イエスは私たちのために祈る

John 17
P. G. Mathew | Sunday, September 20, 2020
Copyright © 2020, P. G. Mathew
Language [English]

イエスは私たちのために祈っておられます。これは私たちが神に祝福されていることを意味し神の選びの民だからです。聖霊は私たちのために祈っておられ、教会も私たちのために祈っています。私たちは祝福された民です。総じて、私たちは神と神の家族に恵まれており、何一つ欠けることはありません。

三位一体の神は、世界が創造される前から、父なる神は、時が満ちたときに御子が人間となって私たちの罪の身代わりの死と贖いをもくろまれました。御子はこれに同意され、聖霊もまた、この贖いを選びの罪人個々人に適用するべく同意されました。あなたが神によって選ばれた者であれば、永遠にキリストに与えられ、祝福された民なのです。

ですから、父なる神は私たちを愛し、子なるキリストは私たちを愛し、聖霊は私たちを愛しておられます。そして、悪魔は私たちを憎み、世界は私たちを憎んでいます。しかし、イエスは悪魔と世界に勝利しました。ですから、神に従い、悪魔に抵抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去るでしょう。悪魔はイエス・キリストに打ち負かされたことを知っています。

私たちは三位一体の神に永遠から愛されています。何ものも神の永遠の愛から私たちを引き離すことはできません。死でさえも私たちを引き離すことはできません。父なる神は私たちを救うすべての権威を御子イエス・キリストに与えました。やがて、選びの人々は福音の呼びかけを聞き、聖霊によって再生させられます。聖霊は神の意志を理解するための新しい心、それを行うための新しい意志、そして神が私たちに感じてほしいのと同じように感じるための新しい愛情を彼らに与えられます。したがって、私たちは苦難をも喜ぶのです。なぜなら、苦難は忍耐を生み出すからです。忍耐は人格を、人格は希望、つまり神の栄光への希望を生み出します。

父なる神は、御子イエス・キリストに、私たちを救うためのすべての権威を与えました。やがて、選民は福音の呼びかけを聞き、聖霊によって再生し、悔い改めてキリストを信頼し、聖霊が宿って永遠に救われるようになるでしょう。

選びの民は多くなく、数少ない残りの者たちです。イエスは言われました、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。(永遠の)命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ7:13–14)。パウロは言いました、イザヤはイスラエルのことで叫んでいる、と言っています、「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう」(ローマ9:27). 私たちは残りの者であり、多くはありません。真理が説かれても、聞きたがらない人は多く、それを聞いて愛する人は少ないでしょう。エクレシアとは「教会」、つまり神が世から呼び出して世の光となる人々の集まりを意味します。

それでは、次の点について考えてみましょう。

  1. 私たちは永遠の昔から神の選びの民です
  • ヨハネ17:2: イエスは言われました、「あなた(神)は、子(イエス)に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから」。ヨハネ17章には、父が私たちを罪から救うために子に私たちを与えたと5回書かれています。永遠の天におられる私たちの父は、私たちを救い、永遠の命を与えるためにイエスに私たちを与えました。この真実が気に入らないなら、あなたは神の選びの民ではなく、これら残りの者ではありません。
  • ヨハネ17:6: イエスは言われました、「わたしは、あなた(父なる神)が世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました」。私たちはこの世にいて、自分のやりたいことをやっていました。私たちは罪人でしたが、神は私たちを聖人、神聖な者となるよう召されました。イエスは続けてこう言われました、「彼らはあなたのものでした。あなたは彼らを私にお与えになりました。そして彼らはあなたの言葉に従いました」。言い換えれば、神の言葉に従わないなら、あなたはその残りの民ではないということです。永遠に召された人々はイエス・キリストに従います。
  • ヨハネ17:9: イエスはまた言われました、「わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。彼らはあなたのものなのです」。イエスはすべての人のために祈るのではなく、自分の民のために祈られるのです。ですから、私たちは福音を信じることで、イエスが私たちのために祈ってくださっていることを確かめなければなりません。
  • ヨハネ17:24: イエスは祈られました、「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」。私たちの永遠の将来はキリストと共にあることです。
  • ローマ8:29–30: パウロは書いています、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった」。私たちはイエス・キリストを兄とするように、兄のようになるのです、「それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。 そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」。私たちの将来は栄光です。
  • エペソ1:3–4: 「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福されました」。イエス・キリストを信じるとき、あなたは想像し得る祝福のすべてをもって祝福されます。 パウロは続けて言います、「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び.” 神の民は世界が創造される前から選ばれていました。私たちはキリストにおいてあらゆる霊的祝福を受け、聖なる生活を送ることができます。聖なる生活を送っていないなら、召命と選びについて確信を持つことはできません。私たちは、イエスが父なる神に従ったように、すべての信者がイエス・キリストに従わなければならないと教えています」。
  1. キリストは私たちの罪のために死なれました

