牧師の召命

Jeremiah 1:4-10
P. G. Mathew | Sunday, July 05, 2020
Copyright © 2020, P. G. Mathew
Language [English]

主イエスは言われた「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」(マタイ 16:18)。

エレミヤへの召命は、真の牧師に対する召命をしめしている。それは次のように書いてある。

「主の言葉がわたしに臨んで言う、『わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした』。その時わたしは言った、『ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません』。しかし主はわたしに言われた、『あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである』と主は仰せられる。そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、『見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる』」 (エレミヤ1:4–10)。

1) 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに」 (4節)

神は永遠の昔からエレミヤを知っておられた。神は、神に召されたすべての牧師を知っておられる。ジョン・マレー師によれば、「神はエレミヤを知っておられた」とは、「神は永遠の昔からエレミヤを愛しておられた」という意味である。私たちに対する神の愛は永遠である。神はエレミヤ、牧師たち、そして神の民への愛を決して止めることはない。

神は私たちを母の胎内で形作られた。

  • アモス3:2 (ヘブル語テキスト): 「地のもろもろのやからのうちで、わたしはただ、あなたがただけを知った(愛した)それゆえ、わたしはあなたがたのもろもろの罪のため、あなたがたを罰する。」
  • ローマ8:29 「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。」
  • 詩篇139:13 「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。」
  • 詩篇139:15 「わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。」 それは、母の胎の中のことである。

神は永遠の昔から私たちを愛しておられ、その愛は決して尽きることはない。神が私たちを愛しておられるなら、必要なものは必ず与えられる。神はエホバ・エレである。神は選ばれたすべての神の子を愛し、私たちに必要なものを与えてくださる。

  • ローマ8:28–30 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。」
  • エペソ1:4 「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選ばれた。」 神の民は清い生活をおくる。

2) 神は我々を聖別された

神は私が生まれる前から、命の福音を宣べ伝えるという聖なる目的のために私を選び分けてくださった。パウロも自分自身について同じことを言っていた。ガラテヤ1:15–16にこのように書いてある、「ところが、母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった。」

3) 神は私たちを福音を宣べ伝える使命に任命された。

私が生まれる前から、神は私に福音をのべ伝える使命を与えられた。すべては、私の許可なしに神が成し遂げられたのである。創造主であり贖い主である神は、私の上に主権を持っておられる。私には選択の余地はない。私は神の御心を知り、心を尽くしてその御心を行わなければならない。

牧師はキリストが教会へ与えられた賜物であり、聖霊によって任命された者である。エペソ 4:11はこう言っている、「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった」。使徒20:28にはこう書いてある、「どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」。私たちの救いのために、最も高い代償が払われたのである。

4) エレミヤの反論

エレミヤは答えた、「わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」 (6節)。しかし、エレミヤよ、あなたに選択の余地はない。神は永遠の昔からあなたのために定めておられるのだ。神はあなたと、すべての真の牧師を助けてくださるだろう。パウロの言葉はこうである:

  • ピリピ4:13 「わたしを強くして下さるかたによって、わたしは何事でもすることができる。」 その力は聖霊の力である。
  • 2コリント12:9–10 「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」
  • 1コリント9:16 「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。」

5)神の答え(7節)
神はエレミヤに言われた、「『私はただの子どもです』と言ってはならない」(7節)。それは、「わたしがあなたの十分さである。わたしがあなたに能力を与える」という意味である。

申命記18:18には次のように書かれている。「わたしは彼らの兄弟たちの中から、あなたのようなひとりの預言者を起こす。わたしはわたしの言葉をその口に授ける。彼はわたしが命じるすべてのことを彼らに告げる。」

また、コリント人への第二の手紙3:4–6には次のように書かれている。「このような確信は、キリストによって神に対して私たちが持つものである。もちろん、自分自身で何事かをする力があるとして、自分自身から出たもののように考えることはできない。私たちの力は神から来るのである。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を与えてくださった。それは文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者である。文字は人を殺し、御霊は人を生かす。」そしてマタイ28:20にはこう書かれている。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」

6)「あなたを遣わすすべての者のところへ行かなければならない」(7節)

エレミヤのように、私たちは神が遣わすところへ行かなければならない。私たちには神に従う以外の選択はない。私は地の果てに遣わされた。

7)神はエレミヤに言われた、「わたしが命じることをすべて語らなければならない」(7節)

