神はイスラエルの人々を救われる

Romans 11:25-32
P. G. Mathew | Sunday, July 24, 2011
Copyright © 2011, P. G. Mathew
Language [English]

ローマ人への手紙11:25-32は、イスラエルを救うという神の計画についてはっきりと答えている。残されたわずかな者だけがキリストを信じて、大半のイスラエル人は救い主を拒否した件について、パウロはローマ人への手紙9~11章で取り上げている。「すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある」と言っている(ローマ9:2)。また、「兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らが救われることである」と言っている(ローマ10:1)。

ローマ11章は、「神の人を主なる神は拒絶されたのか?決してそうではない」と始まっている。イスラエルの人々のために神は未来の目的を持っておられる。将来、主なる神が、イスラエルの人々に聖霊を注がれ、霊的に生まれ変わるようにされるのを、パウロは示されるのである。神の民として罪を悔い改め、救い主イエスを信じて救われるということである。

パウロはローマ11:11-24で、その可能性について言及した、「しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部(プレローマ)救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう」(12節)。再度次のようにも言っている、「もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか」(15節)。栽培されたオリーブの木であるイスラエルに、野生のオリーブの木である異邦人を、主なる神が接ぎ木されるのだと、パウロははっきりと言っている。「なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリーブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリーブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリーブにつがれないであろうか」ということである(24節)。神は力がある方であるので、イスラエルの人々つまりユダヤ人を、信仰によって、再び元の株にもどすことができるのである。

神は歴史の支配者であり主である

ローマ11:25-32で、パウロはイスラエル人が、神の確実な計画の中で、将来信仰の回心をするようになる、と言っている。この箇所で、パウロは救いの歴史ドラマをリハーサルしている。歴史に関する唯一真の哲学は、聖書に存在する。聖書の記述者たちは、預言者や使徒たちのように、このことを理解していた。ステパノは使徒行伝7章で、パウロは13章でそう言っている。我々の主なる神は、被造物の全ての行動を支配される。それは、神が自らの御意志を行われるためである(イザヤとダニエルを参照)。神による罪の購いの歴史の背景に世界の歴史がある。即ち。世界の歴史と教会の歴史は、どちらも完全に神の制御下ある。

国々の民が自らの無知と不服従に歩む場合、神は彼らをなすがままに手放されていた。そうパウロは教えている。しかし、神はアブラハムを選んで神の民とし、恵みの契約を充実に守られた。しかし、歴史を見ると、国家イスラエルは神に対して反抗し、無信仰になってしまった。次のように書いてある、「彼らは主にむかって悪を行い、そのきずのゆえに、もはや主の子らではなく、よこしまで、曲った者達である」(申命記32:15)。イスラエルは偶像崇拝を行って、真の生ける神を拒否した。イスラエルは、自分で自分を救おうと、良い行いをすることで救われようとした。彼らはすべての人間の正義の行為は汚いぼろのようであると理解できなかった(イザヤ64:6)。彼らは、へりくだって神に祈ることを拒否した。「罪びとの私を憐れんでください」と謙虚に祈らなかったのである(ルカ18:13)。

だからイスラエルは、異邦人の助けを借りて救い主メシアを十字架につけたのである。しかし、人間の罪は、神の永遠の救いの計画を促進しただけである。このようなイスラエルの不従順は、福音を異邦人に至らしめ、異邦人はその福音を信仰によって受け入れた。イスラエルは、福音を受け入れた異邦人を、良い意味でうらやむことになり、将来において福音と救い主を歓迎するようになるという神の計画が成就するのである。したがって、神がユダヤ人と異邦人の中から神の民を全て贖われるのである。

被造物である人間が反抗したとしても、それはなんら神を苦しめることはない。我々人間をどのように扱うかを心得られている神は、天使の背きやアダムの没落に乱心されることはない。そもそも神は罪の発起人ではなく、逆に罪をおかす人間を完全に支配し歴史を導かれるのである。人が神の権威に反逆しても、それはなんら神の救いの工程をとどめることはできない。結果的には神はご自分の意志を行われる。ローマ11:32で言っておられるように、「すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである」。

