救いの信仰

John 3:14-18
P. G. Mathew | Sunday, December 08, 2019
Copyright © 2019, P. G. Mathew
Language [English]

世界中の多くのクリスチャンは、救いの信仰を本当に理解してはいない。イエス・キリストに対する信頼がなければ、罪人は救われない。使徒言行録の記録の通り、ピリピ刑務所の獄吏はパウロとシラスを釈放して尋ねた、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。するとふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒言行録16:30-31)。

救いの信仰には価値ある対象がある。神の選びの罪人を完全に救う完全な神であり人である。その方は、同時に世界の創造者であり維持者である。「その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」(マタイ1:21)。主イエスは決して罪を犯されなかった。それでも、我々の罪のために十字架につけられた。主イエスの死、葬り、復活は、イザヤ53章、詩編16章の預言の通り、身代わりとして罪の贖いを実現した。聖書は以下のように教えている:

  • ローマ4:25:「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」。
  • ローマ3:24:「信じる者はすべて価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。
  • 2コリント5:15:「そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」。

主イエスを信頼するすべての人は永遠に救われる。

しかし、神学者ルドルフ・ブルトマンは、主イエスが十字架につけられ、死からよみがえったとは信じなかった。これは、新正統主義神学者カール・バルトにも当てはまる。 コーネリアス・ヴァン・ティル師は、バルトが主イエスを信じていなかった者である、と本に書いている。

本物の牧師や神学者は、イエス・キリスト御自身から派遣され、教会に与えられ、唯一の救い主イエスを信じるすべての人が罪の贖いを受けることを導くよう、聖霊によって任命されている。そのような牧師は純粋な福音を語る。だから、以下のように教えられている:

  • ローマ10:13-17:「なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。のべ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうしてのべ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は』と書いてあるとおりである。しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っている。したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」。
  • 2コリント2:14–17:「しかるに、神に感謝せよ。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである」。

福音とは、主イエスを信頼することを拒む者にとっては永遠の死の匂いであるが、逆に主イエスを信頼する人々にとっては永遠の命の香りである。へブル11:6に書いてある、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のおられることと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」。救いの信仰には3つの要素がある:

  • ノティシア:福音の知識。
  • アセンサス:福音は真実であると合意すること。
  • フィドゥシア(またはフィデス・エスト・フィドゥシア):救いの信仰は、人生全体を通し、主イエス・キリストに全面的な信頼を実行するコミットメント。

I. 福音の知識 – ノティシア

救いの信仰は、暗闇の中での飛ぶことではない。楽観的でも前向きな考えでもない。安易な信用や自信ではない。

ペテロは書いている、「わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(2ペテロ1:16–18)。

信仰は、真の、生きた、無限の、永遠の、三位一体の神、すべてのものの創造者、すべてのものの維持者、選びの罪人の贖い主についての知識を求める。 この知識は、真実であり、嘘をつかない神から我々に来る。聖書は次のように教えている:

  • 2テモテ3:16–17:「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」。
  • 2ペテロ1:20–21:「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」。

聖書は神の本である。神がその第一著者である(ウェストミンスター信仰告白第1章を参照)。「聖書は言う」とは「神は言われる」という意味で、あなたに言っておられるのである。聖書は我々にとって神の言葉である。聖書を読まなければ、真の知識はない。聖書は教える、神は語られる。主なる神御自身について、世界、天使、堕落した人間、主イエスによる救い、すなわち我々の罪の贖い、昇天、支配、再臨、最後の審判、罪なく義の宿る新しい天と地について語られる。この知識は、祈りをもって聖書を学ぶときに我々に与えられる。

この特別な啓示は聖書にのみ見られる。聖書だけが真実を語る。聖書では、人間の堕落と、主イエス・キリストによる人間の救いを教える。主イエスは創世記3:15を始め旧約聖書全体、特にイザヤ53と詩編16で預言されている。

処女から生まれた主イエスは、神の子であり、人の子であり、神性と人間の2つの性質を持った神聖な方である。主イエスはヨハネ5:25–27で言っておられる:「よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった」。

主イエスは罪なき生活を送り、十字架につけられ、死んで葬られた。しかし、御自身が言われた通り、三日目に死からよみがえった。マタイ16:21:「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた」。

父なる神は救いを計画し、子なるキリストは肉体をもってその命による我々の罪の贖いをされ、御聖霊は福音の知識を通してすべての選びの罪人にその購いを適用される。

ヨハネ5章で、主イエスは救いの業は、特別な啓示がいくつかあると宣言しておられる。それは以下を含む:

