広い道を通る人生: 悔い改めも従順もない
Matthew 7:13-14P. G. Mathew | Sunday, July 18, 2021
Copyright © 2021, P. G. Mathew
Language [English]
マタイ7:13–14でイエスは言っておられる、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」。
現代の福音主義には、救いに悔い改める必要も主イエスに従う必要もないと教える牧師が多数いる。即ち、世の中の主を信じない人々が行く広い道をあなたが歩いていてもそれでも救われる、自分の罪の問題をそのままにしておいていても神の怒りから救われる、と教える。
私たちはそんなことは信じない。私たちの教会には真の教会のしるしがある。それは権威をもって神のことばを語るということである。洗礼と主の晩餐の二つの礼典を守ることに加えて、教会戒規を行う。そして4つめのしるし、それは交わりである。教会で兄弟姉妹と話し合い、それぞれが必要としているものを見つけ助けあることを意味する。また、週6日間働くように命令されているので、働ける者がそうしないなら、まず仕事を見つけるように言う。実際的な助け合いもしながらである。こう書いてある、「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい」(1 テモテ5:8 私訳)。そして、あなたがイエス・キリストを愛するなら、まず両親、牧師、警官にも従うであろう。
多くの人は広い道を通って生きていく。それは主なる神に従わない不従順な人生を選ぶことになる。そのような人生は永遠の滅びへとつながっている。そうではなく、主イエス・キリストの訓練のもとで生きる、狭い道の人生を選ぶ人はほとんどいない。しかし、主イエスに従うこの狭い道の人生は、滅びではなく永遠の命につながる。地獄はあり、天国はある。
テモテのように、「幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている」(2テモテ3:15)。狭い道の人生は広い道の人生の反対である。ここの教会のほとんどの人は私と同じ道を選択している。それは神の義と、平和と、聖霊による喜びの道である。
狭い道は天国に通じている。それは悔い改めと従順の道である。もしあなたが永遠に神の選びの民であり、イエス・キリストの似姿に似るように定められているなら、あなたは事実上神によって召され、再生され、罪を悔い改めて神を信じ、義とされ、神の養子となり、聖くされ、新しい天と新しい地で永遠に栄光を受けることになる。これが、私たちがお金に仕えない理由である。私たちは主イエス・キリストに仕える。
1. 神への従順はオプションではない
へブル5:8–9でイエスのことがこのように言われている、「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となられた」(私訳).イエス・キリストに従って生きていないならば、あなたはまだ救われていないということである。
ローマ8:29でパウロは、「神はあらかじめ知っておられる者たちを」と始めている。ジョン・マレー師は、この「あらかじめ知っておられる」とは「永遠から愛されている」という意味であると教えられた。それでパウロはこう書いている、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」。
ヨハネ8;29でイエスは言っておられる、「私を遣わされた方は私と共におられる」。誰が遣わされたのか?それは父なる神である。そして、「わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」と言っておられる。1960年にアメリカに向かう途中、私は船の中で、「私は置き去りにされているのでしょうか」と祈ったのを覚えている。しかし、私は一人ではなかった。神は私とともにおられ、すべてを備えてくださった。そして主イエスは、「わたしはいつも神に喜ばれることをしているからです」と言っておられる。父なる神は私たちと交わりを持ってくださる。これは大いなる幸せである。お金は私たちにそのような幸福をもたらすことはできない。神との交わりだけが可能である。
よはね4:34で主イエスは言っておられる、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、その御業をなし遂げることである」。あなたが罪犯し続けることがあっても、神はあなたを救われる、と説教する説教者たちは呪われているのである。主イエスご自身はこう言っておられる、「わたしの糧(わたしの幸福、わたしの力を意味する)は、わたしを遣わしてくださった方のご意志を行い、その御業をやり遂げることである」。彼は私たち信じる者の罪を贖うご自身の業について語っておられ、主イエスはご自身の死をもってそれを成し遂げられたのである。私たちは罪を犯したが、彼はその罪の代わりに死なれたのである。これが福音なのである。
