全ての信仰者の祭司としての務め

P. G. Mathew | Saturday, August 17, 1996
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最近、プロテスタントの牧師が視聴者に祈りのリクエスト送るよう依頼しているテレビ番組を見た。その牧師は、「他のキリスト者よりも神に近く、その祈りで視聴者の願いがかなえられる」と言っていた。この牧師は視聴者の手紙を受け取ると、まるでローマ教皇のように振る舞った。無論、祈りのリクエストに加えて、それに匹敵する献金も期待しているのだ。何年か前のことだが、自らを「カリスマ的な使徒」と名乗る者から、その働きに協力するよう勧められた。彼は、法王のように私に奉仕してくれると主張したが、私はきっぱりと断った。その奉仕とひきかえにお金をまきあげるつもりだったのだ。

ローマ・カトリックにはただ一人の教皇がいるが、ある意味においてプロテスタントには数多くの祭司がいる。しかし、「信仰者すべてが祭司である」というこの聖書の教理は、ローマ・カトリックのみならず多くのプロテスタント教派にも受け入れられていない。信仰者すべてが祭司であるという教理を否定する理由として、キリストを信じる普通の信徒は神に近づくには不十分であり、仲立ちとなる者に代償を払って世話してもらう必要があるという考え方がある。そのため、この仲立ちを儲けのネタにするという中世に始まった悪い習慣が、まるで司祭制度が現在でも存在するかのように今も福音主義の中にはびこっている。神の言葉を解き明かす説教が少なくなればなるほど、危機感のない無関心な福音主義の陰にかくれて、お金儲けの司祭がはびこるのだ。

信仰者はすべて祭司である

但し、「信仰者は一人ひとりが祭司である」という聖書の教理は、ローマ・カトリックの非聖書的な司祭制度の教理を否定する。また、時々プロテスタント教会に見られる上述のテレビ番組の例で見たバラモン教の祭司のような存在をも否定する。15171031日、ウィッテンベルグ聖城教会の扉に、マルチン・ルターは95箇条の論題を貼り付け、「司祭が行う霊典を通して救いが与えられる」という誤った考え方に挑戦状をたたきつけた。ルターの示した論題は、反司祭制度的であり1、超自然的な命が洗礼の儀式によって生み出されるという教えを真っ向から否定するものであった。のみならず、「超自然的な神が与えたもう命が、ミサにより育てられ確実にされる」とか、「ざんげと終油式によりすべての病は癒される」とかいう教えをも退けた。即ち、司祭が霊典によって個人の人生を生前から死後に至るまで支配することをルターは否定した。

ルターは、特に3637番目の論題で、司祭の主張と圧制を獅子のように強烈に批判して、次のように述べている、「罪を悔いる真のキリスト者は全て、完全に罪を赦され、その裁きや重荷、そして免罪符から解放される。全て真のキリスト者は、存命中も死んでからも、キリストと教会からくる全ての良き益を神によって与えられている」。2ルターは、イエス・キリストを信頼する者は全て祭司である3と主張した。即ち、「我々キリスト者は、希望にあふれる日に向かって歩んでおり、その日には、我々が全てにおいて平等であるということを理解し、司祭の圧制の縄目をふるい落として罪からの喜ぶべき自由を取り戻し、キリストをもち、なぜならキリストをもつものはキリストが所有しておられるすべてを所有し、御心を全て行うことが可能であることを知るようになる」4と書いている。

「キリストを信じる全ての人は祭司である」という概念は、ルターが「キリスト者にとって聖書こそ唯一の権威である」ことを確信した時に与えられた。特にパウロによるローマ手紙を読んで、ルターは、イエス・キリストにあって、またキリストを通して神の義が与えられること、そして横柄な司祭の仲立は必要なく、イエス・キリストを通して、直接神と繋がることができるということをさとったのだ。この信仰を通して恵みによる義が与えられる、という教えの結果として、全ての信仰者が祭司の役目を果たすという教えが導かれる。神の完全な義の衣を身にまとった者は、神の臨在のもとにくることが許されている。イエス・キリストのみが父なる神への道であるから、キリスト者は仲介者である司祭を必要としない。それゆえ、司祭制度と改革信仰の違いは、次の質問にはっきり示される。「救われる為に、私は何をしなければならないのか?」ローマ・カトリック教会は、「司祭と教会に頼れ」と答える。しかし、聖書は「主イエスを信じなさい、そうすればあなたは救われる」と教えている(使徒言行録16:31)。

