お互いに戒め合いなさい
Romans 15:14Gregory Perry | Sunday, July 15, 2018
Copyright © 2018, Gregory Perry
Language [English]
我々は、聖書の中の「お互いに」というキーワードから、神様の命令についての学びを続けている。「互いを戒める」ということが聖書で奨励されているが、これはあくまでも命令であることを知ることが重要である。ある人は、「人を戒める資格など与えられるべきではない」と言って、聖書を曲解している。そのような人達は言う、「人を戒めたいなら、まずお互いに祈りましょう」とか、「状況が許せば、お互いに対してそうするのもいいでしょう」とか、「もしもお互いを愛するならば、まず互いを褒めることからしましょう」。しかし、主なる神のその他の命令と同様、我々がその命令に従うならば祝福され、従わなければ呪われる、と聖書は言っているのである。この基本的理解を念頭に置いて、我々はこれらの「互いに」のキーワードを学ぶ必要がある。
お互いを戒めるという奨めを具体的に見る前に、より一般的な事柄から始めよう。キリスト者の真の交わりとは何か?ヨハネは次のように言っている、
「神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」(1ヨハネ1:7)。キリスト者の交わりは、ギリシャ語のコイノニアという言葉で教えられている。それは勝利ある生活の秘訣である。目的に一致のある交わりであって、それゆえに仕え合う交わりである。
さて、1ヨハネ1:7に、「神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」と教えられている。我々は、キリストとの交わりと、主にある兄弟姉妹との交わりを細かく区別するべきではない。キリスト者の交わりは、主なる神の見方からは、相互に関係が深いからである。 キリストへの信仰は、キリスト者の交わりを、そしてキリスト者の交わりは信仰を助けるのである。我々は、神の家族に属しており、神と交わるためには、キリストにある兄弟姉妹と交わることが必要である。
1ヨハネの箇所から、をマシュー牧師は、「ソロのキリスト教は神の言葉に反している」と解説している。自分だけで信じるという信仰は、「私とイエス」の考え方で、それが「神の言葉の違反する理由は、兄弟姉妹の生活に対して無関心であること、つまり兄弟愛の欠如を意味するかである。[1] 我々は、お互いのニーズ、問題や罪を知るだけにとどまらず、助けになるように努力すべきである。
交わりは、キリストを告白する2人の人の間に生じるだとか、キリストと交わりをもつ人と同じ部屋にいるという程度のことではない。キリスト者の交わりは、世俗的な興味、好きな音楽やスポーツ、文化芸術、学問的な感心などにおけるやり取りではない。たしかに、真のクリスチャンの交わりがなくても、我々は生きることはできる。
真の交わりにおいて、我々が共有するのはキリストである。キリストにあって、鉄が鉄を研ぐ。真のクリスチャンが集まるとき、お互いのために祈り励まし、生活の中で主なる神がされていることをシェアーし、神を褒めたたえる交わりとなる。それが、真のキリスト者の交わりである。
だから、信仰者同士の交わりの質を検討しなければならない。神御自身がその交わりの質を検討されるからだ。マラキ3:16にこうある、「そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた」。ご存じのとおり、キリストの名のもとに2人3人集まっているところに、キリストはおられるのである。はたして、我々の交わりにキリストがおられるかどうかを確かめよ。
互いを忠告することが真のキリスト者の交わりの一側面である。それが、お互いを尊重し愛することである、ということを理解すべきである。我々は、お互いに主にある兄弟姉の番人とされているのである。
兄弟姉妹が互いを忠告することなしには、この鉄が鉄を研ぐことはない。ローマ15:14でパウロは書いている、「さて、わたしの兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互に訓戒し合う力のあることを、わたしは堅く信じている」。この忠告する「ノウセテオ」というギリシャ語は、新インターナショナルバージョンのより正確な訳では、「互いに忠告する」という意味であり、英欽定版やニューアメリカンスタンダード版でも、まさしく、対決する、警告する、警告する、ことを意味するのである。
「ノウセテオ」は、くだけたコミュニケーションや通常の教育やカウンセリングを指すものではない。それは明確な勧告、修正がもたらされることを意味する。特に、Jay Adams師は、カウンセラーや牧師が、人が罪と向き合い、悔い改め、主なる神が望んでおられる変化を求める真剣なカウンセリング指す。「ノウセテオ」という言葉は、「心」を意味する「ノウス」と「入れる」ことを意味する「ティテイミー」から来ていて、聖書的なキリストの教え独特の言葉であり、神の言葉が人の心に入り、結果として罪に立ち向かう、という意味である。