イエスはヨハネ4:34で言われました、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、その御業をなし遂げることである」。 イエスの仕事は何でしたか?それは、罪の贖いを成し遂げることでした。以下のことを考えてください:

  • ヨハネ17:4: イエスは、「地上であなた(父なる神)の栄光をあらわしました」と言われました。それは私たちの目的でもあります。私たちは神に従うことによって神の栄光を表します。だからイエスは、「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げます」と言われました。その仕事は何でしょうか?それは私たちの罪の代わりに死ぬことでした。イエスは父なる神に従うことによってその仕事を成し遂げられたのです。
  • ヨハネ19:30: 「イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言われ」ました。何が終わったのでしょうか。罪の贖いの業は十字架上でのイエスの死によって完了しました。それでイエスは「テテレスタイ」と叫びました。これは完了受動態の直説法で、「完了した」という意味で、永遠に完了したことを意味します。贖いは十字架上でのキリストの死によって成し遂げられました。
  • 2コリント5:19, 21: 「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、…神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」。私たちのすべての罪がキリストに与えられ、キリストは完全が義を私たちに与えてくださったのです。
  • ローマ13:14: 「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。言い換えると、この世はキリスト者を見るときにイエスを見るのです。私たちは世の光として行動しなければなりません。
  • 1コリント2:2: パウロは書いています、「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである」。真の信仰者は十字架の栄光をあらわします。キリストが私たちの罪のために死なれたからです。
  • 1ペテロ2:24: 「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである」。私は毎日罪に対して「ノー」と言います。悪魔は私に敵対しています。彼は私が罪を犯すことを望んでいます。私たちは罪に対して死に、義のために生きなければなりません。それは、私たちがイエス・キリストに従うべきであることを意味します。なぜでしょうか?「彼の打ち傷によって、私たちは癒され」、救われたのです。神の聖徒として、私たちは私たちの中に住む聖霊の力によって、罪に対して「ノー」、義に対して「イエス」と言います。聖霊は永遠の霊であり、三位一体の第三位格です。彼は私たちに、罪に対して「ノー」、義に対して「イエス」と言う力を与えてくださいます。アダムにおいて、私たちはノンポセ・ノンペカレ(罪を犯さないことが不可能)になりました。今、私たちの状態は聖霊の力によってポせ・ノンペカレ(罪を犯さないことが可能)です。「聖霊があなたがたの上に臨まれると、あなたがたは力(ドウナミス)を受けるであろう」(使徒行伝1:8)。私たちは聖霊なしにはクリスチャンとしての生活はできません。二重の取引とは何でしょうか?彼は私たちの罪のために死なれました。私たちは神に罪をゆだねましたが、神は私たちに完全な正義を与えてくださいます。