ジョン・カルビンは、次のように記している。「キリストが唯一の犠牲を払われたので、我々に永遠の贖罪と神との和解を与えて下さった。今や、キリストは神の聖なる宮に入られ、我々の為にとりなしておられるのである。キリストにあって我々は全て祭司である(ヨハネの黙示録1:6;Iペテロの手紙2:9参照)。我々は、神を褒め称えて感謝をささげる。我々自身を神にささげる。キリストの御業のみが神の怒りをなだめ、キリストの献げもののみが罪を購うのである。」5

ヘブルにあるように、キリストの死の犠牲はアロンの祭司職を廃止した。従って罪の購いの代価としての献げものをする必要はない。完全なる神の御子イエスが大祭司として神との新しい契約を結んで下さった(ヘブル915-22)。更にまさった契約の仲介者になられたのだ(ヘブル8:6)。我々の罪の代わりに完全な犠牲となって御自身をただ一度献げることによって(ヘブル7:27)、賠償金を払われた(ヘブル10:14)。自らの死をもって、我々の死を取り除き(ヘブル9:28)、我々を完全な者にし(ヘブル10:14)、我々の為に永遠の購いを獲得し(ヘブル9:12)、神の恵みの御座に近づく、生きた新しい道を開いて神の右の座に就かれた(ヘブル10:12)。今や全て信じる者にイエスの血によって聖い良心を与えられる(ヘブル9:14)。それは、我々がキリストにある祭司として、神に対して霊的な献げものである礼拝をつねにささげるようになるためである(ヘブル13:15-16)。

95箇条の論題は、神と信仰者の間に立ちはだかるローマ・カトリック教の司祭制度を破壊することを目的としていた。カルビンはこの司祭制度を次のように記述している。「司祭制度は、キリストとキリストの十字架上の死による我々のための犠牲に対してなされる最も悪質な醜行、耐えがたい冒涜である。つまり、司祭制度を信奉する者は、その捧献儀式が、繰り返し我々の罪を赦し、神の怒りをなだめ、その都度義を獲得できると信じているのである。」6

カルビンは、全てのキリスト者がキリストの祭司としての働きを果たし、その祭司としての働きはキリストにあって父なる神に受け入れられるということを悟った(ヨハネの黙示録1:6)。彼は次のように書いている。「我々は価値なきものであっても、キリストにあって祭司である。我々自身を全て神に献げ、天の宮に自由に入り、神の前に受け入れられる香り高き祈りと賛美の献ものをささげることができるのだ。」7

神と人との間の仲介者は唯一であって、人なるキリスト・イエスである。この方によって、キリスト者は直接、即座に神とところに来ることができるのだ。ローマ・カトリック教であれ福音主義であれ、失敗しうる人間の司祭はもはや必要ない。キリストにあって我々は全ての奴隷状態から解放され、高貴な祭司としての尊厳を与えられる。信仰者は、神に選ばれた者として、イエス・キリストの復活の希望に生きる新しい命を与えられた(Iペテロ1:3, 23)。生きた礎石イエス・キリストに信頼する人は、まるで生きている石のように、新しい霊的な神殿へと組み上げられていくのである。

信じる者たちは、聖なる祭司としての霊的な献げものを神にささげる(Iペテロ2:5)。キリスト・イエスを信じる信仰によって、王の系統を引く祭司(Iペテロ2:9)、神の子たちである(Iペテロ1:3, 23;ガラテヤ3:26)。そこには信じる者たちの間には何ら区別がない。パウロは書いている。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。はなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラテヤ3:28-29

大祭司であるキリストの犠牲の結果、我々の全ての罪が赦され、神の完全な義を我々に注ぎこまれた。キリストの義の衣をまとって、全て信じる者たちは祭司のように神のもとにくることができる(ヘブル12:22-23)。これは、罪の赦しのための血に染む捧げもの、その他どのような霊的な献げものをも必要としない。カルビンは言っている。「キリストは大祭司であられると同時に、我々が献げものを置く祭壇でもあられる。」8キリストのみが真の大祭司である。キリストのみが仲介者であられる(Iテモテ2:5)。キリストのみが教会のかしらであり(コロサイ1:18)、キリストのみが神であられ(コロサイ2:9)、キリストのみが王であられる(エペソ1:22-23)。

