神を恐れることは敬虔な魂
Isaiah 11:1-3aP. G. Mathew | Sunday, May 30, 2021
Copyright © 2021, P. G. Mathew
Language [English]
「神への恐れは、敬虔な魂をもたらす」とウェストミンスター神学校のジョン・マレー師は言っておられた。[1] 讃美歌「驚くばかりの」で、作者ジョン・ニュートンは、「驚くばかりの恵みなりき。神の恵みは恐れを消し」、と神を賛美している。私たちは主イエス以外の何者をも恐れることはない。主イエスは救い主である。
イントロダクション
聖書の神は唯一の真の神である。この神は無限、永遠、聖、三位一体(父、子、聖霊)であられる。神は全知全能で、どこにでも存在され、創造主であり、維持者である。救い主であり、審判者である。主イエスは神であり同時に人であられる。彼は人として決して罪を犯されなかった。神は焼き尽くす火である。「神への畏れは知恵の始まり」である(箴言9:10)。
愚か者は心の中で「神などいない」と言う(詩篇14:1)。 コルネリアス・バン・ティル師は、著書『信仰の弁証論』の中で、科学の名のもとに人々は偶然を前提としているが、私たちは思考のすべて、礼拝のすべて、行いのすべてにおいて神が三位一体であることを前提としていると述べている[2]。この神を知るとは、神を畏れ、直ぐに、その通りに、喜んで神に従うことを意味する。これを敬虔という。次に、神を恐れなかった人々と神を恐れた人々の例を考えてみよう。
I.ナダブとアビフは神を畏れなかった
祭司アロンの息子であるナダブとアビフは神を畏れなかったので、神は彼らを殺された。彼らは酒に酔いながら神を礼拝したと記録されている。皆さん、「わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である」(へブル12:29)。「そういうわけだから、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」(ピリピ2:12)。
申命記4:24にあるように、「あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である」。レビ記10:1–2, 8–9には、「さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。そこで、主はアロンに言われた、『あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない』」。
彼らは祭司アロンの子供であったにもかかわらず、神を軽蔑的に扱った。彼らは神に対して畏れもおののきもなく礼拝していた。そして神は彼らに最も深刻な対処をされた。教会に行くときに不真面目な態度ではいけない。あなたは死ぬかもしれないのである。これは将来の世代に永続するきまりである。
II.アナリヤとサッピラは神を畏れなかった
アナニヤとサッピラは神を畏れなかった。そして神は彼らを殺された。使徒5:1–11にあるように、「アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。そこで、ペテロが言った、『アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ』。アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。それから、若者たちが立って、その死体を包み、運び出して葬った。三時間ばかりたってから、たまたま彼の妻が、この出来事を知らずに、はいってきた。そこで、ペテロが彼女にむかって言った、『あの地所は、この値段で売ったのか。そのとおりか』。彼女は『そうです、その値段です』と答えた。ペテロは言った、『あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口にきている。あなたも運び出されるであろう』。すると女は、たちまち彼の足もとに倒れて、息が絶えた。そこに若者たちがはいってきて、女が死んでしまっているのを見、それを運び出してその夫のそばに葬った。教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた」。
御聖霊は真理の霊と呼ばれる。彼には偽りがない。警告しておくが、牧師に嘘をついてはならない。真実を語れ。この教会は、私たちの罪を赦してくださる神を宣べ伝えているのである。
III.教会は大いに神を畏れた
