イエスは選びの民を救われる
1 Corinthians 1:26-31P. G. Mathew | Sunday, August 01, 2021
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Language [English]
通常神が選ばれる人は、たいして賢明でもなく、影響力もなく、高貴な生まれでもなく、ノーベル賞受賞者でも、金持ちでも有名でもない、いわゆる愚かな、弱い人々、身分の低い人々、つまりは、人々から軽んじられている無きに等しい人、ゼロ価値の人である、と1コリント1:26-31に書かれている。
神は罪人を選び救われる。なぜ神の選びというのがあるのかわからないが、神の選びは喜ぶべきことである。私個人についていえば、幼少期に私を救われるよう選ばれたということができる。聖書は言う、「子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、の道を離れることはない」(箴言22:6)。私の場合もこの例の一人である。
1906年に南カリフォルニアでおきたアズサ・ストリートのリバイバルでは、貧しい黒人や白人に聖霊が注がれた。神は外側面的な区別をされない。だから、1コリント1:26–31でパウロは言っている、「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい」。これは神が有効に選ばれ救われることを意味する。「人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を(永遠の昔から)選び、 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者(価値がゼロの者)を、あえて選ばれたのである」。言い換えれば、神は、世間的に見て何もない人々を永遠の救いのために選び、世間的にゼロの価値の人を何者かに変える能力を持っておられるということである。
この聖書のことばから、神の最終目的は何か? パウロは「だれも彼の前では誇ることがないためです」と答えている。すべての人間は三位一体の神を礼拝すべきである。パウロは続けていっている、「あなたがキリスト・イエスのうちにいるのは、この方(父なる神)のおかげであり、キリスト・イエスは私たちにとって神からの知恵、つまり私たちの義、聖さ、救いとなってくださったのである」。永遠の救いは、キリストだけに信頼することを通して与えられる。このように、私たちは永遠に救われる。2ペテロ3:13にあるように、私たちは新しい天と新しい地に住むことになる。私たちは神とともに、また神の民全員とともに、完全な幸福の中に生きる。そしてパウロは、「だから、書いてあるとおり、『誇る者は、主を誇れ』」と結論している。私たちは、お金、学歴、容姿、その他何においても誇るべきではない。主は外側を見られない。主は心を見られる(1サムエル上16:7)。
1コリント人1:26-31には、私たちに何が起こったかが説明されている。聖書における選びの民の例を見てみよう。
1.娼婦ラハブ
神は売春婦ラハブに対して永遠の昔から愛をほどこされていた。神の時がきたとき、ラハブは霊的に再生され、悔い改めて神を信じ、義と認められ、養子として迎えられ、聖くされ、栄光を受けたのである。
ラハブのような人に対する神の愛に私たちは驚かされる。この世の価値観からすると、ラハブになんの価値もないのである。しかし神はラハブの歩みを導かれた。ヨシュア記2:1に記されている、「ヌンの子ヨシュアは、シッテムから、ひそかにふたりの斥候をつかわして彼らに言った、『行って、その地、特にエリコを探りなさい』それで彼らは行って、ラハブという名の娼婦の家に入り、そこに泊まった。神は斥候をラハブの家に導かれ、ラハブは後にサルモンと結婚し、イエス・キリストの系図のマタイ1:5に記されている。その子孫の一人はボアズで、モアブ人のルツと結婚している。
彼女は娼婦であったが、神を信じた。選びの民として生まれる前から神がラハブを選んでおられたのである。ヨシュア2:12–13で、ラハブが斥候に言っている、「それで、どうか、わたしがあなたがたを親切に扱ったように、あなたがたも、わたしの父の家を親切に扱われることをいま主をさして誓い、確かなしるしをください。 13そしてわたしの父母、兄弟、姉妹およびすべて彼らに属するものを生きながらえさせ、わたしたちの命を救って、死を免れさせてください」。これは永遠の死からの救いとなり、家族全員の救いとなった。
新約聖書の中にはラハブについて三回引用されている。彼女はマタイ1:5で言及されており、ヘブル11章には、「信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった」と書かれている(へブル11:31)。ラハブは神を信頼して従ったので家族全員が救われた。ヤコブ 2:25–26でも引用されている、「同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。 26霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない(神に従わない)信仰も死んだものなのである」。