司祭制度の確立

すべての信仰者が祭司であるという教理は、聖書全体を通して見られる(創世記19:6;ホセア書14:2;詩篇50:23;詩篇51:17-19;詩篇141:2;Iペテロ2:5-9;ヘブル13:1-16)。そしてこれは初期の教会で実行されていた。「紀元1世紀のキリスト教会には祭司職はなかった。新約聖書ではキリスト者の働きをしていたリーダーに対して祭司という言葉は使われていない」9R.レアード・ハリスは書いている。しかし、この栄光ある教理は、紀元3世紀以降、特にシプリアン司教(紀元258年)によって徐々に司祭制度に置きかえられていった。カルタゴの司教シプリアンは、「旧約聖書に出てくる記述の中でアロンの祭司職に該当する特権的、専任的な任務をキリストの教会役員が行う」10こととした。シプリアンは、ヘブルの主題を全く間違って捉えてしまった。彼は、「使徒の記した福音において、ただ一人の大祭司が我々の主イエス御自身であり」11、教会の司祭ではない、ということを全く悟っていなかったのである。

ローマ・カトリックの神学者たちは、イエスがペテロに神の国の鍵を渡し、かれを礎石としてその上に教会を建てられるということから、司祭制を正統であるとした。即ち、ペテロが最初のローマ・カトリック教皇であり、以後その鍵は世代を通じて引き継がれ、神の国への鍵でその扉を開けるも閉じるも、救うも滅ぼすも、教皇にその権威が委ねられた、と教えた。救いはローマ教皇に預けられ、彼が執り行う霊典を通して個人に施されることとした。その霊典は、神が与えたもう有効な命(いのち)であって、司祭やそれを受ける者の主観的状態にはよらないとする。ローマ・カトリック教会は、司祭の仲立ちを離れては救いがないと説き、「イエス・キリストにある信仰のみを通して神の恵みを受け、父なる神に大胆に近づける」者などだれ一人としていない、と教える。

聖書はなんと教えているか?

新約聖書は、教会がペテロの上に建てられるのではなく、イエス・キリストの基礎の上に建てられるとはっきり教えている。生きた石としてペテロも他の者もキリスト、即ち生きている礎石のところへ来た。それは新しい霊的な宮として建て上げられるためである(Iペテロ2:6-8)。ペテロは、マタイ16章にあるイエスの言葉が「ペテロの上にイエスが教会を建てられる」と解釈していない。もしそう解釈していたら、初めからそのように書いたはずである。彼が書いたのは、イエスが礎石、ペトラ(Iペテロ2:8;マタイ16:18;使徒4:11)であり、後にペテロ自らをキリストの同胞たる長老であると自称している(Iペテロ5:1-3)。つまり彼は教皇ではない。従って、イエスが鍵について言われた時、その鍵をペテロのみならず全ての使徒にゆだねられたと悟っていた。そう私は確信する(マタイ16:18; 18:18)。

パウロはイエスが教会の礎石であると理解していた(Iコリント10:4; 3:11;エペソ2:20)。イエスは彼自身が教会の礎石であると自認しておられた(マタイ16:18; 21:42)。いったい使徒のうちの誰が「霊のいのちは創造されて、養われ、霊典の恵みによって完成され、これが司祭だけを通してもたらされる」とか、「天の国や地獄への鍵も司祭の帯紐に結ばれている」とかを教えているだろうか?12 答えは「誰も教えていない」である。使徒の働きは、まず福音を説き、罪を悔い改め、主イエス・キリストのみを救い主として信じる必要を教えることであった。

キリスト者はイエスを唯一の祭司とみる。しかし、これに対してローマ・カトリック教は「ローマの司祭を仲介者とする。なぜなら、罪びとは自分でキリストを通して神に近づき、赦しや恵みを受けることはできない。司祭の仲介によってそのような祝福を獲得できるからだ」13と教える。しかし、宗教改革はこれら司祭制の主張を打ち壊し、このようなローマ・カトリック主義の独裁と救霊概念の危険から、信じる者を解放したのである。

全ての信仰者が祭司の務めを行う

祭司として全てのクリスチャンは神に献げるものがある。F. F. Bruceは、本人が著わしたヘブルの注解書で、「キリスト教は献げもので貫かれており、キリスト御自身がその基礎を造られた。キリストに属する者の賛美であれ物質的な財産であれ、キリストに仕える生活自体であれ、キリストがこれらの献げものを、完全な犠牲としてキリスト御自身によって受け入れられるようにしてくださる」14と言っている。

福音を語る牧師は神が教会に与えられる贈り物である。牧師は、神の民を支配するのではなく(Iペテロ5:3)、説教を通して神の民を「教会に仕える働き」ができるように整える(エペソ4:11-12)。ルターにとって、聖職者とは全て神の民に仕える牧師のことであった。従って、福音を説教しない司教や司祭は、「教会に巣食う病原体、羊の衣を着た狼」15であった。