我々は小さな思考を大きく広げる必要がある

我々は小さな思考をやめて、大きく広い思考へと変えなければならない。それは、ニューヨーク・タイムズを読んで視野を広げることではない。パウロが「あなた方は無知であってほしくありません」(25節)と言っているように、聖書を読んで思考を広げるということだ。一部のキリスト者は、神の言葉に無知であることを喜んでいる。このような人々は、牧師にとってトラブルの種である。我々がすべての状況でしっかりと物事を行えるのは、常に神の言葉を理解して信じる時だけである。

「あなたがたは知らないでいてはならない」とパウロは、少なくとも6回この書簡で繰り返し警告している。この二重否定の表現で、「徹底的に神の言葉を理解せよ」と言っているのである。我々は神と神の言葉に対して相当無知な時代に生きている。パウロは、全てを超越しておられて且つここに臨在される主なる神を知ることができるようにと、聖書積極的に学ぶように教えているのである。聖書の知識は我々を謙虚にする。信仰は神の言葉を聞くことによる。神の言葉を知らない状態では、我々は、愚かな傲慢、邪悪と罪深い状態に甘んじるようになる。

聖書に対して無知な人々は、自分たちを高く評価する。しかし、イザヤは言う、「わざわいなるかな、彼らはおのれを見て、賢こしとし、みずから顧みて、さとしとする」(イザヤ書5:21)。箴言も、「自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ」と教える (箴言3:7)。 パウロは次のように書いている、「わたしたちは、自己推薦をするような人々と自分を同列においたり比較したりはしない。彼らは仲間同志で互にはかり合ったり、互に比べ合ったりしているが、知恵のないしわざである」(2コリント10:12)。

慢心への解毒剤は、聖書の知識である。パウロは、異邦人であるキリスト者がイスラエルの人々にとって代わったのではない、と言い聞かせている。主なる神はイスラエルが、将来悔い改める時がくるという素晴らしい計画を持っておられる。これが、キリスト者を謙虚にするのである。

主なる神はユダヤの人々についての奥義を明らかにされる

秘儀はパウロに明らかにされている。初期の教会ではラテン語「奥義」(ムステリオン)は「契約」と翻訳された。ローマカトリック教徒は、エペソ5:32のムステリオンを契約と語訳したため、結婚を霊典と誤って解釈している

奥義とは何か?それは、無知である人間に与えられる神の恵み深い啓示である。人間には隠されていて知り得ない真実を、主なる神が明らかにされるのである。新約聖書で28回使用されている「奥義」という言葉は、パウロの所管には20回出てくる。神が異邦人を救われるという計画についての奥義はエペソ3章で語られており、パウロはこの圧倒的な啓示を受けた、と第2コリント12:7に書いている。1コリント15章では、我々が最終的にキリストのように不滅の栄光の体に変えられるという奥義を話している。これは主なる神によって隠れていたが、今パウロに明かされた。「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである」(1コリント15:51-52)。パウロは旧約聖書に示されていたこの奥義を今明らかに受けた、とローマ11:25で言っている。これは、イスラエルの将来の救いにも関係している。

聖書は全て神の啓示である。聖書がなければ、人は神の啓示を知りえなかった。神の考えを語っていて、人の考えを語っていない。だから、聖書のみが真実である。他の全て宗教といわれるものは、人の考えに基づくもので、悪魔の霊感から来ている。聖書のみが我々が救われる神の道を明らかにする。

チャールズ・ホッジは「神の啓示によってのみ未来のでき事を知ることができる」ということを「奥義」の定義としている ボイス師は、「かつて知られていなかったもので、人間の理性でも知りうることではなく、これが今神によって明らかにされること」と「奥義」を定義している。2 だから、パウロは、この奥義が明らかにされたという内容を次のように言っている。それは将来、イスラエルの国民全体が回心し、元の栽培種であるオリーブの木に接ぎ木されて戻されるということである。これは確実で、神の民は、将来復活して国全体が回心するのである。