III. キリストは私たちのために祈られる

イエス・キリストは私たちのために祈られます。その祈りは有効に働きます。

  • ヨハネ17:9: イエスは、父なる神に祈られました、「たしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。彼らはあなたのものなのです」。「この世」とは神の選びの民以外の人たちのことです。どうして、選びの民以外であるとわかるのですか?それは、彼らが悔い改めることもなく、イエス・キリストを信じることもないからです。彼らはお金を信じても神は信じません。だから、「この世のためには祈らない」とイエスは言われました。
  • ローマ8:34: パウロは書いている、「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」。復活はイエスに罪がなかったことを証明しています。罪を犯したイエスは私たちを救うことはできません。なぜなら、そのような人は自分の罪のために死ななければならないからです。しかし、パウロはこう言っています、「死んだだけでなく、よみがえったキリスト・イエスは、神の右に座して、私たちのために執り成しておられます」。イエス自身が私たちのために祈っておられます。イエスは地上にいたときも私たちのために祈っておられ、今も私たちのために祈っておられます。キリストは天国で私たちのために祈っておられ、地上では聖霊が私たちのために祈っておられます。
  • ローマ8:27: 「そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」。父なる神はイエスの祈りと聖霊の祈りを聞いてくださいます。ですから、私たちの救いは確かに確実です。私たちはこれが永遠に保たれていることを信じています。
  1. 選びの民は神に守られておその救いは確実です
  • ヨハネ10:28–29: イエスは言われました、「わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがない」。私たちの神は無限であり、全能であり、人格を持っています。イエスは続けてこう言われました、「また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。彼らをわたしに下さったわたしの父なる神はすべてにまさる方である。そしてだれも父なる神のみ手から、それを奪い取ることはできない」。悪魔は私たちを試みることはできますが、神の手から奪い去ることはできません。イエス・キリストは死によって悪魔を打ち負かされました(1ヨハネ3:8; ヘブル2:14–15)。
  • ヨハネ17:11: 「わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」。 真の信者はキリストにおいて一つです。(PGM)私たちは皆、神の家族に属しているので、お互いを愛しています。神の教会には差別はありません。
  • ヨハネ17:12: 「わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました(地獄に行きました)」。 これはイスカリオテのユダについて語っています。彼は永遠に罪に定められていましたが、キリストは彼を使徒として選びました。しかしイエスは続けて言っておられます、「ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした」。実際、ユダは神の選びの民ではありませんでした。最後まで忍耐して信仰を守り通すなら、私たちは選びの民です。
  • ヨハネ17:15: 「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者(サタン)から守って下さることであります」。私たちは悪魔から守られています。確かに悪魔は私たちを攻撃しますが、決して成功しません。父なる神は選びの民を守り、子なるキリストは選びの民を守り、聖霊は選びの民を守ります。悪魔はキリストの死と復活によって永遠に打ち負かされます。それでヤコブはこう言います、「そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう」(ヤコブ4:7)。
  1. 選びの民はお互いを犠牲的に愛する

選ばれた者たちは犠牲を払って互いに愛し合います。「神が来ると、お金は出て行く」という格言があります。この考えは聖書の至る所で見ることができます:

  • 使徒行伝2:44–45: 「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、 資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた」。
  • 使徒行伝4:32, 36–37: 「信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた」。「クプロ生れのレビ人で、使徒たちにバルナバ(「慰めの子」との意)と呼ばれていたヨセフは、自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた」。
  • 1ヨハネ3:16–18: ヨハネは書いています、「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか」。そのような人は偽物です。しかし、そのような人は教会にいます。彼らは偽の信者です。ヨハネは結論づけています、「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」。
  • 1ヨハネ4:19–21: ヨハネはまた言っています、「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである」。
  • 1コリント16:1–4: 「聖徒たちへの献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。わたしが到着したら、あなたがたが選んだ人々に手紙をつけ、あなたがたの贈り物を持たせて、エルサレムに送り出すことにしよう。もしわたしも行く方がよければ、一緒に行くことになろう」。ここでパウロは、エルサレムの貧しい聖徒たちが困窮していたため、コリントや他の場所からお金を集めていたと語っています。
  1. 選びの民は5つのことを行う
  1. 選びの民は語られる福音を熱心に聞く。
  • マタイ28:18–20: 「イエスは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。』」。
  1. 選びの民は福音を信じる。ピリピの看守はたずねた、「救わるためにどうすればいいでしょうか?」。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝16:30–31)。彼らは福音を信じました。
  1. 選びの民は福音に従う。福音に従うことを好まない人々がいます。彼らは神に従わなくてもよい偽物の福音を望んでいます。しかし、ヨハネが言うことを考えてみてください。
    • 1ヨハネ2:3–6: 「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。 『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。 『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである(参照:へブル5:8–9;ヨハネ15:10)。イエス・キリストに従うことを教えない教会はサタンの教会である。
  1. 選びの民は福音の為に苦しむ。
  • ローマ8:18: 「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」。
  • ローマ5:3–5: 「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。私たちは、聖霊の力によって患難を乗り越える。私たちは死においても信仰を保つ。
  • 2コリント11:23–29: パウロは書いている、「彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。いくたびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれよう」。
  • へブル11:35b–38: 「ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた」。
  1. 選びの民は福音によって救われる。
  • ローマ10:9: 「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」。イエスは主です。彼は無限の全能の神です。すべての権威は彼に与えられており、私たちは彼が主であると告白します。これが契約神学です。彼が主であるなら、私たちは誰でしょうか?イエス・キリストの奴隷です。教会の誰もがキリストの奴隷であり、彼の意志を聞いてそれに従います。彼に従わなければ救われません。両親に従い、牧師に従い、警察にも従うべきです。彼らが話すとき、彼らは神の権威をもって話しています。そして私たちは喜んで神に従うべきです。イエス自身はこう言われました、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」(ヨハネ14:15)。ヘブル人への手紙5:8–9 には、イエスが苦しみを通して従順を学び、イエスに従うすべての人々にとって救いの創始者となったことが書かれています。言い換えれば、従順は選択の余地がないということです。従わないなら、あなたは悪魔の子です。あなたは救われていないのです。

VII. 私たちの将来は栄光

神の選びの民の将来、それは栄光です。

  • ヨハネ17:24: イエスは祈られた、「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」。
  • エペソ2:6: 「神はキリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」。今すでに私たちはキリストと共に座についています。私たちはイエスの中にいます。
  • ローマ8:28-30:「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」。

私たちは主とともに永遠に主の栄光を見ることができるという栄誉にあずかります。救いの順序、つまり救いの段階がそれを教えてくれます。私たちは次のような段階を経ます。

  1. 神によって永遠に愛される
  2. 神によって永遠に運命づけられる
  3. 時が来ると神に召される
  4. 時が来ると霊的に再生される
  5. 時が来ると罪を悔い改める
  6. 時が来ると神を信じる
  7. 時が来ると義とされる
  8. 時が来ると神の養子とされる
  9. 時が来ると聖化される
  10. 栄光を受ける。それは永遠の時に起こります。私たちの運命は栄光です!

ヨハネの黙示録の中で、使徒ヨハネは選ばれた者たちを待ち受ける栄光を描写しています。

  • 黙示録19:6–8: 「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁(教会)はその用意をしたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。』」。(この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである。)そうです、私たちは何者でもありませんでした。私たちは土で、草で、罪人でした。しかし今、私たちはキリストの花嫁であり、私たちの運命は栄光です。ハレルヤ!
  • 黙示録21:1–4: 「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった」。これは、正義が宿る新しい天と新しい地について語っています(2ペテロ3:13)。ヨハネは続けてこう述べています、「また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。』」。

「神自ら彼らとともにいて、永遠に彼らの神となる。」これこそ私が説教していることです。語られた神の言葉から大きな慰めを受けましょう。私たちは永遠の昔から神の選びの民です。私たちは罪を犯し、キリストは私たちの罪のために死に、キリストは私たちのために祈っておられます。私たちは常に守られています。選びの民は神を愛し、お互いを愛します。選びの民は聞き、信じ、従い、苦しみ、そして救われます。選びの民の将来は栄光です。