信仰者にはそれぞれ神に仕えるための恵みが与えられている。「我々には恵みによって、異なった賜物が与えられている。それが預言であれば、信仰の測りに応じて預言をしなさい」(ローマ12:6)。「一人一人に『霊』の働きが現れるのは、全体の益となるためです。(Iコリント12:7)。「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」(エペソ4:7)「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を活かして互いに仕えなさい。」(Iペテロ4:10

教会の働きは一人で行う働きではない。それぞれが恵みを与えられ、それぞれが祭司であり、それぞれが祭司として神に仕える務めを皆と共に行うのである。新約聖書時代の会衆は、例えて言えばオーケストラの様に、規律正しく神に仕える働きを粛々とおこなうのである。しかしながら、福音派教会のほとんどにおいては混乱があり、信者は自分に与えられている賜物を用いて教会を建て上げるように励まされてはおらず、多くの教会では、教会員のほとんどが傍観者となっている。

実践的な適応

グレース・バレー・クリスチャン・センターでは、様々は働きを行えるように長老が神の信徒を整えている。我々は、改革教会としてすべての『~のみ』を信じる。『聖書のみ』、『キリストのみ』、『恵みのみ』、『信仰のみ』、『神の栄光のみ』等である。我々は、またRousasJ.Rushdoonyの告白に同意する。即ち、「教会の目的は、人々を教会に服従させることではなく、世の人々を王であられるキリストに服従させる、栄光ある祭司としての務めが果たせるように信徒を訓練することである。これまで教会は『全ての信徒の祭司としての務め』という時に、多かれ少なかれ口先だけで終わってきた。その理由は、教会の教権制度が教理の意味することに信頼を置いてこなかったということであり、教会自体が目的となってしまい、手段となっていなかったということである。」16

我々は、「一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」(エペソ4:7)ということを根拠として、改革教会は『個々の信仰者』の働きを増進させるべきであると信じる。現代の教会の弱さは、その多くが改革信仰の教理に適切な注意を払っていないことから生じると言える。我々は、とっくの昔にこの教理を教え、神の民の霊的エネルギーを、神の栄光のための霊的に生産的なことがらに投入していなければならなかった。我々は、正統的教理を信じるだけではなく、ピューリタンのようにそれを実行していなければならなかった。

我々の教会には、聖職者と一般信徒の区別がない。皆が神の祭司であり、ほとんど全員が教会の何かの働きに無償で携わっている。最近、教会員の一人で大学教授が我々の教会の奉仕をしていた。学識者であるこの教会員がしていた奉仕は、窓磨きであった。神への愛に満ちており、喜んでひたむきに他者に奉仕するその態度は、決して強いられてではなく、それぞれ自主的に日ごろから行われる姿で、まさに信仰者全てが祭司の働きをするという教理の実践そのものである。

ただ、この教理の実践を、訓練もせずに個々人が勝手に行うべきではないと注意したい。信仰者すべてが祭司であるということの実践は、まず教会内で、教会員同士の間で行われるべきである。即ち、まずは教会員の益のために、そして教会から外の世界へとその益が広がっていくという形で行われるべきである。

我々の犠牲的な献げものとは?

新約聖書を信じる者は、それぞれ祭司として、大祭司イエスを通して神への霊的な犠牲を献げる。その犠牲的な献げものとは具体的になにか?

自らを献げる(ローマ12:1; 6:13; IIコリント8:5;詩篇51:19)。我々は、我々自身のものではない。従って、自分自身のからだとたましいとを、神に明け渡して仕える。「神の求めるいけにえは、打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩篇51:19)我々は、神の考えを考え、神の意志を行い、神が感じられるように感じるべきである。

完全な従順(詩篇40:6-8;サムエル15:22)。現代の福音派における異端とは、イエスを救い主として受け入れれば、キリスト者になることができ、イエスを人生の主として生きる必要はないという教えである。しかし、この間違った教えは、信仰者はすべて祭司であるという教理と相いれない。イエスに従うことは我々の救いの証拠、信仰の確信への鍵である。従順は、我々の神への愛を証明する。イエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と言われた(ヨハネ14:15)。詩編40:6-8に、この犠牲的な従順が教えられている。「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いて下さいました。そこでわたしは申します。ご覧ください、わたしは来ております。わたしのことは巻物に記されております。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み、あなたの教えを胸に刻みます。」Iサムエル15:22には次のように書かれている。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」ジョナサン・エドワーズは次のように書いている。「クリスチャンは、使徒たちが生きた犠牲として自らを献げよと教えているように、生活と言葉において神への従順という献げ物を行う。」17