私たちには、自分の望むことを語る自由はない。私たちは心理学について語ることも、どのようにして多くの金を得るかについて語ることもできない。

  • 使徒1:8 「しかし、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。」
  • 使徒20:27–32 「私は神の御旨を、ことごとくあなたがたに伝えておいたからである。どうか、あなたがた自身と群れの全体とに気をつけなさい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者に任命なさったのである。私が去ったあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んできて、群れを荒らすようになることを、私は知っている。また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に引き込もうとする者たちが起るであろう。だから目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も涙をもって、ひとりびとりを絶えず訓戒したことを忘れないでほしい。そして今、私はあなたがたを神とその恵みの言葉とにゆだねる。その言葉は、あなたがたを建て上げ、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。」
  • テモテへの第二の手紙3:15–4:5 「また幼い時から聖書に親しみ、それがキリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導く訓練をするのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全な者になるのである。神と、生きている者と死んだ者とをさばこうとされるキリスト・イエスとの御前で、またその現れとその御国とを思って、私は厳かに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励みなさい。寛容をつくし、絶えず教えながら、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、自分の好みにかなう教師たちを、自分たちのために寄せ集め、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、その耳を真理からそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、どんな場合にも慎み、苦しみを忍び、伝道者の働きをなし、自分の務を十分に果しなさい。」 言い換えれば、御言を宣べ伝えよ。それに付け加えてはならない。それから差し引いてはならない。また、それを曲げて解釈してはならない。
  • マタイ7:21–23 「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではない。ただ、天にいますわたしの父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者がわたしに言うであろう、『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』。そのとき、わたしはきっぱりとこう言うであろう、『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を働く者どもよ、わたしから離れ去れ』。」 これは律法廃棄主義の神学と呼ばれる。

8)「恐れてはならない」(8節)

エレミヤ1:8にはこう書かれている。「彼らを恐れてはならない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救い出すからである、と主は言われる。」なぜ私たちは恐れないのか。答えは、悪魔がすでに打ち破られ、神が私たちと共におられるからである。

  • ヘブル2:14–15 「子たちはみな血と肉とにあずかっているので、主もまた同様に、それらのものにあずかられた。それは、ご自分の死によって、死の力を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを解放するためであった。」 神は御子イエス・キリストによって、私たちの敵である悪魔を打ち破られた。
  • ヤコブ4:7 「そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。」 これは、神に従えという意味である。そして、悪魔に逆らえという意味である。イエスが誘惑を受けたときにされたのも、このことである。
  • ペテロ第一5:7 「あなたがたの思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」  マタイ6章では、思いわずらいについて六回語られている。「あなたがたの思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。神はあなたがたをかえりみていて下さるのである。」
  • イザヤ43:1–3a 「しかし今、ヤコブよ、あなたを創造された主、イスラエルよ、あなたを造られた主はこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものである。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川を渡るとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を歩いても焼かれることはなく、炎もあなたに燃えつくことがない。わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救主であるからだ。』」
  • ゼカリヤ2:5 「主は言われる、『わたしはそのまわりに火の城壁となり、その中にあって栄光となる。』」

「わたしはいつもあなたと共にいて、あなたを救い出す。」神はエレミヤにこのように語られたのであり、すべての牧師とすべての神の子にこのように語られる。「わたしはあなたと共にいる。」

神に召され、神に遣わされた奉仕者は、遣わされたすべての人々に対して説教しなければならない。あなたの慰めが問題なのではない。コリント人への第二の手紙11章に記されている、聖パウロの生涯を考えよ。

「彼らはキリストの僕なのか。私は狂気したように言う、私はもっとそうである。私は彼ら以上に労し、彼ら以上に多く獄に入り、彼ら以上にむち打たれ、またしばしば死に直面した。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海の上を漂ったこともある。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同国民からの難、異邦人からの難、都会での難、荒野での難、海上での難、にせ兄弟による難に会い、労し苦しみ、しばしば眠られず、飢えかわき、しばしば食べ物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。このほかにもなおいろいろあるが、日々私に迫ってくる諸教会に対する心配がある。だれかが弱っているのに、私も弱らないでおられようか。だれかが罪に誘い込まれるのに、私の心が燃えないでおられようか。」(コリント第二11:23–29)

私たちは、聖書において与えられている福音を宣べ伝えなければならない。私たちは聖書に付け加えることも、そこから差し引くことも、またそれを曲げて解釈することもできない。牧師は敬虔であり、学識があり、聖霊によって教えられていなければならない。

牧師はミカヤのようでなければならない。すなわち、ただ一人の少数者であっても、主の真の預言者であり、バアルの四百人の預言者たちの多数派のようであってはならない。彼らは十分に養われており、悪霊に取りつかれた偽り者であった。列王記上22:7–8aにはこう書かれている。「しかしヨシャパテは言った、『われわれがその言葉を求めることのできる主の預言者が、ここにもうひとりいないのですか』。イスラエルの王はヨシャパテに言った、『主に問うことのできる人が、まだひとりいるが、私は彼を憎んでいる。彼は私について良いことを預言せず、いつも悪いことばかり預言するからである。彼はイムラの子ミカヤである。』」

神の民の牧師たちよ、あなたがたを永遠から愛し、あなたがたが生まれる前にあなたがたを聖別し、福音を宣べ伝えるために任命された神がおられる。この神は、あなたがたのすべての必要と教会の必要を満たすために、あなたがたと共におられる。神はエホバ・イルエであり、それはヘブル語で「主は見て備えられる」という意味である。主は私たちの羊飼いであり、私たちは何一つ良いものに欠けることはない。私たちはこの教会で決して物乞いをしない。神が私たちのために備えてくださる。

「どうか、私たちのうちに働く力にしたがって、私たちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、またキリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように。アァメン。」(エペソ3:20–21) そしてすべての民は言った、「アァメン」。