パウロは25節で3つのポイントを指摘している。第一に、イスラエルの民がかたくなになったのは、一部であったということ。しかし、その一部とは今はイスラエルの大部分を占めるということである。彼らは、かたくなになって、はっきり物事が見えなくなり、無関心になったのである。彼らは、心がかたくなになったため、神の律法においてもかたくなになってしまった。前に読んだように、「だから、神はあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである」と聖書は言っている(ローマ9:18)。パウロはこうも書いている、「実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである」(2コリント3:14)。我々が福音に対してかたくなになるとき、神の律法においてもかたくなになるのである。

第二の点は、この心の硬化が永久的な状態にはならないということである。これは、救われるべき異邦人の救いが完成するまでのことだということである。最後の点は、このようにして、全イスラエルが救われるということである。これは、(現在のような)イスラエルの国全体が、回心するということである。「そして、全イスラエルが救われる」というのがパウロの言っている中心点である。

では「全イスラエルが救われる」ということは何を意味するのか?これは、ユダヤ人と異邦人の両方から選ばれるものが救われるのだ、という人もいる。あるいは、「すべてのイスラエルは」とはユダヤ人の中でキリストを信じる者すべてという意味である、と言う人もいる。本当の意味は、ユダヤ人一人一人が残らず救われるのではなく、あくまでもイスラエルの国のまとまりとして救われるということである。「イスラエル」という単語を、パウロは一貫して異邦人と対照的に使っている。明らかにされた「奥義」とは、ユダヤ人の残りの者が救われるということではない。実はそれはすでに起こっている。奥義の意味は、あくまでも将来イスラエルという国全体が救われる、ということである。パウロは、旧約聖書からの引用でこれを証明しており、これを彼は習慣的に伝えているのである。

パウロの視点からは、救い主は将来でシオンから来る(ローマ11:26)。この救い主イエス・キリストは、彼に属する人々を、罪、罪悪感、これらの奴隷の状態から救い出される。イエス・キリストはヤコブ(すなわち、イスラエル)から神なき生活を追い出されると言われている。神なき生活、それは邪悪であり、ユダヤ人でも、異邦人でも、同じこの問題を持っている。パウロは、「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される」(ローマ1:18)と書いていて、しかし「彼らの目には、神に対する恐れがありません」(ローマ3:18)と言っている。ユダヤ人たちが、神の目に良く見えると思っている「良き行い」は、汚い着物に過ぎない。そこから、彼らをも救おうとしてイエスは来られているのである。イエスは、彼らのそして我らの生活から、神の不在を追放され、罪を除かれるのである「ご自分の民を罪から救う。「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」と聖書は言っている(マタイ1:21)。イザヤ27:9、イザヤ59:2-21、エレミヤ31:33-34、詩篇14:7のような預言について、パウロそのように書いているのである。

この救いは政治的な救出ではなく、道徳的、信仰的な救いである。主はこの救いをイスラエルの族長時代に預言された恵みの契約を完成されることとして行われる。この契約に基づいて、異邦人とユダヤ人の残りの者を救われるのである。(ガラテヤ3章、ローマ4章)。将来、契約の違う面での完成が起こるのであり、異邦人の中らから救われる者が起こされ、その後、国家レベルでイスラエルの救いがやってくるのである。

友よ。神は歴史を支配しておられる。神は計画を遂行される。何を根拠に、ユダヤ人が国家として救われるというのか?これは良い質問である。ローマ3:21~26にあるように、ユダヤ人はモーセの律法を守ることで救われ、恵みによらない、と言う者がいる。しかし、このようにユダヤ人を特別扱いする教えは、ナンセンスである。これは、ある種の反ユダヤ主義的な態度をなだめるための試みであり、特に第二次世界大戦中に普及するようになった。救いの唯一の方法は、イエス・キリストの十字架の御業に基づいている。世界のすべての人々にとって、救いの唯一の方法である。

