光の中を歩め
Romans 13:11-14P. G. Mathew | Sunday, May 06, 2012
Copyright © 2012, P. G. Mathew
Language [English]
ローマ人への手紙13:11-14は教会で最も著名は神学者を救いに導いた。32歳になるまでは、アウレリウス・アウグスティヌス(聖オーガスティン)は大罪人であった。紀元354年に、北アフリカのタガステというところで、キリスト者の母と異教徒の父親の間に生まれた彼は、30歳でミラノ大学の修辞学の教授になった。高給で非常に良い仕事だった。彼はミラノ上流社会の地位を手にしていた。
紀元386年夏、友人アリピアスと聖書を読んでいた時、アウグスティヌスは泣き出した。彼は、まだ罪を悔いようとしていなかった。立ち上がって庭に出ると子供の歌声を聴いた。「トッレ レゲ! トッレ レゲ!」と歌うその歌詞は、「取り上げて読め! 取り上げて読め!」という意味であった。聖霊はアウグスティヌスに語って、家に戻って聖書を開いて読むように促された。彼は、開いた聖書の箇所を読んだ、「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(ローマ13:13-14)。
アウグスティヌスは、それ以上読めなかった。天の光が彼の魂にあふれ、すべての疑問と優柔不断を追い出した。すべての暗やみは消え、大きな喜びが彼の心を満たした。アウグスティヌスは変えられ、真の聖人となったのである。ジョン・カルバンは、キリスト教綱要に著わしているように、アウグスティヌスから多くの霊的学びを得たと言われている。アウグスティヌスは、それから紀元430年に76歳で亡くなるまで、教会のために尽力した。
この聖書の箇所は、清い生活を送ることについて語っている。誰が清い生活を送るのか?義とされたキリスト者である。昼間の光の子であるキリスト者は、神の言葉の光の中で歩いていく。我々にとって、夜は消え失せ、昼間が来た。眠りから目を覚ます時が来た。「なぜなら今は、わたしたちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである」(ローマ13:11)。我々は目覚めて、服を着て、主なる神のために働くのである。主なる神が喜ばれる働きのために、これまでの時間を取り戻そうと急いで働く。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである」(1ペテロ2:9)。パウロはこの箇所で動詞を5つ使って、どのように光の中を歩むかを教えている。
悪を脱ぎ捨てよ
パウロが言う最初の動詞は、「脱ぎ捨てよ」である。我々は神の子、キリストを信じている者である。それゆえ、「闇の行為を捨て去るべきである」。ギリシャ語の表現で、一気に捨てよ、である。徐々にではない。だから、悪習慣をゴミのように捨ててしまえ。それから離れよ、と命令している。このように書いてある、「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」(エペソ4:28)。人の物を盗んできた者は、それをやめただけでは、依然泥棒である。自分の手で働き、得た物を必要な人に与えることを以て、その者は本当に泥棒ではなくなる。
パウロはその変化を、一気に変わる、と言っている。たとえば、酒飲みの人間が一気に新しくキリスト者になることを指している。酒飲みが酒をやめ、働いて儲けたお金で家族を養う、当然の常識的生活を始めるようになる。1嘘つきは、真実しか言わない者に変えられ、人の物を横取りする者は、二度としなくなるのである。ドラッグをやっている者は、解放されてしらふとなり、代わりに聖霊に満たされるということだ。これらは、聖霊の力によって実際に起こる。怠けている反抗的な学生は、一生懸命勉強する。御聖霊を恐れるべき力である。
従って、一気に暗闇の行為を捨てて、聖霊に満たされよ。聖霊によって、すべての束縛から自由にされる。神に立ち返る回心前は、神の律法を守るとか、道徳的な力がまったくなくて苦しんでいた。しかし、神から生まれて回心後は、新しい心、新しい上からの性質が我々に与えられた。父なる神の意志がわかり、聖霊が我々と常に共におられるようになる。だから今、「我々を強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」のである(ピリピ4:13)。
すべて悪しき行いを捨てよ。淫乱、酩酊、性的罪、けがれた行い、憎しみ争い、羨望、野生のパーティー、薬物パーティー、等々あらゆる種類の悪行悪習慣を捨てよ!ある者は言うだろう、「主なる神とは何者だ?これらの行いのどこが悪い?なんで従わなければいけないのか?」。実際は、これらの罪の数々が我々を放蕩の輩にし、徐々にむしばんでいくのだ。それが新規一転、主なる聖なる神に仕えるように変えられる。それは聖霊の力によるのだ。
だからパウロは言う、「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」(ローマ8:13–15)。パウロは次のように教えている、「だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)。その悪しき行いを聖霊によって殺してしまえ!
