罪を犯し続けていては天の国に行けない
Matthew 4:17P. G. Mathew | Sunday, June 21, 2020
Copyright © 2020, P. G. Mathew
Language [English]
「罪を犯し続けていても、天の国に行けます」 これが、反律主義者(無律法主義者)である多くの福音主義者が今日教えていることである。彼らのメッセージは、預言者、洗礼者ヨハネ、主イエス、そして使徒たちが説いたものに反対している。即ち、彼らは聖書に反対しる。聖書に追加したり、そこから差し引いたり、聖書を曲解したりしてはならない。だから、福音を説教するのは、神から召された(エレミヤ書1章)、信仰が厚く、よく聖書を学んで、聖霊に満たされた牧師が行うべきである。聖書は言っている:
- 申命記4:2:「わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである」。
- 黙示録22:18–19:「この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受けるべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」。
- エレミヤ26:2:「主はこう仰せられる、主の宮の庭に立ち、わたしがあなたに命じて言わせるすべての言葉を、主の宮で礼拝するために来ているユダの町々の人々に告げなさい。ひと言をも言い残しておいてはならない」。主イエスはマタイ7:21–23で反律法主義者に対して裁きを宣告された、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」。
聖書は何と言っているか?と我々は問わなければならない。聖書の権威を我々は信じる。パウロは書いている、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」(2テモテ3:16–17)。神の国は、「義」それは聖書が教える正しいことを行うことと、聖霊における平和と喜びとである(ローマ14:17)。そしてウェストミンスター信仰告白第一章、4項は次のように聖書の権威について次のように言っている。
聖書がそのたまに信じられ服従されねばならないところの聖書の権威は、どのような人間や教会の証言にも依拠せず、(真理そのものであり)その著者であられる神に、全く依拠する。従って聖書は、神のみ言葉であるという理由から、受けいれられなければならない。
悔い改めについて、ルカの福音書と使徒言行録を見てみよう。
- 「悔い改める」(シュブ)というヘブライ語の言葉は、罪と悪から向きを変え、神に向かうことを意味している。ギリシャ語では、メタノエオ、罪から回れ右をする、思考を変えることを意味している。古典的な例は、放蕩息子の悔い改めである。ルカ15:21で、「むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』」。かれは、罪から回れ右をしたのである。
- ルカ3章で、バプテスマのヨハネは悔い改めを説いた。罪を悔い改めてバプテスマを受けた群衆はヨハネに「我々は何をすべきですか」と尋ねた。
ヨハネは答えた、「下着を2つ持つ者は、持たない者に分けてあげよ、食べ物を持つ者は、持たない者に分けてあげよ」。取税人もバプテスマを受け、「先生、私たちは何をすべきか?」と尋ねている。
彼らは言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。イエスは答えられた、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。そこで兵士たちは尋ねた、イエスは答えられた、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」(ルカ3:10–14)。悔い改めずに罪を犯している者は悪魔の子供である。
1ヨハネ3:10:「神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である」。何が正しか? それは聖書が言っていることである。 聖書には神が言われることが書かれている。罪に背を向け、神の言葉に従え。洗礼者ヨハネは悔い改めの証拠として、悔い改めよと言っている。パウロは悔い改めの証拠を要求して言う、「まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました」(使徒26:20)。
使徒行伝5:32では、あなたがキリスト者であるという、その証拠はあるか?と 問う。使徒5:32は言う、「わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。我々は御聖霊に従うべきである。
- 主イエスは罪人が悔い改めるために来られた。罪人を悔い改めるように招いておられるということは、悔い改めない者は呪われた状態にある。「あなた方は、悔い改めて天の国に行く必要はない」そのような人々は、悪魔のこである。なぜならイエスに反対するからである。「そういう者は悪魔の子であり、イエスに敵対する」。彼はまず悔い改めることが必要である。その取税人は「私は罪人です。憐れんでください」と祈った。彼は本当に悔い改めて永遠に義とされて天の御国に帰って行った。パリサイ人は悔い改めず、罪と定められた。パリサイ人は悔い改めなかったのである(ルカ18章)。
- 主イエスは言われた、「悔い改めよ。そうしなければ、あなた方も滅ぶ」(ルカ13:3, 5)。言い換えると、悔い改めなければ、地獄に行く、ということである。
- 悔い改めた者には喜びが与えられる
- ルカ15:10:「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。
ある罪人が罪から立ち直り、主イエスへの信仰を通して神に立ち帰ると、神と聖なる天使と聖なる教会が天の国で喜ぶ、と主イエスは言われた。放蕩者が悔い改めると、その父親は皆と共にそれを喜んだ。これは人が悔い改めるときに何が起こるかを示している。皆喜ぶようになるのである。