神は自らに忠実であられる。人はそういう点で全員偽善者である。パウロは言っている、「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」(2テモテ2:13)。神がイスラエルの父祖との契約に忠実であられ、イエスキリストはイスラエルの国家から無神を追い出し、罪と罪の呵責を取り除かれるのである。従って神は言われる、「わたしは多くのささげ物で、祭司の心を飽かせ、わたしの良き物で、わたしの民を満ち足らせる」(エレミヤ 31:34)。

我々に起こった救いは彼らイスラエルの人にも起こる。罪の赦しの根拠はやはりイエスキリストの御業にほかならない。キリストは我らの罪のために死なれた。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:21)。「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」(ローマ8:1)。すべての罪人の救いは奇跡以外の何ものでもない。霊的に死んでいて、反抗的で神を恐れず、葬られている罪人は、自分自身を救えない。神による奇跡的な力なくして復活することはない!

ゼカリア書に書いてあるイスラエルの偉大な救いの預言を見よ(ゼカリア12-14章)。 このように書いてある、「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、生まれたばかりの子ために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ」(ゼカリア12:10). また、このようにも書いてある、 「その日には、罪と汚れとを清める一つの泉が、ダビデの家とエルサレムの住民とのために開かれる。万軍の主は言われる、その日には、わたしは地から偶像の名を取り除き、重ねて人に覚えられることのないようにする」(ゼカリア13:1-2a).

今日ユダヤ人の大多数は、神の国の外にいる。しかし、将来神が彼らに聖霊を注がれる時、異邦人が救いを受けたように、彼らも救われて神の国に入るであろう(ローマ11:12, 15, 23-24).

これはいつ起こるのだろうか?それが再臨で起こるようになる、とある者は言う。千年王国がこの地上に創られる時にこれが起こる、と言っている者もいる。今は解らないが、将来どうなるかを知ることができる。それはイエス・キリストの再臨の前に起こる可能性がある。神は、ユダヤ人に聖霊を注がれる。これによって、ユダヤ人は、犠牲をささげられたキリストを信じて救われるようになるのである。

イエスの言葉に注目せよ、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、雌鶏が翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを何度集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」。これが問題点である。彼らは救われることを拒否していた。「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」(マタイ23:37-39)。ユダヤの国民が「主の名によって来られる方に祝福あれ」と言う時は今来ている。

神に歯向かう者への哀れみ

「福音について言えば、彼ら(イスラエル人)は、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。神の賜物と召しとは、変えられることがない」(ローマ11:28-29)。 人は約束しても、それを破ることがある。しかし、神の約束と契約は破られることがない。「あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである」(ローマ11:30-32)。神は不従順で歯向かう者に哀れみを注がれるのである。

ユダヤ人の多くは現在神の敵である。なぜなら、彼らはメシアの福音を拒否したからだ。しかし、彼らの父祖の預言のゆえに愛されているのだ。敵であるが同時に愛されている。神は、ユダヤ人の父祖に与えた契約を撤回してはおられない。神の救いの計画からユダヤ人が除外されてしまったと、異邦人の信仰者は間違ってはならない。ユダヤ人はまだ神の国に居場所を持つのである。

すべて神に選び分かたれた罪人、即ち神によって救われるべき罪人は、そのままでは神の敵である。それ以上に、神が彼らの敵となられている。神が我々の敵であるなら、我々は既に終わりである。我々は成功しない。神に選び分かたれた罪人は、またすべての人の敵である。だから、人間は隣人と仲良くすることはできない(Mathew牧師の解釈)。従って、人間は自分の心、魂、力で神を愛することができないし、自分のように隣人を愛することはできない。また、すべての人は、自分自身の敵でもある。即ち、すべての罪人は統合失調症であると言える。それが、人が眠ることができない本当の理由である。