  • モーセ
  • バプテスマのヨハネ
  • 父なる神
  • 主イエスの業
  • 聖書自体:ルカ24:25–27に書いてある、「そこでイエスが言われた、『ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか』。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」。聖書全体がイエス・キリストについて語っている。ルカ24:45–49に書いてある、「そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、『こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民にのべ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい』」。それは御聖霊のことである。

では、死人の中からよみがえるキリストとは誰か? 以下の聖書の箇所がそれをはっきりと教えている。

  • それはイエスである。「そこで彼は『主よ、あなたは、どなたですか』と尋ねた。すると答があった、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである』」(使徒言行録9:5)。
  • それは主である。「主が彼に言われた」(使徒言行録9:11)。
  • それは主イエスである。「そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、『兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです』」(使徒言行録9:17)。
  • それは神の子である。「そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、『兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです』」(使徒言行録9:20)。
  • それは約束されていたキリストである。「しかし、サウロはますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた」(使徒言行録9:22)。それは、イエスが真の司祭、預言者、王の王、主の主であることを意味する。
  • 神の子であり神の言葉である。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)。イエス・キリストは神の子であり神である。神の言葉、神の知識である。イエスは我々人間に語られる神である。
  • 子なる神であり、すべての創造主であられる。「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネ1:3)。
  • 全ての被造物を保っておられる。「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである」(へブル1:3)。イエス・キリストが我々を支えてくださるので、我々は生きて呼吸している。そして、キリストが我々の生死を握っておられる。
  • それは、神我らと共にいる(インマヌエル)である。「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」これは、『神、われらと共にいます』という意味である」(マタイ1:23, イザヤ7:14の引用)。
  • 完全に父なる神の御心に従った方であって、イエスに従う者は全て救われる。「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となられた」(へブル5:8–9)。 実際、我々がイエス・キリストに従うことこそ、キリストに救いがあると信頼している証拠である。
  • イエスは最初に死からよみがえった。パウロは教えている、「すなわち、キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえって、この国民と異邦人とに、光をのべ伝えるに至ることを、あかししたのです」(使徒言行録26:23)。
  • それは全能の神であられる。イザヤは預言した、「ひとりのみどり子がわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」(イザヤ9:6)。キリストは、すべてのものを創造し、すべてのものを支えている強大な神であり、我々と共におられる神である。
  • 永遠の父なる神によって死からよみがえらされた。パウロは質問している、「神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか」(使徒言行録26:8; 使徒言行録25:19; 26:24も参照)。

パウロは、イエス・キリストの歴史的な復活を信じ、旧約聖書の約束している通り、キリストの身代わりの死と復活を証言している(イザヤ53章、詩篇16章)。ピシデアのアンテオケでパウロは宣言している、「神はイエスを死人の中から、よみがえらせたのである」。良い知らせとは、主イエスを死から甦えらせることにより、我々を神の子とされることである。詩篇で預言されている:わたしたちは、神が先祖たちに対してなされた約束を、主イエスを甦らせ、実現されたのである。詩編2に書いてある通り、「あなたは私の子であり、主なる神はあなたの父となった」のである (使徒言行録 13:30, 32–33;13:34,37,48).

パウロは書簡を通し手以下のことを教えている:

  • 1コリント15:3-4: 「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったことである」。
  • ローマ4:25:「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」。
  • ローマ6:23: 「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。
  • 2コリント5:19:「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである」。
  • 2コリント5:21: 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」。これは、二重の福音と呼ばれ、我々の罪と罰をすべてキリストに転嫁させ、我々から地獄を取り去り、代わりに、キリストの完全な義を永遠に与えてくださったということである。

死からよみがえられたイエス・キリストは罪人を救われる。使徒言行録4:12には、イエス以外に救い主はいないと書いる。我々の富、学位、美しさ、何かの輝きは我々を救えない。なぜなら、すべての人間には罪が宿っており、罪人として生まれているからである。死からよみがえられたイエス・キリストは罪人を救います。 使徒4:12には、イエス以外に救い主はいないと読みました。 私たちのお金は私たちを救うことはできません、私たちの学位は私たちを救うことはできません、私たちの輝きは私たちを救うことはできません、私たちの美しさは私たちを救うことはできません。 どうして? すべては罪の内に宿り、罪を実践するだけの罪人として生まれます。

死からよみがえられたイエス・キリストのみが罪人を救うことができる。タルソのサウロのような最悪の罪人をも救われる。サウロは言っている、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」(1テモテ1:15–16)。

