契約、第1 第2

Genesis 6:18; Romans 10:9
P. G. Mathew | Sunday, February 07, 2021
Copyright © 2021, P. G. Mathew
Language [English]

今日の多くの教会は反律法主義である。彼らは、罪人である人間は、悔い改めなしに、信仰の従順なしに、つまり再生なしに救われることができる、と誤った教えを行い、それを実践している。

預言者たちは悔い改めを教えた。バプテスマのヨハネは罪の悔い改めを教えた。主イエスは悔い改めを説教された。使徒たちは悔い改めを説教した。しかし、邪悪な教会は、悔い改めは必要なく、罪を犯し続けていても天国に行くことができると説教している。正しい神学をもって説教している真の教会は、ほとんどない。しかし、我々の教会はその希少な一つである。TULIPの御文字で覚えられている、「人間の完全な堕落」、「無条件の選び」、「限定的贖罪」(つまり、神の選民に限定される)、「拒絶できない恵み」、そして悔い改めと救いの信仰に生きることによる「選びの民の堅忍」である。

契約神学は最も正しい神学である。ウェストミンスターの信仰告白は、契約神学について教える。牧師は、敬虔に契約神学について説教することを学ばなければならない。

はじめに

神の人との契約に関する最初の言及は創世記6:18に記述されている。そこで神はノアにこう言われた、「わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい」。彼ら8人は、洪水による世界の破壊から、神の恵みによって救われた。驚くべきことに、8人だけが救われたのである。全てが洪水によって破壊された。

創世記17章には契約に関する14の言葉がある。聖書全体では、約300の契約の言葉がある。

人は決して契約の条件内容を神と交渉することはできない。神ご自身が罪びとアダムの子孫を選び、契約を結ばれる。アダムのすべての子孫は、罪人として生まれ、救われない限り地獄に行くという罪の中に生きている。そのため、TULIPの頭文字Tは、英語で完全な堕落を意味する。神に感謝すべきことは、その選びである。

アダムは、彼の子孫であるすべての人を業の契約で代表している。即ち、ローマ5:12が言っているように、「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」。

しかし、主イエスは業の契約において神のすべての選民を代表している。ローマ5:19は言っている、「すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである」。「多くの人」とは選びの民のことである。

神の契約

神の恵みの契約を通して、神は選びの民に関わられる。これは二者対等の契約ではない。これは、永遠無限の聖なる、三位一体、人格を持たれる主なる神が罪びとである人間の間の契約である。私にはそれは到底理解できないレベルの契約であるが、まことに好ましい契約である。神がどのように私を選び出して、福音を伝えるために地球の反対側に送られたのかを理解できないのと同様である。

この契約は両当事者を拘束する。即ち、契約の核心は「私はあなたを永遠に救うあなたの神であり、あなたは私を愛し、私に従う民である」というものである。2コリント6:16は言っている、「神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、『わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう』」。これが契約の核心である。

契約には、業の契約と恵みの契約の2種類がある。アダムは業の契約において神に従わなかった(創世記2:16–17)。ホセア6:7にあるように、「ところが彼らはアダムで契約を破り、かしこでわたしにそむいた」。アダムとエバは悪魔に従い、彼らの子孫は皆死んだ。神が警告されたように、彼らは最初に霊的に、そして後に肉体的に死んだ。

創世記2:17で主なる神はアダムとエバに言われた、「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。彼らは神に従わずに死んだ。

主イエスは業の契約に従われた。選びの罪人の代表となられ、恵みの契約の基礎となられた(ローマ5:12–21)。これはどういう意味か?イエスは決して罪を犯されなかった。主イエスは常に父なる神に従われた。出エジプト記20章は恵みの契約を教えている。神が彼らを自身に属する者とされ、永遠の死から贖い、信仰の従順を要求される。したがって、あなたが従うべきはあなたの契約の主です(ローマ10:9)。

