霊的再生

John 1:12-13
P. G. Mathew | Sunday, November 10, 2019
Copyright © 2019, P. G. Mathew
Language [English]

序論

霊的再生とは何か?それは上から生まれること、即ち、御聖霊から生まれることである。霊的に死んでいる人々が、霊的に再生されると、その結果、自らの罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じることができるようになる。

自称クリスチャンの多くの人々は、自分が罪のために霊的に死んでいても、そうとは知らないため、霊的再生に関して正しく聖書を理解していない。罪人は神に対して死んでいる。彼らは罪を犯すことしかできない。罪人は悔い改めなくとも、霊的に再生しなくとも、彼らは主イエスを信じることができると思っている。このように、ある人は、自分が完全に霊的堕落状態にいるのを知らない。多くの福音主義者は、霊的再生こそが、悔い改めと信仰に先立つという事実を知らない。

霊的再生は神の秘められた行為である。神は霊的に死んでいる罪人の中から、特定の人を選び、霊的に復活させ、神と共に生きる霊的生活を即座に与えられる。しかし、霊的に死んでいる罪人は単に病気の状態にあるだけではなく、神を喜ばせるために何もできない。

サンヘドリンのユダヤ人教師ニコデモは、ヨハネ3章でイエスと面会しても、霊的に再生しなかった。詩編51:5には、「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」とある。人は再生していないなら、罪に身を投じるような人生を歩むだけである。即ち、罪人として生まれ、生涯罪を犯し続ける。

I. 霊的に再生していない人

罪人、即ち生まれながらの人は霊的に死んでいる。神の選びを経験することのない罪人は、エサウのようであり、これに対して、神の選びを体験する罪人は、神が愛したヤコブのようである、「『わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてあるとおりである」(ローマ9:13)。「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか」(ローマ9:22–23)。

主なる神による選びの罪人だけが霊的再生を経験する。彼らは良い土地であり、良い実を結ぶ(エペソ2:5、10;ルカ8:15)。

教会の中には霊的に再生していない人がいる。彼らは実を結ばない。イエス御自身が言われた、「実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、[父なる神が]手入れしてこれをきれいになさるのである」(ヨハネ15:2a)。また、こう言われた、「人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、[地獄で]焼いてしまうのである」(ヨハネ15:6)。そのような人々は、キリストとは実質的な関係がない。やがて彼らは教会を去る。ヨハネは言っている、「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである」(1ヨハネ2:19)。彼らは、神の栄光のために実を結ぶことはできない。主イエスは言われた、「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15:5b)。墓の中の死んだラザロと同じくらいに霊的に死んでいる。従って、キリストと生き生きと結びついている人々だけが、霊的に再生しており、かつ神の栄光のために、実を結ぶことができる。

自称クリスチャンの多くは、霊的に再生されていないため、実りがない。次の聖書の箇所で説明されている:

  • 1コリント2:14:「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」。
  • エペソ2:1–2:「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである」。
  • 創世記6:5:「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた」。
  • エレミヤ17:9:「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。
    だれがこれを、よく知ることができようか」。
  • ローマ3:10–18:「次のように書いてある、『義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、
    ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない』」。

霊的に再生していない人々は無力で、不敬な罪人であり、神の敵である(ローマ5章)。神の怒りの下にあり、すべきでないことをする堕落した心を持っている(ローマ1:28)。また彼らは、神の国を見ることも、神の国に入ることもできない。永遠の命から締め出されているのである。即ち、肉から生まれたものは肉である。彼らは、結局ユダのようにお金に頼る。彼らは再生されない。ユダは、唯一の救い主イエスを裏切った。彼は金のためにすべて捨てて、最後は首つりで地獄に行った(ヨハネ17:12)。

II. 霊的に再生した人

主なる神は聖霊を通して霊的に死んでいる罪人を再生させる。再生した人は、新しい心、新しい意志、新しい好みを持つ。彼は真に罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる。イエスが主であると告白し、畏れおののいて、救いの完成に努めるのだ。聖書にこう書いてある、「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったので」(エペソ2:5, 10)。再生した人は、内住される御聖霊の良い働きにあふれており、神の国を理解し、永遠の命を経験する。

