あなたは救われているか?

2 Peter 1:8-11
P. G. Mathew | Sunday, June 24, 2018
Copyright © 2018, P. G. Mathew
Language [English]

2ペテロ1:8-11
2ペテロ1:5-7で、著者は真のクリスチャンを定義する8つの霊的資質を挙げている。ペテロ2:1-8-11では、これらの資質を増やす必要を教えている。これは、我々の信仰が、効果あるもの、生産的となるものとなり、最後に神の永遠の神の国へと導く。これがキリスト者の生活の目的である。

ウェストミンスター小教理問答の最初の問は、「人の真の目的は何ですか?」と問いかける。人間存在の目的は何か?答えは、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ」ということだ。イエスはマルタに言われた、「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」(ルカ10:42)。主イエスは、この世に来られ真理を教えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」(ヨハネ18:37)。言い換えれば、神が呼び出された者は主イエスの言葉に耳を傾ける。彼らは、神の御心を聞いて行い、永遠に祝福される。その他の者は、聞こうとしない。聞いているふりをするかもしれないが、本当に聞いて従わない。ヨハネは、このことを書いている、「そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」 (1ヨハネ5:11–12)。ヨハネは永遠の命のことを言っているのである。

神は、全ての人に、悔い改め (使徒17:30)、神の子イエス・キリストの御名を信じ、互に愛し合わなければならないことを命じておられる(1 ヨハネ3:23)。「わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」という監守の質問にパウロは答えて言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:30–31)。パウロは、ローマ10:9で「イエスは主である」と口で告白することを教えている。我々は、「神に従います」と心から仕える者として歩む時に、神に祝福された保証、完全な喜びと安息・平和を体験できる。

だからパウロは書いている、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」のである。それが偽ることのない神の約束である。主イエスはニコデモに、聖霊によって再び生まれ直さなければ神の国を見ることや、神の国に入ることはできない、と言われた。キリストに信頼することなしに、我々は神に栄光を帰することにならない、そして、この人生や来るべき人生を楽しむことはない。

2 ペテロ2:10でペテロは主イエスに信頼する人々全てに命じている、「ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい」。終わりの時に、主イエスがこの地上に住んでいたすべての人間を裁かれるのである。主イエスは次のように言われるであろうか、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい(マタイ25:34)。それとも、次のように言われるだろうか「のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ」(マタイ25:41)。

人生の主な目的は、悔い改めて主イエス・キリストを信じ、聖さに成長し、私たちの主キリストである神の御子の姿を目指して主に従うことである。ペテロ1:8-11は、信仰者ペテロが自分の召しと選びをどのように確信するかを伝えている。主イエスは、予告されたように、十字架にかかられようとしていた。ペテロ自身も殉教の前に自分の召命と選びを確信していた。

あなたは、自分が罪から救われたことを確信すべきである。罪の呵責と永遠の罰、神からの怒り、そこからあなたが救われるのは、キリストによる。キリストに信頼することによって、これらから救われる。そのことを確信せよ。キリストは、我々の罪のために死に渡され、我々を神の前に正しい者と変えてくださる。完全な神であり人であられるイエス・キリストが罪の償いをされたのだ。ならば、あなたは、神の完全な正義を着ている。ローマ6:23にある、「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。次に、2 ペテロ1:8–11を見よ。

「もしこれらの資質をそなえているならば」(8節)