I. 聖書の契約内容

  1. 偉大な王の名。王は家臣や奴隷と契約を結ぶ。神の選びの民は神の家臣である。出エジプト記20:2に、「わたしはあなたの神、主です」と書いてある。
  2. 歴史的な序章。主が過去において神の民に行われた。繰り返しになるが、出エジプト記20:2に、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」とある。全世界は悪魔に奴隷化されている(1ヨハネ5:19)が、主は私たちを悪魔の支配下から連れ出してくださる。
  3. 契約の規定。神は私たちに何を求めておられるか?モーセの十戒の次の命令を読め(出エジプト記20:1-17を参照)。
    1. わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。私たちは、神と富の両方に仕えることはできない。神と偶像の両方に仕えることはできない。
    2. あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
    3. あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
    4. 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
    5. あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。レビ記19:3で、これが特に子供たちにとっての最初の戒めであることがわかる。彼らが父と母を敬わないなら、彼らの人生はうまくいかない。
    6. あなたは殺してはならない。堕胎は殺人であり、不品行を奨励する。
    7. あなたは姦淫してはならない。
    8. あなたは盗んではならない。
    9. あなたは隣人について、偽証してはならない。それは嘘をついてならならい、ということである。
    10. あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。
  4. 制裁。神の契約への従順または不従順に応じて、私たちは祝福または呪いを経験する。これらには、永遠の命の祝福や地獄での永遠の罰の呪いが含まれる(マタイ25:46)。
  5. 王朝の継承。使徒2:39に書いてある、「この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、(有効に)与えられているものである」。イザヤ59:21では、「わたしが彼らと立てる契約はこれである。あなたの上にあるわが霊、あなたの口においたわが言葉は、今から後とこしえに、あなたの口から、あなたの子らの口から、あなたの子らの子の口から離れることはない」と主が言われる。これが家庭の救いの約束である。ただし、例外がある。ローマ人9:13で、神は「私はヤコブを愛するが、エサウを憎む」と言っておられる。これは理解しがたいことだが、私は信じている。即ち選びを示している。ヤコブとエサウは同じ父母の兄弟で同時に生まれ、両方とも罪びとであった。しかし、神は救いのためにヤコブだけを選ばれた。

II. 恵みの契約の核心

恵みは私たちが神の契約に従うことを可能にする。エレミヤ7:23に書いてある、「ただわたしはこの戒めを彼らに与えて言った、『わたしの声に聞きしたがいなさい。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。わたしがあなたがたに命じるすべての道を歩んで幸を得なさい』」。「あなたが幸いであえるように」という言葉は、永遠の命の祝福を意味する。

人生には一つの目的がある。それは私たちがたくさんのお金を稼ぐということではなく、主イエス・キリストを信じて救われるためである。

ヨハネ14:15で、主イエスは言われた、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」。黙示録21:3でヨハネが書いている、「また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいる』」。これは恵の契約である。

神が人と結ばれたこれらすべての契約(洪水前、アブラハム、モーセ、ダビデなど)は、主イエスが従順をもって完全に行われた契約に基づく、恵みの契約、新しい契約を指し示している。主イエスは決して罪を犯されなかった。主は苦しみを通して従順を学び、完全を成し遂げられ、彼に従うすべての人の救いの基いとなられた(ヘブル5:8–9)。主イエス・キリストに従わなければ、人は堕落したままである。しかし、神に感謝しすることは、私たちが罪を悔い改めるとき、神は私たちのすべての罪を赦してくださるということである。

アダムは彼のすべての子孫を代表した。ローマ人5:12は教えている、「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」。しかし、ローマ5:16-21にあるように、主イエスは彼の選びの民を代表している。

「かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは異なっている。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪に定めることになったが、恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」。

主イエスにある私たちの救いは神からの賜物である。それは恵みの賜物であり、キリストの義の賜物である。義とする賜物であり、永遠の命の賜物である。主イエス・キリストの血という最も高い代価で買い取られた賜物である。主イエスは私たちを贖うために最高の代償を支払われた。主イエスはいつも父なる神に従われた。彼は決して罪を犯されなかった!だから、2コリント5:21にあるように、これは二重の取引であると説明されている、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」。これは二重の取引と呼ばれ、神の恵みによって私たちは最良の取引を手に入れたのである!主イエスに私たちの罪、罪悪感、罰、地獄が移り、代わりに主イエスの完全な義が我々に移された。結果、父¥なる神が私たちを見ると、私たちはイエス・キリストの完全な義をまとっているのである。

へブル5:8–9にかいてある、「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となられた」。聖書は反律法主義を教えていない。主イエスに従わなければ、その人は救われない。私たちは悔い改めと信仰の従順によって生きなければならない。完璧ではないが、私たちが悔い改めと信仰の従順によって生きるべき理由がそこにある。

主イエスは常に父なる神に従われた。彼は言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのわざをなし遂げることである」(ヨハネ4:34)。主イエスはこれまで地上生きた人の中で最も貧しい人(ルカ9:58)であったが、神のご意志を行われた。こうも言っておられる、「わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」(ヨハネ 8:29)。そして言われた、「わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである」(ヨハネ14:31)。父なる神が命じられたことを正しく行われた。私たちは神の言葉に足したり、そこから差し引いたりしてはならない。それを正しく解釈しなければならないのである。