現代の福音派の中では、悔い改めも従順も必要ないと多くの人が信じている。そういう人は地獄に落ちる。神の御国に行くには、悔い改めと従順の両方が必要である。
2.サマリア人の女性
ヨハネ4章には、あるサマリア人の女性のことが記載されている。このサマリア人を神が救われたのは、彼女が永遠の過去から選ばれた者だったからである。ヨハネ4:16–18にこれが記録されている、「イエスは女に言われた、『あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい』女は答えて言った、『わたしには夫はありません』」。主イエスは私たちのすべてをご存じである。彼は、全知全能で永遠のお方だからである。「イエスは女に言われた、『夫がないと言ったのは、もっともだ。あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない、あなたの言葉のとおりである』」。この女性は、生涯のパートナーが「5+1」で象徴されように売春婦の生活をしていたのである。
主イエスは、私たちのすべての行動もご存じである。女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています」。主イエスは言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである(ヨハネ4:25–26)」。この女性は神を信じて救われた。それはなぜか?それは、彼女が選びの民の一人であったからに他ならない。すべての人は罪人である。しかし、このように選ばれて救われるのはほんのわずかである。あなたが救われているならば、それこそ神に対して感謝すべきことである。これ以上の祝福はない。
3.姦淫の罪で捕まった女性
ヨハネ 8 章には、もう一人の娼婦について書かれている。神は、姦淫の現場で捕らえられた女を救われた。彼女も神に選ばれた人であった。即ち、この女性はTULIPの教理に沿って、完全な堕落にあったが、無条件で神に選ばれ、(選ばれた者に限定される)限定的な罪の償いを受け、拒否しがたい恵みを与えられ、聖徒として忍耐の道を歩むようになったのである。神に選ばれた人は最後まで忍耐する。
ヨハネ8:7–11に記録されている、「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』」。罪のない人は主イエスお一人だけで、それは永遠の御子、罪のない人、私たちを罪から救い、そして正しく裁く権利を持っておられる方である。「そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起して女に言われた、『女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか』女は言った、『主よ、だれもございません』」。次の主イエスの言葉に感謝しよう、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。主イエスは罪びとに救いの愛をほどこされる方である。
私たちは皆罪人であったが、神は私たちを救われた。救われる者は数少ない。罪のない主イエスがこう言われる、「わたしはあなたを罪に定めません。 なぜなら、あなたは罪を犯しましたが、私があなたの罪のために死ぬからです」。
それからイエスはその女性に、「さあ、行って、罪の生活から離れなさい」と言われた。彼女にとって、これは完全な変革、再生を意味する。神はこの女性に新しい心、新しい意志、そして新しい愛情を与えられた。
霊的再生について、ほとんどの説教者は正しく説かない。霊的再生がなければ、本来私たちには何もできない。だからこそ、イエスは彼女に、「私はあなたを赦す」と言っておられるのである。「今すぐ行って、罪の生活から離れよ」と言われる。 このイエスこそ罪のない方であり、私たちの罪のために死んでくださった方に他ならない。(PGM) 私たちは罪を犯し、主イエスはこのために死なれたのである。
神に感謝しよう。主イエスは私たちの罪を赦された!自分の人生を振り返ると、自分の罪が見えてくる。しかし、彼はその罪を赦し、忘れられる。イザヤ書43:25で主はこう言われる、「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」。神に感謝せよ。神は私たちの罪をすべて忘れて、イエス・キリストの義を私たちに着せてくださる。
4.もう一人の娼婦
神は選ばれた者を救い、ルカ 7 章には、神は、さらにもう一人の娼婦を救われたことがルカ7:36–38に記録されている。「あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った」。この女性は選びの民であった。彼女は罪を悔い改め、信じ、救われた。神は私たちにも悔い改めと救いの信仰を与えてくださる、
感謝しよう。必要なものにも関わらず私たちにはなかったもの、それこそを神は与えてくださった。ルカ7:48で主イエスはこの女性に言われた、「あなたの罪はゆるされた」。もはや責められることはなくなった。彼女は永遠に義とされた。パウロは言っている、「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ6:23)。こうも言っている、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:21)。以前にも言ったが、私自身、神の選びがどのようになされているかは知らない。しかしそれは喜ばしいものだと思う。