ヨハネ14:31でイエスは宣言された、「しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう」。1サムエル15:3でサウロ王は神に完全に従うことをしなかった。サウルが正確には従わなかったことが記録されていて、結果神によって罰せられたことがわかる。聖霊が彼を去り、悪霊がやって来て彼を苦しめた。神は従順を求めておられる。神に従うときは、すぐに従う、厳密に従う、喜んで従う、これが重要である。
そしてイエスは神から与えられた仕事を終えられた。ヨハネ19:30に、「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言われ、首をたれて息をひきとられた」と記録されている。イエスは私たちが永遠の命を得られるように、私たちのために贖いの働きを終えてくださったのである。
ヨハネ14:15でイエスはこう言われた、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」。神はあなたに媚びるようなことはなさらない。多くの親が子供たちに媚びたり、褒美を渡したりする。そうすることで、子供たちは親の顔に唾を吐きかけているのである。私の父は私に命じた。そして、父が振り返って私に何をすべきかを告げるまで、私は父の言うことを待っていた。私は言われた通りにそれを実行した。そのように、主イエスは私たちに、「もしあなたが私を愛するなら、私の命令に従う」と言っておられるのである。ペテロは、イエス知らない、と三度否定した。復活後、イエスはペテロに会い、「あなたは自分の命よりも私を愛していますか?」と三度尋ねられた。するとペテロは、「はい、愛します」と三度答えた。そこでイエスは、「彼らはあなたを十字架につけるであろう」と言われた。そしてペテロは十字架にかけられても信仰を守り通した。
ガラテヤ5:22に、「しかし、御霊の実の一つは、愛である」と書いてある。私たちは最近、インドの姉妹教会で奇跡が起きたという話を聞いた。麻薬中毒者だった男性が教会に通い救われた。それから彼の母親も教会に来るようになった。その教会は御霊の最初の実である愛が実っている。同様に、私たちはこの教会でも愛がみのっている、言う。なぜならここには差別がないからである。私たちは神の民すべてを愛し、神の民すべてを助ける。私たちはお互いに会話し、お互いの必要を把握し、助け合うのである。
だからイエスは、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」と言われた(ヨハネ14:15)。神への従順は、あなたが聖霊の働きによって神の救いを受けていることの証拠である。それは、神の働きによって救われていることの証拠である。1925年以降、神がインドに聖霊を注がれたとき、私たちは多くの愛の奇跡を見た。父が35歳で死にかけていたとき、教会に方々が来て祈ってくださった。その時父は言った、「何を祈っているの?私は天国にいるし、楽しい時間を過ごしている」、と。しかし、その後神は父の命を救い、さらに長い年月を与えられた。
私たちは霊的再生の奇跡を含むあらゆる奇跡の中で育てあげられたのである。あなたが霊的に再生されると、新しい心、新しい意志、新しい感情が与えられ、聖霊があなたの中に宿られ、あなたがすべきことを命じられる。だから霊的再生は奇跡です。2コリント5:17に書いてあるように、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。私たちは新しい創造である。古いものは過ぎ去って、新しくされた。私も新しい命への道へと育てられた。聖書は教える、「子をその行くべき道に従って教えよ、そうすれば年老いても、それを離れることがない」(箴言22:6)。私を見れば、私が両親の敬虔な訓練から離れていないことがわかる。
ヨハネ14:21, 23–24で主イエスは言っておられる、「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。子供が両親や牧師に従わないなら、その子は呪われているのである。イエスは続けて言っておられる、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である」。すでに述べたように、これは最高の幸福について語っている。父と子と聖霊は、私たちの内に住まれる。しかしイエスは、「わたしを愛さない者はわたしの教えに従わないだろう」と言っておられる。ここの論理に注目すべきである。神に従わない人は神を愛していないことになる。そしてイエスはこう締めくくっておられる、「あなたが聞いているこれらの言葉は、私の言葉ではありません。それらは私を遣わした父なる神からのものです」。
