聖書の性質

2 Timothy 3:14-4:5
P. G. Mathew | Friday, June 24, 2016
Copyright © 2016, P. G. Mathew
Language [English]

これは、「力ある神の言葉」についての基調講演である。2テモテを学ぶ前に、我々は聖書が力ある神ご自身の言葉であるという、その性質について学びたい。

聖書のない世界を想像してみてみよう。それは真実のない世界である。誰もかれもが、被造物を崇拝する、即ちそれは実際、悪魔を崇拝することにほかならない。聖書の真実がなければ、誰も主イエス・キリストによって救われないであろう。世界で最も貴重なものは、新旧約からなる聖書である。我々が新生すると、聖書が喜びとなる。読書を読解して瞑想することが最大の喜びとなるのだ。

聖書は、まさに人類への神の最も貴重な宝である。ウェストミンスター信仰告白で、最初の章が「神について」や「被造物について」ではなく、「聖書について」であることからもその重要性がわかる。我々は、聖書なしで生ける神や被造物を本当に知ることはできない。そういう確信に基づいて、ウェストミンスター神学者は、聖書についての章を始めに置いた。

聖書の7つの特徴について学びたい。これによって、聖書が我々に教えていることを、御聖霊が助けてくださるように。

聖書の無誤性―聖書に誤りはない

聖書の第一の特徴は、誤りいのないことである。旧約聖書と新約聖書に誤りはない。聖書にはエラーがない、聖書はすべて真実な神の言葉である。神は真実であり、神が行うことができない一つのこと、それは嘘である。パウロは言っている、「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである」(ローマ3:4). 例外はない。全ての人間は罪を宿しており、嘘つきである。キリスト者であっても、誇張したり嘘を言ったりすることができる。悪魔は嘘つきであり、すべての嘘の父である。我々はうそをつくとき、悪魔のようなものである。

聖書の原稿(原典)で、事実に反することを聖書はなんら断言しない。聖書、旧約聖書と新約聖書は、常にすべてにおいて真実を言う。聖書は救いに関しては唯一の真実を述べている、と限定的に言う人がいる。しかし、これは間違っている。聖書は救いについてのみならず、他のすべてについて真実を語っている。聖書を離れては、我々は世界についての真の理解を得られないのである。

下等批判と呼ばれる聖書テキストを評価する科学の方法を用いて調べると、古代の聖書のコピーを用いて、聖書約99%が一致する。サイン入りの文書、つまり直筆の文書は存在しないが、保存されている古代のコピーから、ほぼ確実に元の単語にたどり着くことができるのである。残り1%は確認できなかったが、これらは教義に全く影響を与えないのである。

聖書の明快性

第二の特徴は、聖書の明快性である。かつてローマカトリック教会は、信徒が読んでも理解できない聖書だからと、読むことを禁止した。法王と司祭は聖書を読むことを許されていたのである。

しかし、聖書のメッセージは、御聖霊に信頼して謙虚に読むならば理解できるのである。パウロは言う、「そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである」(1コリント2:10)。こうも言っている、 「この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。」(1コリント 2:13–14)。

人々はイエスを信じたくないのは、彼らが霊的に再生されていないからである。彼らは、神によって選び出されていない。したがって、聖書のすべてが彼らには愚かなことなのである。聖書は霊的に理解されるべきものであるから、彼らには神の物事を理解することはできない。理解できるようになるには、まず御聖霊が、彼らを霊的に再生させ、彼ら自身の中に内在される必要がある。

聖書を通して主なる神がすべての人間に語っておられるということは、ある意味で事実である。しかし、神によって選び分かたれた者のみが、救いに導かれるように聖書を理解するのである。主なる神にとは関係なくこの世に生きる者は、聖書を理解したとしても、それは、聖書の真理を常に抑制し続け、自分自身に滅びを招くように理解するのである。神の言葉を聞いても、これを信じないので、自分自身を救いに導くことにはならない。死んだ後彼らは地獄に行くのである。

我々がいつ病気になるか、いつ死ぬかは知らない。傲慢な人々は、便利なときにいつでもその気になれば信じることができると思っている。しかし、我々にその権限はなく、我々は神ではない。我々の生死も神おひとりが決められるのである。

