礼拝

P. G. Mathew | Saturday, January 14, 1995
Copyright © 1995, P. G. Mathew
Language [English]

神を礼拝するとは何を意味するのか?「礼拝」という言葉は、古い英語に由来し、「価値あること」の意である。価値ある方を尊ぶことである。無限・全能の人格をもたれる主なる神に、我々はどのように関わるべきか?神の威厳と計り知れない尊さを理解せずに、本当に礼拝はできない。神の威厳と計り知れない尊さを理解しないなら、それは単なる感情的な礼拝に他ならない。

真の礼拝

ギリシャ語で礼拝はプロスクネオ、前にひれ伏すという意味である。その絶大な価値と威厳の存在を知りその前にひれ伏す、プロスクネオ。詩篇95:6に、「我々を造られた主、その方の前にひれ伏す」とあり、神が創造の主、我々の神であると記されている。

スイスの神学者カール・バルトは、「礼拝は人類のとり得る最も栄光ある行動である」と言った。最も栄光ある行動?飲食や金儲け、街の建設や別の惑星に到達することではなく、真の生きた神が受けて下さる礼拝が、確かに最も栄光ある行動である。したがって、礼拝は真の神の価値とその威厳を認め、神に形づくられ生かされている者として神をあがめることである。神の前で、偶像を作ること、偶像を拝むことは忌むべき行為であり、礼拝とはまるで反対の行為である。それは神をないがしろにし、神を我々人間のレベルまで、いや人間が作った偶像のレベルまで引き摺り下ろそうとする行為である。それゆえ、神は出エジプト記20:5で、偶像礼拝者を処罰される。即ち、神はねたまれる神である。

我々は神をどのように礼拝できるのか?

新約聖書で最も大切な礼拝に関する箇所は、ヨハネの福音書4章で、イエスがサマリヤの女に語っておられるところである。21節に次のようにある、「イエスは言われた『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝している』」。それは、間違った礼拝、即ちナンセンスである。そしてイエスは言われた、『わたしたちは知っているものを礼拝している』礼拝にはこの知性の部分があることに、ここで気づくべきである。知性なしで礼拝はできない。永遠なる神、その崇高な価値のいくばくかを把握する知性である。「わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。主なる神を礼拝しなければならない!我々人間にとってそれは単な選択肢ではなく義務である。

勿論、問題は人類が生まれながらに汚れた良心を持つ罪人であるということである。そのように霊的に死んでおり、神の敵である人間が、いったいどのようにして神のところに来ることができるのか?礼拝すべき神とはどのような方なのか?神は、人格を持っておられ、主権者、全能、全知、永遠で、しかも完全に聖なる存在であられる。いつでもどこでも存在され、かけたところが全くなく、全世界、限りある宇宙全体を創造された。罪深い人類は、超越した聖なる神の絶大な価値と威厳を認識して、どのように神に近づき礼拝すべきか?そもそも、罪深い人間には、神がどのような方かを理解できるわけがなく、神についての知識はない。人は生まれながらに神の敵であり神をきらっており、神を礼拝することを拒否している。罪の中身、それは神を敵とし、神を礼拝することを拒否し、神の栄光を褒め称えないことだ。

あなたは生まれ変わらなければならない

ヨハネ4章は、我々は霊と真理をもって神を礼拝しなければならない、と教えている。人はこのように礼拝できるだろうか?ヨハネの福音書3:7で主イエスは次のように言われた、「わたしのことばに驚くべきではない、『あなたは生まれ変わらねばならない』」。肉から生まれたものは肉である。我々は霊的に神を礼拝しなければならない。では、どのようにそのような霊を持つことができるのか?答えは、「あなたは、生まれ変わらなければならない」ということである。霊から生まれたものは霊である。我々の礼拝が神に受け入れられるには、聖霊によって生まれ変わらなければならない。そうすれば、霊であられる神と交わることができる。

イエス・キリストを主と信じない者は神を礼拝することはできない。不可能である。我々は生まれ変わらなければならない。生まれ変わるには、神の一方的な不思議な力が必要である。我々はなにもできない。それは神による再生の働きによる。神が我々を聖霊によって生まれ変わらせられる必要がある。

イエスは言われた。我々は生まれ変わらなければ、神の国を見ることはできない。即ち、神の国がなんであるかを理解することができないばかりか、その様子もかいまみることができない。そして、神の国の中心は何か?それは王であられる神ご自身と出合うことである。生まれ変わった者だけが、三位一体の神(父なる神、御子、聖霊)の偉大な価値、威厳、その超越性を認識できる。だから、我々は言う。あなたは生まれ変わらなければならない。

キリストとその御業を信じること

ヨハネ3:14-15は言う、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって、永遠の命を得るためである」。神によって生まれ変わるのみならず、我々はイエス・キリストとその御業が全ての中心であることを知らねばならない。イエス・キリストが我々の罪のために、我々に代わって十字架に架かられ、死から蘇り、これによって我々は罪を赦され義とされた。人はイエス・キリストとその御業を信じなければならない。我々が神によって生まれ変わると、主イエス・キリストとその御業を理解し、父なる神の偉大さとその計り知れない崇高さを知るようになる。そうすれば、御子イエス・キリストと聖霊を通して、父なる神を礼拝することができる。我々は、生まれ変わった霊をもつからである。