今日のアメリカでは「服従」は汚された言葉となってしまった。時々、アメリカに来て後悔することがある。それでも、神は私をこの場所に送られた。私がここに来る前、デイビス市にある教会の牧師は、私のような人間がいつかその教会に来て真理を説き、人々がそれを聞くだろうというビジョンを与えられた、というのを聞いたことがある。
キリスト者にとって、神に従うことはオプションではない。ヨハネ15:10で主イエスは言っておられる、「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」。イエスは常に父なる神に従われた。キリスト者はイエスに従うべきである。(PGM) それはあなたがイエスを主と告白したときに約束したことである。
詩篇103:17–18は次のように言っている、「しかし主のいつくしみは、主を恐れる者の上にあり」で始まっている。「神を恐れる」とは、創世記 22章でアブラハムがしたように、神に従うことを意味する。詩編作者はさらに、「契約を守る者たちに対して」と続けている。私たちはバプテスマで誓約をした。「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)。
1ヨハネ2:3–5は「知る」という言葉を用いている。こ「知る」という言葉は「確かに知っている」ということである。ヨハネはこう続けて教えている、「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである」。子供が親に従わないとき、私はその子は呪われた人間であり、最終的には広い道を選ぶだろうと結論する。だからヨハネはこう言っている、「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである」。神の命令に従うなら、私たちは神を知るようになったことがわかる。私たちは神に従う生活を通してそれを知る。それは私たちが必ずいつも間違いなく従うということを意味しない。なぜなら、私たちは罪を犯すかもしれないからだ。その場合神に対して悔い改めるときに、神が私たちの悔い改めを受け入れてくださったと感謝できるのである。
1ヨハネ3:22, 24に書いてある、「そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである。それは、わたしたちが神の戒めを守り、御心にかなうことを、行っているからである」。さきほど言った通り、神は命令される。神は決して媚びることはされない。神は永遠に全能なる聖なる神であられる。24節では、「神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである」とある。御霊によって、三位一体の三人の位格はすべて私たちの中に住んでおられる。これはまさに最大の幸福である。そして、御霊はどんな働きをしておられるか?キリストが成し遂げられたその救いを信じる私たちに適応しておられる。
ヨハネはまた、「神への愛は、神の命令に従うことであり、その命令は負担とはならない」と言っている。ペテロはこのことが分かったのである。イエスは弟子たちに言っておられる、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいる」(マタイ28:20)。ペテロが十字架刑に処せられたときでさえ、主イエスは彼と共におられた。ステパノは石で打ち殺され、パウロは斬首された。しかし、神は彼らとともにおられ、これからも私たちとともにおられる。
そこでイエスは私たちに「狭い門から入りなさい」と言っておられる。「滅びに至る門は広く、その道も広い」からである。私たちは狭い道、つまりイエス・キリスト、両親、牧師に従う道を選んだのである。
イエスは祈られた、「あなた(父なる神)がこの世から私(イエス)に与えてくださった人々に、私はあなたを明らかにしました。彼らはあなたのものでした。あなたが彼らを私に与えてくださったので、彼らはあなたの言葉に従いました」(ヨハネ17:6)。ご存知のとおり、従順が重要である。「従う」は英語の4文字であらわされるが、福音主義によって、それは今日けがけがされた言葉となってしまった。
2ペテロ1:10が言っていることは重要である、「兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない」。どうやってこれを行うのか?私たちが今というときに神に従うことだ。そして、私たちが従わなかった場合は、悔い改めよ。そうすれば神はあなたを赦してくださる。神に感謝せよ、神は私たちを赦してくださる。
マタイ7:21–23で主イエスは言われた、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」。私の訳では、「地獄に行け」である。
以前私はルカ16章から、「地獄に驚いた」という説教をしたことがある。ある金持ちが、自分は天国に行くが、ラザロはとても貧乏なので地獄に行くだろう、と思っていた。しかし、その逆が起こった、という話である。私たちの誰も地獄にいってから驚かないようにと祈る。