使徒5:5, 11に教会が大いに神を畏れた、と記録されている「アナニヤはこの言葉(ペテロが言ったこと)を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた」。
神への畏れは私たちが罪を犯さないように導く。なぜ私たち人間は罪を犯すのか?私たち人間は神を恐れない。ほとんど人はお金を儲けることだけを考え、そこにこそ幸福があると考えている。それは偽りである。
私たちが罪を犯さないようにするのは、神への畏れ以外にない。良い知らせをお伝えしよう。 悔い改めて神に立ち帰れ。そうすれば神は赦して下さる。悔改めにふさわしいわざを行いなさい(使徒26:20)。
民数記の中で、イスラエル人は戦っている兵士の数を数えた。エジプトを脱出する前は、彼らの数は603,550人であった(民数記2:32)。神はこれらの人々全員をエジプトから救い出し、紅海を渡さされた。しかし神はそのうち603,548人を殺された(民数記26:65)。カレブとヨシュアだけが助かったのである。なぜ他の人たちは全員死んだのか?彼らは神を恐れなかったのである。したがって、彼らは約束の地に入ることができず、自らの罪のために砂漠で死に絶えた。この人たちはつぶやきを専門としていた。神が自分の思い通りに行われないのではないかと思うとき、私たち自身もつぶやく傾向がある。
IV.アダムとイブは神を畏れなかった
アダムとエバは神を畏れなかったので、神に従わず、死んでしまった。創世記2:15–17にはこう書かれている、「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』」。
神は偽りを言わない。神は真理であり、命である(ヨハネ14:6)。テトス1:2で、パウロは「神には偽りがない」と言っている。
しかし悪魔は偽りを言う。ヨハネ8:44で、主イエスは言われた、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ」。ですから、親に話すときは注意せよ。嘘をつくな。 牧師と話すときは注意せよ。彼に真実を語れ。(PGM) 主イエスは言われた、「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:10)。
V.アブラハムは神を畏れた
アブラハムは神を畏れ、試みられたときは神に従った。創世記 22:1-2にこのように記録されている、「これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、『アブラハムよ』彼は言った、『ここにおります』神は言われた、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山(のちにイエス・キリストがわれらの罪のために十字架に架けられた山)で彼を燔祭としてささげなさい』」。
アブラハムは神が奇跡を起こしてくださると信じていた。 彼は、神が灰の中から息子をよみがえらせることができると推論した。なぜなら、彼を通してメシアであるイエスが現れるからである。
従って、創世記22:12にある、「御使いが言った、『わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った』」。しかし、もう一人の子、すなわち神の子はその命が捧げられた。その名はイエスである。イエスは私たちの罪のために十字架につけられて死なれた。私たちは罪を犯したが、彼は我々のために死んだのである。
創世記22:18で主はアブラハムにこう言われた、「地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。その子孫とは誰か?それが主イエス、救い主である。神はアブラハムに「あなたが私に従ったからである」と言っておられる。
神を畏れるということは、直ぐに、その通りに、喜んで神に従うことを意味する。ヘブル11:19には、アブラハムが神に試みられたときにどう考えたかが書いてある。アブラハムは神が死人の中から人をよみがえらせる力があると信じていた。彼はイサクを生きかえしてもらったわけである。真のキリスト者は三位一体の神を前提として信じる。創世記 1:1を説明できる科学者はいない。そこには、「はじめに神は天と地とを創造された」と書いてある。ほとんどの科学者は偶然と進化の仮説を信じているからである。神を畏れるということは、神に従うということである。私たちが神を畏れ、神に従うことができるように神が助けてくださるように!
