犠牲の愛
John 3:16, John 13:34–35P. G. Mathew | Sunday, January 02, 2022
Copyright © 2022, P. G. Mathew
Language [English]
天の御父よ、十字架で私たちの代わりに死なれた主イエス・キリストを通して、あなたが永遠から私たちを愛してくださったように、今年も、私たちが互いに愛し合うのを助けてくださいますように、主イエスの名において祈ります。アーメン。
私たちへの神の愛
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (ヨハネ3:16)
私たちは永遠の命を運命づけられている。父なる神は、馬小屋で聖霊によってマリアから生まれさせ、我々に神の一人子を与えられた。彼は人としては最も貧かった。ルカ9:58で主イエスは言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。主イエスは全てを創造され維持しておられる方であるが、 頭を横たえる場所すら地上になかった。人は神に対して罪を犯した。そして、主イエスは私たちの罪のために代わりに犠牲の死を遂げられた。
主イエスは選びの民、数少ない民のために死なれた。そのような私たちのために、唯一の子を十字架で犠牲とされたことに驚く。それは人の理解を超えている。ローマ人6:23で、二重の取引について語られている。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。私たちは、神の唯一の御子キリストに、私たちの罪と罪悪感、死と永遠の地獄を与えた。しかし、キリストは私たちに永遠の命を与えられた。これは人の理解を超えている。
この二重の取引のゆえに、私たちは永遠に神を賛美し、礼拝する。コリント5:19は教えている、「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである」。これほど素晴らしいことはほかにない! そして21節にあるように、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」。私たちは神の義をまとい、主イエス・キリストから真の自由を与えられた。 これが、二重の取引です。
従って、ピリピ2:5–11でパウロは言っている、「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」。ここで「奴隷」という意味のギリシャ語「ドゥロス」が使われている。イエス・キリストは父なる神の奴隷であった。即ち、彼は父なる神に聞いて従った。 パウロは続けて言っている、「人間となり、へりくだって死にまで従われた主イエスは、「できることならば、この死の盃を私から取り除いてください」と祈られた。父なる神は「いいえ」と答えら得た。そして主イエスは十字架で死なれたのである。主イエスは、「私の食べ物は神の心を行い、それを完成させることです」と言われた。たしかに、主イエスは「すべてが完成した」と言って死なれた。
だからパウロは続ける、「その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。 究極の敬意は主イエス・キリストに払うべきである、「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめるためである」。地獄にいる者たちでさえ、イエスが主であることを告白する。ルカ16によれば、彼らを地獄から連れ出す方法はない。彼らは出たいと思うが、それは不可能である。だから、今がイエス・キリストを信じる時である。それは、パウロが言うように、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
イザヤ53:4–5に、キリストが死に、私たちは死ななかった、ということが書いてある。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ(イタリック体の部分は補筆)。私たちは、キリストの傷によって救われ癒される。神の義とは、神が私たちのすべての罪、即ち、過去、現在、将来の罪を全て赦してくださることを意味する。神が私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛し合うように助けてくださいますように。この犠牲の愛について詳しく見てみよう。
犠牲の愛
1コリント13:13は教える、「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」。これは犠牲の愛を教えている。
犠牲の愛の例がルカ21:1–4に記録されている、「イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた、『よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである』」。神は全能、全知であり、そして遍在されます。神は、私たちがどれほどご自身を愛しているかを知っておられる。ウェストミンスター神学校の学長による「レプタ硬貨2枚をささげた貧しい未亡人」の説教がある。レプタ2枚をどう使うかに3つの選択肢がある。第一に、「私は貧しい未亡人で、このお金が必要だ」と考え、何もささげられなかった。第二に、そのうち1枚のコインをささげた。つまり、半分をささげた。しかし、彼女は3番目の選択肢を選び、全てをささげた。彼女は、人のあらゆる必要を備えてくださる神、エホバ・エレと呼ばれる神に持っていたすべてをささげた。そして、彼女がささげたものを見られた主イエスは、彼女のすべての必要を満たされた、と私は信じる。
「罪の報酬は死であるが、神の賜物は永遠のいのちである」と聖書は言っている。 私は頭ではこれを理解できない。しかし、1コリント16:14に、「いっさいのことを、愛をもって行いなさい」と教えられている。そして22節は、イエス・キリストを信じることを拒否する人にのろいがあることを言っている。そのような人は地獄に行く。主を愛さない者は呪われている、と教えているのである。
聖霊が私たちにもたらす最初の実は、犠牲の愛である。インドのケララ州に聖霊が注がれた。その時、私はこの愛を目撃して驚かされた。後に、私は牧師としての生活の中でもそれを目にしたことがあるが、ケララの王族の一人でヒンズー教徒がいた。しかし、家族は彼をキリスト教の学校に送った。そこで、彼は回心してキリスト者となった。その結果、彼はヒンズー教の王室から破門された。しかし、彼は自分の財産を売り、それを教会にささげた。聖霊が私たちにもたらす最初の実は、犠牲の愛である。
地獄はイエス・キリストを信じない人々を待っている。彼らにはのろいがある。1コリント16:4、22は言う、「いっさいのことを、愛をもって行いなさい。(中略)もし主を愛さない者があれば、その者は呪われている」。
ローマ5:3–5に「それだけではなく、患難をも喜んでいる」とパウロは書いている。私はいつも苦難を喜ぶとは限らないが、やがて喜ぶようになる。パウロはこれらの苦難の恩恵について語っている、「なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである」。主イエスは私たちのために再び来られる。私たちは苦しみを喜ぶことができる。なぜなら、「希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。私たちは神を愛し神に従うだけである。
ペテロの例