主イエスは、愚かで、弱く、卑劣で、軽率、ゼロ、無力、不敬虔なな、神の敵である罪人を救う。永遠の救いの福音についての知識は、聖書だけが世界の救い主、神であり人であるイエス・キリストを明らかにしている。この福音は、約束通りにもたらされた。使徒言行録2:42は記録している、「一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた」。そして、ローマ10:13–17で、私たちは救われるかもしれないと、福音を恐れることなく伝える神からの牧師により教えられ、それによって聞いたものが救われる、と書いてある

II. 合意 – アセンサス

まず、福音の知識が必要である。第二に、この知識が真実であることに合意しなければならない。我々は聖書全体が真実であると証言していることに合意すべきである。聖書全体が神の言葉だからだ。ヨハネ17:17で、主イエスは言われた、「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」。我々には選択肢はない。主イエスが死なれたが、死からよみがえらなかった、とは言えない。聖書が語ることを事実として信じるべきである。聖書は神の言葉である。

聖書の知識は、すべての奇跡を含む聖書全体が真実であるという確信に我々を導く。キリストの処女降誕、体の復活、神がその言葉によってすべてのものを創造されたこと、創造は神の命令の結果であるということをも含む。神の創造は、偶然ではなく、無からの創造である。ウェストミンスター小教理問答は質問する、「神とはどんなかたですか。」(問4). 答えは、「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです」。聖書の神は無限、永遠、三位一体であり、この無限の神は奇跡を起こされる神であられる。

主イエスは神であり人であられ、約束のメシアであり、預言者であり、司祭であり、王であり、全世界で唯一の主であり救い主であられる。主イエスは世を裁くために、再臨され、義なる新しい天と新しい地をつくられる。黙示録21:1-4は教えている:

「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」」。

アセンサスは、聖書が言うことすべてが真実であるという合意である。 それは認知的信念である。それがなければ、信仰は純粋な神秘主義、主観主義、感情主義である。 しかし、信仰が客観的なものでなければ、あなたは神秘主義者となる。あなたは救われるために神に叫び求める必要がある。

アセンサスは、聖書が真理であるという信念であり、三位一体の神の客観的な現実、無限・永遠の創造者/救い主との関わりである。すべての聖書の奇跡を、無限、永遠、三位一体の神の働きとして、個人的に信じることを意味する。

しかし、この合意は信頼ではない。この知識は信頼へと進まなければならない。現在と永遠の両方において、主なる神への我々個々人のコミットメント、イエス・キリストへの信頼へと進まなければならない。

III. コミットメント– フィドゥシア

救いを与える信仰の第三の要素は、コミットメント、フィドゥシヤである。 コミットメントは特にこれらの次の聖書の箇所で教えられている:

  • 2テモテ1:12:パウロは書いている、「そのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである」。パウロはキリストに対してどのように信頼していたのか?キリストは、彼の生涯、生活すべてを守ることができることを信頼していた。
  • マタイ16:24:「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』」。我々は自分を否定し、十字架を背負って、死に至るまでキリストに従うべきである。これは弟子の義務である。「イエスを信じれば、多くの富が築け、大きな家と健康を手に入れられる」ということではない。
  • ルカ14:33:主イエスは言われた、「それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない」。
  • Acts 16:30–31:ピリピの監守はふたりを外に連れ出して言った、『先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。ふたりが言った、『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます』」。神をほめたたえよ! 救いの約束は我々と我々の家族におよぶ。

人は聖書とイエスの知識を持つことができるが、それだけで救われることはできない。聖書を知っている多くの神学教授、多くの司祭、牧師がいるが、彼らの多くは救われていない。聖書は完全な真実であることがわかっていても、救われていないということもある。聖書の真実性に対する信念は、主イエスへのコミットメントに至らなければならない。我々は、主イエスに頼り、告白し、自分を委ね、主イエスに信頼して救われるために、すべてをゆだねなければならない。そうするなら、主イエスは我々を守られる。新約聖書全体を通して、主イエスは弟子たちに「心配するな」と語っておらえる。言い換えれば、我々が主イエスに委ねるとき、主イエスは責任をもって我々を守ることができるということである。

人生をキリストに委ねるとき、我々は自分の金銭、家族、美しさ、輝き、学位、その他すべてに頼ることを放棄しなければならない(PGM)。これら自分のものは我々を救うことができない。我々がキリストだけを頼っているかどうかを、神は見ておられる。

