主の臨在と力

2 Timothy 4:16-18
P. G. Mathew | Sunday, August 07, 2016
Copyright © 2016, P. G. Mathew
Language [English]

2テモテ4:16-18節では、ローマの法廷で今まさに斬首されようとしているパウロの様子が記録されている。しかし、神の民は決して一人ではない。主イエスの臨在と力が、常に我々を力づけ、導き、聖書に示されている神の御心を行えるようにされる。

我々は父なる神の子供としてお互いを愛し、犠牲を払って助け合うべきである。主イエスがまず我々を愛し、我々罪人を贖うために尊い代価を払われたからである。ヨハネは書いている、「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」(1ヨハネ3:16)。彼はまた言っている、「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている」(1ヨハネ4:21)。

しかし、我々が苦しみにあっているときに、たとえ神の贖いを受けた者達が、我々を助けてくれなくても、愛してくれなくても、主イエスは決して我々を見捨てない。主イエスは常に我々と共におられ、我々が生きていても死んでいても力を与えられる方である。パウロが書いているように、「神がもし我々の味方であるなら、だれが敵対できるであろうか?」(ローマ8:31)。主イエスが我々を救われたなら、我々は永遠に救われるのである。

永遠の過去から未来に至るまで、主イエスにおいて、神は我々を愛し続けられるのである。だから、神の民として恐れる必要はない。ペテロが最初の手紙に書いている激しい試練の中でも、我々は主イエスを信頼する。こうして、霊的救いを受けている立場では、全くの栄光に満ちた喜びに満たされているのである。加えて、この救いの立場では、我々は神ご自身が選んでくださった者として、神の栄光を失われた世界に対して宣言する王の司祭、聖なる国民、神の所有者である。だから、我々は厳かな神の御座に近づき、三位一体の神の栄光を永遠にほめたたえる者達なのである!アーメン。

パウロの第一回弁明

「わたしの第一回の弁明の際には、わたしに味方をする者はひとりもなく、みなわたしを捨てて行った」とパウロは言っている(16節)。この時、神の民はすべてパウロを捨てたのである。なぜかは謎であるが、それは本当であった。再逮捕に続く裁判で、パウロは予備調査について証言していて、ローマ法は弁護人の証人も認めており、このような調査はプリマ・アクティオとしてすべて記録されているのである。

ネロの時代には、キリスト者は通常以下の罪を告発された:

  1. 彼らは国家に対する犯罪で訴えられた。
  2. 彼らはカエサルに対しての犯罪で訴えられた。キリスト者は、キュリオス・イシュス(即ち「主イエス・キリスト」)を礼拝する。しかし、ネロ皇帝以外に、またはそれに加えて、別の礼拝対象者をもってはならない、とされていた。
  3. 彼らはローマ人即ち異教徒の神々を礼拝しないため、無神論罪を犯しているとされた。
  4. ローマ人が主の聖餐式を誤解していたため、キリスト者は人の血を飲んでいるとして、人肉食罪に問われた。
  5. 彼らはローマの社会習俗とは異なった生き方をしていたために、反文明社会の罪で起訴された。
  6. ローマ社会では合法的とされても、キリスト者は罪として行わなかったことがあるが、なんとこれに対して、ローマ人たちは怒り、「合法的行動をしない」という罪でキリスト者を告訴した。

パウロの取り調べでは、イタリア、アジア、他の地域から、彼の信仰の友人や仲間は、だれ一人も証人や弁護人として助けに来なかった。実際、弟子のひとりデマスがキリスト者の道を捨てたように、誰もがパウロを見捨てたのである。彼らは、パウロを一人で苦しめ、犠牲的な愛を持ち合わせていなかった。 多分、逮捕され投獄されることを恐れていたのである。こうして、彼らはパウロに対して罪を犯した。明らかに、パウロが教えていたことに逆らっている。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。 我々は、互いに愛しあうべきである。

パウロの友人たちは、聖霊と聖書ではなく恐怖に翻弄されていた。したがって、弟子訓練が死を要求する場合は、これに服するつもりはなかったのである。聖書は、「完全な愛は恐れを取り除く」とある(1ヨハネ4:18)。彼ら弟子たちは完全な愛を実践できなかった。キリスト者の愛は愛する者の為に死ねる愛であり、これがイエスの道であるはずなのだが。

主イエスはすべての者によって捨てられたのである。マルコの福音書には、「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った」とある(マルコ14:50)。これにはペテロと他の弟子たちも例外ではなかった。しかし、主イエスは我々が決して体験しないことを通られた。それは、我々のために父なる神から捨てられるということであった。「そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」(マルコ15:34)。

なぜ主イエスは父によって捨てられたのか? 彼は神が選ばれた人々の罪を自分自身に被ったのである。我々が受けるべき神の怒りに苦しんだのだ。イエスは十字架上で我々の死と地獄を経験し、そして「成し遂げられた」、と我々の贖いの完成し叫ばれたのである。

