より若年の時からの主なる神による訓練は、一生の間その人を保つ、第二
Proverbs 22:6P. G. Mathew | Sunday, November 29, 2020
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Language [English]
神を畏れる家族となること、それは使徒2:39で、ペテロがキリストの救いの約束で語っている、「この約束は、あなたがたと、あなたがたの子らに与えられたものです」。たしかに例外もある。ローマ人9:13で、主は「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と言われたことが引用されている。それでも、聖書は家族の救いについて多く教えている。リディアとその家族が救われ、バプテスマを受けた(使徒16:14–15)。また、ピリピの刑務官はパウロから「あなたと、あなたの家族は救われる」と言われた(使徒16:32)。
イザヤ59:21は、「『わたしが彼らと立てる契約はこれである。あなたの上にあるわが霊、あなたの口においたわが言葉は、今から後とこしえに、あなたの口から、あなたの子らの口から、あなたの子らの子の口から離れることはない」と主は言われる」と言っている。人間の主な目的は何か? それは神を賛美し、永遠に神を喜ぶことである(ウェストミンスター小教理問答1)。これは私たちの家族にも当てはまる。即ち、私たちの子供たち、及び子々孫々にあてはまる。
私たちが本当に神の子供であることがどうやってわかるのか?それは、神が私たちを聖なるものにするために、私たちに正義(従順)を教え、叱責し、矯正し、訓練されるということによってわかる。そうすることで、神は私たちに愛を示される。清くなければ神を見ることがない、ということである。
箴言3:11–12は、「わが子よ、主の懲しめを軽んじてはならない」と言っている。懲らしめとは、神の言葉を教え、叱責し、矯正し、激しい不従順に対する罰を伴う義の訓練をすることを意味する。私たちは、神の言葉を汚物のように扱ってはならない。主の懲らしめを軽んじてはならない。その戒めをきらってはならない。なぜなら、「主は、愛する者を、戒められる」からである、あたかも父がその愛する子を戒めるように。
福音の説教を軽んじてはならない。親を通して行われる主のしつけを軽んじるな。私たちは子供たちを崇拝するべきではない。一人一人個々が神を礼拝すべきである。自分の子供たちにそう教え、叱責し、正し、神の意志を行うように訓練し、教えを執行するように教えよ。そのために罰を与えることも控えるな。「主は愛する人を懲らしめられる」のである。 私たちは、両親や牧師などを通してもたらされる主の懲らしめを軽んじてはならない。
若い時からの主なる神による訓練
2テモテ3:15–17でパウロはテモテに書いている、「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ2:10)。良いわざに富んだ生活をせよ (1テモテ6:18)。
子供たちを幼い頃から、聖書によって教育せよ。彼らを叱責し、正し、義を訓練し、また故意の不従順を罰すべきである。パウロは、「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである」(ローマ14:17)と言っている。義とは何か? 義とは正しいことをすることを意味し、正しいことは聖書にある神の意志である。これは単なる知的な知識ではなく、あなたの子供たちや子孫が祝福されるように、神の意志を行うことを学ぶということである。主は言われる、「わたしが彼らと立てる契約はこれである」(イザヤ59:21)。神は私たちと、私たちの子供たちとその子孫と契約を結ばれるのである。
子供たちのしつけは、両親と主がその子供たちを愛し、喜ばせていることの証明である。主ご自身が、彼らが天の国を引き継ぐ者となるように、時には彼らを滅ぼすまで、懲らしめられるのである。神の子供たちのしつけは、子供たちが邪悪でないことの証明である。
箴言20:30に書いてある、「傷つくまでに打てば悪い所は清くなり、むちで打てば心の底までも清まる」。親よ、あなたは鞭をもってしつける用意ができているか?私はそれで育てられた。敬虔な子育てとは、義を教え、叱責し、矯正し、訓練するだけでなく、体罰をも含む。「打撃と傷」を与える「殴打」は、悪の心を浄化するための神聖な薬となる。お金が充分に多すぎると子供たちを崇拝するような親になる。しかし、鞭の訓練は、私たちを聖なるものにするための神の聖化の方法である。それは効果的である。我が家では、誰一人として、親に逆らう者はいなかった。
親は子供たちが敬虔に成長するように教える責任がある。へブル12:14は言っている、「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」。清くない人々は、主なる神を救い主として見ることはない。主を裁判官として見るだけである。