大祭司として主イエスは祈られた、「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました」(ヨハネ17:4)。その業は何であった?それは主イエスの処女降誕から始まった。そして、死と復活によって贖いの仕事を完成された。「イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが完了した』と言われ、首をたれて息をひきとられた」(ヨハネ19:30)。業の契約は、キリストの父への従順によって完成された。私たちが恵みによって救われることができるように、主イエスは父なる神に完全に従われた。

III. 恵みの契約

これら全ての契約(洪水前、アブラハム、モーセ、ダビデなど)は恵みの契約であり、主イエスの業と新しい恵みの契約を予表する。

洪水以前の契約

ノアとの契約では、8人だけが救われた(創世記6:18)。私たちは救われるに値しない。投票して救われるのでもない。選びの民の救いは神の永遠の目的であり、私たちがその中に含まれていることを喜ぶのである。

アブラハムの契約

アブラハムの契約では、救いの条件は神の言葉への信仰であり、そのしるしは割礼であった。割礼は聖なる生活を表している。「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。アブラハムは、主イエスを信じるすべての信仰者、つまりユダヤ人と異邦人の父である(ローマ4:11)。主はアブラハムに言われた、「わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう」(創世記17:7)。

選びの民だけが救われるのである。彼らは福音を聞くと悔い改め、主イエスを信じ、選びの民であることが証明される。そのようにアブラハムとその子孫は救われたのである。イシュマエルやエサウではなく、イサクとヤコブ、そして主を信じて従うすべての人たちが救われるのである。私たちの救いの条件は、主イエスへの信仰である。ただ、注意せよ、「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう」(ローマ9:27)。言い換えれば、救われる者はわずかであるということだ。

アブラハムの契約は、特に神の側での宣誓なのである。創世記15:17-18では、主なる神とアブラハムの両者ではなく、神だけが切り裂かれた動物の間を通り抜けておられる。これは、イエス・キリストが働きの契約に完全に従順であることを示している。キリストだけが私たちの罪のために死なれたのである。

アダムとは異なり、主イエスは私たちの罪のために死なれた。そして、業の契約に完全に従われた。パウロは、キリストの犠牲的な死を通して、「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである」(2コリント5:19)。私たちは罪を犯し、そのために主イエスは死なれた。それは私たちの益のためである。パウロは言っている、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:21)。私たちは罪、罪悪感、罰、そして地獄を主イエスに与え、その代償を主イエスが払われた。ここにこそ、私たちが神を賛美する理由がある。

アブラハムと彼の子孫は神に従わなければならない。ヘブル11章では、信仰によって神の民が従ったことを振り返っている。反律法主義の説教者たちが、悔い改めて神に従うことは必須ではなく、罪をもっていても神の国に行けると言っても、彼らを信じるな。彼らは嘘をいう悪魔に取りつかれているのである。

アブラハムの契約のしるしは割礼である。割礼は、私たちが神との交わりをもつように導く聖なる生活を表す。私たちは毎週主の晩餐を行う。罪を悔い改めるなら、永遠の神は私たちの罪を赦し、交わりを持っていただけるのである。

主はアブラハムに宣言された、「男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」(創世記17:10–11, 14)。

新しい契約の下では、バプテスマと主の晩餐という2つの礼典がある。バプテスマは、キリストとの結合を意味する。私たちはキリストと共に死に、葬られ、共に復活させられ、新しい神に従う人生を歩むようにされた。これは繰り返されない。しかし、主の晩餐は繰り返される。それは、主イエス・キリストが私たちの罪のために支払った代価、二重の贖いを思い出させるのである。

モーセの契約

モーセの契約は恵みの契約である。ジョン・マレー師は、恵みの契約を次のように定義した、「契約は、神が主権的に与えられる恵みであり、その起源、開示、確認、実行は、すべて神が行われる」。[1]神は全てを行われる責任者である。

神はイスラエルの選びの民を愛によって選がれた。イスラエルは神の契約を守らなければならない。ローマ人9:27は言っている、「また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、『たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう』」。わずかの者が救われるのである。あなたはその少数の残された者か?

