反律法主義、悪魔からの神学

Genesis 3:1-7
P. G. Mathew | Sunday, July 26, 2020
Copyright © 2020, P. G. Mathew
Language [English]

アンチノミアニズム:反律法主義、これは悪魔からの神学と言われています。これについて考えるにあたって、次の聖句を心に留めておいてください。「こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう(へブル2:1)。

多くの教会はサタンの会堂です。それらの特徴は、反律法主義を説いています。即ち、神の聖なる律法に反する教えを説いています。悪魔の神学は神の言葉と正反対です。創世記2:17節と創世記3:4節に見られます。創世記2章17節で神はこう言われました。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」創世記 3:4 で、悪魔はエバに「あなたは決して死ぬことはない」と言った。

悪魔はすべての嘘の父であり、私たちに敵対して罪に誘惑しますが、私たちは罪に「ノー」と言わなければなりません。エバは誘惑され、アダムも誘惑され、二人とも死にました。今やアダムの子孫は、罪人として生を受けています。したがって、聖霊による霊的再生を経ない限り、罪を犯し続ける生涯を生きるのです。

では、今日多くの教会で説かれている悪魔からの神学とは何でしょうか。その10の点について考えてみましょう。

1.霊的再生は必要ない

まず、反律法主義は、霊的再生は救いのために必要ないと主張します。しかし、パウロの言葉を考えてみましょう:

  • エペソ2:1–5: 「かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである。」

罪人の心は二度死んでいます。彼は神と神の義に対して死んでいます。罪人は罪の中に生き、罪を犯すために生き、罪人の父である悪魔に支配されています。彼は悪への欲望を満たすために生きています。彼は悪魔に従っているので神には従いません。霊的再生がなければ、罪人は神の怒りの対象であり、その考え、言葉、行いにおいて絶えず罪を犯すしかありません。彼は毎日、神の十戒、神の道徳律に反する行為をします。

しかし、選びの罪人は霊的再生を経験し、神の偉大な愛と豊かな憐れみのゆえにイエス・キリストを信じます。パウロは「私たちは恵みによって救われました」と言っています。ローマ1章で、パウロは私たちが何から救われたかについて書いています。[1]

  • ローマ1:18–24: 「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。」 神の怒りの代わりに、私たち選ばれた者は神の救いを経験します。私たちはかつて、神の言葉である聖書、自然、良心が語っている神についての知識を抑圧していました。
  • ローマ1:26: 「それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代えた。」
  • ローマ1:28–32: 「そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。

罪人は、堕落し、歪んだ、邪悪な心へ向かい、悪事を働くようになりました。聖霊からの働きがなければ、このように二度死んでいる罪人は罪を犯すことしかできません。霊的に再生した人は新しい心、新しい意志、新しい感情を持っています。彼らは聖書を理解し、御言葉を実行し、神を喜びます。

  • ヨハネ3:3, 5: 「イエスは答えて言われた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない。よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。』。ここでの「水」とは、ジョン・マレー師によると、神の言葉を意味します(ヨハネ15:3参照)。言い換えれば、洗礼はあなたを救うのではなく、救われた人々が洗礼を受けるのです。彼らは神の国に入ります。神の国は正義(神の目に正しいことを行うこと)から成り、聖霊による平和と喜びへと導きます。このように、霊的に再生した生まれ変わった人々は、地球上で最も幸せな人々です。ガラテヤ6:15:「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである」。パウロは聖霊による新たな創造を意味しています。言い換えれば、霊的再生は救いに不可欠です。再生がなければ、誰も救われることはありません。
  • 2コリント5:17: 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」霊的再生なしには、人は「キリストの中にいる」こと、つまりキリストを信じることはできません。
  • エペソ2:5: 「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである。」神は、再生を通して、選ばれた罪人をキリストとともに生かします。

目に見える教会には罪人のままの人と霊的に再生した聖なる人の両方がいます。聖なる人だけが最後まで信仰を守り続けます。霊的に再生していない者は信仰を守り続けることはできません。(PGM) 彼らは教会を去り、ある者はサタンの会堂に加わります。ヨハネは第一の手紙の中でこれについて書いています。[2]

