互いに愛し合いなさい

John 13:34-35
P. G. Mathew | Sunday, May 09, 2021
Copyright © 2021, P. G. Mathew
Language [English]

序論

あなたは私が何を信じているかわかるだろうか。私は黒人も白人も黄色人種の人も、すべての民族が大切だと信じている。また、中絶された命も重要だと信じている。世界中で年間7,300万人以上の命が中絶によって、それも知識ある人間によって殺されている。主はエレミヤ書1:5で神は言っておられる、「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを愛した」という部分に注意せよ。ここアメリカ合衆国でも、胎内で人を殺しているのである。従って、この国は呪われた国である。神が私たちを憐れんでくださるように。

サンフランシスコ大司教サルバトーレ・J・コルディオーネは中絶に反対しており、私たちはこのカトリック司教の言っていることを支持する。中絶は殺人である。申命記5:17は、「あなたは殺してはならない」と教えている。中絶が殺人であると聖書は教えているが、人間は中絶に慣れてしまっている。年間7300万人~1億人が、これほど洗練された文化的な人間によって殺されているのである。赤ん坊を殺した者たちを神が憐れんでくださるように。罪を悔い改めて、主イエスを信じるなら、神はあなたを赦してくださる。

1サムエルSamuel 16:7は言っている、「しかし主はサムエルに言われた、『顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたち(人種や体格)を見、主は心を見る』」。

すべての人は罪人である。 人が救われ、聖くされ、神の家族になるためには、イエス・キリストを信頼しなければならない。神はあなたの持ち家の広さやトイレの数ではなく、心を見られる。

マルコ7:20–23で主イエス主イエスは言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。すべての人はこれら13種類の罪にまみれている。しかし、もしあなたが私の言っていることを聞いているなら、良い知らせがある。それは、キリストは私やあなたの罪を赦される、ということである。主イエスは、私の罪を赦され義とされた。

あなたがどの人種に属しているかがあなたを決めるわけではない。神は罪人の心を見られるとき、これら13の罪以上の罪を見られる。以下の点を考えよ。

  1. 唯一の救い主であるイエス・キリストを信じるすべての人のうちにイエス・キリストが内在される。イエス・キリストはすべての主であり、永遠、無限、神聖、三位一体、全能、全知、遍在(どこにでも存在)であられる。コロサイ3:11はこう言っている、「そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである」。
  2. 父なる神はイエス・キリストを信じるすべての人のうちに内在される。 あなたの人種は関係ない。あなたの学歴も関係ない。エペソ人4:6でパウロは父なる神についてこう書いている、「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」。
  3. 御聖霊はイエス・キリストを信じるすべての人のうちに内在される。御聖霊は火の壁のように私たちの周りで守られる。御聖霊は私たちの内に宿っておられ、私たちとともにおられる。私たちは神の中に生きている。御聖霊は私たちを治めておられる。ローマ8:11-14はこう言っている、「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである」。しかし、神に感謝しよう。御聖霊は私たちの内に生きておられる。 そして、私たち御霊によって罪を殺し、御御霊によって神に従う。「しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」。
  4. 神の教会は、財産や人種、その他いかなるものに関しても差別のない家族である。 神の教会は家族であり、私たちは兄弟・姉妹であり、父親であり、母親である。次のことを考えよ:
    • ガラテヤ6:10:「だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」。私たちの教会ではこれを実行している。私たちは交わりをもつ。交わりとは、お互いに話し合い、具体的にお互いのニーズをシェアーし、必要ならば金銭を持用いてお互いをサポートすることも意味する。私たちは神による霊的再生と義認、そして神の子として養子縁組の関係をいただいている。お互いもそのような兄弟姉妹の関係である。神は私たちをご自身の家族に迎え入れてくださった。私たちは兄弟であり、姉妹であり、父親であり、母親である。
    • エペソ2:19:「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである」。これを頭に入れておかなければならない。神の教会には差別があってはならない。なぜなら、教会は神の家族だからである。
    • エペソ3:14–15:「こういうわけで、わたしはひざをかがめて、天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る」。神は今では私たちの父である。私たちの父親はかつて悪魔であった。すべての人間、即ちアダムの子供たちは皆、生まれながらに悪魔の子だったからである。
    • 1テモテ3:15:「わたしは、あなたの所にすぐ行きたいと望みながら、この手紙を書いている。万一わたしが遅れる場合には、神の家でいかに生活すべきかを、あなたに知ってもらいたいからである。神の家(神の家族)というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである」。
    • マタイ12:50:「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。父なる神の御心を行う者はだれでも兄弟であり姉妹である。そこに差別はない。
  1. 神の民は皆、父と子なるキリストと御聖霊のうちにいるすべて神の民は永遠に愛されている。これは、ジョン・マレー師が言われた。私たちはあらかじめ神に知られ、運命づけられ、召され、再生され、悔い改めて信じ、義とされ、神の養子とされ、栄光を受けるために聖化される。(PGM) これはラテン語でオルド・サルティスと呼ばれ、その意味は、救いの順序である。私たちに想像できるだろうか?父なる神は私たちと共におられ、子なるキリストも私たちと共におられ、御聖霊も私たちの主人として私たちの中に住まわれるのである。御聖霊は私たちにどのように生き、どのように罪を根絶やしにし、神に従うかを教えられる。
  2. 我々は全て罪びとであった (TULIP)TULIP[1] はそれぞれ頭文字を示している。Tは、人間の完全な堕落を表している。私たちは完全に堕落していたが、神が私たちをそこから救われた。主イエスご自身もヨハネ 8:44でこう言われた、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ」。 これは、イエス・キリストを信ない、救われていないすべての人に当てはまる。

