復活
Matthew 28:1-10P. G. Mathew | Sunday, April 20, 2014
Copyright © 2014, P. G. Mathew
Language [English]
ハレルヤ! 我々の主イエス・キリストは死からよみがえられた!父なる神はすべて選ばれた罪人を永遠に救うため、聖霊の力によって主イエスを死から復活させられた。主イエスはすべての敵を倒し勝利された。だから、神の民よ。限りなく喜べ。
この福音の真理をどうやって知るのか。聖霊の働きによって聖なる預言者や使徒によって書かれた聖書から知る。ウェストミンスター信仰告白、第1章が宣言しているように、我々は聖書の絶対的権威を信じる。
福音書はすべて、イエス・キリストの死と復活について証言している。 歴史家ルカは、テオピロ閣下が信じるように、この福音書を書いた、と言っている、「すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります」(ルカ1:4)。ヨハネも同様のことを書いている、「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(ヨハネ20:31)。ルカもまた言っている、「イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れられた」(使徒行伝1:3)。ルカはこれらの論理的証明を2巻で構成されるルカの福音書と使徒の書に記録している。
キリストの教えはイエス・キリストとその大いなる働きである。我々を義とされ、我々に栄光を与えられるため、すなわち神の臨在を与えるために、主なる神は我々罪人のために、イエス・キリストを送られた。へブル2:10にこう書いてある、「なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである」。ペテロは言っている、「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである」(1ペテロ3:18)。
イエス・キリストは一体誰か?それが最も重要なことである。
1. イエスは神である
主なる神はイエス・キリストについて聖書で何と言っておられるか。イエスは神である、と宣言している。ヨハネは書いている、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1:1, 14, 18)。
パウロは言っている、「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っている」(コロサイ2:9)。パウロは他の箇所でも書いている、「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている」(テトス2:13)。こうも言っている、「また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠に栄光を帰するべき方である。その通りアァメンである」(ローマ9:5)。
主イエス・キリストは旧約聖書が語っている契約の神、主ご自身である。神である。ジョン・フレーム氏は、「救い主が神でない限り、我々に希望はない。我々の救いを確固たるものとするため、苦しみを通して、我々を救い価値と力を与えられた。それはキリストである。まさに、旧約の預言者も言っている通りである、「ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない」(イザヤ43:11)。ヨナも告白している、「わたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」(ヨナ2:9)。1
イエス・キリストは神である。あなたは、その主イエスの前に、膝をかがめて救いを求め、今日救われるようになられることを、私は厳粛に勧める。
2. イエスは処女降誕をした神の御子である
イエスは処女マリヤから生まれられた。マリヤがそう告知された時このように言った、「そこでマリヤは御使に言った、『どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに。』御使が答えて言った、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。』」(ルカ1:34–35)。すでに読んだが、ヨハネが書いている、「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1:14)。
J. オリバー・バスウェル氏は言っている。2 ジョン・マーレー氏は、次のように述べている、「神であるキリストが主イエスとして受肉されたことは、神の子でなくなったことを意味しない。彼は、永遠に存在される方なのである。即ち、無限である方が有限になられ、永遠から時間の世界に来られたのである。不変の方が、敢えて変わられ、見えない方であるのに、見える者となられた。創造主が創造された形を取って来られた。すべてを支配する方は、頼る立場を取られた。即ち、全能者は弱い形で来られたのである。神は人になられた。3 一人の人間の形で生まれられ、全ての支配者であると同時に、全ての人間の形を取られたのだ」。4
イエス・キリストは、神と人間という二つの人格を持っておられ、イエス・キリストの処女降誕、これを信じていなければ救われることはできない、と聖書は教える。
3. イエスは罪を持たない
イエスは罪なき人生を生きられた。ユダヤ人からこのことを尋ねられたときに、イエスは答えられた、「あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか」(ヨハネ8:46)。へブル4:15にこう書いてある、「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。へブル7:26書いてある、「このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである」。ヨハネは書いている、「あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない」(1ヨハネ3:5)。ペテロは言っている、「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである」(1ペテロ2:22, 24)。パウロは書いている、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:21)。イエスが罪を犯す単なる人間であれば、誰をも救えない。そうであれば、彼自身も救い主が必要となる。