レビ記11:45は言う、「私が聖いように、あなたも聖くあるれ」。そして、1ペテロ1:15は言う、「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」。私たちは主イエスのようになる。これは聖定ということである。主イエス・キリストの御姿のように変えられるということだ。

へブル12:14 は言う、「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」。清くなければ、誰も救われない。イザヤ35:8にある、「そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる」。それはまっすぐで狭く、永遠の命につながっている。「汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない」。主イエスは言われた、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ7:13–14)。少数と多数に分けられる。あなたの家の大きさは関係ない。キッチンが新しいかどうかでもない。新しい心だけが問題なのである。それこそ御聖霊の独特の働きである。

モーセの恵みの契約のしるしは割礼である。そして割礼の真の意味は信仰の従順である(ローマ人1:5を参照)。悔い改めと信仰の従順がなければ、恵みの契約はない。

ダビデの契約

次に、ダビデの恵みの契約がある。それはその究極の意味において救い主のことである。しるしは割礼であり、条件は信仰と信仰の従順である。

イザヤ42:1, 6で主は言われた、「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。主なるわたしは正義をもってあなたを召した。わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。
わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光として与え」。これらの節で、主イエスは「契約」と「光」と呼ばれている。主イエスは業の契約を実行された。アダムは業の契約に従わず、私たちに罪責と永遠の罰をもたらした。しかし、主イエスは業の契約を果たし、義と永遠の命を私たちにもたらされた。

主イエスはご自身のことを言っておられる、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)。そして主イエスは私たちについて、「あなたは世の光です」と言われた。私たちは闇ではない。主イエスは言われた、「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない」(マタイ5:14)。これは、光としての伝道について教えている。

新しい契約

最後に、新しい契約がある。イザヤ53章と1ペテロ2:24で読んだように、主イエスは血を流された。キリストは私たちの罪のために代わりに死なれた。最高の代償を血で払われた。キリストは私たちを愛し、最高の代価を払われたのである。誰も救いを買うことはできない。その価格が高すぎるからだ。

マタイ26:39, 42にある、「そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、『わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください』」。彼は二度目にそこ去って祈られた、「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。父なる神は「それは不可能である」と答えられた。

父なる神の永遠の御子が私たちの罪のために代わりに死ぬというのは、父なる神の永遠の意志であった。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ6:23)。

ペテロは言っている、「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである」(1ペテロ2:24)。すべての真の信仰者に宿る聖霊によって、私たちは罪を滅ぼし、神に従うことができる。

主イエスは言われた、「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」(マタイ26:28)。またパウロは書いている、「食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』」(1コリント11:25)。

私たちは罪を犯した。私たちが恵みによって救われるために、主イエスは死の犠牲を払われた。キリストの従順は私たちの永遠の救いを確保した。救われるために私たちは何をしなければならないか?主イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたは救われる。他に救い主はいない。

IV. アダムは失敗したが、キリストは神に従った。それゆえ神の民は恵により主イエスに従う

アダムは失敗したが、キリストは従われた。それゆえ、選びの民は恵みによって主イエスに従う。従順が任意であるなら恵みの契約は存在しない。「悔い改めたり従ったりする必要はない。あなたが死んだとき、それでもあなたは天の国に迎えられる」というのは嘘である。

主イエスは言われた、「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」(ヨハネ15:10)。ヘブル5:8–9で、私たちはイエス・キリストについて非常に重要なことを知る、「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、まったき者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となられた」。あなたが主イエスに従っていないなら、あなたは救われていない。

どうすれば神に従うことができるか?私たちは、内に宿る聖霊の力によって従う。その精霊によって、私たちは罪を滅ぼし、主イエスに従うことができる(ローマ8:11–14)。ヤコブは言った、「そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう」(ヤコブ4:7)。私たちが最初にすべきとは、神に服従することである。

1ヨハネ2:3–6にあるように、「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである」。神は我々に懇願される方ではない。命令される方である。(PGM)「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。 『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」。そして、主イエスは私たちに言っておられる、「永遠のいのちへのまっすぐで狭い道を歩んで私に従え」。

主イエスは、アダムとは異なり、業の契約において神に完全に従い、選びの民が恵みによって救われるようにされた。エペソ2:8にある、「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」。

ローマ5:15–17には、私たちの救いを「贈り物」と5回表現されている。救いは、選ばれたつみびと、つまり主イエスを信じるすべての人への神の賜物である。エペソ1:4にあるように、「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選ばれた」。

