本当の悔い改め
Matthew 4:17P. G. Mathew | Sunday, December 29, 2019
Copyright © 2019, P. G. Mathew
Language [English]
序論
真の悔い改めは、主なる神によって選び分かたれたすべての罪人に対する神からの贈り物である。それは霊が再生した結果であり、それは神ご自身の独創的な業である。「独創的」とは、神のみが霊的再生を行われることを意味する。同時に、悔い改めは人間の責任でもある。真の悔い改めがあるなら、そこには信仰と救いが伴う。信仰と救いは神からの贈り物である。また、イエス・キリストを信じて救われることは我々の責任である。
悔い改めの必要を否定する信仰者を自称する人々がいる。つまり、神に服従することの必要性を否定する「キリスト教徒」だ。しかし、ローマ1:5は教えている、「わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務とを受けた」。またローマ6:16は言っている、「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである」。義とは、神の目に正しいことをすることである。あなたにニュースがある。人間は、悪魔か三位一体の神のどちらかに従うのである。その中間はない。
キリストによって救われた人々は、悔い改めと信仰の従順によって毎日生きる。へブル5:9は言っている、「そして、完全な者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救いの源になる」(使徒5:32; 2テモテ3:16–17も参照)。イエス・キリストへの従順は任意ではなく必須である。本物のキリスト者はイエスに従う。
ウェストミンスター信仰告白15章2節は、悔い改めについて教えている、「これ(悔い改め)によって罪人は、自分の罪を神のきよい性質と正しい律法に反するものとして、その危険さばかりでなく、そのけがらわしさやいとわしさをも見また感じ、そして後悔している者へのキリストにある神のあわれみを悟って、自分の罪を悲しみ憎んで全くそれを捨てて神に立ち返り、神の戒めのすべての道において神と共に歩むように目指し努力するのである」。
そしてウェストミンスター小教理問答、問87は問う、「命に至る悔い改めとは、何ですか。」答えはこのようにかかれている、「命に至る悔い改めも、救いのめぐみ恵みです。それによって罪人は、自分の罪をほんとうに自覚しキリストにある神のあわれみを理解して、自分の罪を歎(なげ)き憎みつつ、罪から神へと立ち返り、新しい服従をはっきりと目指し努力するようになるのです」。
呪われているのは、「救いに悔い改めは必要ない」と言う者である。呪われているのは、聖書に追加したり、聖書から差し引いたり、聖書を誤解したりする者である。以下の聖書の箇所について考えよ:
- 黙示録22:18–19:「この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受けるべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」。
- 2コリント11:13–15:「こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう」。
- ガラテヤ1:8:「しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが伝えた福音に反することをあなたがたに伝えるなら、その人はのろわるべき(アナテマ)である」。
I. 聖書は我々に罪の悔い改めを命じている
聖書が我々に命じるとき、神ご自身が命じておられる。神は我々の両親や牧師を通して語っておられるかもしれない。悔い改めるように命じておられる。以下を考えよ:
- 預言者は悔い改めを教えている。イザヤ55:7:「悪しき者はその道を捨て、
正しくない人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」。 - バプテスマのヨハネは悔い改めを教えている。マタイ3:2:「バプテスマのヨハネが言った、『悔い改めよ、天国は近づいた』」。
- 主イエスは悔い改めを教えている。マタイ4:17:「この時からイエスは教えをのべはじめて言われた、『悔い改めよ、天国は近づいた』」。
- 神は悔い改めを命じられた。使徒17:30:「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにいる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる」とパウロは宣言している。
- 使徒たちは悔い改めを命じられた。マルコ6:12:「そこで、彼らは出て行って、罪を悔改めるように説教した」。
- ペテロは悔い改めを教えている。使徒2:38:「すると、ペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、あなたがた各々が罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう』」。
- パウロは悔い改めを教えている。使徒20:21:「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである」。本当の悔い改めの意味
II. 本当の悔い改めの意味
- 旧約聖書で使われているヘブライ語「シュヴ」は「罪と悪魔から離れ、義に向かうこと」を意味する。
- 新約聖書では、ギリシヤ語のメタノエオとメタノイアが合計56回使用されている。これらは全て、「思考、意志、感情と行動を変化させる」ことを意味する。