肉の欲を満たすことに目を向けるな
二つ目は、「肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(ローマ13:14)である。我々が毎日従うべき現時点での命令である。不信者が毎朝目を覚ます毎にその日を通してどのような罪を行えるか、と考えをめぐらすことがあるように、我々は罪の方法を計画してはならない。
ポテパルの妻はヨセフを誘惑しようと何度も陥れたが、ヨセフは誘惑をすべて拒否した。ヨセフは生ける真実の神を証して言っている、「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」。そして、ポテパルから逃げた(創世記 39:6–15)。パウロは言っている、「若い時の肉の欲を避けなさい」(2テモテ2:22)。
ダビデ王はバテシバに罪を犯すことを企てた。その計画は成功したが、彼はそのために大いに苦しんだ。自分の罪の償いをすることになった。すべて罪を犯す者は、自分の罪のために償うことになる。我々は自分の罪を完全に償うことは決してできない。それができるのは、唯一イエス・キリストはだけである。罪のために苦しむことは、我々の人生に必須である。だから、剣はダビデの家から消えることがない、と書かれている(2サムエル12:10)。 ダビデとバテシバの間に生まれた子供は死んだ。のみならず、ダビデの他の子供たちも何人かが殺された。ダビデの息子アムノンは、肉の欲を満たすための計画をたてた。そして、その通り彼は罪を犯し、神によって殺された(2 サムエル13)。 アムノンの弟アブサロムも同様に、多くの罪を犯し、神御自身によって殺された。もう一人の兄弟アドニヤも同様である(2サムエル18; 1列王記Kings 2)。
キリスト者はこの世の生活で罪のない完璧な生き方を達成できない。キリスト者には、戦いがある。それは肉と霊との間の絶え間ない戦いである。たしかに罪は我々の中にある。しかし、聖霊なる神は、我々に内在しておられ、我々は聖霊に従う時、罪に勝つ。
キリスト者として、我々は罪を犯さない自由(ポセ ノン ペカーレ)が与えられている。したがって、パウロは、「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」と教えている(ピリピ2:12–13)。主なる神は、罪、悪魔、そして世界よりも無限に偉大である。したがって、神に従い、偉大な勝利を楽しむものとなれ。キリストから離れては、我々はなにもできない。しかし、キリストと一体とされた我々は、キリストの豊な恵みをいただく従順な者となり、主なる神の命じられることをすべて行うことができるのである。
主なる神が我々を義とされる前は、罪が我々を支配する王であった。今、イエス・キリストが我々の王である。キリストは我々を支配しておられ、全能であられる。そして、キリストの豊かな恵みを受けている我々は、そのキリストと共に全てを正しく治めることができる。神の力によって我々は、罪には、「ノー」、神の御心には「イエス」と言うのである(テトス2:11–12)。
キリスト者は、したがって、この邪悪な時代に、義と勝利、人間の罪の性質を凌駕する生活を送れる。イエスにかけて、我々を正義の道に導いて下さる。だから我々は光の中を歩く。我々は、キリスト・イエスによって創造された神の新しい作品である。我々のうちに宿るキリストは、世界にのさばる悪魔よりも偉大である。死を乗り越えるほどに偉大であられ、我々に永遠の命を与えるために死を破壊された。イエスは十字架上の死で敵をすべて敗北させ、闇の支配者から我々を救い出し、光り輝く神の国民とされた。現時点で、我々は神の国でキリストと共に着座している状態にある。したがって、我々は神の御聖霊の力で罪に打ち勝つのである。我々は罪と共生しない。罪に加担して、悪魔にすきを与えない。悪魔の戦略に無知であってはならない。キリストの言葉を豊かに住まわせ、キリストの指示に従い、罪を克服する人生を生きよ。ローマ8:37でパウロは、これを「勝ち得て余りある人生」(フペルニカオ)と呼んでいる。
我々は、自分の中にも外にも敵がいることに注意を払うできだ。毎日力を与えてくださるキリストを通して、この戦に勝つことができる。キリストの恵みは十分で、その力は、我々の弱さの中で完全に現れる。我々が弱い時にこそ、我々は強いのである(2コリント12:9–10)。だから、狡猾な悪魔に対抗すれば、悪魔は我々から逃げ去るのである。ヨハネは言う、「彼らは、小羊であるキリストの血と証の言葉とによって悪魔に打ち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった」(黙示録12:11)。我々は、聖霊によって罪を殺す。