霊的に再生した人はエゼキエル36:25–27の意味を理解している:「わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる」。サンヘドリンのメンバーでありユダヤ人の教師であるニコデモは、この聖書の箇所の意味が理解できなかった。

  1. 主なる神は選びの民を福音によって清められる。水のバプテスマは、キリストと神の民の重要な一致の印であり、これが清めるのではない。我々は、キリストの復活の力によって生きる(ローマ6:1-4)。以下のように書いてある:
    • ヨハネ15:3:「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」。
    • ヨハネ17:17:「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」。
    • エペソ5:25–26:「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためである」。
  2. 主なる神は我々に新しい心を与える約束をされた:
    • 神の思いを考えるということが聖書で教えられている。2テモテ3:16-17は言っている、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」。
    • 「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」(マタイ7:24).
    • 主なる神が我々に感じるように示しておられるように、我々は感じるべきである、「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない」(ローマ5:3-5)。
  3. 我々に新しい霊を与えられる。
  4. 主なる神は我々から石の心、反抗の心、不従順の心を取り除かれる。
  5. 神に従う従順な血の通ったあ心を我々に与えらえる
    • イザヤ 11:2–3a:「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。彼は主を恐れることを楽しみとする」。
    • 詩篇 1:2:「このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う」。
  6. 神は我々の心に聖霊を内在させられる。
  7. 神は御心を行えるように我々を導かれる。パウロは書いている、「たしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ2:12–13)。

霊的再生は、生まれたときに子供が受けみであるように、我々が受動的に神から受けるも。 霊的再生は浄化と再建である。それは、我々を霊的な者(プニューマティコス)とする。即ち、聖霊の満たしと力を与える(1 Cor。2:15)。これは、神による新しい創造にほかならない。以下のように書いてある、

  • 2コリント5:17:「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。
  • ガラテヤ6:15:「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである」。霊的再生は、キリストの者となるために、非常に重要な、絶対的必須条件である。
  • エペソ2:5:「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである」。
  • コロサイ2:13:「あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった」。
  • ヨハネ5:21:「すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう」。

R. C.スプロール氏は次のように述べている、「[御聖霊]は人間の心を再創造し、霊的死の状態から生き返らせられる。この霊的再生において、神は人間の心に、神を願い求める心を与えられる。霊的再生なくして、このような願いは存在せず、再生こを霊的命の出発点である[1]

霊的再生は瞬間的であり、プロセスではない。それは悔い改めと信仰の先に起こる。再生が最初に起こり、その結果、我々は悔い改め、キリストを信じる。それは子宮の中で体が作られるように神秘的で不可知である。未再生の人は死んでいるので、まず生き返る、再生が必要である。

霊的再生は、我々が気づかない間に起こる。幼児でさえ再生することがある。例えば、生まれる前のバプテスマのヨハネについて言及されている、「彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされている」(ルカ1:15)。

霊的再生は神の意志である。ヨハネ1:12–13は教えている、「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血筋によらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」。ヤコブ1:18に書いてある通り、「[父なる神は]、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである」。

洗礼によって再生されるという教え(エクス・オペレ・オペラト)は聖書的ではない。カトリック教会と正教会は洗礼による再生を教えている。真実は、父なる神が御聖霊を通して罪人を再生し、再生された人が悔い改めてイエス・キリストを信じる、ということである。主イエスは言われた、「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ6:44)。主イエスはまた言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」(ヨハネ6:65)。これを有効召命と言う。主なる神があなたを呼ばれても、あなたは死んでいるので神のもとに来ることができない。しかし、神があなたを再生し、神のもとに彼に来る能力を与えられる。だから、有効な召命である。神が選ばれた罪人を呼ぶとき、神は彼を再生させられる。