- 「アトリション」という言葉は、神の悲しみではなく、世の悲しみを意味する。それは涙が出るようなことであっても、本当の悔い改めではないのである。それは金持ちの若者(ルカ18:18)、イスカリオテのユダ(マタイ27)、エサウ(ヘブル12:17)の例にみられる、偽物の悔い改めである。
- 真の悔い改めの特徴は「罪悪感」であり、その人は自分の罪を憎み、義を愛する。「外に出て激しく泣いた」というペテロの行動に表れている(ルカ22:62)。また、放蕩息子(ルカ15:17–21)もその一例である。
罪人である人間は罪の中に死んでいるので、悔い改めるには霊的再生が必要である(エペソ2:1-3、エレミヤ17:9)。 ローマ人への手紙1:28「さらに、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた」。罪人は霊的に死んで堕落している。イザヤ5:20は、人間のその状態を説明している、「わざわいなるかな、彼らは悪を呼んで善といい、善を呼んで悪といい、暗さを光とし、光を暗いとし、苦さを甘いとし、甘さを苦いとする」。
悔い改めとは、思考、態度、感情、人生の方向性を根本的に変えることである。組織神学者であるジョン・マレー師は、これこそ御聖霊が行われる再生であって、我々における罪から主キリストへの「革命」であると言っている。ダビデは自分の罪を憎み、神と義を愛した(詩篇32、51篇)。ペテロはイエスを3回否定したが、悔い改めて、主イエスへの愛のゆえに十字架につけられた。
真に悔い改める人々は、罪から良い行いへと180度変化する。放蕩息子は父のもとに戻り、罪を告白し、赦しを受け、父の支配の下で生きた。彼は180度変化した。真の悔い改めは、その行動によって証明される。以下を考えよ:
- 使徒26:20:パウロは言う、「まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました」。
- エペソ4:28:「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」。
- 詩篇119:128:「それゆえ、わたしは、あなたのもろもろのさとしにしたがって、正しき道に歩み、すべての偽りの道を憎みます」。
- 2コリント7:10–11:「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については、すべての点において潔白であることを証明したのである」。
III. 悔い改めは神から与えらえる賜物であるが、人の側の責任もある
悔い改めは神からの賜物である。以下を考えよ:
- 使徒2:37:「人々はこれ(福音)を聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、『兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか』と言った」。
- 使徒5:31:「そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである」。
- ローマ2:4:「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか」。
- 2テモテ2:25:「反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせられるであろう」。
しかし、真の悔い改めは人間の責任でもある。以下を考えよ:
- 使徒2:38:「すると、ペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪の赦しを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう』」。
- 使徒3:19:「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい」。
悔い改めと救いの信仰は、再生という神からの賜物の結果である。再生した人は悔い改め、イエスを信じる。悔い改めがあるところには、救いの信仰がある(PGM:マシュー牧師の解釈)それらは同じコインの両面で、神が与える罪を悲しむ心、これにより罪からの方向転換がある。そして、良い行いをするために信仰により神に服従するようになる。
悔い改めと信仰は、回心のマイナス面とプラス面である。マイナス面は、罪と悪魔に対して「いいえ」と言う。肯定的な側面は、神と神の言葉に「はい」と言う。信仰者は、真のキリスト者に内住する聖霊の力によってこれを行う。だから次のように書いてある:
- エペソ3:20–21:「どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン」。
- コロサイ1:29:「わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである」(see also ローマ8:11–14)。(ローマ8:11–14も参照)。 ジョン・カルビンは言っている、「神の言葉が我々に求めていることは、我々が御聖霊によってできるようにしてくださる」。私はそれが真実であることを発見した。御聖霊がおられなければ、我々は何もできない。御聖霊は我々の中に住み、聖書に照らして正しいことができるように助けてくださる。
IV. キリストはご自身の教会を建てておられ今そこにおられる
- マタイ16:18:「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉(よみ)の力もそれに打ち勝つことはない」。