霊と真理をもって礼拝する

ヨハネ4:24で、イエスはサマリヤの女に言われた、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。初めに、私は、神学者ジェームズ・ボイスが、ヨハネによる福音書を次のように講解していることに同意する、「多くの人々は、イエスがこの「霊と真理をもって」の「霊」と呼んでおられることが、聖霊を指すと誤解している。ここでは、聖霊を指すのではない(ジェームズ・モンゴメリー・ボイス著:ヨハネによる福音書:講解的注解書[Grand Rapids: Zondervan Publishing Company, 1985, p.253)。ここで「霊」と呼ばれているのは、生まれ変わった我々の霊のことである。それゆえ、霊にあって神を礼拝しなければならない。新しく生まれ変わった霊は神を礼拝できる。偉大な神の価値を、生まれ変わった霊で認識できる。創造者であられる神、その計り知れない性質を認識して礼拝する。

ウェストミンスターの信仰基準の第二章に、神がどういう方であるか、その定義を読むべきである。そうすれば、神がどういう方かを知性的に把握できる。知性は礼拝において大切である。我々は霊において神を礼拝するだけではない。真理をもって礼拝しなければならない。なぜなら、真理は神がどういう方かを明らかにするからだ。ここでも生まれ変わった人の知性が必要であることを知るべきだ。第一に真理をもって礼拝しなければならない。それは、心から神を礼拝すること、即ち偽りの心ではない真理の心で礼拝することを意味する。

次に、真理をもって礼拝するとは、「あなたの言葉は真実です」と、ヨハネ17:7でイエスが言われたように、聖書に従って礼拝することを意味する。神を礼拝するとは、最も偉大な栄光にみちた人の行為であるから、我々は神を完全な形で礼拝するにはどうすべきか?こう質問することこそ、聖書を学ぶように導かれているといえる。そうすれば、礼拝の対象であられる神について聖書がどう教えているかを理解できる。

第三に、キリストを中心として、神を礼拝しなければならない。父なる神を礼拝する意義のひとつは、真理である主イエス・キリストにおいて、父なる神が行われた事業を理解することである。ピリピの3:3でパウロは、「わたしたちこそ真の割礼を受けた者です」と言っているが、それは「わたしたちは契約の民である」という意味である。我々は、「神の霊によって礼拝する民」であり、キリスト・イエスの栄光を褒め称える。即ち、神を礼拝することにおいて、自身の力や素養など自分の全てを一切信頼しないということを意味する。

真の礼拝の要素

真の礼拝の要素とは何か?答えはやはり聖書に教えられている。礼拝の要素の第一は、祈りである。どのように祈るのか?聖書に提示されている真理を理解して祈る。聖書的に正しい方法で、神を賛美し祈ることが肝要だ。特に改革主義教会にとっては、聖書を読むことや御言葉の説教が大切である。聖なる神のところへ来る時、罪の告白は礼拝に必須である。信仰の告白、受洗時にイエス・キリストが主であるという告白も、重要である。主の聖餐式をまもることも礼拝に必須である。神に献金等を献げることも礼拝である。また、兄弟姉妹との交わりも礼拝であり、それなしでは聖餐式をまもることはない。

その他、我々の生活全てが礼拝である。何をするにも、神の栄光のためにすべきである。我々の全ての生活は神に献げられたものであり、そこには聖なるものと俗なるものの区別はない。

礼拝の場所と時

いつどこで礼拝するのか?神が霊であられるので、礼拝の場所は一箇所に限定されない。我々はいつどこででも神を礼拝できる。神が、いつでもどこにでも、変わらず存在されることを知って礼拝せよ。

我々はいつでも礼拝できる。新約聖書時代のキリスト者は、主の日、日曜日に集まって礼拝した。使徒行伝20:7と黙示録1:10にそれが記録されている。日曜日は、キリスト者にとっての安息の日である。それは我々の主イエス・キリストが復活された日だからだ。それは五旬節の日、当時のキリスト者たちに聖霊が下った日でもある。即ち、新訳聖書時代のキリスト者が神を礼拝する日として聖別した日である。

真の礼拝の形

我々の礼拝の形はどうあるべきか?神に対する畏敬をもって礼拝するべきである。冗談を言い合うのは礼拝に相応しくない。神の真の価値を理解して理知的な礼拝を行え。主なる神は、知り尽くすことのできない無限性、偉大さ、全能性、聖なる人格を持たれる。その神への畏敬をもって礼拝すべきだ。その神が我々を受け入れ、礼拝できるようにして下さる不思議な力を褒め称えよ。栄光ある礼拝という行いを可能にしてくださることを感謝せよ。

我々はまた、清い心をもって礼拝すべきだ。罪を犯して汚れた状態で礼拝はできない。清さもって礼拝に来るべきである。加えて、畏れをもって神の前に来るとき、同時に大いなる喜びをもって礼拝すべきである。なぜなら、神は我々の全ての罪を赦して、我々を神の子息として受け入れてくださったのだ。礼拝は、喜ぶべきセレブレーションである。

祈り

父なる神よ、かつてあなたに対して罪を犯していた我々を、奇跡的に新しく生まれ変わらせて、新しい霊を与えて下さいました。同様に、イエス・キリストの偉大な御業によって、他の人々にも新しく命を授けられ、「イエス・キリストが彼らのためにも十字架で犠牲の死を遂げられ、そして復活されたことによって、神の義を与えてくださったこと」が解るように、祈ります。そのような知識と思いをもって、あなたを礼拝できるように祈ります。一方、我々の怠惰な知の活動を戒め、御言葉を学んであなたを知り、より相応しく礼拝できるようにしてください。キリストの御名によって祈ります。アーメン。