8節で、ペテロは5–7節で言ったキリスト者の資質について繰り返し書いている。これらの資質とは、

  1. 主イエスに対する生きている本当の信頼は、神から生まれたすべての人に与えられる神からの賜物であり、これによって永遠に主イエスを信頼するのである。
  2. 道徳的な卓越性。主イエスに信頼する者は、主イエスが生きられるように生きる。ヨハネは書いている、「キリストのうちにいる、と言う者は、キリストが歩まれたように歩むべきである」(1ヨハネ2:6)。我々が神に従う生活を送る。もし人が神に従う人生を送っていないなら、その人は未だ神に救われておらず、神の怒りの下にいる。真の信仰者は神に従う生活を送る。今日の多くの福音派の主な特徴は反律法主義であるが、真の信仰者はこれに反対する。
  3. 信仰者は、神の恵みの第一の手段である聖書、その知識に従って自らの人生を制御する。
  4. 自己制御。信仰者は、聖霊に整えられて生きる。この聖霊による制御は、人生すべてにわたってである。例外はない。それで、神の言葉に表された神の意志に対して「はい」と言って従い、「罪」に対しては「いいえ」と言って拒絶する。彼は御霊によって導かれているのである。パウロは書いている、「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」(ローマ8:14)。誰もこれをしません。 信者だけがこのように生きることができます。信仰者だけが導かれる、それ以外はそもそもこのようには生きない。
  5. 真の信仰者は主イエスに従うことをやめない。その者はマタイ16:24 の言う通りである。「それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。主なる神が定めた試練を通して、忍耐を学び、人格が建て上げられ、希望へと至り、むしろ試練の苦しみが神からきていることを知る。
  6. 主なる神を畏れる態度とは、常に我々が神前にいることを認識していることである。これを知ることで、我々は神を喜ばせるために生きる。我々は主なる神と共に生活するのである。
  7. 主にある兄弟に対する親切(兄弟愛)真の信仰を持つ兄弟姉妹同士として、犠牲的に愛する。1ヨハネ3:16–17に教えている、「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか?」。
  8. 上からの愛、神の愛(アガペー)、この愛をもって神の律法を全うする。ルカ10:27に教えられているように、「彼は答えて言った、『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』とあります」。また、こう書いてある、「愛は隣人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである」(ローマ13:10)。[1]

これらの資質がいよいよ豊になる(8節)

ペテロはこのような資質が 「いよいよ豊になる」ようにと勧めている(8節)。マタイ7:23の4つの土の話で、最初の3つの土は実りを産まなかった。彼らは偽のキリスト者であったのだ。主イエスは言われた、「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」。そのような反律法主義者は地獄に行く。4つ目の土は新生した真の信仰者である。彼らは、とても有益な実りをもたらす。聖霊の力によって三十倍、十倍、百倍の実を結ぶ。

聖霊は真の信仰者の中に住む。聖霊は、信仰者を教え、速やかに、正確に、かつ喜んで神の言葉に従うことができる力を与えられる。このようにして聖霊の実が産み出される、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」(ガラテヤ5:22–23). そのような人々は怠惰で不毛ではない。彼らは勤勉で実り多い。彼らは、主イエスが言われるように告白できる、「わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」(ヨハネ8:29)。

主イエスは今日まで最も生産的で実り多い人物であり、従って我々も生産的である。次の点を考えよ。

  • エペソ2:10: 「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」
  • 1 コリント15:10: 「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。」
  • 1 コリント15:58: 「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」
  • 1 テサロニケ3:12: 「どうか、主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように。」
  • 1 テモテ6:18–19: 「良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。」

真の信仰者は、救いの信仰によってキリストと結びついている。そのような人をどのように見分けることができるか?良い木は良い実を結ぶ。その実によって、真の信仰者を見分けられる。主イエスは言われた、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである」(ヨハネ15:1–2)。

私は苦しみを通して学んだ。神の人々は、苦しみの刈り込み、即ち試練を通して、主イエス・キリストを良く知るようになる。真のキリスト者は、神の恵みと主イエス・キリストを知ることによって霊的に成長している。今でなければ、いつか必ず刈り込み、試練、が来る。それには例外はない。主なる神はさらに実を結ぶようにされるのである。主なる神は、試練と同時に我々にこれを通り抜ける力をも与えられる。

主イエスは言われた、「人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである」(ヨハネ15:6)。ここで、主イエスは地獄について言っておられる。また言われた、「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」 (ヨハネ15:8)。主なる神は誰が神の子かを知っておられる。我々は、主に従うことが必要であり、弟子としての自覚が必要である。

偽りの信仰者は益をもたらさない葡萄の枝である。主なる神は、その枝をやがて切り落とし、地獄の燃やされる、と聖書は言っている。実を結ぶ枝は、剪定をして試練を与え、より多くの実を結び、神の栄光を表す。これが、キリストの弟子かどうかを見分けるポイントとなる。主イエスは、「あなたがたは私の弟子です」と言われた。我々は、主イエス・キリストに従うことによって実を結ぶのである。

従順の実を結ばない者(9節)

「これらの資質をそなえていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である」(9節)とペテロは言っている。信仰から始まって神の愛に帰着するような霊的性質を欠いている者は偽のキリスト者である、とこの箇所は教えている。やがて、これらの者は、切り捨てて捨てられ、干からびて、火で焼かれる。