 

  • 1ヨハネ2:19:「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。」再生していない人々は悪魔に属します。彼らはしばらくは教会に来ますが、結局は永遠に罪を犯し続けます。
  • 1ヨハネ3:9:「すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。」
  • 1ヨハネ4:7:「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。」
  • 1ヨハネ5:1: 「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。」
  • 1ヨハネ5:4:「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。」
  • 1ヨハネ5:18: 「すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。」私たちは悔い改めと救いの信仰によって生きています。再生していない者は悪魔の子です。再生した少数の者だけが神の子です。
  • 1ヨハネ3:10: 「神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。」私たちの教会では、神の家族を愛し、お互いに助け合います。食べ物や住まいに困る人はいません。

人は神と悪魔のどちらかに属するのです。世界の大多数の人々は悪魔に属しています。

  • ヨハネ8:44: 「イエスは言われた、『あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。』」。
  • ヨハネ10:10: 「イエスは言われた、『盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。』」。

2.悔い改めは必要ない

悪魔の神学は、悔い改めは必要ないと教えています。しかし、イエスは何を教えたのでしょうか。

  • マタイ4:17:「この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、『悔い改めよ、天国は近づいた。』」。「悔い改めなさい」は命令です。
  • ルカ15:21-24: イエスはルカ15章で、罪人として出て行ったが聖なる人として帰ってきた放蕩息子について語っています。父親に対する彼の告白を考えてみましょう。「むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」

パウロが言ったことも考えてみましょう。彼は悔い改めは必要ではないと言いましたか。いいえ。

  • 使徒行伝20:21:「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである。」私たちは悔い改めて信じなければなりません。
  • 使徒行伝26:20: 「まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました。」

神は私たちに悔い改め求めておられます。私たちは神の御心を行うことにより、悔い改めが明らかになります。

  • エペソ4:28:「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。」これこそ、私たちがこの教会でやっていることです。
  1. 神に従う必要はない

悪魔の神学では、従順は必要ないと教えます。しかし、次のことを考えてみてください。

  • マタイ7:24:「イエスは言われた、『それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。』。」従順なクリスチャンの救いは確実です。
  • へブル5:8–9: ヘブル人への手紙の著者はイエスについてこう言っています、「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となられた。」 イエス・キリストに従わなければ、あなたは救われません。
  • 使徒行伝5:32: 「わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である。」
  • ローマ1:5:「わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務とを受けたのです。」パウロは異邦人に対して神に従うように呼びかけます。私たち異邦人は福音によって神に従うように呼びかけられているのです。
  1. キリストを信頼する信仰は不要

反律法主義の信仰は悪魔の信仰です。それは、イエスを信頼する必要はなく(fides est fiducia)、聖書の知識だけが必要であると教えています。信仰とは聖書が真実を語っていると信じればよく、実際にイエス・キリストを信頼する必要はない、という誤った教えです。聖書が真実を語っているということだけにとどまるのは、それこそ悪魔の信仰であり、ヤコブ2:14-19にある通りです。

  • ヤコブ2:14–19:「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。 ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、『安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい』と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。しかし、『ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある』と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。」 信仰についての知識だけでは、それは悪魔の信仰です。真の信仰は神に従うものです(ローマ1:5)。

5.信仰の結果としての実は必要ない

反律法主義は、神への信仰から生じる霊的な実は必要ないと教えています。しかし、イエスは何と言っているでしょうか。

  • ヨハネ15:1-6:「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。」

実を結ばない枝は、神の教会にいる偽の信者です。自分自身に問いかけてください。あなたは実を結んでいますか、それとも偽者ですか。実を結ばないなら、神はあなたを切り離し、枯らして集め、永遠の地獄に投げ込まれます。しかし、真のクリスチャンは実を結びます。さらに多くの実を結びます。聖霊の実について話しているのです。