4. イエスは我々の罪の代価を払われた
アダムの子孫はみな罪人なので救い主が必要である。パウロは言っている、「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」(ローマ5:12)。
聖書は、我々人間が生まれながらの罪人であり、知性、意志、感情において、日々罪を犯している。本質的に我々は、罪の中に死んでおり、神を否定する愚か者であり、神の敵である。従って、神の怒りは、このようにすべての人間に付きまとう。そのため、神から、そしてお互いから疎外されており、平和を持たない、そういう意味では統合失調症状態といえる。
イエス・キリストにあって、我々は平和を実現する。主イエスは、我々を罪から贖い、敵同士の間に一致を実現される。我々の罪を排除し、我々の犯した間違いのつけを全て支払い、神と和解を実現される方である。十字架で、神は、罪人の中から、ある者たちを救いに選ばれ、贖罪の犠牲であるイエス・キリストを与えて、罪をその死によって解決された。
すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている(ローマ3:23)、そして「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)。主なる神が介入しない限り、すべての人が永遠の死に至る。しかし、イエス・キリストはその死と復活により、信じる者をそこから贖い出されます。パウロは、神の目的についてこう言っている、「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしま」うためである(エペソ 2:16)。
十字架において、主なる神は愛と義を表された。パウロは宣言している、「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」(ローマ5:8)。また、こうも言っている、「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受けるべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」(ローマ3:25–26)。
あなたはイエス・キリストを信じているか?もしもそうでないなら、今、罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じるように、私はあなたに命じる。キリストはだれのために死なれたのか。それは、自分の罪を悔い改め、神の御子イエスを信じる世界のすべての人々のために死なれたのである。
5. イエスは死から甦らせられた
「イエス・キリストの復活の事実は、古代史で証明された事実の一つである」とJ.N.D.アンダーソン氏は言っている。5イエス・キリストの死と復活は何度も旧約聖書で預言されている(申命記18章)。預言者達は、彼の死と復活の絶対的で神聖な必要性を書いている(マタイ16:21; 17:9; 17:23; 20:19; 26:32)。この中でも、マタイ16:21にこう書いてある、「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた」。
主イエスは、聖書が自分の死と復活について語っていることを知っておられた(ルカ24:26-27、44-47参照)。実際、旧約聖書全体が御自身のことを語っており、死んで葬られ、復活して罪の悔い改めと赦しを全世界に宣言されると言っておられる。旧約聖書が約束していること、すなわち、御自身が、死、悪魔、罪、すべての敵を征服するという救い主である、と言われた。それは、多くの人のための代価を払われることである。
すべての福音書は、キリストの死、埋葬、そして復活を証言している。死者の中からこれまでに復活して、永遠に生きている者は、キリスト以外に一人もいない(使徒26:23、1コリント15:20)。
イエスは復活についての説得力のある多くの証拠を与えておられる。あなたが彼の復活を信じたくないと言うなら、愚か者であり、あなたの心は閉じられているのである。あなたはひざまずいて主の名を呼び求めるべきである。リディアの心を開かれたように、神があなたの心を開かれるように。
パウロは1コリント15:3–8で、イエス・キリストについては、証人が多いと訴えている。イエスは預言どおりに、3日目に封印された墓から甦られた。復活の体は、栄光の体として蘇っており、墓服と閉鎖された墓を通過することができる体である(PGM解釈)。しかし、彼の体にはまだ十字架のあとがついていた。さらに、ドアが閉まっている部屋に現れるなど、現れたり消えたりすることもできた。
この復活の体で、さらにキリストは重力に逆らって天に昇られたのである。しかも、彼は食べ物を食べたり触れたりすることができた。即ち、肉体を持っており、しかも不朽で不滅の、いわゆる栄光の体のことである。
多くの人々がイエスの復活を見た。我々の復活の体はそのようである(ピリピ3:21)。 彼は40日の間に10回以上にわたって何百人もの人々に現れられた。
復活の確実な証拠を求める者は、次の点を考慮せよ:
1. 墓には誰もおらず、代わりに天使たちが弟子たちを迎えた、「イエスはここにおられない。復活されたのである」。主イエスは真実であって、偽ることがない方である。
2. 墓服が形を変えることなく置かれていた。即ち、敵や友によって、外側から触れられていないことを意味する。