天の国があり、地獄もある。実を結ばない自称キリスト者の運命は、信仰のない者と同様、栄光ではなく永遠の破壊である。そのような人は、永遠につながる現実というのを認めない。また、彼らは自分の罪深さを理解していない。救い主イエス・キリストの必要性も認めないし、永遠の地獄の運命を知らない。当然、神の国に感心がなく、即ち再生されていないので、神の国に入ることはできない。

そのような者は(ギリシャ語の意味で)近視的である。 近視眼でこの世界だけを見、その中に暮らしている(2ペテロ1:4)。様々な欲望によって生きる。それは彼らの多くがクレジットで物を購入していることに象徴されている。この腐敗した世の中しかないと思い、その中に住んでいるゾンビなのである。

そのような者は、自らの欲望によって生きる。結局、彼らの神は悪魔であり、この世界の神であり、彼を盲目にしているのである。自分自身の力で、この世の偶像を崇拝することから、そして死から免れることはできない。大抵において、おなんでも買うことのできるお金を崇拝している、といえる。狩れあの宝はこの世にある。そして、彼らは主イエスが言われたことに耳を傾けない、「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」 (マタイ6:19–21)。

そのような者は、主イエスに問いかけた金持ちの青年のようなものである。彼はイエス・キリストから離れて生きる罪深い人であった。そのような者は、自らを救うことはできない、滅びの子であるユダに象徴される。彼らはこの世の一時の快楽のために生きるのである。真の信仰者が忘れることのない、神の赦しに対して耳を閉じる。欲望のために生きているので、ユダのようにすぐに立ち去るどころか、キリストの聖なる教会を聖人君子の集まりだとして逆に断罪する。このような者たちについて、次のように聖書は書いている(2 ペテロ2:20–21): 「彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。」

  • 1 ヨハネ2:19:「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。」彼らには忍耐が欠けていた。
  • 1 ヨハネ2:15–17: 「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」
  • ローマ9:22: 「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば。」

マイケル・グリーンは、この聖書講解の中で、「霊的成長の欠如は霊的には死んでいるということを示す」と述べている。[2] そのような人々は、「我々には主イエスの救いは必要ない」と言っているようなものである。彼らは、充分なお金がるからだ!」主イエスは彼らについて何と言っているか?「みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸の者である」(黙示録 3:14–17)。

そのような者は主イエスのための時間というものがない。そして、近視眼でこの世界だけを見、それなりにとても忙しく暮らしている。彼らは何をしているか? 飲食、売買、植えること、建てること、等々、「福音メッセージなどで、主イエスの話などで邪魔しないでほしい。私は忙しいんです」と言う。

「あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい」(10節)

ペテロは言う、 「それだから兄弟たち、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい」(10節)。このギリシャ語は命令型である。主なる神は命令しておられ、我々の責任が問われている。

ペテロは、実を結ばない偽りの教会の教師ではなく、真の信仰者、キリストの兄弟姉妹に対して言っている。次の点に注意せよ:

  • 「それだから」: 実を結ぶ人々は真の信仰者である。8節、9節そのままの真理を考えると、なんら実を結ばない人々は偽りの信仰者ということである。即ち、主イエス・キリストを本当には知らないのである。
  • 「ますます励んで」: 急いでこれらのことを行う。我々は、非常に勤勉でなければならない。集中して、注意を払って行うことがある。主なる神の命令であり、永遠の幸いに欠かすことのできないすべてに関して、勤勉に行え。
  • 「受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい」

我々の救いの基礎は、イエス・キリストの完全な正義である。しかし、救いの証拠は、我々の信仰が本物かどうかである。それは、すなわち御聖霊への服従である。

主なる神は場所にかかわらず、すべての人に自分の罪を悔い改めるよう命じておられる。主イエスを信じるように命じておられる。お互いを愛するように命じておられる。牧師の説教を通して命じられる。主なる神が、罪人をこの世から選び出されるならば、その声に神の呼びかけに実際に反応する。罪人を罪の中から再生させ、心と意志を生き返らせて、主の特別の愛によって生きるようにされる。このプロセスがあって初めて、その罪人は、神の言葉とその意図を理解でき、神を愛することができる。

主イエスは言われた、「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ6:44)。主イエスは我々を再生して、御自身に引き寄せられる。主なる神は我々を効果的に呼び出され、その結果我々は、罪を悔い改めて主なる神に信頼し、主イエスに従うようになる。そして、多くの実を結ぶ。主イエスに従うことを通して、神の栄光を求めて歩む選ばれた者ということが証明されるのである(PGM)。パウロはこう書いている、「栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか」(ローマ9:23)。ペテロも言っている、「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふれる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう」(1ペテロ5:10)。