私たちの父は悪魔であった。しかし、神に感謝しよう。天の父なる神が今では私たちの父となられた。

    • マタイ6:9:「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように」。もはや悪魔は我々の父ではない。ハレルヤ!
    • 1ヨハネ5:19:「また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者(悪魔)の配下にあることを、知っている」。国王や女王、大統領や首相も例外なく、世界の人々の大多数の人々が悪魔に支配されているのである。
  1. 今や私たちはすべて神の子供である。「すべて」とは、キリストに信頼したすべての人を意味する。私たちは神に対して罪を犯したが、キリストが私たちの身代わりに死なれたことによって、私たちは罪が償われた。イエスは神の選びの民に代わって命の犠牲を払われたのである。
    • 2コリント5:19, 21:「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで(キリストによる身代わりの贖いにより)、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためである」。私たちは常にキリストの義の衣を着ている。 三位一体の神が私たちをご覧になるとき、私たちは神の義を着ているのである。
    • ローマ6:23:「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。神に感謝せよ。そのように神に対して叫び、賛美するのは良いことである。正しく神学を理解すると叫ぶのである。「賛美の声を上げて神に向かって叫ぼう」。
    • 使徒行伝16:30–31:(ピリピの獄吏は)、「ふたりを外に連れ出して言った、『先生がた(パウロとシラス様)、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか』」。これはすべての人が尋ねなければならない最初の質問である。救われるためにはどうしたらよいのですか?あなたの母親でさえ、そのように質問すべきである。そして、多くの母親が死んで地獄に落ちたことを私は知っている。地獄に落ちた父親もたくさんいる。彼らは神の福音を拒否した。そしてあなたは彼らが誰であるかを知っているだろう。「ふたりが言った、『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます』」。イエスはご自分に従うすべての人の救い主となられた。イエスが私の主であると口で告白し、神がイエスを死者の中からよみがえらせたと心の中で信じるなら、あなたは救われる。この教会でも多くの孫や子供たちはキリストを信じたが、彼らの親や祖父母たちはイエス・キリストを拒否した。
  1. 神の子である人々は、神が私たちを愛してくださるように、お互いを犠牲的に愛すべきである。旧約聖書と新約聖書には愛についての変化がある。旧約聖書では、隣人を自分と同じように愛さなければなりません。新約聖書では、主イエスがヨハネ13:34–35で言われた、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」。だからこそ、私たちはキリスト者の間に交わりをもつのである。あなたは主にある兄弟や姉妹、父親や母親の必要を知ったら、実際に助けるべきである。金銭的にも助けるべきである。あなたが死ぬときにお金は持っていけない。主イエスはこういわれた、「互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。キリストは私たちを愛し、私たちのために十字架で死なれた。キリストは聖く、は何の罪も犯されなかった。神は私たちの罪、咎、罰、そして地獄を引き受けてくださった。正しい神学によれば、キリストは十字架上で私たちの代わりに地獄に落ちられたのである。
    • 1ヨハネ3:16–17:「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら(皆持っている)、兄弟(姉妹)が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか(救われていようか)」。
    • ヤコブ2:18–21:「しかし、『ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある』と言う者があろう」。信仰には3つの側面がある。最初は正しい知識であり、その次にその知識を受け入れることである。つまり聖書が真実であることに同意することである。しかし、それだけでは正しい信仰ではない。ヤコブは続けていっている、「それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか」。神はアブラハムを試して、「あなたの息子、あなたのひとり息子、あなたが愛する息子、イサクを連れて行きなさい」と命令された。アブラハムは神の命令に従った。イサクは死を救われたのである。たとえ自分が死んだとしても、それが自分を救うことはできない。しかし、別の人があなたの身代わりとなったのである。神のひとり子であり、神の愛する子、主イエスが連れて行かれたということである。その身代わりの死によって私たちは救われたのだ。 ハレルヤ!

1ヨハネはほんの4ページ程度しかないが、神の犠牲的な愛という言葉が44回使われている。私たちはどうか?そこでもう一度聞くが、あなたは犠牲をはらってだれかのために金を使ったことはあるか? イエスは私たちを犠牲的に愛された。ヨハネ 13:12–17にはこう書かれている、「こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、『わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。 よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである』」。奴隷の仕事をし、汚れた、ほこりまみれの足を洗う、イエスはそのすべてを行われた。同じように、私たちは互いに愛し合うべきである。キリストが教会を愛し、私たちの罪のために死なれたように、あなたも犠牲をはらって自分の妻を愛し、また主にある兄弟姉妹を愛さなければならない。

  1. 神による選び

キリストは選ばれた者のためだけに死なれたのである。神の選びは、その理由はわからない。しかし、感謝なことに、私は神によって選ばれたのである。キリストが私のために死んでくださった。ローマ人8:28-30にはこう書かれている、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たち(神が前もって愛しておられる者たち)と共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」。正しい神学は重要である。人は自らの愚かさによって地獄に落ちる。私たちは正しく思考すべきである!

  1. 結論

結論として、ヨハネ 3:16に言われていることを考えよ。「神はご自分の独り子をお与えになったほどに、選ばれたすべての罪人、即ち世を愛された。それは彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を持つためである」。 必要なものは1つだけである。今日、私はあなたがたにこの福音伝えた。神に選ばれたすべての罪人は主イエスを信じて救われる。私たちがイエス・キリストだけを信頼し、永遠に救われるよう神が助けてくださいますように。 アーメン。

[1] Tは完全な堕落; Uは無条件の選び; Lは限定的な贖い; Iは拒絶できない恵み;そしてPは聖徒の堅忍である。