ルカ10:27で、神は言っておられる、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』」。主イエスは、彼を3回否定したペテロに、「あなたは自分の人生よりも私を愛するか?」ときかれた。そして、ペテロは「はい」と3回答えた。主イエスはペテロに、「あなたは信仰のために十字架につけられるでしょう」と言われた。そして、ペテロは十字架につけられた。 しかし、十字架につけられる前に、ペテロの手紙二に、「兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい」と書いた(2ペテロ1:10) (PGM)。彼は、「あなたが数十億ドルを儲けられる」とは言っていない。人々が何十億ドルで何をしているのかを、ここで語るべきではない。ペテロは十字架につけられたが、その前に、彼は神の選びと召しの確証を得ていた。彼は生まれ変わった存在であり、魂と思いと力を尽くして神を愛していた。
アブラハムの例
創世記22章では、アブラハムが試みられたところが記録されている。息子のイサクを犠牲としてささげるように言われたのである。しかし、まさに彼がその一人息子を犠牲としてささげようとしていたとき、神は「そうしなくてよい」と言われた。アブラハムは犠牲の愛の試練に合格した。父なる神は私たちの罪の贖いとして、一人子である主イエスを犠牲とされたのである。私たちが、ここに神の無限の犠牲の愛を見る。
主イエスは言われた、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」(ヨハネ14:15)。神はアブラハムに、「あなたの子孫を通して」、つまりイエスを通して、「すべての国々が祝福される」と言われた。 なぜそう言われたのか?それは、アブラハムが神に従ったからである。そして使徒4:12ペテロはイエス・キリストについて言っている、「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。この国には宗教の自由がある。 私たちは、それが望みであれば、お金や偶像を崇拝することもできる。しかし、「救いは、主イエス以外、天の下にはない」。主イエスだけが救いである。
主イエスの例
主イエスは、ヨハネ10:11–18で、「わたしはよい羊飼いである」と言っておられる。羊飼いとは牧師のことである。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。主イエスは5回、羊のために命を捨てると言われた。羊飼いではない雇われた者についても話しておられる。雇われた者は、羊よりもお金が好きである。真の牧者ではない雇人は、狼が来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は単なる雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。雇人は、より多くのお金を求めており、羊の世話をしない。
牧師たち、あなたは主イエスのようにあなたの羊、即ち神の民、を愛しているか? それはあなたが答えなければならない質問である。それともあなたはお金のために牧師職に就いているのか? 私はお金のために牧師をしていない。主イエスは続けて言っておられる、「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知っており、わたしの羊はまた、わたしを知っている」。あなたはあなたの羊を知っているか?私たちには教会の4つのしるしがある:神の言葉の説教、バプテスマと聖餐式という二つの礼典の遵守、教会戒規の行使、そして交わり。4番目のしるし交わりは重要である。私たちは兄弟姉妹が何を必要としているかを見つけ、助けるべきである。これはお金の最善の使い方でもある。
主イエスは続けて言われる、「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである」。彼が復活できた理由は、彼が決して罪を犯さなかったからである。 彼はいつも神に従っておられた。ご自身の復活について話しておられる、「だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
この箇所で5回、主イエスは羊のために命を捨てると言っておられる。父なる神が永遠から私たちを愛してくださったように、神が今年も、私たちが互いに愛し合うのを助けてくださいますように。 よい人生とは、他者への奉仕に費やされた人生である。
復活は、イエスが決して罪を犯さなかったことを証明している。彼は十字架に行くことを含め、常に父なる神に従われた。人々は、彼に唾を吐き、叩き、嘲笑し、最後に十字架につけた。それでも彼は私たちを愛し通されたのである。—ああ、なんという祝福か!
ヨハネ15:13で、主イエスは言っておられる、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。私たちはキリストの友である。彼はまた言っておられる、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。他に選択肢はない。そしてヨハネ13:35で言っておられる、 「互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。これが伝道である。人々は私たちの犠牲的な愛を見て、イエスを信じるであろう。
エペソ5:25–27は教えている、「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである」。これは栄化のことである。
栄光ある運命
私たちの先にあるのは栄光である。罪も死も、悲しみもない新しい時代に生きることのできる運命である。にあります。黙示録19:6–8に書いてある、「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう』。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」(汚れのない麻布の衣とは、神の民による正しい行いのことである。)。
2コリント5:21は言う、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」。私たちはイエス・キリストの義をまとっている。これが、私たちが着ている服である。ああ、なんという祝福か!そして、聖霊によって行われる「上質の亜麻布は聖なる神の民の義の行いを表す」と言われている。パウロは書いている、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ2:10)。
栄光が私たちを待つということを示す最後の聖書の個所は、黙示録21:1–4にある: 「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』」。
創世記3章で、罪は世界に入ったことが書かれている。しかし、罪のない新しい天と新しい地がある。そこで私たちは主イエス・キリストと共に永遠に生き、そこに終わりはない。言葉では言い表せない喜びとなる。ハレルヤ!
私たちを救ってくださった神に感謝します。 私たちには救われる価値はなく、サタンの子供でした。 しかし、その中から選びだされ、サタンの手から救われるように、神は永遠の昔に定めて下さったのです。 私たちを救われたように、今日でも、人々を救っておられます。主イエスが私たちに与えられた新しい命令、それは、この年も、犠牲的にお互いを愛するということ、これを実行するよう助けてくださいますように。神が私たちを愛してくださったように、私たちはお互いを愛しましょう。 アーメン。
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