霊的再生について次のことを考えよ。

  1. それは悔い改めと信仰の前に起こる。
  2. 我々は霊的に死んでいたので、それが必要であった。
  3. それは瞬間的に起こる。
  4. それは神の独創性による。つまり、神のみがあなたを再生させられる。
  5. それは神の神秘的働きである。
  6. それは拒絶不可能である。人々は拒絶しようと抵抗するかもしれない。しかし、神は淡々とそれを行われる(エペソ2:5, 10を参照)。
  7. 主イエスは言われた、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)。
  8. それは究極である。思考、意志、感情、人全体に影響を及ぼす。
  9. It is for tそれは選びの民のためである(ローマ8:29)。
  10. 幼児に対しても起こることがある。バプテスマのヨハネについて読んだように、幼児は再生されるかもしれない(ルカ1:15)。
  11. それは神の意志によるものである(ヨハネ1:13)。
  12. 我々はイエス・キリストにあって再生される:「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ2:10)。
  13. 霊的再生によって、我々はプニューマティコス、聖霊に満たされ、力を与えられ、啓蒙された人々になる(1コリント2:15)。
  14. それを通して、死んだ人は生き返る(ヨハネ5:21)。「あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった」コロサイ2:13。
  15. 霊的に再生した者は最後まで耐え忍び信仰を保ち続ける。

III. 再生した生活

では、霊的に再生した生活を見てみよう。あなたが再生されないなら、罪と不法にまみれて死んでいる。再生と道徳を混同してはならない。霊的に死んでいる道徳的な人々が世界に大勢いる。道徳的な人々は、一般恩寵による神の恵みを受けているかもしれない。しかし、特別恩寵による神の恵みがある。これは霊的に再生した神の人々だけに与えられる。

それでは、その霊的再生の効果はどういうものか?

  1. 霊的再生は、その人の人格を変え、無法で不敬なものから、合法で敬虔なものに変える。
  2. 再生した人は信仰の従順によって生きる(ローマ1:5)。 注意せよ:良い行いも神に対する従順もない、いわゆる偽りの信仰というのがある。主イエスはマタイ7:21–23でそのような人々について語られた。彼らは「主よ、主よ」と口では言うが、主イエスは、「あなたがた不法を働く者よ、わたしから離れされ」と言われた。言い換えれば、「お前たちは邪悪だ」という意味である。今日の多くの福音派教会に属する人々は、「主の名を呼ぶことができるが、主イエスに必ずしも従う必要はない」と教えています。
  3. 霊が再生した人は良い人である。過去には悪かった。神は彼を善人にした。だから、良い木のように、良い実を結ぶであろう。良い土のように、彼は神の言葉を聞いて理解し、守って、忍耐し、三十、六十、百倍の作物を生み出す。善人となり、心に蓄えられた神の言葉の良いものを出す(ルカ6章)。
  4. 霊的に再生した罪人は、悔い改め、イエス・キリストを信じ、彼に従う。主イエスは、「私に従え」と言われた。 再生した人々にとって、イエスに従うことは簡単で楽しい。律法的なことではない。
  5. 御聖霊は霊的に再生された人に宿り、啓蒙し、力を与え、導かれる。聖書を読むとき、御聖霊はあなたを啓蒙し、力を与え、導かれるのだ。ローマ8:14は言う、「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」。御聖霊は、特に聖書を通して、父が子供を導くように、神のすべての民を導かれる。宗教改革時の偉大な神学者であるジョン・カルビンは、「神が御言葉によって我々に要求されるものを、神は同様に御聖霊によって与えられる」と言った。
  6. 霊的再生を通して、死者は生き帰る。暗闇が光に変わる。我々は、かつて死んでいて、闇であった。しかし今や、生きており、光に変わった。主イエスは言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ8:12)。主イエスはまた言われた、「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい (マタイ5:14, 16)。
  7. 神から生まれた人は、神に栄光を帰し、永遠に神を楽しむために生きている。ヨハネは最初の手紙で、再生した人について次のように言っている。
    • 1ヨハネ2:29: 「彼の義なるかたであることがわかれば、義を行う者はみな彼から生れたことを、知るであろう」。言い換えれば、聖書に度々記録されている通り、霊的再生した人は、神の目の前で正しいことを行うようになる。霊的再生の人は神の言葉に従う、即ち主なる神に従う。神に従わないのは、本当に再生していない証拠であり、その場合、本当は霊的に死んでいて、未だ悪魔の子であるということである。