ピリピ2:12–13でパウロは書いている、「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。あなたは無限の神を見たことがあるか?私はまだ見たことがない。しかし、神を見ると、あなたは死んだように倒れてしまうであろう。それが黙示録1:17でヨハネに起こったことである。神に感謝せよ。あなたがたの神はあなたの内に働いて、よき御心を実行される、とパウロは言っている。そして、御霊によって、私たちは解決する力を与えられる。
1ヨハネ5:19 は言っている、「わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている」。この国の多くの人は自分がどれだけお金を持っているかを非常に誇りに思っている。彼らの目標はただ一つ、円満に退職することだ。 彼らは福音にも、自分の召命や神の選びを確実にすることにも興味がない。
1ペテロ1:2は書いている、「すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように」。私たちの人生の目的はイエス・キリストに従うことである。1ペテロ1:14節の英語訳は、「従順な子供として」と言っているが、これは誤りである。そうではなく、ここは「従順を行う子供として」から始まるべきである。ここは、「従順を行う子供として、無知であった時代の欲情に従ってはならない」訳されなければならない。全世界は無知に生きているが、その中で神の知恵に歩んでいる者は数少ないのである。1ペテロ1:22で言っている、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい」。どのようにたましいを清められるのか?それは真実に従うことによってである。神に従いなさい。 そしてペテロは、「心から互いに深く愛し合いなさい」とも教えている。インドはカースト社会であるが、神が御霊を注がれたとき、あらゆる区別は消え去った。我が家に、カースト最下位の姉妹が住んでいたが、私は彼らを母親と同じような存在だと思っていた。彼らは教育を受けていなかったが、「主を讃美する」ということを学んだ。ある時突然、言葉では言い表せないほどの喜びと栄光に彼ら二人が満たされている様子を見た。
2. 悔い改めはオプションではない
エペソ4:28でパウロは、「盗みをしていた者は、もう盗んではなりません」と言っている。「しかし、困っている人たちに何かを分け与えるために、自分の手で役に立つことをして働きなさい」とも言っている。これが悔い改めの意味である。私は真の教会とは何かを理解して育った。教会員は互いに愛し助け合い、困っている人は一人もいなかった。当時の牧師は、人々の世話をするために土地を売り、そのお金を教会で使っていた。それは、家族である教会を大切にする使い方にほかならない。
使徒Acts 2:38でペテロは言っている、「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」。悔い改めて、罪の赦しを得るために、イエス・キリストの名において洗礼を受けなさい。神が私たちを赦してくださったことに感謝せよ。私たちは罪を犯したが、そのためにイエスは死なれた。イエスは地上で最も貧しい人でした。ルカ9:58で言っておられる、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。最後に十字架につけられた。
使徒17:30 でパウロは宣言した「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる」。そして、使徒20:21で言っている、「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである」。悔い改めとは、私たちが罪の生活を離れてイエス・キリストに従うべきことを意味している。
使徒26:20でも言っている、「まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました。 また、あなたがたの益になることは、公衆の前でも、また家々でも、すべてあますところなく話して聞かせ、また教えた」。善い行いや悔い改めのことばだけではなく、行動によって悔い改めを証明しなければならない。それが私たちの姉妹教会で起こったことである。ある若者は何もかも間違ったことをしていた。突然、彼は教会に来てから、完全に変わった。すると彼の母親も驚いて教会に来るようになった。これらすべては聖霊の新たな注ぎによるものである。
永遠に救われる少数の人々を神は選ばれた。神を讃美しよう。あなたが信仰者なら、悔い改めと従順の人生によって、あなたが救われたことを証明すべきである。もしそうでないなら、主イエスを信じよ。そうすればイエスはあなたのすべての罪を赦してくださるだろう。
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