キリストは自らの犠牲によって分の贖いを完成された。だからパウロは、こう言っている、「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(コリント5:19、21)。

十字架の意味をここで明確に理解したい。イエスは我々のために苦しんだので、もはや我々は一人で戦う必要はない。たとえ死の影の谷を歩いても、たとえ信仰の仲間に見捨てられても、我々は三位一体の神に捨てられることはないのである。神は、我々にキリストの代理者としての聖霊を与えて下さっている。そして、永遠に我々と共におられるのである。

16節でパウロは、「どうか、彼らが、そのために責められることがないように」と、恐れからら彼を捨ててしまった信仰の友のために祈っている。言い換えれば、「キリストが再び来られて、生きている者、死んでいる者を裁かれる時、彼らが罪に定められないように祈っているのである。これはキリストの祈りでもあった。「父よ、彼らを赦してください、彼らは自分が何をしているのか分からないのである」(ルカ23:34)。ステパノもこう祈っている、主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」(使徒言行録7:60)。1コリント13:5「愛は恨みをいだかない」を我々は習うべきである。主イエスご自身も教えられた、「また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう」(マルコ11:25)。

主の臨在

全ての友は我々を見捨てるかもしれない。しかし、主は我らと共におられる。神を愛し、主の戒めに反して偶像崇拝することを断った3人のヘブライ人は、7倍熱く燃える火の炉に投げ込まれたが、彼らは死ななかった。のみならず、投げ込むように命令をしたネブカドネザル王は、主なる神の御子を天使の形として目撃して驚愕したのである(ダニエル3章)。

主は彼と共におられた

パウロは、ネロの前に出される前の法廷で、全員に見捨てられたが、その間も主は彼と共におられたのである。主がパウロと共におられたのは、これが初めてのことではない。子のように記録されている、「ある夜、幻のうちに主がパウロに言われた、『恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる』」(使徒行伝18:9–10)。また次のようにも記録されている、「その夜、主がパウロに臨んで言われた、『しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない』」(使徒行伝23:11)。主イエスご自身、弟子に約束された、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20b)。

神の力が彼を強めた

主がパウロと共におられただけでなく、パウロを強められたのである。主イエスは弟子たちにこの力について言っておられた、「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう(使徒行伝1:8)。

我々が伝道をしない理由はなにか? 我々は弱いのにも関わらず、聖霊の力に強めていただくことを望んでいないのである。聖霊に力を与えられれば、口を開いて、唯一の救い主イエス・キリストを伝えるようになるだろう。パウロは言っている、「どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに」(エペソ3:20)。我々の中に働くの神の力が必要である、「そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである」(コロサイ1:29)。パウロは書いている、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)。

主イエスは、弱い主の僕に力を与えられる。それは、神の栄光のため、神の業を行うためである。イエスは次のように言っておられる、「しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、あなたがたの髪の毛一本でも失われることはない。あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう」(ルカ21:12–19)。

「髪の毛一本でも失われることはない」とは、キリストは今日も我々を、体も魂も両方を救われるということにほかならない。神が我々の口を開けてイエス・キリストの福音を語るようになるため、聖霊の力を与えられるように!

神は我々に力を与えらえる。復活のキリストに会って、パウロは次のように言っている、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(2 コリント12:9)。このように力を与えられることをへブル書には、「火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされた」と書かれている(へブル11:34)。

我々はキリストを証しているだろうか? それとも、もっぱら金を稼ぐことや自分の家を持つことが関心事だろうか。もしそうなら、我々の口は閉じたままになり、神が私たちに与えておられる力によって、イエス・キリストの証をしていないことになる。神の力によってダビデは巨人ゴリアテに打ち勝ったように、我々も共におられる主によって、主の御心を行うのである。

神は意志され、目的を行われる

パウロは言っている、「しかし、わたしが御言を余すところなくのべ伝えて、すべての異邦人に聞かせるように、主はわたしを助け、力づけて下さったのである」(17節)。神は我々によって福音をのべ伝える目的を果たしておられるのだ。神は我々と共におられ、主イエスを証する力を与えられるのである。

パウロは、かつてキリスト者の迫害者として、信仰を滅ぼしてしまう殺人鬼であったが、今や十字架の戦闘を行く騎士となったのである。主イエスがアナニアに言われた、「主は仰せになった、『さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう』」(使徒行伝9:15–16)。パウロ自身も言っている、「わたしは、この福音のために立てられて、その宣教者、使徒、教師になった」(2テモテ1:11)。「私を通して福音の宣教は成し遂げられた」と言っているように、成し遂げるまでパウロは宣教を継続した。