我々は自らを否定し、自らに死んで、自分の十字架を負い、イエスに従う必要がある。主イエスは真実であられる、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)。主イエスは嘘をつかない。嘘をつくことができない。主イエスに従うには代償が伴う。「自分を否定し、十字架を負い、死に至るまで我に従え」と言っておられる。本当の信仰の代価、それは自分の人生よりも主イエスを愛せよ、主イエスに降伏せよ、である。讃美歌も言っている、「信じて従え、主イエスの道は幸いなり、信じて従え、他は砂地なり」。

自分の人生を含め、すべてをイエスに委ねなければならない。ペテロは、主イエスへの信仰のために十字架につけられた。ステパノは投石で殺され、パウロはイエスへの信仰のために斬首された。今日でも、多くのキリスト者がイエスへの信仰のために殺されている。

我々が主イエスを信頼するとき、主は我々に永遠・不滅の命を与えられる。主イエスは言われた、「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:10)。 パウロはローマ8:35–39で教えている、「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。 『わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている』と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。これが本当の信仰である。神ご自身が我々を守られるのである。神は無限・永遠だからである。

ペテロは十字架につけられる前に書いた、「兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない」(2ペテロ1:10)。彼は十字架につけられる前に、神からの召しと選びを確信することができた。確かにペテロはキリストを3回否定したが、イエスへの愛ゆえに十字架につけられた。

本当に救われていること、救いの信仰をもっている、とどのようにわかるのか?結局のところ、信仰と救いは神の贈り物であり、真の悔い改めもそうである。そして、我々は与えられた悔い改めと救いの信仰によって生きる。では、どうすれば信仰を生かすことができるのか。答えは、バプテスマにおいて自らの主として告白した主イエスに従うことである。

この世界のほとんどの自称キリスト者は反律法主義者である。彼らの運命は神の臨在から離れることになる。主イエスは言われた、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ7:21–23)。主イエスをだますことはできない。キリストを告白していても、神に従っていない人が圧倒的に多い。

しかし、主イエスは言っておられる、「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」(マタイ7:24)。岩とは誰か?主イエス・キリストである。キリストの土台の上に建てられているため、安定している。数多くの反律法主義を教える教師たちは、主イエスに従って生きることは救いとは関係ないく必須ではい、自分が心から願うならば、今はイエスを救い主として受け入れることができ、後で、人生の主人として従えば問題ない、と教える。これは誤りである。

以下の聖書の箇所を参照せよ:

  • ローマ1:5: 「わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務とを受けたのである」。従順とは、私たちが救われていることの証拠であり、「イエスは私の主です」と真に告白することと同じである。信頼から来る従順。もしも、あなたが従っていないならば、今悔い改めよ。そうすれば、神はあなたを赦してくださる。人生のすべてを悔い改め、主に信頼して生きよ。
  • ローマ15:18:「わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ以外には、あえて何も語ろうとは思わない」。
  • ローマ16:19:「あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである」。
  • ピリピ2:12–13:「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。
  • テトス2:11–14: 「すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない」。
  • エペソ2:10:「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。神の民は神に従う。
  • へブル11:19:これは服従の重大なテストである。神はアブラハムに、愛する唯一の息子、イサクを犠牲として捧げるように命じられた。アブラハムは従った。この。聖書の箇所は、このように解き明かしている、アブラハムは神が死者をよみがえらせることができると信じた。つまるところ、神はイサクを死から救い出されたのである。これは神が我々を試される方法である。我々は、死にまで主に従うか?

救いの信仰は口先だけではありえない。それは聖霊の力によって良い働きを生み出さなければならない。実りのない信仰は悪魔の信仰である。宗教改革の公式には、「我々はキリストの義に対する信仰によってのみ義とされるが、単なる信仰では義とされない」とある。信仰には従順が伴う。ヤコブ書には、「良い行いのない信仰は死んでいる」とある。イエスを救い主としてだけ受け入れることはできない。人生の主人として受け入れるべきである。イエス・キリストを主と分割することはできない。

イエスを主ではなく救い主としてのみ受け入れることはできない。我々の良い行いは決して完璧ではないが、神はその良い行いに報いられる。義とされているならば、聖とされる。

子の救いの信仰は神の賜物であるとパウロは書いている、「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」(エペソ2:8–9)。また言っている、「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」(ピリピ1:29)。「賜物」とは神からいただくものである。救いはキリストのみへの信仰のみによる恵みである。

アセンサス(同意)は神への信頼をもたらさなければならず、信頼は我々自身を永遠にイエスに委ねることである。他のものに対する信頼をすべて放棄することである。あなたの健康はいつか破綻する。あなたの富はあなたを守り切れない。しかし、主なる神はあなたを守ることができる。だから、「日ごとのパンをください」と祈るのである。以下の箇所を読め:

  • 2コリント11:23–27:「彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。いくたびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった」。
  • 2コリント12:7–10:「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」。
  • へブル11:35b–38:「ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた」。

イエスへの真の信仰は、キリストの命が我々に流れ込んで、多くの実を結ぶキリストとの重要な一致である(ヨハネ15:1–8)。 実りのない枝であるなら、それはイエス・キリストに対する真の信仰が欠けている。そのような枝のような教会がある。やがて、実のない枝は切り取られ、捨てられ、干され、かき集められ、火の中に投げ込まれる。この言葉は、聖なる受身形で書かれており、それは神がそおれをしておられる意味する。それは地獄について語っているのである。

しかし、主イエスに真に信頼する者は:

  • キリストと共に死んだ。
  • キリストに葬られた。
  • キリストと共に復活されられた。
  • 罪の古い生活ではなく、新しい生活を送る。 信仰者の子供は両親に従うべきである。神の栄光のため、聖霊の力によって従順の新しい生活を歩め(ローマ6:1-4)。

ウェストミンスター信仰告白11章、2節に書いてある様に、「このようにキリストとその義を受け、これに寄り頼む信仰が、義認の唯一の手段である。しかもそれは義とされる人物の中に孤立していることはなく、常にすべて他の救いの恵みを伴っており、かつ死んだ信仰ではなく、愛によって働く」。

以下の箇所を参照せよ:

  • ヤコブ2:17:「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」。
  • ヤコブ2:19:「あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている」。
  • ヤコブ2:22:「あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされた」。アブラハムは神を信頼したので息子イサクをささげたのである(へブル11:17–19)。
  • ヤコブ2:26:「霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである」。
  • ガラテヤ5:6:「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである」。
  • 1ヨハネ3:16–17:「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか」。キリストは教会を愛し、我々の為に死なれた。愛は従順を生む。

適用の質問

バプテスマにおいて、あなたは自らの主として告白した救い主イエス・キリストへの救いの信仰をもっているか(ローマ10:9)?聖霊の力によって、素早く、正しく、喜んで主に従っているか?

義とされていることの証拠は聖化である。それは主なる神への従順を意味する。我々の従順は決して完璧ではないが、服従がなければ、私たちは偽りのキリスト者である。

ヘブル5:8–9にあるように、イエスは彼に従うすべての人の救い主であられる:「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となる」。あなたがイエス・キリストに従わないなら、あなたの信仰は偽りである。真の信仰者は悔い改めと信仰をもって生きる。

あなたは救いの信仰の三つの要素をすべて持っているか?

  • 福音の知識
  • 福音が真実であるということへの合意
  • 信頼、つまり、あなたの生涯をキリストに頼って生きるというコミットメント

これがあなたに当てはまるなら、永遠の救いを喜べ!あなたは救われている。そしてあなたはかの日に主イエスの救いを確認するであろう。

しかし、世界で唯一の救い主であるイエス・キリストに信頼したことがないなら、イエスが罪人だけを救うために来られたことを知れ。罪人とは誰か?パウロのような最悪の罪人、悪魔に支配されている人間をも愛するために、天からこられた方主イエスを信頼せよ。

神は罪人を愛し、彼らを救おうとされている。そして、キリストを信頼するすべての人が救われる(使徒言行録16:30–31)。罪の報酬は永遠の死であるが、キリストは我々の死を担って死に、我々を義とするために復活させられた。パウロは書いている、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:21)。キリストは我々の罪、そして永遠の罰を受けられ。彼は我々に完全な正義を与えてくださった。主イエスを信頼するすべての罪人は永遠に義とされる。

  • ローマ4:25:「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」。
  • ローマ5:1:「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」。
  • ローマ8:1:「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」。

私は、キリストの外にいる人々に話している。なぜあなたは今ここにいるか?それは、イエス・キリストへの真の信仰によって救われるように、神はあなたをここに連れてきたのだ。だから今、告白し、祈れ:

「主イエスよ、私は罪人であり、世界で最悪の罪人です。あなただけが与えられる救いが必要です。他に完璧な神であり人はいません。私の罪のために、私の代わりに誰も死ねません。あなたを信頼します。私の罪をすべて赦してください。私は自らを否定し、自分の十字架を負い、あなたに従います」。あなたは義とされ、飛び跳ねながら、神を賛美して家に帰れる。ハレルヤ!