イエスはその女性に「あなたの罪は赦されました」と言われた。この救いは安くはない。イエスは私たちの罪のために十字架で死の代価を払われたのである。
5.悪霊につかれた男
私たちが注目したい5人目は、ルカ8:26-39に記されているように、二千の悪霊を追い出していただいた男である。イエスはなぜこのゲラサ人の男のところへ行かれたのか。理由は、この男も神の選びの民だったのである。
ルカ8:29は記録している、「それは、イエスが汚れた霊に、その人から出て行け、とお命じになったからである。というのは、悪霊が何度も彼をひき捕えたので、彼は鎖と足かせとでつながれて看視されていたが、それを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである」。私は悪霊の存在を信じる。
イエスはこのゲラサ人の地に行き、この男から二千の悪霊を追い出された。悪霊を宿していた時は、その男は落ち着きがなく、裸で墓の中で暮らしていた。 しかし今、彼は服を着て正気で座っている。
イエスが悪霊をその人から追い出した後、町の人たちがイエスのところに来て言った、「我々のところから出て行ってくれ」。私たち人間は豚を拝んでいるのだ。彼らにとっても、豚はお金のネタであり、大好きなのである。私たちもお金が大好きです。主イエスは、彼らの豚を殺した。私たちは、神とお金の両方に仕えることはできない。私はお金に仕えない。神に仕えている。神は私に十分なお金を与えてくださる。
「悪霊を追い出してもらった人は、お供をしたいと、しきりに願ったが、イエスはこう言って彼をお帰しになった、『家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい』そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた」(ルカ8:39)。
6.タルソのサウロ
神に選ばれた一人の男がもう一人いる。 彼の名前はタルソのサウロである(使徒行伝 9:1–19a)。彼はタルソ大学の卒業生であった。彼はダマスカスに行き、キリスト教徒である男女を逮捕し、エルサレムに連行して殺害する権限を持っていた。即ちキリストの敵であった。
しかし、彼もまた選ばれた者であった。神がサウロを捕らえられた。使徒行伝9:4–5に記録されている、「彼は地に倒れたが、その時『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。 わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。これは神の計り知れない恵みの一例である。私たちは好きなだけ神に対して抵抗することができるが、神は私たちを救うために私たちを殺されることもあるかもしれない。 しかし、私たちは無限、永遠、全能、全知、遍在の三位一体の神を決して過小評価してはならない。私たちはパウロの次の言葉に留意しなければならない、「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」(ピリピ2:12)。
主はダマスカスのアナニヤにもサウルについて語られた。アナニヤは言った、「主よ、うわさによれば、このサウルという男はキリスト教徒を逮捕する権限を与えられています」。主はこう言われた、「私は彼を捕えた。彼は目が見えず、まっすぐという道にあるユダの家で断食をしている。彼はあなたが彼の目を癒し、彼が聖霊に満たされるのを助けるために来た、幻を見ている」。主はアナニヤに言われた、「この男は私が選んだ器である」。これはえ永遠の昔に神が選ばれたのである。 「私の名のために彼がどれだけ苦しまなければならないかを教えよう」と主は言われた。そしてアナニヤは、サウルのところに来て彼をいやした。すると彼の目から鱗のようなものが落ち、サウルは目が再び見えるようになった。2コリント11 章には、パウロが老年、ローマによって首をはねられるまで、キリストのためにどれだけ苦しんだかが記されている。
神の選びを神に感謝しよう。私も神に救われたことを感謝する。神はご自身の決定を変えることはない。だから、彼を讃美しよう。そして、今あなたが救われていないとしても、神はあなたを救ってくださる。ピリピの看守は「救われるためには何をしなければなりませんか」と尋ねた。お金では私たちは救われない。教育は私たちを救えない。私たちは皆死ななければなりません。 しかし、死ぬ前に、必要なものが1つだけあることを知っておいていただきたい。救われるためには何をしなければならなのか? 答えは、「主イエス・キリストを信じれば救われる」ということである。これが真実である。したがって、自分が選ばれているかどうかを知る必要はない。選びの民ならば、イエス・キリストを信じて救われるのである。神に救いを求めよ。そうすれば神はあなたを救われる。なぜならそう聖書はいっているからである。
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