パウロはフィリピに行ったとき、川沿いに集まった何人かの女性に話し始めた、「ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた」(使徒行伝16:14)。主なる神が、人の心を開かれて、霊的に再生されなければ、福音を理解することができない。人間の心は神に対して敵意を持つのが自然である。ジョン・マレー師は、人間のすべての罪の本質は神に対する敵意であると言っておられる。それは、我々人間に存在を与え、生命を維持し、必要なものを提供される神に向かっての憎しみであるという意味である。神を信じない者は、即ち主なる神を嫌っているのである。パウロは教えている、「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない」(ローマ8:6–8)。

聖アウグスティヌスは、救いは最初から最後まで恵みによるものであると言った。あなたが救いを受けていないのは、それはあなたの問題、あなたの罪、あなたの神に対する敵意である。あなたが救いを受けている場合、それは恵みによるものである。

聖書の必然性

聖書の第3の特徴は必然性である。聖書がなければ、我々が生けるまことの神と関係を持つことはできない。聖書がなければ、主なる神や救いについて、そして我々の周りの世界について知ることはできない。我々は永遠に失われる者となってしまう。

あなたがクリスチャンでないなら、救われるため、悔い改めて主イエス・キリストを信じるよう、あなたに命じる。悔い改めて信じるなら、それはあなたが神に対してなにか気に入ることをやっているのではない。神があなたの気に入ることをしておられるのである。あなたの悔い改めは、あなたの信仰は、恵みによるもので、あなたの祈りは、恵みによるもので、あなたの救いは恵みによるものである。

あなたが救われているなら、聖書を読んで、神の意志に従いたいと思うであろう。このように書いてある、「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている」(2テモテ3:15). 聖書の必要性はどのようなものであるか?パウロは書いている、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである」(ローマ10:9,13)。

しかし、そのうえでパウロは問う、「しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は』と書いてあるとおりである」(ローマ10:14–15). これは、聖書の言葉の必要性を示している。我々は、神の言葉を聞いて信じ、主の名を呼び、救われる必要がある。どこに神のことばがあるのか?神ご自身が人に対して語られない限り、それを説く人を送られない限り、我々は神の言葉を知ることはできない。我々はその神の言葉を聞いて信じて救われるのである。これが神の言葉の必然性である。

ヨハネ6章の記録では、主イエスから多くの弟子が離れていったとき、ペテロに言われた、「あなたもなぜ離れて行かないのか?」。 「シモン・ペテロが答えた、『主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです』」(ヨハネ6:68)。他のどこにも神の命の言葉はない。全て偽りである。王であれ、大統領であれ、裁判官であれ、全てが偽る。パウロは真実を言っている、「神のみが真実を語る。全ての民は全員嘘つきである」。

我々は旧約聖書と新約聖書のキヤノンに語られているすべての神の言葉が必要である。申命記8:3を引用して主イエスは言われた「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」(マタイ4:4)。

聖書の言葉とはなにか?それは伝説ではなく、神の口から語られた言葉そのものである。モーセは言った、「この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。これはあなたがたのいのちである。この言葉により、あなたがたはヨルダンを渡って行って取る地で、長く命を保つことができるであろう」(申命記32:47)。そして聖書は我々に命を与える。イエスは言われた、「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ6:63)。

聖書の充分性

第4の特徴は、聖書の充分生である。ウェストミンスター信仰告白第1章6項にあるように、我々には必要とする聖書全体があり、神の栄光のために、永遠の幸福の為に我々は聖書を行う必要がある。我々は、聖書に追加したり、そこから削除してはならない。ヨハネは教えている、「この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」(黙示録22:18–19)。 ヨハネは申命記4:2と12:32を引用している。

我々は聖書の全体のみならず個々のことばを正しく理解する必要がある。それを宣べ伝え、それを生きなければならない。御聖霊により頼みながら生きる必要があるのだ。パウロは書いている、「あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい」(2テモテ2:15).