キリスト者として、我々は、肉の欲に従って生きない。聖霊の促しと力によって生きる。我々は罪を犯そうと企てない。詩編の作者に同意する、「わたしはいつくしみと公義について歌います。主よ、わたしはあなたにむかって歌います。わたしは全き道に心をとめます。あなたはいつ、わたしに来られるでしょうか。わたしは直き心をもって、わが家のうちを歩みます。わたしは目の前に卑しい事を置きません。わたしはそむく者の行いを憎みます。それはわたしに付きまといません。ひがんだ心はわたしを離れるでしょう。わたしは悪い事を知りません」(詩篇101:1–4)。
我々は、目の前に悪を置くべきではない。我々は、自分で考え、考えることを行っていくものである。我々は、何を考えているかに注意を払うべきである。だから霊的なことを考えよ。パウロは書いている、「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」(ピリピ4:8)。他の箇所でも言っている、このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」(コロサイ3:1–2)。へブル書ではこのように教えている、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」(へブル12:2)。
自分が心で何を考えているのか?コンピューターの画面で何を見ているか?自分の自由な時間に何をしているか?全て、主なる神はそれを見ておられる。パウロは勧めている、「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい」(コロサイ 3:16–17)。 我々は神の言葉を考えなければならない。パウロはまた言っている、「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝しなさい」 (エペソ5:17–20)。
主イエスが誘惑に対処される方法について考えよう。主イエスは聖霊でバプテスマを受けられ、聖霊とみ言葉に満ちておられる。だから悪魔に「神の言葉は言っている」と言われる。言い換えると、「父なる神の意志はこうである。聖霊の力によって私はそれに従う」と言っておられるのである。詩編の作者は祝福される者について次のように語っている、「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う」(詩篇1:1, 2)。我々は成功するように運命づけられている。失敗はない。イエスは言われた、「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:10)。
この世の中にあっては、たしかに戦いが我々のなかに常に起こっている。ペテロは書いている、「愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい」(1ペテロ2:11)。パウロは言っている、「なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる」(ガラテヤ5:17)。しかし、もしも神の道に歩めば、我々は成功することをパウロは教えている、「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」(ガラテヤ5:16)。これは神聖なる保証である。条件を満たせば、あなたは必ず素晴らしい結果を得る。
最後に、主なる神に従う本当の主の民との交わりを持て。悪しき、神を信じない罪深い人々と交わるな。詩編の著者は言っている、「地にある聖徒は、 すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である」(詩篇16:3)。他の所ではこのようにも書かれている、「愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」(へブル10:24-25)。神の民との交わりは、罪への道から我々を守ってくれるのである。
光の武具を身につけよ
次のように命令している、「光の武具を身につけよ」(ローマ13:12)。これは、単なる提案ではない。聖なる神の命令であり、真の神の民は全てこれに従うべきである。神の前に悪しきことはすべて捨て去る、つまりこの世の悪しきことを脱ぎ捨てる覚悟でいるだけでは不十分である。 我々は積極的に神の喜ばれることを行うべきである。即ち、神の求められるよきことを身に着けるのである。我々は、どのような者を身にまとうべきか?アダムとエバは、イチジクの葉のようなものを着ても、自らの裸を覆い隠すことができなかった。神は獣の皮を着るように命じられた。パウロは言っている、「光の武具を身につけよ」。これは神の命令である。神が我々を正義と変えてくださったことに感謝せよ。キリストの正義を我々は着せていただくのである。ここで教えられているのは、神が我々を義とされるという教えではなく、実は聖くされるという教えである。我々が清さを着ること、即ち実際的な生活で我々が清く生きるべきであると言っている(申命記6:25)。