そこにはユダヤ人と異邦人の差別はなく、律法の下に、神の怒りの下に、共に罪人である。実際、全ての人間は、神の前に罪を犯し、神の栄光を受けられなくなっている。罪が支払うべき報酬は死である。そして、イエス・キリストにより頼むことのみが、ここから人を救い、償い、義とするのである。だから、ローマ10:10-13に次のようにある、「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は、『すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない』と言っている。ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである」。

だから、すべて神に選び分かたれた罪人は、神の敵である。そして、神は彼らの敵であるが、神は彼らを愛しておられるのである。パウロは言う、キリストの贖いの死によって、人に対する神の敵意、そして神に対する人の敵意は、破壊されたのである。「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」(エペソ2:14-16)。

罪の本質は、ジョン・マレーによると、神への敵意である。子供が両親に従わない場合、両親の反逆者となっている。神に対する敵意を明らかにすることで、人はその失われている状態を露呈しているのである。だからこそ、この問題に真剣に取り組まなければならない。パウロは言う、「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」(ローマ5:10)。

罪は神に対する敵意であるが、この敵意がキリストにある人にとっては、既に破壊されてもはや存在しない。神と人の関係が和解されている。根拠は? これが神のほんとの慈悲である。恵みであり、神の愛である。これによって、闇は払いのけられ、光が来た。死は、キリストの死によって破壊され、永遠の命が、すべて神によって選び分かたれたユダヤ人と異邦人の罪人のためにここにある。神からのこの賜物と、神の召命が取消不能であり、この神の契約は不動である。

ヤコブとエサウの例を挙げてパウロは言っている、「まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、『兄は弟に仕えるであろう』と、彼女に仰せられたのである」(ローマ9:11-12)。 パウロは次のようにも言っている、「それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。では、どうなるのか。イスラエルはその追い求めているものを得ないで、ただ選ばれた者が、それを得た。そして、他の者たちはかたくなになった。福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である」(ローマ11:5, 7, 28)。

この神の選びの目的に感謝しよう!「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ローマ8:28-30)。神の賜物と召命は取り消されることがない。これにこそ頼れるのである。我々被造物が神に反抗しても、永遠の目的を遂行されるのが全能の神である。あなたが神に対して反抗的であれば、それを神はご存知である。しかし、救うために、あなたを従順にされるであろう。

異邦人はかつて神に反抗していた。そして今度は、ユダヤ人が神に反抗した。福音は、その後、異邦人に伝えられ慈悲が与えられた。この異邦人の救いは、時が来るとユダヤ人の心を救い主キリストに向けるように働き、そして彼らは国家もろともその救いの慈悲にあずかるようになる。そのようなことがどうして起こるだろうか?まず神に対する敵意と不従順は完全に破壊される。神の義によって正しく破壊されるのである。しかし、それはキリストが行われた贖いの歴史で、既に我々が体験したものとは異なる。我々には既にその購いを受けた。しかし、終わりに近づくと神の慈悲がことごとく現され、彼らの不従順は神の慈悲によって次々と変えられていくのである。これは、特にローマ11:30-32に4回強調されている。

神の哀れみがないのなら、我々には死しかない。しかし、神の御性質は哀れみである。主なる神は、モーセに言われた、「主は言われた、「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」(出エジプト33:19)。34章の6~7節には次のように書いてある、「主は彼の前を過ぎて言われた、『主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者を決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者』」。ダビデは、ガドの預言者に言った、「わたしはひじょうに悩んでいますが、主のあわれみは大きいゆえ、われわれを主の手に陥らせてください。わたしを人の手には陥らせないでください」。(2サムエル24:14)。こうも言っている、「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろの咎を取り去ってください」(詩篇51:1)。神に対する反逆が、神からの哀れみによって報われるというのである。

