罪赦された者よ、赦して忘れよ
Matthew 7:1-5P. G. Mathew | Sunday, January 10, 2021
Copyright © 2021, P. G. Mathew
Language [English]
赦された者は赦し忘れる。マタイ6:12にはこう書いてある、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」。「私たちはすでに赦されているように」という言葉は、アオリスト(過去)の時制である。悔い改めた者の罪を赦さなければ、神に赦しを求めることはできない。だから、主イエスは、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」と祈るように教えておられる。
「赦せ」とは、「消してしまえ」という意味である。それは罪を帳消しにすることである。マタイ5:23–24で主イエスは、私たちが祭壇で神に贈り物をささげているときに、誰かが私たちに対して恨みをいだいていることに、御聖霊が気づかせてくださったなら、その礼拝をやめ、贈り物を祭壇に置いて行き、その人と仲直りをせよ。悔い改めよ、そうすれば彼はあなたを赦す。清い心なしで礼拝をするな。神はそのような礼拝を受け入れられない。神が受け入れられる礼拝は、神のところに来て、配偶者、子供、隣人など、すべての人を赦すことを意味する。主の日に主を礼拝することは重大なことである。聖餐式の前に、自分の心が純粋であることを確認すべきである。
マタイ18:21–35を考えよい。こう書かれている、「ペテロがイエスのもとにきて言った、『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、何回ゆるさねばなりませんか。7回までですか』。イエスは彼に言われた、『わたしは7回までとは言わない。7回を70倍、赦しなさい』」。それは無制限を意味する。神に感謝、神の赦しに限界はない。毎日赦しが必要である。私たちは神に対して犯した罪さえ忘れている神の赦しに限界はない。
そこで主イエスは喩えを言われた、「それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた」。我々の罪は、無限・永遠・聖なる神に対して犯されている。だから無限である。私たちの罪は小さくない。巨大である。「この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。完全に赦し、罪を忘れることができるよう、主なる神が助けてくださるよう。
私たち一人一人は、主イエスに無限の負債を負っている。主イエスは私たちを購入された。彼が支払った代償は最大であり、それは主イエスの血である。その無限の代価を払って、私たちの罪を赦されたのだ。エペソ1:7は言っている、「わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである」。その無限の救いの恵みを神に感謝せよ。
私たちの救いの代償はイエスの血であり、それは無限の価格である。使徒20:28は言う、「神が御子の血でわたしたちをあがない取られた」。ルカ6:37で主イエスは言われた、「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう」。主イエスは、ここで不義の裁きのことを言っておられる。「ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう」。言い換えれば、私たちが他の人を赦さなければ、神は私たちを赦されない。「ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう」と書いてある。これは神の受動態である。それは、私たちが神ご自身によって赦されることを意味している。
イザヤ38:17にある、「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった。あなたはわが命を引きとめて、滅びの穴をまぬかれさせられた。これは、あなたがわが罪をことごとく、あなたの後に捨てられたからである」。神は私たちの罪を見ることはされなくなる。即ち私たちの罪はすべて赦されるのである。それらは永久にキャンセルされるのである。
イザヤ43:25で主は言われる、「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」。言い換えれば、神は私たちの義のためにではなく、神御自身のために赦されるのである。だから、イザヤは神の本質は罪を赦すことであると言う。神は「あなたの罪をもう覚えていない」とも言っている。主なる神は、それらの罪を忘れてしまわれる。どのようにして、忘れることができるのか?赦し、忘れる、それが可能なお方なのである。
同様に、罪を赦された人は、罪を赦し、忘れることができる。他の人がどんな罪を犯したかを覚えている優秀な人々がいる。彼らは常にそれらの罪について思い出させる。その優秀な人々は救われておらず、彼らの罪は赦されていない。