神は神の民に対して助言を与えられる。その助言はすべて聖書にはっきりと書かれているのである。これは、すなわち理性をもって聖書を理解するためである。例えば、聖書は姦淫が罪であることを述べている。心の中で行われても姦淫である、とイエスは言われた。それゆえ、我々はそのような欲望も罪であると言うのである。従って、我々には暗黙的のみならず明示的にも聖書が必要である。

聖書の力

第5の特徴は、力(ドゥナミス)である。神のことばには偉大な力がある。以下の聖書箇所を調べてみよ:

  • 創世記1:1: 「はじめに神は天と地とを創造された」。神は語られ、世界は創造された。今も神のことばによって被造物を維持しておられる。
  • ヨハネ1:3:「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」。
  • へブル1:3: 「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである」。
  • へブル11:3: 「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」。神は、全てを無から創造された。
  • 詩篇36:6: 「あなたの義は神の山のごとく、あなたのさばきは大きな淵のようだ。主よ、あなたは人と獣とを救われる」。
  • ローマ1:16: 「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」。
  • 2テモテ3:15-16: 「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」。

聖書の全体性

第6の特徴は聖書の全体性(トータ・スクリプトゥラ)である。これは聖書の完結性のことである。聖書はどの部分もすべての生命、生活に対して語るのである。このようにある、「それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった(申命記8:3)。全て聖書は神の息がかかっている(パサ グラフェ セオウプニュートス)。だから、聖書はすべて神のことばであると我々は信じる。

恵み中心主義や反律法主義の運動は、律法主義と同様に聖書の全体性を否定することから生まれており、これらは、キリスト教に様々な腐敗をもたらす。運動の支持者は、文脈から特定の節を選んで、そこから勝手に教義を作りだす。組織神学の重要性がここにある。我々は、聖書の全体に基づいて、個々の教えを学ぶべきである。

聖書は我々の生活のすべての部分に対して教えている。パウロはいった、「神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである」(使徒行伝20:27)。他の箇所でも書いている、「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(1コリント10:31)。神の言葉に基づいて彼は言っている、 「そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい」(コロサイ3:17, 23)。

主イエスは弟子に言われた、「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:18–20)。聖書全体、それは我々の人生全体に対して教えるのである。

聖書の権威

最後の特徴は聖書の権威である。神の言葉は、すべての事柄に対する絶対的な判断基準である。米国の大統領が発言するとき、そこには権威がものを言う。しかし、それでも絶対的な最高権威ではない。これとは違い、主なる神は絶対的な最高権威を持っておられる。我々が主の言葉を聞いたとき、それを畏れて震えあがるべきであり、主の権威に謙虚に服し、従う必要がある。

神御自身が聖書のなかで語っておられる通り、神の言葉は絶対的最高権威を持つ。神の言葉を牧師が語るとき、父親が語るとき、母親が語るとき、牧師や、父親、母親が単に話していると考えてはならない。これらの人々を通して、主なる神が我々に語っているのだ。神の言葉に背くなら、神ご自身に背くことになるのである。聖書の言葉はすべて神の言葉である。

次の聖書の箇所は、神が我々にご自身の言葉を語っておられることを示す。

  • イエスは、「こう書いてある」と表現された。そのギリシャ語はイスゲグラプタイ(書かれた通りに成立している)という意味である。神ご自身の口から来る神の言葉であって、永遠に存続する権威を有している。
  • 「聖書は言う(教えている)」という表現も用いられている。
  • 「神は預言者を通して話された」という表現は多く用いられている。
  • 「聖書はすべて神の息がかかっている、神が語られた言葉である」という聖書のことばがあるが、これは聖書の著者が主なる神ご自身であることを意味する。

神ご自身が聖書を通して語っておられということを、主イエスが示しておられる箇所があるが、その一つがマタイ19:4–5である。「イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』」。また、このことについて、主イエスは創世記2:24を引用され、 「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」と言っておられる。ここでは、注意すべきこととして、「創造者は言われた」と言わず、創造者ご自身として言っておられる。

パウロの書簡を含むすべての聖書は、神ご自身が語られた言葉である。パウロの話を聞きたくなかった者たちは、自分たちが預言者のように聖書を解釈していると自負していた。パウロは言った、「もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される」(1コリント14:37–38)。パウロは、また人々を教え戒めるよう、テトスに指示している、「ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定めなどに、気をとられることがないようにさせなさい」(テトス1:14)。聖書は神の命令で満ちている。神は人に対して命令される方であるから、パウロは神の人であるテモテに対し、人々にもそのように命令するようにテモテに指示している。

主イエスは言われた,「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」(ヨハネ10:27)。聖書は、全てが神の言葉である。聖書のみが我々のために語られた神の言葉である。聖書を読むとき、主なる神は我々に語られるのである。神の民として、神の言葉を聞き、祝福を受けられるよう祈る。