マルティン・ロイド・ジョーンズ博士は、「ペテロの第二の手紙の目的は、ペテロ2:10の、我々が神の選びを確確認することにある」と教えている。神は我々を知っておられ、我々は、死んだあとに天の国に行くということを確信しなければならない。

あなたの召しが本物なら、永遠の過去から主なる神が選ばれているということである。これは、将来から永遠にそうだということで、神による栄光に至るということなのである。パウロは言っている、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ローマ8:29–30)。

それは確かである。主なる神は嘘をつかれない。神の召しが鍵となり、あなたが主イエス・キリストに継続的に従っていこうとするかでわかる。効果的に呼び出された者は、主イエスに従う。

イエスに従わないのであれば、それは救いを受けていない結果である。主イエスを信じていると言っていても、罪の中で生き続けるなら、それは偽りである。それを教える者は、悪魔からの者であるといえる。本当のところは、彼ら自身が地獄に行くのである。彼らはもっと多くの人々が地獄に行くことを望んでいるのだ。

以下の聖書の箇所に注意せよ:

  • へブル5:9:「全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となる。」
  • 使徒5:32: 「わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。そもそも我々人間は「従う」という言葉が好きではない。そもそも「他の者に指図されたくない!」という性質を持っている。ただ、もしもあなたがそうなら、それこそ悪魔的なのである。本当に自律的な人は存在しない。もしも、主イエスに従うのではなく、自分自身で自らを律していくという者は、それは悪魔の信者である。
  • 1 コリント1:2: 「すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たち。」
  • 2 テモテ1:9: 「神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さった。」
  • ヨハネ14:15:「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。」
  • ヨハネ14:21:「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。」
  • ヨハネ14:23–24: 「イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。」
  • ヨハネ15:10: 「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。」
  • 1ペテロ1:2:「すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。 」
  • マタイ28:20: 「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」

主なる神に従う必要がない、というような救いはない。主なる神は、我々が清く従順な生活を送るよう命じておられる。へブル人への手紙の著者は言っている、「そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」(へブル4:6, 11)。主なる神に従わない人は救われず、主なる神からの平安はなく、悪魔に属する人々なのである。

聖霊のバプテスマによって、本物の信仰者は証印を押されている。これは、神の所有、神への信頼、および神からの保証という3つを示す。聖霊の証印によって、我々は主なる神の所有であり、本物であり、そのような安全を持つということである。パウロは書いている、「あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である」(2 コリント1:21–22)。パウロはまた書いている、「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである」(エペソ 1:13–14)。

他の聖書の箇所には次のように書いてある、「御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(ローマ8:16)。これは最高の保証形式なのである。あなたの召しと選びを確認せよ。だからこう書いてある、「しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。『主は自分の者たちを知る』。また『主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ』」(2 テモテ2:19)。そして、最終的にこう書いてある、「『わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている』と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:36–39)。

ペテロは、信仰、道徳的卓越性、神についての知識、自己制御、忍耐力、敬虔、兄弟愛、そして神の愛、これら聖なることがらについてますます豊かになっていくなら、自らを律して生きているという世に属する人達と同じ運命を、あなたは決して辿らない。これを、10節の締めくくりで述べている。

これが、本物の保証というものである。これこそ本物の選びであり、真の安全がそこにある。これらのことを実践しているのなら、世と共に落ちない。本物として選ばれ、召され、正しくされ、子とされ、栄光を得るために聖別されている状態、言い換えれば、反律法主義と共に運命を共にすることはない。

次の聖書の箇所を見よ。

  • マタイ5:8: 「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」
  • マタイ12:14: 「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」
  • マタイ7:24–25: 「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。」
  • 詩篇16:8: 「わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。」

説教者スポルジョンは、神からの召しと選びを確認できる人こそ本当に幸せな人だ、と言った。もしあなたがそうなら、怖れを感じることはない。死に至ることさえない。あなたは、天に向かって行くことを知っているからだ。だから、聖なる人は幸せな人というだけでなく、恐れのない人でもある。箴言28:1は言っている、「悪しき者は追う人もないのに逃げる、正しい人はししのように勇ましい。

永遠の主と救い主イエス・キリストの国に神は彼を迎えられる(11節)