彼は一人で戦ったが、ネウロの法廷に集まったすべての異邦人に大胆に説教した。フェストゥスとアグリッパ2世、そして経済的にも社会的にも有力者であった異教徒の友人たちに説教したのと同じように、これらの異教徒にも説教したのである(使徒25-26)。御聖霊は彼に力、知恵、言葉、そして大胆さを与えた。十字架にかけられて葬られた後、死からよみがえり、全てを支配しておられるイエス・キリストについて彼らに説教した。すべての人に、悔い改めとイエスへの信頼を説いた。こう書いてある、「アグリッパがパウロに言った、『おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている』。パウロが言った、『説くことが少しであろうと、多くであろうと、わたしが神に祈るのは、ただあなただけでなく、きょう、わたしの言葉を聞いた人もみな、わたしのようになって下さることです。このような鎖は別ですが』」(使徒行伝 26:28–29)。

我々は伝道において大胆だろうか?それとも、実は霊的に貧相でお金稼ぎの方にまい進しているのだろうか?より多くのお金があれば、それは祝福を意味している、と考えているだろうか?それは、嘘である。

パウロはローマ法廷で福音を伝え、すべての異邦人がそれを聞き、信じて救われる者もいたのである。福音を拒否した者たちは、やがて神の断罪にあうであろう。福音を伝えることによって、救いに導かれる者もおり、断罪される者もいる。福音はどちらにしても有効なのである。

即ち、パウロは言っている、「しかし、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか」(2コリント2:14–16)。 福音伝道は、いのちに至るか死にいたるかを分ける重要な働きなのである。

パウロの証しをアグリッパ王は信じなかった。王は皇帝ネロを信じていたのでもない。彼らは、しかし鎖につながれたパウロから福音を確かに聞いたのだ(Mathew牧師訳)。多くの人が招かれる。しかし救われる者はほとんどいないのだ。我々の役目は、福音を証することだけである。そして主イエスご自身が、人々を救いに導かれるのである。

もう一度聞きたい。あなたは主イエスの証をしているだろうか? それが我々の召命である。主イエスご自身が言われた、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)。我々は牢獄につながれてはいない。自由人である。主なる神の助け、聖霊の助けを受けて、福音を伝えよ。

主は彼を救い出された

そこでパウロは書いている、「そして、私は獅子の穴から救いだされた」(17節)。ダニエルがライオンの洞窟から救われたように、パウロも救出を経験した。

我々に対して吠えたけりながらくるライオンのような悪魔がいるのである。しかし、それを自らの死をもって、主イエスは倒された。我々は。悪魔に抵抗できるようにされており、悪魔こそ我々から逃げなければならない。主権者であるイエスが許さないかぎり、誰も神の民を倒すことはできない。親愛なる神の民たちに言いたい。この真実を認識して、大いに励まされよ。なので、たとえすべてが我々を捨てても、主は我々を見捨てることはない。モーセは我々に真実を語っている、「あなたがたは強く、かつ勇ましくなければならない。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に行かれるからである。主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう」(申命記31:6)。主なる神を信頼し、救いを受けよ。

主イエスは無敵の教会を建てられる

パウロは続ける、「主はわたしを、すべての悪のわざから助け出し、…」(18節)。主イエスご自身が栄光ある教会を建てられる。全ての敵を死から蘇られることによって敗退させられ、万物はキリストの足の下に従う。今や、どのような敵も彼にはむかうことは不可能なのである(エペソ1:20b–23)。

キリストは彼の教会を建てておられる。地獄の門はそれに勝つことはない。ヨシュアがエリコを陥落したように、教会は地獄の力を跳ね返し、主の力によって悪を倒すこととなる。

主イエスは言われた、「わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びない」(ヨハネ10:28)。天使ガブリエルはヨセフに伝えている、「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」(マタイ1:21)。イエスは死に、イエスは生きられる。彼は永遠に生きられるので、我々も永遠に彼の中に住むのである。

主は悪魔とあらゆる悪から我々を救い出される。そして、救われ続けるのである。 イエスは我々を愛し救う方なのである。パウロは次のように書いた、「わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」(ローマ5:9–10)。こうも言った、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:20)。コリントのキリスト者には、こう書いた、「心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる」(2コリント1:9–10)。

主イエスは、我々をあらゆる悪の攻撃から救う。もし御心であれば、殉教もありうるであろう。しかし、それでもイエスは我々救われる。パウロは書いている、「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:37–39)。

ピリピの教会いパウロは書いている、「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい」 (ピリピ1:21–23)。考えてみよ。我々の人生はイエス・キリストの死と復活によって、事実変わったのである。

パウロは書いている、「天にある御国に救い入れて下さるであろう」(18節)。死に対しても、我々の霊は完全にされ、聖なる天使たちによって神の国に招かれて、主なる神との交わりを楽しむことになる。天と地の中間のような、いわゆる煉獄というものはない。そういうところには行かない。主イエスは十字架上で、悔い改めた盗賊に言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)。