ピネハスが、悪しき二人の悪人を滅ぼして正義をはたしたことが記録されている (民数記25;詩編106:30–31)。これは我々が清くされるべきことを言っている。我々は、主なる神に従い、正義とされる必要がある(PGM)。そのように主なる神に従って、正義とされ、清くされ、さらに栄光に導かれることは全てキリストの正義、清さ、栄光によるのである(1コリント1:30)。我々の全面的な救いは神の恵みと我々のキリストへの信頼にかかっている。だから、神のみがその栄光を受けられる。
神は我々の人生に計画を持っておられるが、それはけがれた罪を身にまとうような生活ではない。神の計画とは何か?パウロは教えている、「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである」(エペソ5:25–27)。これが清くされることの意味である。他の箇所でも教えている、「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(ローマ12:1)。また次のようにも言っている、「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(2コリント3:18)。
我々が神の御子イエス・キリストのような人に変えられることが即ち神の計画である。「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」(ローマ8:29)。我々は光の武具を身に着けて、悪しき力に対して、良い戦いを戦い続けるのである。我々が死ぬ時までその戦いを続ける。我々の主なる神への信仰、信頼が戦いの勝利を保証する。キリストは戦いのリーダーである。キリストは既に悪しき力を征服された方であり、我々を常に励まして言っておられる、「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」 (ヨハネ16:33)。
エペソ6章には、聖霊の武具を身に着けるようにと教えている。即ち、真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、信仰のたてを手に取り、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取る。そして、どんな時にも神に祈るように教えている。
ギデオンは恐れて隠れていた。しかし、神は聖書の言葉と聖霊によって、ギデオンを戦える者に変えられた、聖霊の武具を着せられたのだ(士師記6:34,へブル語)。我々も同様に聖霊を着せていただく(ルカ24:49)。日々聖霊に満たされることによって、悪に抵抗し、清く生きるように我々は命令されている。聖霊と聖書に満たされることによって、我々は日々正義の細い道を歩くことができる。居眠りして歩くな。この世で酔ってないで、光の武具を身に着け、戦闘状態につけ。ペテロは警告する、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである」(1ペテロ5:8–9)。
主イエス・キリストを着よ
二つ目の積極的な命令の動詞は、「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」である(ローマ13:14)。我々は光の武具を身に着けるだけではなく、イエス・キリストを着る必要がある、と教えている。イエス・キリストは最強の武具である。ギリシャ語での強調点は、クリオン(主、王、勝者)である。イエスは主であられ、我々は忠実な名誉ある奴隷である。キリストは我々を所有しておられる。尊い血潮によって我々を罪と悪から救い出してくださったのだ。我々は勝手に生きるているのではない、キリストに従うのである。言われた通りに従う、即座に従う、しかも喜んで従うのである。
キリストが主権者であるという強調点は、パウロも1コリント12:3で言っている通り、聖霊によって我々は、クリオス レソウス(イエスは主である)と確信して言う。ローマ10:9でも、「自らの口で、『クリオン テソウン』(イエスは主である)と告白する、ということを教えている。「エピステウソン エピトン クリオン レソウン(主イエスを信頼する)なら、あなたは救われる」とピリピの監獄守衛が教えられたいきさつが使徒行伝16:31に記録されている。そして、この箇所では「エンドゥサステ トン クリオン レソン クリストン」(主イエス・キリストを着る)という表現である。
イエスは主であり、王、最高権威者である。我々は、その主に従うのだ。同時にイエスは預言者、祭司であられる。救い主と主なる王は同じ方である。分けられない。我々を救い、同時に我々の主人であられる。罪から救われることだけを信じていても、イエス・キリストを自分の主人として生きていないならば、それこそアンチノミアニズムであって、これが馬鹿なキリスト者と自称する者達を、正に地獄へ送っているのである!