VI.主イエスは父なる神を畏れておられた
主イエスは父なる神を畏れ、完全に従われた。イザヤ11:1–3aはこのように言っている、「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結ぶ」。これは誰のことを言っているのか?それは、主イエス、救い主のことである。預言者はさらにこう続けている、「その上に主の霊がとどまる」。私たちに必要なことは、聖霊、つまり主イエスが使徒1:8節で約束されたように、知恵を与える聖霊、理解を与える聖霊、助言を与える聖霊、力を与える聖霊によるバプテスマである。「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
主はまた主を知り恐れる心を与えられる霊であられる(イザヤ11:2)。あなたが神を畏れられないなら、「どうか私に畏れる心を与えてください」と祈るべきである。そうすれば与えられる。最後に、メシアであるイエス・キリストがそうされたように、父なる神を畏れることによる完全な幸いを持っておられた。「彼は主を恐れることを楽しみとし」(イザヤ11:3a)という予言のとおりである。
主イエスは常に神の御心を行っておられたのである。ルカ 22:39–46 にはこう書かれている、「イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、『誘惑に陥らないように祈りなさい』そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、『父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、御心が成るようにしてください』。そのとき、御使いが天からあらわれてイエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。祈りを終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって言われた、『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい』」。その後、ペテロは誘惑に陥ってしまった。彼はキリストを三度否定した。しかし主イエスは彼を赦された。
我々は罪を犯した。しかし主イエスは私たちの罪のために死なれた。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである(ローマ6:23)。彼は私たちのすべての罪のために十字架につけられた。これが義とされるということである。神は私たちのすべての罪を赦される。
2コリント5:19–21にある、「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」。私たちはキリストの完全な義を着ている。これを「二重の取引き」と呼ぶ。私たちはすべての罪、すべての咎、すべての罰、すべての地獄をイエス・キリストに与え、そして代わりに、主イエスは私たちに完全な義を与えてくださった。
1コリント1:30–31でパウロは書いている、「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないになられたのである」。私は自分自信も信頼しない。私はキリストを信頼する。彼は私の義であり、聖さであり、救いである。パウロは続けて言っている、「それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである」。私は自分自身を誇るつもりはない。私は主を誇る。神が私をなぜ選ばれたのかはわからないが、そう信じている。私も他の人と同じように罪人であったが、神は奇跡的に私を選ばれたのである。ローマ 8:28-30では、最初の段階として神が選ばれるのである。神の民は永遠の昔から神に愛されている。人間には理解できない。しかし、私はそう信じている。
VII.すべての人類の最終的な行先
マタイ25:46書いてある、「そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。すべての人は永遠の刑罰か永遠の命のどちらかに行く。主イエスは他の誰よりも地獄について語られた。
ルカ16章には、紫色の服を着た金持ちの話が記されている。リディアも紫色の織物を扱う裕福な人であったことがわかる。さて、主イエスの話の中で、金持ちは死んで地獄に行ったが、貧しいラザロは天国に行った。
あなたは主イエスに信頼しているかどうか、そこか問題である。あなたがどれだけお金を持っているか、どれだけの学位を持っているかなどは心配に値しない。問題は、あなたがイエスを信頼しているかどうかである。
結論
使徒16:30–31に記録の通り、「獄吏は、あかりを手に入れた上、獄に駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏した。それから、ふたりを外に連れ出して言った、『先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか』ふたりが言った、『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます』」。私たちが最近読んだ聖書の個所で、エリコの娼婦が救い主を信じ、家族全員と共に救われる希望をもっていた、ということを復習した。
申命記30:19–20にある、「わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」。これは即ち永遠の命を含んでいる。
ピリピ2:12–13は言っている、「これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない」。
イエス以外に救い主はない。何を信頼するのも自由だが、救い主はただ一人、主イエス・キリストだけである。神であり人であられる主イエス以外に救い主はいない。「その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」(マタイ1:21)。使徒4:12にある、「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
主イエスは決して罪を犯されなかった。罪人は私たちを救うことはできない。そしてイエスは罪人でないだけでなく、永遠の神の子であられる。彼は人間となられたが、決して罪を犯されなかった。父なる神に完全に服従されたのである。
キリストが建てたれた教会の特徴その最初にくるのは、神の言葉をのべ伝えることである。その語られる説教の中で、私たちは神であり人であられる主イエスが、父なる神に対する従順において完全な方であることを知る。また、私たちの罪のために死んで死からよみがえられた方主イエスを知る。なぜ彼は死からよみがえられたか?なぜなら彼は一度も罪を犯したことがないからである。彼は救い主である。他に救い主はいない。私たちがこのような神を信頼して救われるよう、神が助けてくださるように。
[1] John Murray, “The Fear of God,” Principles of Conduct (Grand Rapids: Eerdmans, 1957; 1974 reprint), 229.
[2] Cornelius van Til, Defense of the Faith.
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