- マタイ18:20:「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
主イエスは自ら建てておられる教会の中におられる。その教会の中の者が何をしているかも知っておられる。罪を犯している人々を見て、彼らに悔い改めを命じられるのである(黙示録2:5、16; 2:22–23; 3:3、19)。
イエスとは誰か? 黙示録1:12–18には次のように書かれている:
「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。 わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、『恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている』」。
イエスが誰であるかについて、我々人間が非常に貧弱な理解を持っていることがある。イエスは、天と地のすべての権威を与えられており、主であり救い主であられ、審判者、王の王、主の主であられる。罪をやめるように命じられる、バプテスマの告白に従って義の実を結ぶように命じられる方である。したがって、我々は「イエスの奴隷」である。
真の悔い改めと神への従順をはっきり説かない牧師は、呪われている。そのような説教者は聖書と聖霊を欠いている。真の牧師とは反して、そのような偽者の牧者はキリストによって遣わされていない。ローマ10:13–17で、神から遣わされた真の牧師の属性について教えている。
「なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうしてのべ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は』と書いてあるとおりである。しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っている。したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」。結果、信仰はメッセージを聞くことから生まれ、メッセージはキリストの言葉を通して聞かれる。ユダ王国最悪の王マナセは、最終的に悔い改め、神から慈悲を受けた。2歴代誌33:12–13に記録されているように、「彼は悩みにあうに及んで、その神、主に願い求め、その先祖の神の前に大いに身を低くして、神に祈ったので、神はその祈を受けいれ、その願いを聞き、彼をエルサレムに連れ帰って、再び国に臨ませられた。これによってマナセは主こそ、まことに神にいますことを知った」。
神は高慢な者に反対され、へりくだる者に恵みを与えられる。ルカ18章に出てくる人について考えよ。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(ルカ18:13–14)。
神を畏れ、自身の救いの達成のために神が助けられるように努めよ。救いは主からのみ来るのである。だから、主イエス・キリストが誰であるかをはっきりと知るように努めよ。イエス以外に救いはない。
霊的再生を通して、神は悪い木を良い木に変え、良い義の実を結ばせる。だが、すべての人が再生されることはない。種まきのたとえには、人のタイプを表す4つの土壌がある(マタイ13章、マルコ4章、ルカ8章)。 4つの土壌が象徴する人は目に見える教会にいる。やがて、実りのない最初の3人の土壌の人々は、キリストの聖なる教会を離れる。彼らは罪を犯す。罪を犯すために離れる。1ヨハネ2:19に書いてある、「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである」。
わたしは警告する:イエス御自身は悔い改めない者と戦われ、常に勝たれる。だから、悔い改めが最善の策だ。
イエスは聖なる教会を持っておられる。ヘブル12:14が教えるように、清くなければ、だれも主を見ることはない、「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」。
1ペテロ1:14-16が教えているように、かつて我々は不従順の子、悪魔の子であった。ヨハネ8:44で、イエスは言っておられる、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ」。エペソ人への手紙第2章2節でも、同じことについて語られている。「かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである」。しかし、神は不従順の子、悪魔の子を神への従順の子供に変えられる。これが回心である。だから、1ペテロ1:14では、ギリシャ語のテキストは「従順な子供として、無知であった時代の欲情に従うな」と教えている。我々は救われる前は実際のところ悪魔を父としていたのだ。しかし今は、我々の父は父なる神である。だから、悔い改めて神に従う。
ヨナは神に反抗した。彼は海に投げ込まれ、大きな魚が彼を飲み込んだ。そして魚の中で、彼は悔い改めた。「愛」であるイエスは我々に悔い改めさせる方法を知っておられる。我々を鍛えるために鞭(むち)を使われることがある。1コリント11:30は言っている、「あなたがたの中に、弱い者や病人が大勢おり、また眠った者も少なくないのは、そのためである」。神に感謝せよ。悔い改める時間を与えてくださっている。しかし、悔い改めなければ以下のような警告がある:
- 黙示録2:5は、あなたが罪を悔い改めなければ、主イエス・キリストは、あなたの燭台をその場所から取りのける、と言っておられる。これは死を意味するかもしれない。