神を賛美する(ヘブル13:156:10;IIコリント9:13;マタイ25:37-40;ガラテヤ6:10)。我々は、イエス・キリストにあっての我々自身の救いのゆえに神に賛美し続けるのだ。我々は聖書の言葉による讃美歌を歌い、罪を告白し、神の栄光を証言し続ける。

祈りを献げる。(詩篇141:2)。我々は祭司として神が受け入れて下さる良き香りを放つ祈りを献げる。

所有物を分かち与える(ヘブル13:166:10;IIコリント9:13;マタイ25:37-40;ガラテヤ6:10)。神に言葉の賛美を犠牲として献げている人は、まず信仰の家族の間で物質的な必要を求めている人に、物質的な物を分かち与えるのでなければならない。このような物質的犠牲なしでは、単なる言葉の賛美は偽物である(使徒行伝4:32-37)。ヘブル13:16には次のように書かれている。「善い行いと施しとを忘れないで下さい。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」犠牲は言葉のみではなく行いでもなければならない。

牧師や宣教師を支援する(ピリピ4:14-19)。ピリピの教会は彼らの牧師であり宣教師であったパウロを物質的に支援していた。彼らの物質的な贈り物は、「それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえ」であった。キリスト者がこのような犠牲の奉仕に忠実であれば、牧師は充分に支援され、宣教師の働きも充実するであろう。

信仰を伝える(Iペテロ2:9;イザヤ43:21)。我々は一つの目的を持つ栄光ある祭司である。それは、我々を不信心の暗闇から福音の光に呼びだして下さった神をほめたたえ、このことを宣言することである。世の光として、神の福音を教会内でも外の世界でも宣言するのだ。

家族生活(申命記6:4-9)。我々は家庭において、家族に対して神の律法を教えこれに従うよう求めることで、祭司の働きを全うすべきである。我々が家族の祭壇、即ち家族礼拝をなおざりにしないなら、教会は健全になるであろう。

勤務(Iコリント10:31;コロサイ3:23-24)。祭司として、我々は全てを神の影響のために行う。礼拝と職業のあいだに二者択一はない。ルターは、「人がキリストを信じて義と認められたら、その時点からすべてその人が行う勤務は、それが農耕であれ、トウモロコシの製粉であれ、家屋の清掃であれ、子供の養育であれ、すべて神の働きとなる」18と言った。我々は、上司よりも高い地位にある権威(神)が喜ばれるような勤務をすべきである。これら勤務(仕事)も、信仰者全ての祭司としての務めの一部であり、このような態度で神の前に行われた仕事は、必然的に優れた結果を生み、生産性と経済的自立を増す。

死(IIテモテ46;ピリピ217)。我々は生きるにも死ぬにも主の祭司としてである。我々は死に際して「主イエスよ、我が霊を受け取り給え!」と祈れますように。

我々は、これらの犠牲をどのように献げることができるか?聖霊の力によってである(エペソ3:7, 20;ピリピ4:13;コロサイ1:29)。聖霊の大いなる力が我々に働くと、神が受け入れて下さるように奉仕することができる。どのように聖霊の力を得るのか?信仰によってである。自己否定と完全に神に頼ることによって、神の力は我々に与えられ、我々は神の前で栄光ある祭司として人生の全ての領域で、この力により生きることができる。

まとめ

クリスチャンはキリストにあって神の子である。;キリストの義の衣をまとい、父なる神のところへ直接来ることができる。栄光在る祭司として、救いを与えられていることへの感謝の心で人生を通して神に仕える。聖霊によって油を注がれ、そして油注がれたキリストの中にあって、神のことばを告げる者、祭司、また王としての機能をはたす。クリスチャンは仲介者としての教皇の独裁や司祭の仲介という縄目から解放されている。イエス・キリストのみが大祭司であり、大いなる仲介者であることを知っている。そして、キリストの犠牲のみが、クリスチャンを神の臨在へと導くことを知っている。犠牲的な神への奉仕は、聖書により目が開かれることから始まる、そして聖霊に力づけられ、キリストの教会と拘わることの中でこれが行われる。全ての信仰者において、それはなんと偉大な働きであろうか。栄光ある祭司として、神の臨在の中で我々の生死がすべておこなわれますように(神の臨在)!