神の聖徒よ、御聖霊が言われる、「主イエス・キリストを着なさい」。イエスが自分の人生の主人であることを認めない者は未だ救われていない。イエス・キリストを着ること、それは、イエスが考えられること、言われること、その真実、間違いなき意図すべてにおいてである。死に至るまで、イエスが自分の主人であるのだ。洗礼を受けた時に、我々は主イエス・キリストを着た。パウロは書いている、「キリストにあるバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである」(ガラテヤ3:27)。これは提示的な表現であるが、ローマ書では、命令形の表現になっていて、「イエス・キリストを着ている状態が即ち真の君だ」ということを意味する
我々はキリストと一体となった。キリストと共に死に、葬られ、復活して新しい命を生きているのである。我々の能力、頭脳やお金はすべてキリストに仕えるためなのだ。だからパウロは言っている、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:20)。パウロは「私にとって生きることはキリストである」と宣言している(ピリピ1:21)。言いかえると、キリストは我々の中に、我々を通して生きておられ、この世界において我々はキリストの意志を行わせていただく。我々は主イエス・キリストの中におり、キリストは我々の中におられる。
主イエス・キリストを着よ。それによって、世界は我々の人生、生活の中にキリストを見るであろう。キリストに信頼する者は、アンテオケでキリスト者と呼ばれ始めた(使徒行伝11:26)。キリストに属さない異邦人は、キリストについて語っている者という意味でキリスト者と呼んだ。世界は、キリスト者の生活にキリストを見出してきたのである。
だから我々はキリストを語り、キリストの意志を行わせていただく。それは世界が我々にキリストを見出すためでもある。そして、彼らのいくらかはやがてキリストに信頼する者となろう。我々は、高級車や大きな邸宅を建てようと私欲を肥やすためにお金儲けをして、この世界で成功者のふりをすることを目的としない。我々は、この世界の光となろうとしている。悪を憎み正義を愛し、キリストに従うことで、本当に正義とされた者として生きる。それが神の御意志であって、清い生活である。理由は神が清い方だからに他ならない。神は光であって、何の暗闇もない。我々はイエス・主イエス・キリストを着るべきである。キリストは正義であり、聖であり栄光に満ちておられる。
我々は、かつては罪の中で死んでいて、モラル的に全く不能であった。それがキリストにあって罪に対して死んでいる。信仰の従順によって神を喜ばせる能力、即ちモラル的な能力が与えられている。我々はキリストにおいて新しく創造されたので、新しい心、新しい思考、新しい意志、新しい感情が与えられている。御聖霊は、我々に内在され、我々を教え神の意志を行う力を与えて下さる。主イエス・キリストを着るとは、この悪しき世界において、キリストの生きられたように生きることを意味する。
ヨハネは言っている、「彼の中にいる、と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」(1ヨハネ2:6)。ペテロも言っている、「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(1ペテロ2:21)。パウロは教えている、「主があなたを赦されたように、あなたも赦しなさい」(コロサイ3:13b)。
我々は主イエス・キリストを着るとき、世界は我々をキリストの担い手として、キリスト者と見ている。クリストファーという名前の人がいるが、「キリストを担う」の意味である。すべてキリストを信じる者は、クリストファーであって、キリストの名を担っている。我々の生活の目的は、キリストを知ってその名にふさわしく生きることである。我々は生活を通してキリストを知り、キリストを世界に知らしめる。
主イエス・キリストは真の牧者であり、全ての必要を満たし、主の名にかけて我々を正義道へと導かれる。主イエス・キリストは我々を罪へと導くことはないことを知れ。真の幸いはイエスに従うことである。主イエスは、全てを征服して歩まれ、行く先々で勝利を収められる。彼は我々の前におられ、後におられ、我々の周囲を見渡される。従って、我々を敗者として破壊できる者は存在しない。実際に、我らの髪の毛一本も失われることはない、と主イエスは言っておられる (ルカ21:18)。だから、我々は人に対して大胆に主イエスを提示する。イエスの福音は、信じる全ての者にとって神の力であるからだ。(ローマ1:16)。世の光とされている我々を通し、人々はキリストのことを知り、信じるようになる。我々が主イエス・キリストを着ると、キリストの守り、能力、キリストへの信頼、真の勇気、いのち、勝利、清さ、喜び、救い、聖霊の油注ぎ、栄光、支配、恵み、平和、真の同情心、親切、謙虚さ、真の優しさ、忍耐、などが与えられるのである。
このように主イエス・キリストを着ているのに、悪魔と世界を恐れて過ごせるわけがない。不可能である。イエスは言われた、「恐れるな。私はあなたの盾となっており、あなたを大いに報いる」。