3. キリストの教えに終止符を打とうと、イエスの死体を偽装した者もいない。なぜなら、彼は本当に死からよみがえったからである。実際、死んだ後も、彼の体は破壊されなかったのである。詩編16:10に書いてある、「あなたはわたしを陰府(よみ)に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである」。
4. 神の使いは、墓の口を塞いでいた非常に大きな石を取り除いた。それは、イエスが脱出できるようにするためではなく、ローマの権力を含むすべての権力に対する神の支配を示すためにそうしたのである。彼らはまた、目撃者が入ってきて、キリストの体がそこにはないこと、そして復活された証拠を見ることができるように、石を取り除いたのでもある。
5. その選ばれし天使は、女性たちにこう言っている、「あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう」。
6. 主イエスご自身の言われたこと、それに女性や使徒たちの証言を私たちは知ることができる。「そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。そのとき、イエスは彼らに言われた、『恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい』(マタイ28:8–10)。パウロは言った、「そこで、わたしが『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、主は言われた、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ、起きあがって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしに会った事と、あなたに現れて示そうとしている事とをあかしし、これを伝える務に、あなたを任じるためである。』」(使徒行伝26:15–16)。ヨハネに主イエスは言われた、「また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている」(黙示録1:18)。さらに、ヨハネ14:19は言っている、「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」。
7. 不信仰な使徒たちであったが、今は信じており、彼らの生活は変わった。主イエスを否定したペテロは、イエスの復活について語り、ペテロ自身が十字架につけられるまで、その信仰は揺るがなかった。
8. 使徒行伝の宣言であるが、使徒たちは、キリストが死から復活したことを事実として宣言した(使徒行伝2:32; 3:15; 5:32; 10:39; 13:31–32; 23:6; 24:15; 25:9; 26:8, 16, 23)。
9. イエス・キリストの復活を記念して、ユダヤ人の信仰者は週の最初の日である日曜日に礼拝し、それを主の日と呼び始めた。
10. パウロもキリストの死と復活を証言している。かつてキリスト教の大敵であり、クリスチャンの迫害者としてNo.1であった。主イエスが直接パウロに現れられ、パウロは、キリストの復活を確信されられた。それ以後、彼はキリストの復活の信仰のために殉教するまでに至った。
イエス・キリストは、死と復活によって、我々のために死を征服された!あなたはイエス・キリストに属する人だろうか?彼こそは死を滅ぼし、我々に命の勝利をもたらした方である。我々に永遠の命を与えられるのである。イエスは言われた、「私は生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている」(黙示録1:18)。こう言っておられる、「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」(ヨハネ14:19)。我々が生きていても死んでいても、キリストは我々の命なのである。
イエスの死と復活についてのイエスご自身の予言が真実であれば、彼の教えはすべて真実である。したがって、次のことが保証される:
1.イエス・キリストは我々の罪の赦しのために血を流された。
2.イエスは、天から、父なる神の所からこの地に降りてこられ、父なる神のところへ上げられた。
3.イエスの言葉は父なる神の言葉である。
4.イエスは、父なる神と一つであられる。即ち、神性を持っておられる。これは神ご自身の主張である。
5.主イエスは神の子である。
6.彼を信じる者は誰でも永遠のいのちを持つ。
7.主イエスを信じない者は、滅びに定められている。
8.悪霊は主イエスを信じない。全て主イエスを信じない者は、悪魔の陣営におり、全て破壊に運命づけられている。
9.聖書は真実である。主イエスは、「聖書にこう書かれている」と度々引用されたとおりである。
10.イエスは再び救い主、そして裁き人として来られる。
11.主イエスは、道であり、真実であり、命である。こう言っておられる、「私を通してでなければ、だれも父なる神のもとに来ることはできない」。イエス・キリストの以外に永遠の命と救いはない。
12.彼は天国でも地上でもすべての権威を与えられている。
神の民はまた、キリストの復活からその他多くの恩恵を受ける。彼の死と復活によって、以下のことがらがすでに実現している:
1. 我々は生まれ変わらされた:「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れ還らせ、新しい命に生きることができる望みを与えられた」(1ペテロ1:3)。
2. 我々は義とされた: 「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」(ローマ4:25)。
3. 聖くされた: 「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(ローマ6:4)。
4. 永遠の命が与えられた: イエスは言われた、「わたしが生きるから、あなたがたも生きる」(ヨハネ14:19)。