    • 1ヨハネ3:9:「すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない」。霊的再生は悔い改めを促す。再生は信仰によって生きるようにするので、再生した者は、罪を犯し続けることはできない。使徒26:20に書いてある、「まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました」。単に「わたしは再生したキリスト者だ」と主張するのではなく、私たちはその御聖霊の力によって再生した生活を送らなければならない。再生は放蕩息子のように悔い改める。百八十度の変化である。息子は父親のもとに戻って言った、「私は神とあなたに罪を犯しました。 私はあなたの息子と呼ばれるに値しません。 私をあなたの奴隷にしてください。」 父は何と答えたか?「いや、あなたは私の息子だ。祝おう。息子は死んでいたのに、今は生きている。いなくなっていたのに、見つかった」。何が起こったのか?霊的再生、悔い改め、信仰が起こった。
    • 1ヨハネ4:7:「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている」。霊的再生は神と神の人々を犠牲的に愛する(ルカ10:27参照)。ヨハネは書いている、「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか」(1ヨハネ3:16–17)。彼は偽物であるが、教会にもいる。4つの土地の喩えにある4通りの人々はすべて教会の中にいる。
    • 1ヨハネ5:1:「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである」。キリストの教えは、牧師が話す物語に心をなごませる感情主義ではない。もしもあなたが霊的に再生しているなら、正しい神学を持っているはずである。神から生まれた人は、使徒の教えを信じる。イエスはキリストであり、油そそがれた者である。創世記3:15に約束されているように、「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。あなたは、主イエスが預言者、祭司、そして王の王であると信じる。主イエスが神であり、人であると信じる。また、すべての膝が屈み、すべての舌が「イエス・キリストこそ父なる神の栄光であり主である」と告白する、ということをあなたは信じる。
    • 1ヨハネ5:4:「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である」。ここでいう信仰は客観的な信仰を意味する。神から生まれた人は、キリストが永遠に打ち負かした世界と悪魔に打ち勝つ。だからこう書いてある、「そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう」(ヤコブ4:7)。悪魔は我々よりも力が強いが、キリストは自らの死によって十字架で悪魔を打ち負かされた。ヘブル2章は言っている、「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」(へブル2:14–15)。また、1ヨハネ3:8は言っている、「罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである」。だから、神に従い、悪魔に抵抗せよ。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去る。
    • 1ヨハネ5:18:「すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない」。主イエスは再生した人々を守り続けられる。(PGM)彼らはキリストの中におり、永遠に安全である。守り、つまり、彼らはキリストの中におり、キリストは彼らの中にいるのだ。神はあなたの周りの火の壁であり、内なる栄光である。こう書いてある、
      • ヨハネ10:10, 28–29:「しかし、どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えない場合には、大通りに出て行って言いなさい」。「彼に言われた、『あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる』すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、『では、わたしの隣り人とはだれのことですか』」。
      • ローマ8:35–39:「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。これこそ永遠に続く保証である。

