永遠の保証、第1
2 Peter 1:10P. G. Mathew | Sunday, October 11, 2020
Copyright © 2020, P. G. Mathew
Language [English]
2ペテロ1:10で使徒は言っている、「兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない」。これは、十字架につけられようとしていたペテロの言葉である。しかし、神が共におられ助けられることを彼は知っていた。
神も我々と共におられる。そして、我々は自らの召しと選びを確認するように努力せよ、言っておられる。あなたは本当に救われているかどうか、それとも偽物か?それが問題なのである。多くの人は、実際には救われていないのに救われていると思っている。
従順は召しと選びを証明する。それは、人生を通し手の従順である。多くの牧師は、従順が必要である、と信じていないので、従順について話さない。しかし、従順は、聖霊による神の選びと霊的再生に基づく永遠の救いを証明する。聞きたくなくとも、これが本当のことである。
マタイ7:24で主イエスは言われた、「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」。岩はイエス・キリストのことである。言い換えれば、そのような人は決して救いから落ちることはなく永遠に安全である。救われたふりをする人がいるかもしれない。しかし、死んだ瞬間、彼らは地獄に行く。そのような人々は、名ばかりのクリスチャンで、実際のところ神に従わないのである。
旧約聖書は言っている、「奴隷が、もしも『わたしは、わたしの主人と、わたしの妻と子供を愛します。わたしは自由の身となって去ることを好みません』と明言するならば、その主人は彼を神のもとに連れて行き、戸あるいは柱のところに連れて行って、主人は、きりで彼の耳を刺し通さなければならない。そうすれば彼はいつまでもこれに仕えるであろう」(出エジプト21:5–6)。
言い換えれば、奴隷は「私は自由を好まない。しかし、主人に従うことを好み、そういう意味で自由になりたくない」と言っているような者である。彼は審判者のもとに行き、「主人よ、あなたのしもべは聞いています」と言っているのである。
人生を通して主なる神に従うことこそ、あなたが救われている証拠である。主なる神と神が委任された権威への従順を通して、神があなたに与えられる保証である。次のことを考えよ。
- ヨハネ15:10:主イエスは言われた、「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」。
- ヨハネ14:15: 主イエスは言われた、「もしも私を愛すのであれば、私の命令を守るであろう」。
- ローマ1:5: パウロは異邦人に「信仰の従順に至らせる」言っている。神への服従は任意ではない。あなたが本当に救われているなら、あなたが永遠の命を持っているなら、あなたは従順を行う。
- ヨハネ14:21,23–24: 主イエスは言われた、「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である」。
- へブル5:8–9: 「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となる」。あなたが永遠に救われていることを証明するものは何か? それは人生を通して、主なる神に服従すること以外にない。
- マタイ28:19–20: 主イエスは言われた、「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」。あなたは、自分の子に従順になるように、また神に服従するように訓練したか?
これに関して、1ヨハネの手紙の3つのポイントを見てみよう。
1. 新生した者のみが主に従い永遠の救いの保証をもつ(1ヨハネ2:29)
第一のポイントは、再生した人、つまり神から生まれた人だけが、神に従い、永遠の救いの保証をもつということである。御聖霊はそのような再生した人々の中に住んでおられる。あなたがどこかの教会に行くとしよう。問題は、その教会で、神への従順について説教しているかどうかである。彼らは、再生について説教しているだろうか?