5. 聖霊が与えられた: 「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである」(使徒行伝2:32–33)。キリストが死からよみがえられ、天に昇ったので、聖霊が注がれた。
6. 我々も栄光の体に蘇らせられる: 「それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである」(2コリント4:14)。
7. キリストは全世界を裁かれる: 「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒行伝17:31)。キリストはあなたを裁かれる。今が信じる時であり、今日こそが救いの日である。 キリストの前にひれ伏し、自分自身の口で、イエス・キリストが本当の主であると告白しなければならない日、その日があなたに来ているのである。それは神の栄光となる。
アテネ人は、パウロがイエスの体のよみがえりについて語ったときに、あざけった。だから、すべて現代の、文化的に見える者たちも同じである。神が彼らの目を開かなければ、決して福音を聞いて主イエス・キリストの栄光を知るようにはならない。主なる神がそれらの滅びる魂の救いのために祈るのを助けてくださるように。
不信仰は、すべての被造物を神の創造された世界から締め出す。しかし神は、その主権により、ご自由に行動されだれもその働きを妨げることはできない。
真の科学と歴史は聖書の真実を反映する。そうでなければ、それは本当の科学や歴史ではない。パウロはローマの検察官フェストスとアグリッパ2世のあざけりに対して、こう反論した、「神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか」(使徒行伝26:8)。「神が無から世界を創造された」ということを信じることが、なぜ人には困難なのか。それは、そもそも神がどのような方であるかを知らないからに起因する。神は、イエス・キリストを死からよみがえらせたこと、それだけで信じるに十分な理由となるのだ。
6. イエスは我々の救い主である
復活のキリストは我々の救い主である。パウロは書いている、「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないになられたのである」(1コリント1:30)。彼はまた言っている、「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう」(1コリント15:17)。イエス・キリストを信じ人は皆、この世にあって望みも神もない。
復活したキリストは、我々を神の怒りから、救われた。そして、罪と死、世界、悪魔の力から救われた。復活のイエス・キリストを信じるすべての人にとって、「今や罪に定められることがない」(ローマ8:1)のである。
キリストは我々を解放された!パウロは宣言している、「罪から解放され、義の僕となった」(ローマ6:18)。我々は罪から、死から、そして悪魔から自由となった。自由! それが、今我々が持っていることなのである。神を賛美せよ!罪から解放され、義の奴隷となったことを、神に感謝せよ。
7. イエスは栄光と共に再び来られる
最後に、我々はこの真実を認めなければならない。それは、主イエスはすぐ来られる、ということである。そうでなくとも、我々はやがて死に、主イエスに会うことになる。これが聖書の一貫して教えることである。だからこのように書いてある、「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい」(1テサロニケ4:16–18)。
トマスは疑ったが、復活したキリストを見て言った、「私の主よ。私の神よ」。「キリストは私を愛し、私のために自分自身を与えて下さった」、とパウロが言っている。イエスの歴史的、奇跡的な復活の記録は、神の導きを受けた者たちの手によって記述された聖書として我々に与えられている。これこそが真実であり、まさに神の言葉なのである。今、信じて救われよ。
主イエスはトマスに言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ20:29)。ペテロは書いている「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている」(1ペテロ1:8)。ピリピの監守はパウロと知らすに尋ねた、先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝16:31)。パウロは彼らに主イエスがどのような方であるか、その働は何か、そして死から復活されたことを説明した。
友よ、あなたはそのままでは滅びる。今、復活したキリストを信じ、永続する喜びと共に、聖なる神と共に生きよ。
1 John M. Frame, Salvation Belongs to the Lord 救いは主のものである (Phillipsburg, NJ: P&R Publishing, 2006), 141.
2 J. Oliver Buswell, Jr., “The Virgin Birth of Jesus,” 「イエスの処女降誕」 Baker’s Dictionary of Theology, edited by Everett F. Harrison et al (Grand Rapids: Baker, 1982), 543–44.
3 John Murray, “The Person of Christ,” 「キリストの人性」 Collected Writings of John Murray, Vol. 2, Select Lectures in Systematic Theology (Edinburgh: Banner of Truth, 1977), p. 132.
4 Murray, 133.
5 J. N. D. Anderson, The Evidence for the Resurrection 復活の証拠 (London: InterVarsity, 1950), 1.
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