神から生まれた人は、破滅の運命にある反律法主義者ではない(マタイ7:23)。神から生まれた人は、神から離れた自律的な生き方をしない。すべての人は悪魔の子か神の子のどちらかである。悪魔の子は罪を犯し続けるが、神の子は神に従い続ける。

我々は、霊的に再生した誇りある主イエスの奴隷であり、主イエスの言われたことを実践する。マタイ7:24で主イエスが教えられた、「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」。私たちは霊的に再生しているので、神の言葉を聞いてそれを行う。我々は、「主よ、あなたの奴隷は聞いています」と言った若いサムエルのようなのだ(サムエル第一3:10、マシュー牧師の翻訳)。

主イエスは完全に父なる神に従われた。我々は主イエスに従うべきである。へブル5章に書いてある、「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、完全な者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となられた」(へブル5:8–9, マシュー牧師の翻訳)。イエスに従わないなら、あなたは劣化しており、再生してはいない。あなたがイエスに従わなければ、彼はあなたを救っていないのだ。

パウロは書いている、「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」(エペソ4:28)。ある盗人が霊的に再生した場合、その盗人は:

  1. すぐに盗みを停止する。
  2. すぐに自らの手をもって働き始める。
  3. 家族を支える。
  4. 特に教会で、困っている人を支援し始める。教会は信仰者の家、神の家族、兄弟姉妹、父と母である。神の家族を支える義務がキリスト者にはある(エペソ2:19とガラテヤ6:10参照)。
  5. 以前は盗んでいたが、今は与える者となっている。
  6. 放蕩息子のような人生から百八十度の変化をもたらす。彼は死んでいたが、今は生きている。暗闇であったが、今、心は軽く、明るい。良い仕事もなかったが、今は良い仕事をしている。

霊的再生した者は最後まで忍耐し続ける(ユダ24〜25節)。霊的再生した者は、罪を犯すために真のキリストの教会を離れることはない。1ヨハネ2:19を考えよ、「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである」。

結論

  1. 霊的に再生するまで、その人の親は悪魔である。彼は神に対しては死んでおり、罪の中で生きている。そのような人々に対して、イエスは言われた、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ」(ヨハネ8:44)。悪魔は嘘つきである。主イエスは真実を語られる。
  2. 自分自身をクリスチャンと自称する多くの人々は、霊的に再生していない、反律法主義者であり、聖書を知らない。
  3. クリスチャンの生活は霊的再生から始まる。これは100%御聖霊の働きである。これは、聖なる一元論と呼ばれている。
  4. 神によって選び分かたれた罪人たちは、霊的に再生し、宣べ伝えられた福音を聞いて、悔い改め、イエス・キリストを信じるようになる。パウロは書いている、「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである」(コロサイ1:13–14)。また、使徒16:14 に記録されている、「ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うリディヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた」。リディヤについて、次の点を考えよ:
    • 「主は彼女の心を開いた」この開くという動詞は過去の時制を意味するアオリスト時制である。彼女の心は、かつて福音に対して閉じていた、ということだ。しかし再生によって、主はリディアの閉ざされた心を開き、福音を聞くようにされた。
    • その結果、彼女は福音を信じた。
    • 結果、彼女は洗礼を受けた。
    • 結果、彼女は良い行いをするようになった。パウロを家に招待してもてなし、近隣の知り合いに伝道した。

    注意せよ。霊的再生が最初であり、これに悔い改めと信仰が続く。その後で、水のバプテスマが続き、次に良い行いが続く。自分が救われていることをどうやって知れるか? もし救われているなら、あなたは良い行いに励むであろう。パウロは言っている、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ2:10)。

  5. 霊的に再生した者は、悔い改めと信仰によって、人生の全てを生きる。人生を通して、忍耐し、信仰をまもり続ける。パウロは教えている、「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ2:4–10)。

あなたに聞いてみよう。あなたは霊的に死からよみがえり再生して、罪の悔い改めと神への信仰によって、神の栄光のために良い行いに励んでいるかどうか? もしそうなら、神を賛美せよ! あなたは、神によって選び出された者である。主の栄光を受けるであろう。神があなたに与えられる最大の贈り物は、既にあなたに与えられた。死は消え、闇は消え、今は、永遠の命を生きている。

しかし、霊的に再生していなければ、あなたはまだ死んでおり、あなたの親は悪魔である。私はあなたに助言がある。神の慈悲を得るため、神に叫べ。ルカ23章で、2人の泥棒のうちの1人が刑で死ぬ前に霊的に再生され、主イエスに信頼し、キリストと共に天の国に行った、と語っている。

もう一度、希望を提示する:神に叫べ。パウロが言うことに耳を傾けよ:「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン」(1テモテ1:15–17)。取税人は叫んだ、「主よ、罪人である私を憐れんでください!」 彼は、義とされ、罪が赦され、永遠に救われた、と聖書は伝えている。あなたも、今、同様に、義とされ、罪が赦され、永遠に救わる。

主イエスは、二千人もの悪霊を持つ男を救い出された。聖書は、その男は裸で騒ぎ立て、墓場に住んでいたが、主イエスは彼を探しあてて、見つけ出した上に、悪霊を全て追い出して彼を解放された。マルコ5:15は、その男は服を着て静かに座って、正気になっていた、と記録している。同じように、主イエスはあなたを救うことができる。あなたが今日、主イエスに救いを叫び求めるなら、神が必ずあなたを救われ助けてくだる。

[1] R. C. Sproul, Essential Truths of the Christian Faith (Wheaton, IL: Tyndale, 1992), 171–172.