11節は、主なる神に従う者は、主イエス・キリストの永遠の国に大手をふって迎えられる、と教えている。主イエスは、神の国を見る、神の国に入るために、あなたは生まれ変わる必要がある、言われた。聖霊によって生まれ変わった人は、罪を悔い改める。そして、その生活の中で神を信頼して神を礼拝し、神の国への豊かな歓迎を受けるのである。ペテロは書いている、「愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなく傷もなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい」(2 ペテロ3:14)。

ある者はそのような豊かさに到達しない状態でキリストの永遠の王に入るようだ。パウロはそのような人々について書いている、「その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう」(1 コリント3:15)。いつも罪を犯している信仰者がいるとするなら、主なる神はそのような者を人生の途中で死に渡され神の国に連れていかれるということもある。パウロは言っている、来るかもしれません。「彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである」(1 コリント5:5)。パウロはまた書いている、「あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである」(1 コリント11:30–32)。

主なる神は、あなたの最も弱いところから対処される。もしも、あなたがかたくなに悔い改めないなら、病気の試練を通されるかもしれない。あるいは、それでも悔い改めないなら、死ぬかもしれないのだ。パウロは、「自分をよくわきまえておくならば」と言っている。それは聖餐式で行う。自分をよく調べ、悔い改めて、主なる神を信頼して生活していくなら、主なる神は我々の罪を次々に赦し清められる。だから、主なる神は、人の人生を終わらせることまでを含めて、天の国への道のりを通して、神の民を訓練される。

しかし、本当に清められた状態で神の永遠の王へ迎えらえる、ステパノのような信仰者の場合もある。ステパノは、「聖霊に満たされ、天を見上げて神の栄光を見、主なる神の右の座についておられる主イエスを見た」。こう記録されている、「彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える』と言った」(使徒7:55–56)。主イエスは天の国で、ステパノを迎えられたのだ。

世界的に著名なウェストミンスター神学校の創設者であるJ.グレシャム・メイチェン師は、裕福な貴族であった。主なる神が彼を救いに導かれたとき、プリンストン大学の教授であった。しかし、プリンストン大学はイエス・キリストを神であることを否定した。そこで、メイチェン師は他の教授達と共にフィラデルフィアにウェストミンスター神学校を創設した。その後、1936年にノースダコタのビスマルク市で、友人サミュエル・J・アレン牧師の代理として説教していたとき、メイチェン師は肺炎かかり入院した。病床で主なる神がメイチェンに天のビジョンを与えられた。その内容が伝えらえている。メイチェンはアレン牧師に言った、「私は天の国の幻を見た。それは栄光そのものだ」。まもなく、1937年の元旦、午後7時30分、メイチェン師は天の国に迎えられた。彼は豊かな状態で、主イエス・キリストの永遠の国に歓迎されたのである。[4]

主イエス・キリストと同じ時に十字架につけられた盗人は罪を悔い改めまた。「私を覚えていください」と彼は言い神の国に歓迎された。主イエスは彼に言われた、「今日あなたは私と一緒に楽園にいます」。ペテロもパウロも死において、天の国への歓迎を受けた。パウロは言っている、「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である. . . 。これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい」(ピリピ1:21, 23)。現時点で、あなたはそう言うことができるか?「生きるのはキリストのために生きる」それはキリストに従うことを意味する。だから、キリストにあっては「死ぬことも益となる」ということである。

結論

御聖霊がこの主の日にあなたを助け、神からの召しと選びを確認し、救い主イエス・キリストの永遠の国に迎えられる者となるように。それは新しい天と新しい地、義と聖い者が属する地である。黙示録21:1-4にはその本物の幸福の状態について教えている。

「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』。主なる神様、我々の召しと選びを確認できるよう助け、飲食、売買、結婚、その他すべての人間活動のみならず、我々に新しい天と新しい地の希望をもって生活できるようにしてください。アーメン。」

[1] 2ペテロ1:5-7に基づく説教「キリスト者の信仰の成長」を見よ。http://www.gracevalley.org/sermon/christian-growth-in-faith/

[2] マイケル・グリーン著「2ペテロの書簡とユダの書簡」ティンダルの新約聖書の注解(グランド・ラピッズ:エードマンズ、2000年)p. 81を参照。

[3] D.マーティン・ロイド・ジョーンズ著「2ペテロの講解説教(エジンバラ:バナー・オブ・トゥルース、1983) p. 32を参照。

[4] ネッド・B.ストーンハウス著「J.グレシャム・メイチェン:伝記回顧録」(エジンバラ:バナー・オブ・トゥルース、1987)p. 507–508を参照。