ウェストミンスター神学校で教えていただいたジェイ・アダムズ師によると、人が神の意志を実行する習慣を得るまでには6週間かかるということである。子供たちを敬虔へと訓練するのは両親の責任である。親への不従順は、許してはならない。聖書は両親に素晴らしい約束を与えている、「子をその行くべき道に従って教えよ」である。つまり、神の言葉によって、十戒によって、神の戒めによって、教えよ。「そうすれば年老いても、それを離れることがない」(箴言22:6)。実際、そのような人は、神の言葉をもって、他の人をも訓練できるようになる。
子供たちを訓練する、それは、子供たちが、すぐに、正しく、喜んで親に従うようになることである。今まであなたは子供たちを崇拝していたかもしれない。今日からその態度を改めよ。神の言葉に従い、義のまっすぐで狭い道を子供たちに教えよ、訓練せよ。主イエスは言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6).私たちは子供たちを訓練して、道である主イエスに従うように教えるべきである。
敬虔さの訓練は幼児期に始まり、そのような初期の訓練は一生続く。テモテの例を見よ。ロイスはユニケを訓練し、ロイスとユニケは両方ともテモテを訓練した。テモテは敬虔な人になった。私の両親は、私が即座に、正しく、喜んで両親に従うように訓練してくれた。私は、
他の人をそのように訓練してきた。ロイスもユニケもテモテを崇拝しなかった。テモテを従順で、清い人間に成長するように訓練した。それでパウロはテモテに以下のように手紙を書いている:
- 2テモテ3:15: 「幼い時から、聖書に親しみ」
- 2テモテ1:5–6: 「また、あなたがいだいている偽りのない信仰を思い起している。この信仰は、まずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケとに宿ったものであったが、今あなたにも宿っていると、わたしは確信している。こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい」。それは、聖霊によって、按手によってである。
神のみに対して従順であること
私たちは御聖霊によって神の言葉に従う。「自分の中にキリストの言葉を豊かに住まわせなさい」とパウロは教えている(コロサイ3:16)。いつも聖霊に満たされるようにと勧めている(エペソ5:18)。
主イエスは生涯に御聖霊に従われた。そのように私たちも従うべきである。ローマ人8:11–14で、パウロは「主イエスを死人の中からよみがえらせた御御霊が、あなたがたの内に宿っているならば」従うべきである、と言っている。
私たちは悪魔に対して義務はない。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:10)。悪魔に従ってはならない。私たちは主イエス・キリストに従わなければならない。ヤコブ4:7では、「主イエスが誘惑されても悪魔に抵抗し、父なる神に服従されたように、私たちも悪魔に抵抗するように教えている(マタイ4章)。そうすれば、約束通り「悪魔はあなたから逃げるであろう」。
悪魔は私たちを滅ぼそうとしている。主イエスは私たちに命を与えるために来られた。クリスチャンの生活は、神の言葉で私たちを導かれる御聖霊への継続的な従順である。私たちは罪を犯す義務はない。義務は御聖霊に対するものである。私たちは御聖霊に従わなければならない。マタイ28:20で、弟子たちに対して他の人に教えるようご聖霊は教えておられる、「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
これは私たちが力を得るべきことを意味する。御聖霊は力を与えて下さる。主イエスは言われた、「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1:8)。個人的に言えば、父なる神は私をこの遠い地に遣わして福音を語るように導かれた。そのための力を与えてくださった。「わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである」(コロサイl. 1:29)とパウロも言っている。御聖霊の助けなしに私たちは清い生活はできない。聖霊によって、私たちは罪を滅ぼし、神に従うことができる。御聖霊はどこにおられるか? はクリスチャンである私たちの中に住んでおられる。私たち自身は、何者でもない。私たちは単なる粘土のような者、色あせた花のような者である。聖書によれば、私たちの寿命は70年、長くてもせいぜい80年であり、すぐに死んで天の国に行く者である。
両親を敬うこと
敬虔の訓練を受けた子供たちは、年をとった両親を敬い、世話をする。箴言23:22は言う、「あなたを生んだ父のいうことを聞き、年老いた母を軽んじてはならない」。あなたを生んだ父の言うことを聞きなさい。母が年をとっても軽んじるな。 「聞く」とは「尊び従う」ことを意味する。あなたは父に従ってきたか?邪悪な子は両親を軽蔑する。(PGM)しかし、敬虔な子は、年をとった後も両親を敬い続ける。彼らの世話をすることによって両親を尊重するのである。決して軽んじてはならない。考えてみれば、両親はあなたの世話をしてくれたのである。あなたは裸で母の胎から出てきた。両親はあなたを養い、祖父母もあなたを助けたのである。だから、年老いた彼らのことを忘れるな。