悔い改めることはすべての罪人の義務である。福音を聞いた罪人は、悔い改めて救われる。ルカ23:40–43は言っている、「もうひとりは、それをたしなめて言った、『おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。我々は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない』。そして言った、『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』。イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』」。そして彼は救われ、死んだ後、天の国に行ったのである。
- ルカ16が言うように、その金持ちは毎日贅沢に暮らしていた。彼は紫色の豪華な服を着ていた。彼は決して悔い改めなかった。金持ちだった彼は死んだ後天国に行けると期待していた。彼の5人の兄弟も悔い改めることを拒否した。金持ちは、期待に反して地獄に行き、火の中で苦しんでいる。私はあなたに尋ねよう。あなたは自らの罪を神に悔い改め、神に従うことによって、その悔い改めを証明したか? でなければ、この金持ちのように悔い改めずに地獄に行ってしまったことに驚くであろう。
お金はあなたを救わない。黙示録3:17–18で、首位イエスはラオデキアの教会に対して言っておられる、「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい」。
- ルカ17:3–4で主イエスは警告された、「あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。私は「罪をもって天国に行ける」とは信じない。あなたも、信じないように。罪を犯しつつ天国に行くことはできない。罪を犯していれば、別の所に行くことになる。悔い改めなければ、そこで滅びる。今日、多くの福音派は悔い改めることを拒否している。彼らはアンチノミアン、反律法主義者である。
- ルカ24:47で主イエスは言われた、「そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」。この聖書の箇所は、罪を悔い改めないならば、主なる神はあなたの罪を赦されない、ことを教えている。こらは、主イエスが言われたことで、真実である。なぜならば、彼は嘘をつくことがないからだ。悪魔は、「罪を犯しても、天の国に行けるのだよ」と嘘をつく。本質的に彼がイブに言ったことは、次のとおりである、「善悪の知識の木の実を食べなさい。 きっと死ぬことはないでしょう」。イブはそれを食べ、彼女は滅んだのである。
悪魔は嘘をつく。ヨハネ8:44で、主イエスは言われた、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ」。悪魔は聖書と矛盾している。今日も、聖書を説教しない教会がたくさんある。
- 御聖霊によって罪を示された人々は、使徒2章の記録のように、ペテロの説教を聞いてこう叫んだ、「兄弟たち、私たちはどうすればよいのでしょうか」(使徒2:37)。すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがた一人一人が罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒2:38)。悔い改めてイエス・キリストを信じなければならない。それは我々の義務である。使徒17:30は言っている、「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる」。我々は罪から向きを変え、神に立ち返らなければならない。神の命令に従わなければならない。悔い改めなしに救いはない。マタイ28:20で、命じられたすべてのことを他の人にも教えるよう、主イエスは弟子に教えておられる。主は悔い改めるよう命じておられる。罪を悔い改めないのは神に対する反逆である。それは、悪魔と彼の子供たちの態度である。彼らは決して悔い改めない。
- 使徒3:19で、ペテロは言った、「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい」。それは祝福が次々と主から来ることを意味する。ペテロはキリストの使徒として話している。
悔い改めがなければ、誰も救われることはない。悔い改めは罪人の責任であり義務である(PGM)。悔い改めがなければ、主が約束しておられるように、我々の罪は消し去られることはない。イザヤ43:25は言っている、「わたしこそ、わたし自身のためにあなたの咎を消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」。
- 使徒5:31で、ペテロは説教している、「そして、イスラエルを(神からの賜物としての)悔い改めをさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである」。この聖句は、イエスが悔い改めと罪の赦しという賜物をくださることによって我々を救われたと教えている。だから、我々は、御聖霊の力によって本当に悔い改め、罪の赦しを受ける。その証拠は、我々が御聖霊に従っている、ということである。
- 使徒 5:32: 「わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。
- ローマ8:14: 「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」。御聖霊に従う者は神の子である。聖霊は、神の言葉によって我々を導かれる。父と母を尊敬せず、従わない者は永遠に呪われる。
- 使徒8:18–23は記録している、「シモンは、使徒たちが手をおいたために、御霊が人々に授けられたのを見て、金をさし出し、「わたしが手をおけばだれにでも聖霊が授けられるように、その力をわたしにも下さい」と言った。そこで、ペテロが彼に言った、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。おまえの心が神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることができない。だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心にいだいたことが、ゆるされるかも知れない。おまえには、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。それが、わたしにわかっている」。シモン・マガスが悔い改めたということは、我々は知らされていない。