イザヤ44:22–23で、主は言われた、「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」そして、罪の贖いに基づき、イザヤは言っている、「天よ、歌え、主がこの事をなされたから。地の深き所よ、呼ばわれ。もろもろの山よ、林およびその中のもろもろの木よ、声を放って歌え。主はヤコブをあがない、イスラエルのうちに栄光をあらわされたから」。神は一人の人も救う必要はなかったのである。私たちは罪の中に生まれた、生まれながらの罪人であり、罪を実践するためだけに生まれたような者であった。しかし、私たちはその罪が赦された。これこそ神の栄光である。
ローマ9:13は言っている、「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」。両方ともに罪びとであった。しかし、神は特定の人々を救われるように選ばれる。これに対して異議があるなら、無限の神に対して異議を唱えよ。救われる者は、私であってもあなたであっても、神に感謝する。神は誰かを救う必要はなかったにもかかわらず、あなたが救われたということは、喜ぶべきことである。
エレミヤ31:34は言っている、「人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。神はわたしたちの罪を忘れられる。赦された後に忘れられるのである。
エレミヤ50:20は、驚くべきことを言っている、「主は言われる、その日その時には、イスラエルの咎を探しても見当らず、ユダの罪を探してもない。それはわたしが残しておく人々を、ゆるすからである」。これこそ、栄光とされる、ということである。罪はどこにも見当たらない。「イスラエルの咎を探しても見当らず、ユダの罪を探してもない。それはわたしが残しておく人々を、ゆるすからである」。ハレルヤ!私たちの罪悪感はなくなる。多くの人は、特に悪魔自身も、その罪を探し回るが、宇宙のどこにもそれはない。主イエスの血に覆われてしまったのである。
ミカ7:18–19にある、「だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のために咎を見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず、再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れられた」。神は「罪を赦し、残された者、即ち選びの民の罪を赦される。そうであれば、あなたは永遠に怒り続けず、憐れみを喜んで示すようになる」。
主の慈しみは大いなり。
その恵みは豊かなり。
赦しは豊かに与えられ、
わが重荷は去り、心は自由に、
カルバリの十字架により。
そこでミカは言う、「主よ、あなたは永遠に怒り続けられず、喜んで憐れみを示されました。あなたは再び私たちを慈しまれる。あなたは私たちの罪を踏みつけられ、すべての不義を海の深みに投げ込まれる」。私たちの神はすべての罪を忘れられる。神が私たちを赦してくださると、私たちの罪をもはやみられない。それらを忘れられる。
ルカ24:46–47で主イエスは言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる」。これは神が私たちの救いのために支払った代価である。私たちは借金を負っていた。神がその借金を支払われたからこそ、私たちは神を礼拝し、賛美し、栄光をほめたたえることができる。だからこそ、「その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」。私がこの福音をあなたに伝えるために、神は私を世界の反対側に連れて来られた。それは、神があなたを愛し、世界が創造される前から、永遠からあなたを選ばれたからである(エペソ1:4)。
エペソ4:32で、パウロは教えている、「互に情け深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい」。神は私たちそれぞれを一気に完全に赦してくださった。私たちは、他の人にも同じことをすべきである。2コリント5:19は言っている、「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである」。私たちは神に無限の負債を負っていたが、主イエスはその負債をすべて支払われた。今、神はその罪を数えられることはない。私たちの代理である神の人イエス・キリストがそれを背負われたのである。キリストは決して罪を犯されなかった。彼は私たちの罪のために死に渡された。私たちは罪を犯したが、彼がその代価を支払われた。これこそ私たちのためである。そして、2コリント5:21に書いてある、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。私たちは人の義ではなく、キリストの義に身を包んでいる。そして、神が私たちを見るとき、完璧であると見なされる。我々には理解しがたいが、それこそ驚くべきことである。私たちは唯々主に栄光を帰すのみである:神は私たちの罪を赦されたのである!だからパウロは書いている、「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ6:23)。我々には地獄が待っていた。しかし神は永遠の命を与えて下さった!
