見せかけの信仰心で、その内側は律法的な、自分は義人であると思っている腐敗した心、そういう心で神のもとに来るべきではない。ルカ18章に、あるパリサイ人がおもむろに神殿に来て祈る様子が描写されている。彼は自分に対して祈っているのだ。それはこのようである。「私はたいした人間だ。ほら立派だろう」。しかし、心は自己義認と見せかけの謙遜のかたまりである。神はそのような人間を義とはされない。すると、もう一人がやってきて、真摯に次のように祈った、「主よ、私はあなたの前に罪人です。憐れんで下さい」。この人は真実に、正直に神に祈ったのだ。そして、神はその人を義とされたと聖書は伝えている。祈りは、真摯に、正直に、心から祈らなければならない。
次に、神に対する畏(おそれ)をもって祈る。神を畏れおののく心である。無限であられるが人格を持たれ、栄光に満ちた、全てを御存じの、聖い神である。主なる神は、モーセに言われた、「靴を脱ぎなさい。あなたの立っている所は、聖い場所である」。神を畏れる心に満たされるということである。慣れ親しんだ友人に会うのとはまるで違う。永遠の、全能の、父なる神、王の王、主の主である。それを知るべきである。
第三に、へりくだった態度で祈る。我々は限りのある存在であることを認めなければならない。そして、神の恵みにより救われた罪びとであるのだ。神の憐れみがなければなにもない存在、それが我々人間である!だから、神を畏れ、我々がへりくだるべきものであることを肝に銘じなければならない。
第四は、信仰をもって神のところに来なければならない。「あなたの信仰に応じて」という場合の「信仰」とは、ギリシャ語で我々の神への「信頼」である。信仰は、「全てにおいて、この偉大で、無限、全能の神を信頼する」ことを意味する。それは、丁度父親の腕の中で全く信頼しきって安らう幼子のように、この神にあって休むことである。我々の神に対するそのような信頼を意味する。
次のようにイエス・キリストが語っておられるところを見よ。マルコ11 章20 節には、次のようにある。「翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。ペテロは思い出してイエスに言った。『先生、ご覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。』」神は枯れているイチジクの木を用いて信仰の祈りを教えておられる。22 節では、「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うお取りになると信じるならば、そのとおりになる」と言っておられる。
そもそも、神に栄光を帰する為でないならば、山に向かって「海に沈め」と命ずるような大きな信仰を神は与えられない。エベレスト山に「なくなれ」と命じる様な人を見たことはない。自らの信仰が大きいことを証明したいだけならば、山に向かってひたすら叫ぶことはしてはならない。しかし、もしもそれが神の栄光と神の国の発展のためである、と神が言われるならば、話は別である。
イエスは言われた、「だから、私は言っておく。何事でも祈り求めるならば、既に与えられたと信じなさい。そうすれば与えられるであろう」。この「何事でも」というのは、以前学んだように、神の言葉の制限範囲での「何事でも」である。たとえば、「神様。私は一生懸命勉強すべき学生です。どうか知恵を与えて下さい」と祈るのは神の御心にかなっており、祈りは聞かれ、求めている知恵を与えて下さると判る。
祈りとは、父なる神が私を愛しておられることを知ることでもある。だから聖書が私たちに求めるようにと教えているものは、何でも神に求めるように命令されるのだ。例えば、「日々の食べ物を与えて下さい」。と我々は祈るし、それは適切な祈りで、神はそれを与えられる。このように、神は真実であり、完全に信頼して祈り求めるべきである。私たちの神は、そこら辺の政治家のように、物事を無作為に述べたり偽ったりされない。その様な政治家は、選挙の時期だけ聞こえの良いことを言う。即ちそれは嘘なのである。人々は選挙の年にはその嘘を許容し、しかもその後は責任を問わないのだ。その結果、人々は、神御自身もこのように二枚舌を使われるかのように誤解している。しかし、実際はただ神こそ真実であられる。従って、真に新生しているキリスト者は、神が真実を貫かれることを信じ、信仰をもって神に祈るのである。