十字架上の贖いの死によって、イエスは我ら信じるすべての者の悪しき恐怖を破壊した。死と悪魔と世界の恐怖から守られる。神は悔い改めない人間に怒りを下されるが、我々からはそのような恐れも取り除かれている。イエス・キリストを着るとは、イエス・キリストに確実に従うことである。彼はすべての主であられ、すべてを治めておられる。従って、我々もキリストと共に全てを治める。すでに洗礼を受けた時から主イエス・キリストを着た我々は、心して意識的にキリストの主権を行使していただくのである。これによって、キリストの外にいる者が、悔い改めてキリストを主として信じるようになる。遅れてはならない、今すぐキリストを主と仰ぎ、救いから外れることのないよう懇願する。キリストは、実に信じて従う者を救われ、喜びと勝利の人生に導かれる。
昼歩くようにつつましく生きる
最後の命令は、「昼歩くように、つつましく歩こうではないか」である(ローマ13:13)。この勧めは、我々の日常生活についてである。清い生き方が求められる。主なる神に従う生活、神の言葉に従う生活である。我々は、シオン即ち生ける神の都市に向けて歩む巡礼者のように、日々一歩ずつ進歩しなければならない。
これまでの多くの聖徒たちの歩みを見ると、神と共に歩んだことがわかる。エノク、ノア、アブラハム、パウロ、ペテロ、アウグスティヌス、カルバン、ルター、彼らは皆、神と共に歩んだ。
現在も、数多くの者が我々と共に歩んでいる。「地にある聖徒は、すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である」と言っている(詩篇16:3)。 イザヤも言っている、「そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。そこには、ししはおらず、飢えた獣も、その道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る」(イザヤ35:8–10)。
我々は、誰ひとり失われることなく、シオンに確実にしかも歌いつつ到着する。良き牧者であるイエスがこれを可能にされる。主イエスが歩かれるように、聖霊と共に、光の中を、その知恵をいただいて歩もう。キリストに信頼する者には新しい命が与えられる。それはイエス・キリストという、聖く狭い道、しかし霊的な高速道路である。
結論
神の恵みが、「わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活させる」と聖書は教えている(テトス2:12)。生活の中に聖霊は生きて働かれる。だから我々は、常に主イエスに目を向けなければならない。へブル書の著者は書いている、「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」(へブル4:15).つまり、主イエスは我々を助けられる。
キリストの栄光への道はカルバリの十字架の道である。我々が受けるべき死をキリストが受けられた、それはキリストの命を我々が生きるという神の御意志である。だからキリストは言われた、「父よ、私ではなく、あなたの御心がなりますように」。同様に、その栄光への道を歩むため、我々も自分の十字架を背負って、キリストに従うべきである。キリストだけが、死の影の谷を通り抜けられた我々のリーダーである。だからパウロは、苦難を共にするようにと次のように言っている、「だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい」(2テモテ1:8)。また、次のように言っている、「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける」 (2テモテ3:12)。
キリストを信じる者として、我々は特定の苦しみから免れることはない。苦しみは、我々が神の目に清くなるためである。そして、キリストに起こった苦しみは、我々に起こることは決してない。即ち、我々の身代わりとなって、イエス・キリストは父なる神に見捨てられたが、それは我々には決して起こらない。ダビデは言っている、「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます」(詩篇23:4)。我らの為に御自分の命を差し出されたキリストこそ我らの良き牧者である。
それゆえ私はあなたに言う。全ての悪を脱ぎ捨てて、見えるところではなく信仰によって生きよ。肉の欲を満たすために心を用いるな。光の武具である主イエス・キリストを身につけよ。キリストとその聖徒等と共に、生ける神の町に至る道を歩め。永遠に彼と共に生きるべく、神の臨在、永遠の御座に向かい、歌いつつ歩んでいこう。
1P. G. Mathew著、「清さへの階段、第4部」http://www.gracevalley.org/sermon_trans/2009/Steps_to_Holiness_4.html
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