V. 贖いの契約

これは、父なる神がすべての罪びとから選びの神の民を贖うため、永遠の過去の創造以前に行われたことである。父なる神、子なる神、聖霊なる神という3者の一致があり、父なる神は特定の罪びとを選び、彼らの贖いを成し遂げるために、子であるキリストにその選びの民に与えられた。これは、頭文字TULIPで示されるLの限定的贖罪の内容である。子なる神キリストによる贖罪は選びの民のみに限定されている。贖罪は選びの民すべてに十分であるが、それは選びの民に限られている。

ヨハネ17:2で主イエスは言われた、「あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから」と言われた。永遠において、父なる神は私たちに御子キリストを与えられた。「わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、御名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました (6節)。主イエス・キリストが私たちのためにとりなしておられる。御聖霊が私たちのためにとりなしておられる。そして、イエス・キリストは天の国で私たちのために取りなされる。主イエスは続けて言っておられる、「わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。彼らはあなたのものなのです(9節)。わたしは彼らのためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。彼らはあなたのものなのです(24節)。贖いは、主イエスを信じる選びの民に限定されている。そして説教者が福音を説教するとき、突如として、選びの民は主イエスを信じるようになるのである。

御子は、恵みの契約の基礎である受肉の生と死と復活を通して、業の契約での完全な父なる神への従順によって永遠に選びの民のための贖いを成し遂げることに同意されたた。永遠の御聖霊は、選びの民の個々人にキリストの贖いを適用することに同意された。

ローマ8:29–30でパウロは書いている、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」。 これは有効召命について語っている。神が呼びだされたら、私たちはそれに応じるのである。パウロは続ける、「神が義とされた者に、また栄光を与えられた」。パウロは私たち、選びの民について話している。御聖霊は、私たちを霊的に再生し、一人一人にキリストの贖いを適用される。このため、私たちは救われたのであり、救われているのであって、そして将来も救われるのである。

VI. 罪のないキストリの従づく契約順に基

2テモテ 3:16–17は言っている、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」。神の恵みの契約は聖書全体に書かれており、神の選びの民は聖霊の導きによってこれを読み、特別な恵みによって神に従う。彼らだけがイエス・キリストの新しい契約のメンバーであり、イエスの血によって封印されている(創世記3:15を参照)。このように、最高の代償が私たちの救いのために支払われ。これを救いといい、お金では買えない。これを贈りものとして受け取るのである。

1コリント11:25は引用している、「食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』」。私たちを愛し、私たちのために死なれた主を忘れてはならない。そしてヘブル9:15にある、「それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない」。

新しい契約は次のように要約することができる、「私はあなたを救うあなたの神であり、あなたは私を愛し、従う私の民である」。

エレミヤ31:33にある、「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる」。これは霊的再生のことを言っている。

重要な契約の1つは、あなたの個人的な契約である。「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)。これが主イエス・キリストとの契約である。彼は私たちの王の王、主の主であり、私たちはキリストの契約による奴隷である。

ピリピ2:7で「奴隷」(ドウロス)という言葉が主イエス・キリストを指すために使われている。パウロはまた、ペテロ(2ペテロ1:1)と同様に、自分自身をキリスト・イエスの奴隷と呼んでいる(ローマ1:1)。私たちはキリストの従順な奴隷である。私たちは彼の意志を聞いて実行するのである。

私たちの意志は彼の意志に委ねられている。イエスが主であると言ったときにあなたが結んだその契約を決して破らないようにせよ。あなたがそれを破れば、彼はあなたに厳しく対処される。ヨハネは1ヨハネ2:19でこう言っている、「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである」。

新しい契約の最初のしるしはバプテスマ、つまりキリストとの結合である。私たちはキリストと共に死に、キリストと共に葬られ、キリストと共に死から甦らされ、新しい人生、従順な人生を送るようにされたのである。私たちはその主人に従うのである。アダムとエバは、創世記3で読んだように、悪魔に従うことを選んだ。彼らは、神の顔に唾を吐き、悪魔に従うという最も邪悪なことをしたのである。

継続的なしるしは主の晩餐である。条件はイエス・キリストへの信仰である。ローマ人1:17は言っている、「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」。ヘブル11は、信仰の従順について27回語っている。

エペソ2:8は言っている、「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」。救いの根拠は主イエス・キリストの義である。救いの手段は主イエス・キリストへの信仰である。

この恵みの契約において、神は選ばれた罪人が再生と聖霊の聖化の働きによって従順の契約の要求を満たすことを可能にされる。だから、ピリピ2:12–13書いてある、「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。