パウロは教えている、「キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか」。(2コリント1:3)。我々は朝に、昼に、夜に、常に神の哀れみを必要としている。若い時も年老いてもそうである。パウロはまた書いている、「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし、あなたがたの救われたのは、恵みによるのである」(エペソ2:4-5)。霊の死んでいる、不従順な、即ち呪われている人々は、神の豊かで大いなる哀れみによって生まれ変わらせられる必要がある。「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである」(テトス3:5)。 ルカ18章で、主イエスは、不義な取税人でさえ、神の哀れみを与えられると語られた。ましてや、「この罪ある者に哀れみを与えて下さい」と主なる神に祈るものを、そのまま放っておかれるだろうか、と教えておられる。へブル4:16は次のように教えている、「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。我々が祈るとき、主なる神に対して信頼をもって祈ることができ、主なる神は我々に必要な恵みを与えて日々応えてくださるのである。

主なる神の哀れみは、贖罪の座(ヒラステリオン)から我々に来る。それは、契約の箱に収められた神の律法を破る我々の罪、この罪と背きを赦すための血の犠牲の場にほかならない。そのキリストの犠牲の血が注がれることによって、主なる神の前で罪が贖われるのである。神は、キリストの贖いの血をご覧になり、罪を赦されるのである。

キリストの血によって我々は義とされ、罪が赦される。だから、パウロは言う、「あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった」 (コロサイ2:13)。主なる神の豊かな哀れみと偉大な恵み、それが罪人を義とするのである。我々には受けるべき罪の責めがあるが、神の哀れみはこの責めを取りさられたことを意味する。これこそが、神の偉大な恵みと言われるものである。我々は、この恵みを受けるに値しないのに、与えられたということになる。これが本当に理解できたなら、我々は主なる神を賛美するであろう!それは、神の愛に基づいている聖なる神の働きである。

「すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである」とローマ11: 32は言っている。神は、すべてのユダヤ人と選びの異邦人を夫々の人間の罪の故に牢獄に閉じ込めておられるということである。神は、その牢獄を開ける鍵も持っておられる。我々は出られない。神が我々をその牢獄から解放してくださるしかないのである。パウロは書いている、「そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた」(ローマ1:28)。なぜに人々は正しいことができなくなっているのか?なぜなら、神は人の罪の故、人がすべきことをできなくなるに任せておられるのである。罪を犯さない、ということは人間には不可能になっている。人間は罪を犯すことしかできないのである。聖書がこの状態を言っている、「しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた」(ガラテヤ3:22-23)。

不従順があり、そして哀れみがある。神は、我々を罪から救うために救い主を送られる。救い主は、我々の神なき状態と罪を引き受けられたのである。父なる神との契約を果されたのである。神は正しく言われたことを必ず行われるのである。

だから、ローマ11:32にある全ての者とは、神が選び出される罪人を指す、「すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである」。全世界の全ての人々が罪から救われるとは言っていない。世界の人々の全てが救われることはないのである。従って、我々は自由主義者とバルト信者によって流布されているユニバーサリズム、即ちすべての人々は結果的に全員救われる、という虚偽に反対しているのである。教皇ヨハネ・パウロ二世が書いた「リデンプトル ホミニス」回勅の第14項は、明らかにこのユニバーサリズムを支持している。それは次のようにかいている。

人間はだれでも例外なくキリストによって贖われ、これまた何の例外もなくキリストと一つにされる、それはたとえ本人が気づいていなくともそうである。「キリストは、すべてのために死んでよみがえられた」のである。それはキリストの威光と力によってなされ、それがキリストの使命なのである これは、まったく聖書と矛盾する。

パウロは、ローマの最初の部分で書いている、「このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである」(ローマ5:18)。ここで「すべて」というのは、すべて神によって選び出される罪人達に限定されるのである。1コリント15:22にも次のように書いている、「このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである」。この部分を読んでも理解しない者は、ここをユニバーサリズムの教えであるという。即ち、例外なく人間は全て救われる、という。聖書は、そう教えていない。ここで教えられている「すべて」とは、「民族の差別なく」という意味である。だからこそ、「ひとり(アダム)の罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる(キリストの)行為によって、いのちを得させる義が、ユダヤ人、異邦人にかかわらず、すべての人に及ぶのである。