  • ガラテヤ5:22–23: 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制である。」実を結ばない者は切り取られますが、実を結ぶ者は試練を通して刈り込まれ、より多くの実を結ぶようになります。
  • ヨハネ14:15: 「イエスは言われた、『もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。』」。愛は神に従います。私たちは、改心した人々と偽りのキリスト者の違いを、今現在神に従っているかで知ることができます。
  1. イエスの弟子になるのになんの代償もない

悪魔の神学では、弟子になるのに代償は不要です。しかし、イエスが言ったことを考えてみましょう。

  • ルカ14:25–27:「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。」
  • マタイ16:24: 「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。」
  • ヨハネ21:15–19: マタイ26章にあるように、ペテロはイエスを3度否定しました。そして復活後、イエスは彼を見つけ、3度ペテロに同じ質問をしました、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。これは「あなたの命以上に」という意味です。ペテロは「はい」と三回と答えました。するとイエスは、「私はあなたを信じます。あなたも十字架につけられて、私に対するあなたの信仰が真実であることを証明します」と言いました。ペテロはイエスを愛し、キリストへの信仰のために十字架につけられることでそれを証明しました。
    • 反律法主義はバイキング料理のようである

悪魔の神学では、神の言葉から好きなものを取ってよいとされています。悔い改めが嫌なら、取る必要はありません。それはバイキング料理のようなものです。しかし、聖書は何と言っていますか?

  • 2テモテ3:16–17「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」善行がなければ、信仰は偽りです。
  1. 反律法主義は聖書に付け加えたり、削除したり、誤解したりすることがある

サタンの会堂は聖書を誤解します。だからこそ、私たちは敬虔で学識のある牧師を必要としています。私たちはサタンの会堂に囲まれています。聖書を信じる教会を離れた人々は、そのような間違った教会に行きます。真の教会はごくわずかです。真の教会には四つの特徴があります。御言葉を説教し、二つの聖礼典(洗礼と聖餐)を守り、規律を守り、真のクリスチャンの交わりを実践します。私たちが互いに交わりを持つとき、私たちは仲間の信者の必要を見つけて助け合います。

  1. 兄弟姉妹に対する犠牲的な愛は必要ない

悪魔の神学では、兄弟姉妹に対する犠牲的な愛は必要ないとされています。聖書はそう教えているのでしょうか? いいえ。

  • 1ヨハネ3:16–17「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。」 仲間の信者を愛さない人は救われていません。
    1. 偽りの神学、反律法主義は人々を地獄に送る

悪魔の神学はあなたを地獄に送ります。イエスはそう言いました。

  • マタイ7:21–23:「このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」私の翻訳:「地獄に落ちろ!」その通りです。
    1. 結論

人生の目的は、10億ドル稼ぐことではありません。私たちは年を取るとそのことに気づきます。私たちの体は弱り、起き上がることも座ることも眠ることもできなくなり、突然、私たちは死にそうだと気づきます。

人生の目的はただ一つ、それは何でしょうか? それは主イエス・キリストを信じて救われることです。もしあなたが救われていないなら、次のことを考えてみてください。

  • 使徒行伝16:30–31: 「ピリピの看守は真夜中にパウロとシラスを連れ出し、彼らに尋ねました、『先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか』。ふたりが言った、『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。』」。

そして、もしあなたが救われるなら、ペテロの言うことに耳を傾けるでしょう。

  • 2ペテロ1:10:「兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。」あなたが今従順であることによって救われていることを確認しなさい。ペテロの場合はそれを確信し、信仰のゆえに十字架につけられました。

最後に一言います。永遠の天の国と永遠の地獄があります。イエスはこう言いました、「そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」(マタイ25:46)。ですから、神があなたに永遠の命を得るように助けてくださいますように。あなたが救われたなら、私と一緒に喜んでください。そして、あなたの友人や親戚が救われていないなら、断食と祈りをもって彼らのために祈り、彼らが救われ、神とともに永遠の命を体験できるようにしてください。

[1] より詳しく学ぶにはこの本を参照:P. G. Mathew, Romans: The Gospel Freedom (Davis, CA: Grace and Glory, 2011), 47–70.

[2] P. G. Mathew, The Normal Church Life (Davis, CA: Grace and Glory, 2005).