1ヨハネ2:29でヨハネは書いている、「彼(主なる神)が義なるかたであることがわかれば、義を行う者はみな彼から生れたものであることを、知るであろう」。新生して人は、霊的な人、聖霊の内住される人である(1コリント2:14–15を参照)。 あなたが神に対して従順でなければ、あなたは神から生まれていない。あなたは異教徒であり、あなたの運命は永遠の地獄である。
すべての真のクリスチャンは、悔い改めてイエス・キリストを信頼するために再生される。 本質的に人は罪人であり、神の敵で、常に不法と罪の中に生きている。再生は神の神聖な働きである。
霊的に未再生の罪人は罪を犯すこと以外になにもできない。彼の状態は「罪を犯さないことは不可能」を意味するラテン語で説明されている。しかし、彼が霊的に再生されると、聖霊が内住されるので、「罪を犯さない可能性がある」という言葉で説明できる状態になる。彼は罪を悔い改め、神を信頼するのである。霊的再生により、彼は神の意志を理解して実行し、神が望んでいる方法を感じることができるようになる。特に、何か問題に直面したときはそうである。新しい心、新しい意志、新しい感情を与えられているからである。霊的再生がなければ、罪人は正義で成り立っている神の国を体験することはできない。しかし、霊的に再生されたら、御聖霊によって平和と喜びが与えられる(ローマ14:17)。パウロは、「私たちは苦しみをも喜んでいます」と言っている(ローマ5:3)。なぜらな、人間の理解を超えた神の平安が人の心を満たしているからである(ピリピ4:7)。
霊的に再生した人々は神を愛し、神に従う。罪人が神から生まれたなら、その証拠は、罪人が神の目に正しいことをしているということである。すなわち、以下のように書いてある、
- マタイ7:24: 主イエスは言われた、「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」。イエスは岩である。神の言葉に従う人は、キリストにおいて安全であり、永遠に安全である。
- 1ヨハネ2:3–6:ヨハネはこう書いている、「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守るならば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」。主イエスは使徒たちに教えるよう命じられた、「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」(マタイ28:20)。主イエスは私たちの手本である。主イエスが御聖霊によって御父に従われたように、我々も主なる神に従わなければならない。
牧師は神の権威によって信仰者に教えなければならない。それこそ、我々が人に媚びない理由である。我々は命令する。牧師の権威はキリストの権威であり、彼は決して人に媚びてはならない。
神から生まれた者は、神聖さ、つまり清さのライフスタイルを持つ。人間の目的は何か? それは神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶことである(ウェストミンスター小教理問答、質問1を参照)。あなたが神に従わないなら、あなたは神から生まれておらず、選ばれておらず、呼ばれても、救われてもいない。それが、あなたが従順かどうかを確認しなければならない理由なのである。
ヨハネ8:44節で読んだように、あなたが神に従わなければ、悪魔があなたの父である。「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者である」と主イエスはパリサイ人に言われた。主イエスは続けて言われた、「あなたは、自分の父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ」。
あなたが神から生まれたという証拠、あなたが魂の中に神のいのちを持っているという証拠は何か? それは、あなたが聖霊の力によって、神とその委任された権威に、即座に、正しく、喜んで従つということである。あなたは神を愛し、神の命令に従う。
この1つのことをなおざりにしてはならない。あなたの召しと選び確実にするために熱心になりなさい。これを行っているならば、再生しており、決して堕落することはない。再生している人は再生していない状態に戻ることはない。彼は世界の創造の前に選ばれていたゆえに再生されたのである(エペソ1:4)。私は神の選びについてすべてを理解しているわけではないが、それを信じる。
2. 神によって生まれている者は罪を犯し続けない (1 ヨハネ3:9)
1ヨハネ3:9は言っている、「すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない」。その人は新生した、ということである。
再生しているは、罪を犯すかもしれないということは事実である。たしかに、ダビデは罪を犯したが、彼は悔い改めた。 (PGM)詩篇32:51にあるように、御聖霊は彼に罪を悟らせ、悔い改めに導かれた。キリスト者は罪を犯すかもしれないが、必ず罪を悔い改める。次のことを考えよ。
- 1ヨハネ1:6–2:2: 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」。再生した者は罪を犯すかもしれないが、御聖霊によってその罪を示された時、悔い改める。
- エペソ4:28:「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」。泥棒が、人に与える者になる。それは、我々の内に内住される御聖霊によってもたらされた根本的な百八十度の変化による。
- 使徒26:20:パウロは言った、「まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました」。我々の神に従う生活は、救いの証拠、永遠の命の証拠、選びと神からの召しの証拠である。
再生している人は、罪の悔い改め、人生を通して救いの信仰によって生きる。は完璧ではなくとも、彼は義とされており、神に養子縁組され、聖化されている。まだ栄光を受けてはいない。悔い改めず、罪を犯しつづけて生きているなら、彼は再生されていない。彼は今も悪魔の子供である。神から生まれた者は、神の性質を持っている。彼は神の子供である。
- 1ヨハネ3:1–3:「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする」。
- 1ヨハネ3:9b:「すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない」。
あなたの子供が悔い改めていなければ、彼は救われていない。しかし、彼があなたのところに来て、「お父さん、お母さん、私は不従順で、罪を犯していました。憐れんでください。罪を赦してください。そうすれば、私はあなたに従います」と彼は言う。それは、真の悔い改めである。