主イエスは弟子に言われた、「しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:20)。次のことも理解しがたいが、唯々喜ぶべきことである。永遠のいのちの書に、神は私たちの名前をすでに救われた人々として、書かれたのである。それも、永遠の過去において書かれたのである。ピリピの監守が尋ねた、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:30–31)。私たちは神に信頼し、従わなければならない。神は、私たちが信頼して従うのを助けてくださる。神は私たちを再生させられる。神からの一方的な働きによるのである。本質的には、私たちは二度死んでいる状態であった。だから、私たちには何もできなかったのである。神は、まず私たちを再生される。そして、私たちに罪の悔い改めの機会を与え、私たちは悔い改める。そして、神は、私たちに信仰を与え、私たちは主イエス・キリストを信じるようになる。だから、こう書いてある、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)。救いは全て神からの恵みによる。詩編130:3-4で、作者は尋ねる、「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう」。詩編作者は、神に従い、そして信頼したのである。
マタイ6:14–15で、主イエスは言われた、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」。私たちに対して罪を犯した者が悔い改めたとき、その者を赦すのが良いのである。(PGM) ルカ17:4で、主イエスは言われた、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」。そして、これは一年に2,555回、赦すということである。「自分の罪を悔い改めます」と言ってきた人たちを赦さなければ、それは、私たちが救われていないことを証明している。
マルコ11:25で、主イエスは言われた、「また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう」。私たちが他の人を赦さなければ、私たちの祈りは聞かれない。そのように礼拝することはできない。他の人を赦すなら、「誰かがあなたに対して問題を抱えています。彼を赦しなさい」と御聖霊が言われるのである。私達は赦さなければならない。
コロサイ3:11–13でパウロは言っている、「そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責めるべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい」。
救いには3つの重要な要素がある。 最初は十字架である。主イエスは言われた、「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」(マタイ26:28)。罪を犯したことのないキリストは、私たちの罪の代わりに死なれた。二つ目は、信仰である。使徒10:43は言っている、「預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。マタイ1:21にあるように、「その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。三つ目は、悔い改めである。ルカ24:46–47は言っている、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」。
だから十字架を見上げよ。誰が十字架につけられているか?それは、主イエス・キリストである。十字架につけられたのか?それは私たちの罪のためにである。そして、神ご自身が私たちに信仰を与えてくださるのである。我々が真の救いの信仰を生み出すことはできない。パウロは真の悔い改めの意味を教えている、「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」(エペソ4:28)。盗人は盗んだが、今は悔い改めて、働いて与える者となった。真の悔い改め、それは180度の変化を意味する。
結論
いくつかの質問とコメントで締めくくろう:
1.私たちは、私たちに対して罪を犯した者を赦したか?
2.私たちは、無限の負債を神によって赦されたにもかかわらず、自分に対して借りのある者を赦さないような人間かどうか(マタイ18:21–35)。
3.イエスが十字架で血を流されたとき、神に対する私たち自身の無限の負債が、主イエスによって支払われたことを理解しているか?私たちは罪を犯したが、彼は私たちの罪のために死なれた。
4.神が私たちの赦された罪を見ることを拒まれることを理解していりか?彼は忘れられる。それは不可能に思えるが、それは本当である。
5.神は私たちの罪を一気に全て消し去ってくださる。
6.彼はそれらをもう覚えておられない。神は赦し、忘れられる。
7.悪魔は私たちの罪悪感を探すかもしれないが、それは見つからない。悪魔は私たちの罪悪感を私たちの心にもたらす。「それは神によって赦されている」悪魔に対して宣言せよ。
8.私たちの罪悪感は海の深みに沈められ、そこには注意表示がある。何と書いてあるか?「ここで釣りをするな」である。
9.他の人があなたに対して犯してもいないのに、罪であると間違って判断するな。私たちは物事を想像する。悪魔は私たちの頭の中にそのような想像を吹き込む。
10.他人を赦すことに制限はない。70 x 7は、制限がないことを意味する。
11.キリストが私たちの罪のために、罪悪感のために、そして受けるべき罰のために死なれた。これによって、無限の神に対して犯した私たちの無限の罪は、正当に赦されたのである。改革神学は、主イエス・キリストが私たちの罪のために地獄に行ったと言っている。
12.神が私たちの実際の罪の記録を残しておられるなら、だれも救われることはできない。神に感謝せよ。神は記録をつけておられない!
13.神が私たちを赦してくださるのと同じように、私たちは赦すべきである。私たちの罪を消し去られた。もう覚えておられない。これこそ奇跡である。
14.赦された者よ、赦し、忘れよ。
15.私たちが他の人を赦さないなら、私たちはキリスト者ではなく、赦されておらず、邪悪である。
16.悔い改めがなければ、神からの赦しはない。
17.悔い改めの証拠がなければならない(使徒26:20; ルカ3:8)。盗んだ者は与える者となる。
18.より多くの罪を犯すために赦しを悪用するな。その悪用とは、「私たちは罪を犯し、神は赦す。赦すのが神の仕事なのだ。だから、私たちは罪を犯し続け、彼は赦し続ける」という考え方である。
19.あなたが他の人を赦さなければ、神はあなたを赦されない。あなたは自分の罪で死ぬであろう。
20.主イエス・キリストへの信仰と真の悔い改めがなければ、神からの赦しはない。
21.私たちは罪の悔い改めと信仰の救いによって毎日生きている。だから、私たちは毎日、「神様、私たちの罪を赦してください」と祈る。
主なる神よ、私たち罪人を憐れんでください。私たちに罪を犯した人たちを赦したように、私たちのすべての罪を赦してください。 主イエスの名において祈ります。 アーメン。
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