1テモテ5:4は言う、「やもめに子か孫かがある場合には、これらの者に、まず自分の家で孝養をつくし、親の恩に報いることを学ばせるべきである。それが、神のみこころにかなうことなのである」。1テモテ5:8にパウロは書いている、l「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい」。子や孫は年をとった両親や祖父母の世話をする責任がある。
鞭を用いる価値
鞭(むち)を用いる教育は子供を地獄から救い出す。箴言23:13–14 は言う、「子を懲らすことを、さし控えてはならない、むちで彼を打っても死ぬことはない。もし、むちで彼を打つならば、その命を陰府から救うことができる」。それは、地獄から救い出すということである。私たちの家では、両親は子供たちを偶像化して崇拝しない。繰り返し勧める、子供を崇拝するな。神を崇拝せよ。そして、邪悪な行動は、鞭を用いて正せ。
神ご自身が鞭を用いられる。1コリント11:30–32でパウロは言っている、「あなたがたの中に、弱い者や病人が大勢おり、また眠った者も少なくないのは、そのためである」。私たちが聖餐式のとき、神は私たちに選択をゆだねられる。私たちは自分自身を調べて悔い改めるべきである。この選択を神に感謝せよ! 正しく吟味しないと、神は鞭をふりあなたを戒められる。それでパウロはこう書いています。「あなた方の多くは弱くて病気で、多くの人が亡くなりました。」 これはコリントの信者たちに起こりました。なぜなら彼らは自分自身を調べて悔い改めず、彼らの行いによって悔い改めを証明しなかったからです。パウロは続けて言っている、「しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである」。神は私たちを天の国にふさわしくするために殺されることもありうるのだ。これらの人々の罪は具体的に何だったか? 貧しい人々は遅れてやって来たために、食べ物が与えられなかった。これは、使徒6:1にもみられる。ギリシャ語を話すユダヤ人の未亡人は食べ物を与えられなかった。
箴言29:15は言っている、「むちと戒めとは知恵を与える、わがままにさせた子はその母に恥をもたらす」。子供が「放任」されると、その子供は神の言葉の教え、叱責、矯正、義の訓練、鞭の矯正を受けないことを意味する。
しかし、箴言29:17は教えている、「あなたの子を懲しめよ、そうすれば彼はあなたを安らかにし、またあなたの心に喜びを与える」。我々の教会には多くの敬虔な子供たちがいる。鞭の教育は罪を追い出し、知恵(主への恐れ、従順)を強化する。箴言22:15はそれを教えている。親は鞭をもって悪を追い出し、知恵を駆り立てるべきである。鞭を用いた矯正はあなたの子供たちに知恵を与る。そうすれば、彼らはあなたに平和を与え、あなたの魂に喜びをもたらす。これが神からの約束である。その条件を満たせば、子供たちはあなたの魂に喜びをもたらすのである。
詩編94:12は言う、「主よ、あなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人はさいわいです」。神ご自身が私たちを懲らしめ、教え、罰し、そして私たちは祝福される。つまり、私たちは永遠に救われるのである。だから、「あなたが懲らしめる人は幸いであり、あなたが懲らしめない人は呪われている」とも言える。
詩編118:18は言っている、「主はいたくわたしを懲らされたが、死(すなわち地獄)にはわたされなかった」。神は私たちを天の国に連れて行くために必要なことは何でもされるのだ。ヘブル12章には、以下のように書いてある、
そして、あなたは子としてあなたに向けられたその励ましの言葉を忘れている:「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。 (へブル12:5–11)。
親は、子供たちを教え、叱責し、矯正して、鞭による義の訓練を行うべきである。そうしないと、子供たちが親を憎むのである。神のしつけは、苦痛となるが、私たちの心を神と神の愛に集中させ、神に耳を傾け、神に従うようにさせるのである。そうすることで、義と平和の収穫を得ることができる。私たちは神の意志を聞いて実行することを学ぶようになるのである。「主イエスは御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救いの源となられたのである」(へブル5:8–9)。
結論
結論として、両親と牧師を通して聖霊によって聖書が用いられると、それは私たちを永遠の救いへと導く。だから、あなたの子供たちを愛し、救われるように彼らに聖書を教えよ。
罪も死も老いもなく、義だけがある新しい天と新しい地が私たちを待っており、私たちは神と共に永遠に生きるのである。ヨハネが語っている以下のことを考えよ:
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。 (黙示録21:1–4)
主なる神が、私たちに聖書を教え、叱責し、正し、義の訓練をするため、両親、牧師、教師、その他を用いて下さいますように。彼らが鞭を行使して、罪を追い払い、知恵と神への恐れを駆り立て、これによって私たちが義と平和を収穫し、聖なる民となれるように、そして私たちが主なる神にお会いして永遠の救いにあずかるようにと祈ります。
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