すべての金銭崇拝者は地獄に行く。金銭で聖霊を買えると思ったシモンは悔い改めなかった。彼の神は金銭であった。あなたは主なる神と金銭の両方に仕えることはできない。アナニアとサッピラ(使徒5章)の記録も同じである。彼らは神にささげられた金銭を盗んだので殺された。
- 使徒11:18は言う、「人々はこれを聞いて黙ってしまった。それから神をさんびして、『それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」と言った」。神はユダヤ人も異邦人も救われる。そこに差別はない。神は異邦人にも悔い改めの賜物を与え、彼らは悔い改める。パウロは書いている、「そこには、もはやギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである」(コロサイ3:11)。彼等全ては、神の聖なる家族である。
- 使徒20:21で、パウロは言っている、「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである」。パウロは父なる神への悔い改めと主イエス・キリストへの信仰について語っている。信仰とは、つまるところ神への従順である。
- ローマ1:5: 「わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務とを受けたのである」。従順のない信仰は救いを与える信仰をではない。まず、聖書が真実であることに同意するべきである。正しい聖書の知識、これに対する同意、そして、これに信頼する、という3つの要素が信仰には必要である。聖書の情報が正しいということを知る必要があるが、それだけでは救いには至らない。これに同意して信頼する、即ち、自らをキリストに委ね、キリストに従うことが必須なのだ。
- 使徒26:20でパウロは言う、「まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました」。悔い改めて神に立ち帰る者は、神に従順な行いによって悔い改めと信仰を証明する。
- へブル5:8–9: 「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となられた」。これは、あなたが神に従わなければ、決して救われないことを教えている。主イエスに従わないなら、あなたは救われない。あなたの召命と選びを確認するには、主イエスに従っているかどうか?を問え、とペテロは、2ペテロ1:10で教えている。
- 悔い改めは、罪から向きを変え(つまり、罪を憎み)、主イエス・キリストに向かい、死に至るまで彼に従うことである。マタイ16:24は言う、「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』」。ヤコブ2:19が教えているように、主イエス・キリストに従わないなら、そのような信仰は悪魔の信仰である、「あなたは、神はただひとりであると信じている(アセンサスの意味での信じている)のか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている」。恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい(ピリピ2:12)。
神を畏れる悔い改めは自らの罪深い性質を悲しむという特徴を持つ。パウロは言っている、「今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」(2コリント7:9–10)。聖書に記録されている悔い改めの例を見てみよう:
- 泥棒(エペソ4:28):「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」。我々の教会では、これを行う。金銭の最善の使い方は、それを持たない人に与えることである。
- 放蕩息子(ルカ15:21):彼は邪悪な心で立ち去ったが、後に従順を取り戻し、主なる神と父のところに戻った。
- ザアカイ(ルカ19:8–10):「ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。神が我々の心に来られると、金銭は貧しいものを助けるために出ていくのである。
- 罪深い女性(ルカ7:44–48):「それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。ヨハネ8章の記録にあるように、主イエスは、姦淫の女に「姦淫の罪を犯さないように」と言われた。
預言者、主イエス、そして使徒たち、即ち預言者等は我々に悔い改めを命じておられる。反律法主義者は救いのために悔い改めが必要だとは言わない。むしろ、「罪をもって、天の国に招かれよ!」と言う。悔い改めが永遠の命の条件となるのは大変な間違いである、と彼等は言う。救いは、「完全な無代価である。なんら義務はない」と言っている。組織神学の教授ロバート・レイモンドは、次のように述べている、「悔い改めない者が、永遠の命を得る、というような、それも、罪を犯し続ける状態で天の国に迎えられる、との教えは全く信じるに値しない」。実際、悔い改めないならば、救いも天国もない。罪を犯し続けて天国に行くことは決してできないのである。しかし、もしそう信じているならば、あなたはいずれ地獄に驚くであろう!従って、悔い改めの必要性を否定している反律法主義者が悔い改めるように祈るべきである。そして、神の前で悔い改めによって生き、善お行いによって悔い改めを証明するのを、主なる神が助けてくださるようにも祈るべきである。[1]
[1] 引用: James M. Boice, Foundations of the Christian Faithキリスト信仰の基礎; Wayne Grudem, Systematic Theology組織神学; John Murray, Redemption Accomplished and Applied 贖いの完成と適応and Collected Works, vol. 2, Systematic Theology; J. I. Packer, Knowing God神を知るとは; Robert Reymond, A New Systematic Theology of the Christian Faithキリスト信仰の新組織神学; R. C. Sproul, Essential Truths of the Christian Faithキリスト信仰の必須の真理.
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