- 黙示録2:16は、主イエスは来てあなたと戦う、と言っておられる。わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。
- 黙示録2:23は、主イエスは来てあなたの子供たちをも打ち殺す、と言っておられる。
- ヨハネの黙示録3:3は、あなたが最も予期しない時に、イエスは泥棒のように来られる、と言っている。
黙示録3:19は、イエスはあなたを責め、懲らしめるために来る、と言っている。教会の一部の者は決して悔い改めないかもしれない。彼らは最初の3つの土壌のようなものである。黙示録9:20–21でそのような人々について語られている、「これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。また、彼らは、その犯した殺人や、まじないや、不品行や、盗みを悔い改めようとしなかった」。
マタイ25:41で言われているとおり、彼らの終わりは永遠の破壊である:「それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ』」。
もし神が御言葉であなたに「罪あり」と言っておられるなら、箴言28:13の言うことに従え。「人のために保証する者からは、まずその着物をとれ、他人のために保証をする者をば抵当に取れ」。あなたの罪を隠すな。代わりに、あなたの罪を告白し、それらを捨て、神の慈悲を受けよ。
2歴代誌7:14に記録されている、「ソロモンは、その父ダビデのおきてに従い、祭司の組を定めてその職に任じ、またレビびとをその勤めに任じて、毎日定められたように祭司の前で賛美と奉仕をさせ、また門を守る者に、その組にしたがって、もろもろの門を守らせた。これは神の人ダビデがこのように命じたからである」。神の力強い御手の下にへりくだれ。神に対する非常に高い見解を持て。ウェストミンスター小教理問答の第4問は、「神とは、どんなかたですか」と質問している。その答えは、「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです」とある。神以外に無限はない。神以外に永遠はない。正しい神学を理解するとき、我々は神を畏れおののいて、神の目に正しいことを行うのである。
V. 真の悔い改めの特徴
- 悔い改めは、選びの罪人に対する神の賜物である(使徒3:26、使徒5:31)。この賜物によって、我々は本当に放蕩息子のように悔い改める。
- 真の悔い改めは永遠の命に至らせる。使徒11:18は記録している、「人々はこれを聞いて黙ってしまった。それから神をさんびして、『それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ』と言った」。
- 神からくる悔い改めは、罪を悔い、回れ右をして罪から離れ、神に従うようにさせる(2コリント7:10)。
- この悔い改めは救いに至らせる(2コリント7:10)。
- すでに裕福な若い支配者とユダの場合について見た通り、この世の悲しみは死に至らせる(2コリント7:10)。
- 真の悔い改めは、熱心に神を賛美するようにさせる(2コリント7:11)。
- 真の悔い改めの証拠として、使徒26:20には次の様に記録されている、「まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました」。また、ルカ3:10–11に記録さている、「そこで群衆が彼に、『それでは、わたしたちは何をすればよいのですか』と尋ねた。彼は答えて言った、『下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい』」。
- 本当に悔い改めた人は貧しい人に与える。イエスは金持ちの若い支配者に言われた、「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」(ルカ18:21)。これと対比して徴税人のザアカイはルカ19:8で言っている、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。
- 本当に悔い改めた人は、不正行為の償いをする。ルカ19:8bで、徴税人ザアカイは言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。即ち400%の支払いである。言い換えると、ザアカイは自分の財産の半分を貧しい人に、残りの半分をだまし取った人々に与え、彼には何も残らなかった、ということを意味する。しかし、主なる神は彼の生活を守られた。金持ちの若い支配者ができなかったことをザアカイは行った(エペソ4:28も参照)。
- 本当に悔い改めた人は主に従う。ローマ人への手紙6:1では、「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか」。そして、4節に書いてある、「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」。古い罪に満ちた人生ではなく、新しい人生を生きる。
結論
福音主義者を含む大部分のクリスチャンは、悔い改めと救いの信仰の両方について故意に無知な状態に安住している。ロバート・レイモンド著「キリスト教信仰の新しい体系的神学」で、レイモンド氏はゼイン・ホッジズ氏を引用し、以下のように言っている:
ゼイン・ホッジスは、律法主義ではない無代価で提供される福音を強調するあまり、救いには悔い改めが必要であるという重要な点を否定してしまっている。救いに悔い改めが必須であるとすることは「間違い」であり「非常に深刻な問題」である、とホッジスは宣言してしまっている。「永遠の命の条件として悔い改めが必要である」というのは間違っている、と彼は言う:(著書:絶対的に無代価!神の主権の救いに対する聖書の回答 [Grand Rapids:Zondervan、1989]、p.125、160)。ホッジスは、「悔い改めは、神の救いに不可欠ではない」と主張し、それは神との交わりの条件にすぎない、と主張している(絶対的に無代価!p.160)。このような教えは信じられないぐらいばかげている。なぜなら、罪を捨てることも、神と交わることも全くなくとも、不信仰者は永遠の命を受けて救われるのだ、と教えているのである![1]
このような誤った神学により、悪魔的な教会が出てくるのである(黙示録3:9)。ホッジスは、救いには悔い改めは必要なく、不信仰心者はフィデスト・エスト・フィデューシャ(つまり服従としての信仰)ではなく、単純に信じる思いを持つだけで永遠の命を受け取れる、と宣言している。 しかし、賛美歌はこれについてどのように歌っているだろうか。
「げに主は、より頼みて、
従う者を恵みたまわん。」
服従を伴う信仰なくイエスを信じることもできる、と言っている改革派の人々もいる。彼らは、罪を悔い改めて、キリストに従わなくても人は救われる、と信じているのだ。だから、彼らは次のような聖書の箇所を本質的には笑い飛ばしていることになる:
- へブル5:9:「そして、全き者とされたので、イエス・キリストに従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となる」。
- 使徒5:29: 「これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、『人間に従うよりは、神に従うべきである』」。
- 使徒5:32: 「わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。
- マタイ28:20:「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」。
- 黙示録12:17: 「竜は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った」。
彼らが教えは、つまるところ「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか」(Rom. 6:1)という聖書の重要な箇所を無視し、「罪を犯してもよい」とい言っていることになる。裁きの日、審判者キリストは、聖書に加筆したり、聖書から削除したりする者に次のように言う:「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ7:23)。このような者たちはアンチノミアン(神の律法に反抗する者)である。
聖書は、2テモテ3:16–17で教えている、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」。これは、キリスト者の両親が、家庭で子供たちを教え、間違いを叱責し、彼らの考え方を正し、神の義において成長できるように訓練することを意味する。
神の言葉に従うことは、信仰にとってどれほど重要か? ウェストミンスター神学校のノーマン・シェパード師が引用した聖書の箇所は、「聖くなければ、主を見ることはない」(へブル12:14).[2]
悔い改めは、聖霊によってもたらされた思考、意志、感情の根本的な変化である。真の悔い改めは、我々自らが罪から回れ右をして神に立ち返り、生涯神に従うことである。父親のところに戻った放蕩息子が、罪を悔い改め、ずっと父親に従い続けることである。
真の悔い改めは、常に信仰をもって神に従うことを伴う。キリスト者は悔い改めと信仰によって日々生きる。イエス・キリストへの信仰、悔い改め、従順によって日々生きる人々は幸いである。
だから、御聖霊があなたに罪を指摘しておられるなら、「わたしたちは、どうしたら救われるのでしょうか」と問え。すると聖書は答える、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒2:37–38を参照)。ピリピの看守は、自分は死ぬと思って叫んだ、「私は救われるために何をしなければなりませんか?」答えは何だったか?「主イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたは救われるであろう」。その夜、彼は主イエスを信じ、洗礼を受けた。神は我々全てが悔い改め、イエス・キリストを信じ、救われるのを助けてくださるように。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:21)。
[1] Robert L. Reymond, A New Systematic Theology of the Christian Faith [Nashville: Thomas Nelson, 1998], 722n
[2] より詳細な情報として必読:P. Andrew Sandlin and John Barach 編, Obedient Faith: A Festschrist for Norman Shepherd (Mount Hermon, CA: Kerygma Press, 2012); P. Andrew Sandlin, ed., A Faith That Is Never Alone (LaGrange, CA; Kerygma Press, 2007); Ian A. Hewitson, Trust and Obey (Minneapolis, MN: Next Step Resources, 2011).
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