VII. 恵みの契約の特徴

バーコフ師は、恵みの契約の特徴について次のように説明している。[2]

I.それは恵みに満ちた契約である(ローマ8:31–34)。次のことを考えよ。

  • キリストは私たちが使命を全うすることができる保証である。
  • キリストは私たちのために義の要求を満たされる(ローマ6:23)。キリストは私たちの代わりに死なれた。
  •  聖霊を通して、選びの民は契約の責任を果たすことができる(エペソ2:1–10)。

II. 三位一体の主なる神は、その全ての人格において恵みの契約に関与しておられる。

  • 父なる神罪人を救いに選ばれる。それを理解することはできないが、それは好ましいことである。それは奇跡であり、理性では理解しがたいが私は信じている。
  • 御子イエス・キリストは選びの民の罪のために死なれる。
  • 御聖霊は選びの民、すなわち各罪人に贖いを適用される。ああ、あなたは「自分で」信じるようになったと思ったかもしれない。しかし、問題は、時間の始まる前に、神が永遠からあなたを選んだということである。

III. それは特別な、普遍的ではない契約である。選びの民のみが救われるのである(エペソ1:4)。

IV. 本質的に、恵みの契約はすべての神権時代で同じである。恵みの契約は本質的にすべての神権時代に機能した。福音はただ一つである。福音とは何か?主イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたは救われる、である。これに変更はない。

V. 契約の仲介者はイエス・キリストである。イエス・キリストだけが私たちを救うことができる。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:12)。「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」(マタイ1:21)。彼はすべての民、ユダヤ人と異邦人を彼らの罪から救われる。

VI. 御聖霊は、選ばれた死んでいるつみびとを悔い改めに導き、主イエス・キリストを信頼するために再生される。

VII. 彼らは最後まで忍耐するために悔い改めと救いの信仰の賜物を与えられる。TULIPの最後の文字は聖徒の堅忍を表す。神の民はキリストから離れていかない。彼らは離婚しない。

VIII. キリストの功績は、キリストを信頼するすべての人に与えられる。
「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:21)。私たちは神の義を身にまとっている。億万長者が裸で歩き回っている間、私たちは神の義を着て歩くのである。

結論

主イエスは、選びの民が恵みによって救われるように、業の契約に完全に従われた(ピリピ2:6–11を参照)。そして、使徒20:28で、神が選びの民の世話をするために敬虔な牧師を与えておられる、とパウロは言っている。主イエスが自らの血で買い取られた教会の羊飼いになるように命じておられる。主イエスは私たちの救いのために最高の代価、つまり自分の血を支払われたのである。

イザヤ55:1にある、「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ」。それは、私たちが救いの代価を知らなければならないことを意味する。それは無代価で与えられたが、あなたは代価の重さを認識しなければならない。

黙示録3:17–18で主はラオデキヤの教会に言っておられる、「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」。彼らはキリストの義を身にまとっていなかった。主イエスは続けて言われた、「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい」。「買う」とは、イエス・キリストを信頼することを意味する。誰も救いを買えない。それはとても高価である。その価値は無限であることを知る必要がある。そして、私たちが主イエス・キリストを信じるとき、神の義を身にまとう。それは私たちの義ではなく、神の義である。

サムエルが「主なる神よ。あなたのしもべは、あなたの奴隷です。私はあなたの言うことを聞いて行います」と言ったように、あなたもそう言って、従うのを助けて下さるように。これがあなたに当てはまらない場合、あなたは救われていない。

アダムは不従順によって罪を犯し、私たちに永遠の呵責と永遠の死をもたらした。キリストは父なる神に従い、私たちに永遠の救いをもたらした。主イエスだけが私たちに恵み、赦し、義、完全な救い、聖さ、永遠の命、栄光、そして聖霊の平和と喜びを与えられる。

あなたは、救われてよかったではありませんか?どのように民を選ばれたのかは私にはわかりませんが、信じています。私は自分が選びの民であることに驚いています。

私たちが神との個人的な契約を理解しますように。また、私たちがその契約を維持していけるよう、主なる神が助けてくださいますように。主は、私たちの王の王であり、主の主であられる。私たちは主なる神の聖なる意志を聞いて実行し、最後まで忍耐しなければならない。私たちを救われた神に感謝します!

[1] 「新聖書辞書」 J. D.ダグラス他(Grand Rapids:Eerdmans、1970)265ページ。

[2] 「組織神学」L. バーコフ(Grand Rapids:Eerdmans、1949)、278–283。