主は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、すべて選ばれた者を救われるのである。テサロニケの信徒にパウロは書いている、「わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである」(1 テサロニケ1:9-10。パウロはまた言っている、「神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる」(2コリント1:10)。我々にイエス・キリスト以外の他の贖い主はいない、他の救い主はいない。

神に選び出された者は、神に対する不従順を悔い改め、神に従う生活に戻るならば、その不従順が赦される。我々が敬虔でないなら、それは救われてないことによる。そのように神の敵になっているならば、神が我々を変え、和解を与えられなければならない。それは神に仕え神をほめたたえるようになるためである。

ローマ11章でパウロは、ユダヤ人の救いの結論を述べている。ユダヤ人のほとんどは、福音に対してその心がかたくなになっている。ただ、このかたくなさ、目の不自由さ、感覚のにぶさは、それほど長く続かないのである。将来、ユダヤの国家レベルの救いが、救い主によってもたらされ、そのかたくなな心が癒されるのである。従って、異邦人の信仰者は、高ぶった考えをもってはならない。へりくだって、神の民を救われる主の計画を信じて、神をほめたたえよ。

適用

神は人ではないので変わらない。ジェームズ・ボイス師はJ. I. パッカーの「神を知る」という本から、以下を引用して教えている。

  1. 神は変わらない。 神は年を取らず衰えない。神は良くも悪くもならない。神は霊であって、神を変え得るものはない。
  2. 神の性質は変わることがない。 神は聖なる方である。神は愛である。神の正しさと厳しさを見よ。
  3. 神の真理は変わらない。 だから、全てのことに関して、教えられている聖書の教えを信じるのである。
  4. 神の方法は変わらない。 神は永遠の昔より選ばれた罪人を救われ、その他の者を通り過ぎられる。
  5. 神の目的は変わらない。 歴史は移り変わるが、神は神の民を救われる。それを神の栄光のために行われる。
  6. 神の御子イエス・キリストは変わらない。 イエス・キリストは、昨日も今日も永遠に変わらない。ヘンリー ライトは書いている、「すべてが、変わり果てて、腐っていく。しかし、主なる神は決して変わることがない、その主は我と共におられる。」。

ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは、すべてが移り変わることを教えた。彼は、だから我々は二度同じ川に足を踏み入れることができない、と言った。しかし、真の生ける神はすべての変化を超えている。だから我々は、信仰の創始者であり完成者であられるイエスに我々の注意を集中する必要がある。

これら全てに照らし合わせて、我々は何をすべきか?神が選ばれる罪人は、神に不従順であれば、神の怒りに会う。救われるためには神の哀れみが必要である。救いを求める者は、取税人のように「この罪ある者に哀れみを与えて下さい」と祈れ。「我々は罪を過小評価する。しかし、この取税人もパウロもこれを重大な問題と考えているのである。パウロは書いている、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」(1テモテ1:15)。祈れ。なぜならば、主イエスは、救いをもとめてくる者を決して退けられないからである。主イエスが哀れみを与えられる。それは保証できる。事実、我々は御聖霊によって引き寄せられてキリストのところに来たのである。次は、あなたが他の者に対して哀れみを与えよ。イエスは言われた、「哀れみ深いものは幸いである。その者は、哀れみを受けるであろう」。最後に、哀れみの福音を彼らに対して宣べ伝えよ。

主は、深い哀れみと豊かな恵みをもって

数えきれない我が罪を取り除かれた

そして我が心は重荷を下ろした カルバリにて。

1 Charles Hodge (チャールズ・ホッジ), A Commentary on Romans (Edinburgh: Banner of Truth, 1989), 372.

2 Boice (ジェームズ・ボイス), Romans, Vol. 3, 1369.

3 http://www.vatican.va/holy_father/john_paul_ii/encyclicals/documents/hf_jp-ii_enc_04031979_redemptor-hominis_en.html (accessed July 22, 2011).

4 Boice, 1389-90.