神おられる場所、天使がいる場所がある。そこでは、我々の霊が完全にされている。我々の先駆者もいるのである。そこが真の神の国である。へブル書の著者が語った、「しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である」(へブル12:22–24)。キリストの注がれた血は何を語るのか?それは、救いを語るのである。

我々が死ぬと、この世の罪と死とあらゆる悪から、聖なる所へ移される。それはキリストの国の場所であり、聖霊の中であり、義と平和と喜びの場所である。それは、父、御子、御霊への喜ばしい礼拝と賛美の場所である。

パウロは救いを大いに確信した。ペテロは、後に十字架につけられたが、我々が神の召しと選びを確信するように、と我々を励ましている(1ペテロ2:10)。そして、他の箇所では、パウロが同じことを言っている、「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる」(2テモテ2:12a)。

ステパノが殉教する前に、彼は天の幻を見せられた。ステパノの霊はそこに移されつつあった。パウロは、ステパノの死を目撃しているので、実際そこに立ちあっている。その様子は次のように記録されている。「しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた」(使徒行伝7:55–60)。

だからこそ、くりかえしになるが、パウロは、「主はわたしを、すべての悪のわざから助け出し、天にある御国に救い入れて下さるであろう」と言っているのである(18節)。 イエス・キリストは我々の救い主である。そして彼は我々を救われる。

主イエスに栄光

この箇所の終わりに、パウロは、イエスを賛美して、頌栄を祈っている。頌栄とは普通父親に話されるものである。ピリピ4:20にパウロは書いている、「わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アーメン」。しかし、他の箇所でも頌栄が、主イエスに向けて祈られているところがある(ローマ9:5; 2ペテロ3:18)。そして、ここ2テモテ4:18でも、パウロは主イエスをほめたたえて、「栄光が永遠から永遠にわたって主にあるように」と言っているのである。

「栄光」は、神/人であるイエスの輝かしい現れを表している。その栄光について他の箇所でもかかれている。「彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」(マタイ17:2)。イエスは神ご自身である。ヨハネは言っている、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1:1, 14)。主イエスにあって我々は真の礼拝を、そして主をほめたたえるのである。「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる」(へブル1:3)。

我々は主をほめたたえて賛美するだけでなく、主に従うことによっても賛美する。ペテロは言っている、「すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように」(1ペテロ1:2)。あなたがイエス・キリストに従わなければ、あなたは救われず、あなたは父なる神によって選ばれず、御霊によって聖化されることはない。主イエスは祈られた、「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました」(ヨハネ17:4)。主イエスは苦しみを通して服従を学ばれ、服従するすべての人の救いの主になられた(へブル5:8–9)。もし、あなたが主イエスに従わないならば、キリスト者ではない。だから、神を賛美することは大切だが、我々が主イエス・キリストに従うことは重要である。主に従わずに賛美を歌うことは、まったくの偽善である。主イエスは、そのような反律法主義者を永遠の地獄に送るのである。主イエスは言われた、「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ7:23)。[1]

パウロは殉教に直面していても、救い主に栄光帰した。それは、主の偉大なる救いを確信していたからである!

適用

次の点に注目して自分に適用せよ:

  1. 我々が最も助けを必要としているとき、キリストにある兄弟が我々を見捨てることがあっても驚くな。
  2. どんな状況でも、主なる神は我々を責められるところのない聖なる者とされるのである。
  3. 主はいつも我々を決して捨てられない
  4. 我々と常に共におられ、それは生きていても死んでからもである。
  5. 主は我々を常に励まし、慰められる。
  6. 主は我々の弁護者となってくださる。
  7. 主は我々が弱い時に強められる。祈り願うならば、主は力を与えられる。
  8. 主は我々と共におられるので、我々は与えられた仕事を神の栄光のために仕上げることができる。
  9. 主は、この世の敵、肉なる者、そして悪魔のすべての撃から我々を救われる。
  10. 主は、最終的に我々を義と平和と聖霊の喜びに、神の国に安全に導かれる。
  11. この大いなる主の救いのために、我々は神を賛美しなければならない。アーメン。
  12. 我々が、神に召命を受けており、神におよって選ばれていることを、確認する必要がある。唯一の救い主イエス・キリストの外にいるならば、私はあなたに言う、「悔い改めて、主イエス・キリストを信頼するなら、あなたは救われ、あなたの家族も救われる。

自分の生活と人生に、これらの言葉を適用し、我々が祝福されることを、節に祈ります。

[1]  主イエスは、ここで「エルガゾメノイ テン アノミアン」、即ち、律法がないこと、反律法主義者たちのことを言っておられる。