福音の効果的な呼びかけは、我々の再生、罪の悔い改め、そして主イエス・キリストへの信頼をもたらす。賛美歌作家が言うように、「信じて、従え。主イエスのほかに幸いなし。信じて、従え」である。
再生している人は、神の一方的な働きによって神から生まれたので、罪を犯し続けることは決してない。彼が悔い改めずに罪を犯すことは不可能である。
再生という言葉は、1ヨハネに完全受動態の形で7回出てくる。それはどういう意味か? それは、再生が過去に起こったことを意味するが、その効果は現在、そして人生を通して継続する。
3. 神によって生まれた者は神とその家族を愛する (1ヨハネ4:7)
ヨハネは書いている、「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている」(1ヨハネ4:7)。
神から生まれた人々は神を愛し、従い、神の家族を愛し、仕える。だから以下のように書いてある。
- 1ヨハネ3:16–18: ヨハネ、「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった」。これは犠牲的な愛である。私はあなたが生きるために死ぬ。ヨハネは続ける、「それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」。
- エペソ5:25–27:「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである」。
- ローマ6:23:「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。神は我々が犠牲的にお互いを愛することを望んでおられる。この教会では、我々はこれを行う。我々は、教会の4番目の特徴を追加する。それは、他の人を助けるために何が必要かを見つける、これを目的に交わりをする、ということである。
我々は神に愛されている者である。永遠から、神の選びの民で、絶えず犠牲的に互いに愛し合うのである(動詞は現在形)。あなたは兄弟のために命をささげる。彼が生活にこと欠いているか、何か他の必要があるかを知ろうとし、兄弟を助ける。パウロは書いている、「だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」(ガラテヤ6:10)。
再生の証拠は何か? 再生している者は神を愛し、お互いを愛する。我々は永遠から神に愛されているから、創造の前から選びの民であるから、そうするのである(エペソ1:4)。パウロは以下のように言っている、
- 2コリント5:19, 21: In 19に、「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである」と書いてある。神は、我々の罪を神の御子主イエス・キリストに転嫁された。彼は私たちの罪のために死んだ。これは、旧約聖書イザヤ53章で教えられている身代わりの贖罪である。そして、 21節には、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」と言って居る。
イエス・キリストにおいて、我々は神の知恵、義、聖さ、栄光である。我々は罪人であり、地獄に行く運命にあった。キリストは我々を愛し、我々の代わりに死なれた。使徒2:44では、次のように書かれている。
教会の真の印はルカ6:31にある:「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ」。これについては、1コリント13章、愛についての短い章にもある。ヨハネ3:16は言っている、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。
我々は永遠の救いの保証を持つ。従って、マタイ6:25–34で、主イエスは、「心配するな」と、5回も言っておられる。
トラブルが発生したとき、人が最初にすることは心配である。 そして、聖霊は「心配するな」と言っておられ、神が我々の見方であるならば、誰が敵対できようか?
神に対して死んで、罪と不法侵入の中で生きている罪人に対する神の最初の行為は再生である。あなたが再生されていないなら、あなたは偽の信者である。 再生した人は罪を犯すかもしれないが、悔い改めます。
- エペソ2:1–10: パウロは書いている、「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。
ではいくつかの質問をしよう。真理を語ろう。
1. 我々は、世界が創造される前の永遠から、神の選びの民である。理解はできないが、これを信じている。
2. そのような選びの人々はやがて福音を聞く。そして、福音を聞くことができるように、神は私を世界の反対側に牧師として送ってくださった。
3. 選びの民は、聖霊による霊的再生を経験する。
4. 選びの民は、常に主イエス・キリストに信頼し、従う。
問題は、あなた自身が主イエス・キリストを愛し、従っているか? ということである。
1.パウロは、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)と言っている。あなたはその意味することを知っているか? それは、イエス・キリストがすべての権威を持った主であり、私が彼の絆の奴隷であり、耳たぶに穴が開いていることを意味する。即ち、私の仕事は主なる神に聞いて、それを実行することである。
2.これがあなたに当てはまる場合、あなたは2ペテロ1:10を成就している。自らの召しと選びを確実するであろう。
3. あなたは永遠に平安が守られており、決して堕落することはない。神の民よ、喜べ!
- 1ヨハネ3:1–3:「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする」。
- ローマ8:28–30:「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」。
- 1テサロニケ4:2,8:「わたしたちがどういう教を主イエスによって与えたか、あなたがたはよく知っている。こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである」。
- 我々は、主イエスの権威によって語る。両親は主イエスの権威によって話す。牧師たちは主イエスの権威によって語る。
我々はアダムの子孫であった。罪人として、世界が創造される前に選ばれる価値は持ち合わせてなかった。しかし、神は我々を救われた、そしてこの真理を聞いて喜ぶ。我々は永遠に救われる。神の意志を聞いて実行するのを、主なる神が助けてくださいますように。
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