第五に、我々は忍耐して祈るべきである。ルカ11 章、18 章、そしてマタイ15章は、忍耐して祈るべきことを教えている。 11 章では、パンを求めて夜中に友人を訪ねる物語で、しつこく求めた結果、友人は無理に起きてパンをくれたというたとえ話となっており、ルカ18 章では、しつこくせがむやもめの為に、不正の裁判官が正しい裁判をしてくれるという話が書かれている。マタイ15 章では、異邦のカナーン人の女性が、悪霊に苦しめられている娘のため、助けを求めてイエスキリストのもとに来たことが記されている。イエス・キリストは、すぐにはこの女性の願いを聞かれなかった。カナーン人は、当時ユダヤ人にとっては、犬のような存在であって、神様からなにかをいただける資格もなく、全く望みのないものだということを彼女は知っていた。「犬でさえ、テーブルから落ちるパンくずはいただきます。」とこの女性はくいさがった。イエスは言われた、「あなたの信仰はりっぱだ」。そのように、その女性の信仰をほめ、悪霊から救われた。だから、我々は忍耐して祈るべきである。我々は、すぐに祈りが聞かれないと、神様に求めなくなり、他の方法に頼ろうとする。それは良くない。我々キリスト者はこの場合プランBを持たない。我々には唯一の方法のみが存在する。それは、父なる神を求めることに他ならない。
我々は、忍耐する必要がある。マタイ7 章で、イエスは祈りを教えられた。イエスは「求めなさい」と教えられたが、その「求める」という言葉は、ギリシャ語で現在形・能動体・命令形が用いられており、「求め続けよ」という意味である。このような忍耐深い祈りをもって我々は祈り、我々には、(仮に祈り求めることが聞いて戴けない場合の)プランBがないほどの忍耐なのである。祈り求めるプランAのみがあり、もしも神が助けて下さらなければ、我々は滅びてしまうというような祈りである。神は、我々の祈りにすぐに答えられないかもしれない。その場合、祈り続ける必要がある。そして、祈りが神の御心にかなっているのであれば、神はそれを行われるであろう。従って、忍耐の祈りは我々の信仰が本物であることを表す。
忍耐の祈りに、断食の祈りというのがある。断食は良いことなのだが、我々はこれを好まず食を好む。のみならず、その他多くの楽しみを好む。それらに対して、我々は「ノー」と言えない。もし御聖霊が断食の祈りに導いておられるならば、祈ることに対して我々は真剣になる。例えば、「主なる神様、食を断ち、テレビ、ラジオの視聴も断ちます。なぜなら、特にこのことについて真剣に祈りたいからです」という態度を示すのである。それは、自分の子供が救われる為の祈りとか、その他どのような祈りであっても、忍耐して祈る、その一つの形は断食して祈ることも含まれる。
第六に、我々は大胆に祈る。これはどういう意味か?神は無限であられる。神は全てを凌駕しておられる。神は最も気高い。神は完全に聖い方である。しかし、イエス・キリストにあって私を愛し、私の罪を全て赦されたので、神のもとに大胆に自信をもって来ることができる。我々は神の前にこのように来るようにと、ヘブル4:16 で言われている、「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。これは、我々が高ぶった心ではなく大いなる自信をもって神に近付くという意味である。奴隷のようにおどおどしながら神のところに来るのではなく、イエス・キリストにあって神の子たちとして親愛に満ちた自信をもって来るのである。
最後に、 我々は純粋な聖なる心をもって神のところに来るべきである。 ということは、 他の人を赦さないで神のところに来て祈ることはできないということである。兄弟を赦したくないかもしれない、しかしマルコ11: 25はこのようにある、「また、立って祈るとき、 だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。 そうすれば、あなたがたの天の父も、 あなたがたの過ちを赦してくださる」。詩篇66:18は、 我々が心にとがめることを持っていれば、 神は祈りをお聞きくださらないだろうと教えている。「 わたしが心に悪事を見ているなら、 主は聞いてくださらないでしょう。しかし、 神はわたしの祈る声に耳を傾け、聞き入れてくださいました」。 この詩篇の著者は罪の赦しを神に求めたと言っている。従って、 我々が神に来るときに、 純粋な心をもって来なければならないのだ。 もし心に罪をいだいているなら、その瞬間、 祈る資格を失っている。神は、 そのような態度での祈りをお聞きにならないであろう。
そういうわけで、 キリスト者の祈りの大いなる特権を我々は行使する時に、 真摯な態度で神を畏れ、へりくだって来なければならない。 信仰と忍耐、おどおどしない大胆な態度をもってである。 しかも純粋な聖い心で来るのである。 神はそのような祈りを聞かれるように祈る。アーメン。
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