第一に、兄弟姉妹に忠告すること、第二に、忠告する資格、そして、第三に、忠告される立場について見ていきたい。
兄弟姉妹に忠告すること
聖書は、我々が信仰の仲間に忠告することの重要性を教えている。教会では、人を忠告する主な責任は牧師に委ねられている。牧師は、主なる神からその霊的責任を委ねられている。パウロは言っている、「兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ」なければならない。それは、「神によって与えられている権威であり、それによって忠告するのである」(1テサロニケ5:12)。
それが霊的権威の働きとはどういうものかという説明である。私たちに対して、忠告しなければならない。それは説教壇から、会衆一般にだけでなく、特に個人レベルのカウンセリングにおいてもそうである。時には、牧師が教会全体に対して忠告をして、その忠告を聞くべき人がそれに応答することを願う。しかし実際は、しばしばその当事者は聞いていないことが多い。このような公の叱責は重要であるが、個人的に向き合うことより効果的ではない。スポーツをしている人は、時にコーチは、ある選手が怠けているとき、チーム全体に対して怒鳴ることがある、と知っているであろう。しかし、本当に忠告するということは教会全体に一般的な勧めをすることではない。それは、特定の個人に対して忠告が及ぶことを意味するのである。
互いに忠告するというこの命令は、その権威が与えられている牧師の責任だけではない。権威が与えられている者は他にもいて、同様に忠告する責任がある。両親は特に自分の子供に忠告すべきである。エペソ6:4にあるように、「子供をおこらせないで、主に訓戒によって、子供を育てなさい」と教えている。
しかしそれは、パウロがローマ人への手紙第15章14節で述べていることとは異なる。その任務を負っている牧師が、任せられている人々に忠告する責任があるのは事実である。特に今日学んでいることは、我々個々人が、お互いに忠告し合う、という聖書の命令についてである。お分かりのとおり、任された牧師のみならず、それぞれが、「互いに忠告し合え」と命令しているのである。
これに関して、コロサイ3:16でも、パウロが書いている、「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒しなさい」。おわかりのとおり、私たちは常にお互いに警告し合うことが求められている。パウロは、同様に1テサロニケ1:5:14(ESV)でも教えている。「私たちはあなたがた兄弟たちに強く勧めます」と言い始め、教会全体の個々人に向かって話していることがわかる。「兄弟たちに、怠けないように、忠告しなさい」とパウロは教えている。2テサロニケ3:1(KJV)でも、「兄弟を敵として扱わず、兄弟として忠告しなさい」と書かれている。どちらの命令も、仕事しないで怠惰な生活をしている兄弟を戒める場合に例をとって書かれている。
このように、キリストにある兄弟を愛することの重要な側面として、ある兄弟たちが道に迷っているのを見たときに、彼らに忠告したり矯正したりすることが求められている。もしも、我々が罪と向き合うよう、兄弟に忠告したがらないのであれば、それは彼らのことをそこまで大切に思っていないことの証拠である。主なる神に対する不従順が呪いをもたらすことを知っているのであれば、不従順な兄弟に忠告しないでおくなら、その兄弟に、「呪われて元気でいろよ」と言っているのと同じである。罪は深刻で永遠の結果をもたらすことを知っているのに、介入するのは面倒だと思うということだ。罪と向き合わない社会に暮らしていると、上司が従業員を解雇するが、決して解雇の理由を話さない、ということ出くわす。それと似たことかもしれない。
その罪深い行動について、当事者に向き合うには、愛だけでなく勇気も必要である。ご存知のとおり、臆病者はただ後ろ向きに話をして、その人の問題を他人に伝えるだけである。なぜなら、当事者に嫌われたり軽蔑されたりしたくないからである。
ローマ15:14で、パウロは(NIVで訳されているように)、教え導く力、あるいは忠告する力を持つという言葉として、「ドゥナメノイ」という言葉を使っている。これは「力が与えられる」ことを意味する。我々に内在される聖霊は、キリストにある兄弟姉妹に忠告する力を与えてくださる。勇気を持って語るのであれば、それは兄弟をあいしているからに他ならない。だからこそ、忠告するための愛と勇気を持っている兄弟や長老に感謝すべきである。 我々に叱責を与えることで、軽蔑される危険があるのも事実である。実際、箴言9:7–8にも次のように書いてある、「あざける者を戒める者は、自ら恥を得、悪しき者を責める者は自ら傷を受ける。あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう。知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する」。この箴言9章は、我々に忠告してくれる人をもしも憎むのであれば、それは我々自身が邪悪な人間であることを認めることになる、と教えている。
誰かの人生が台無しなるままにそばで見ていて、後で同情するのは簡単だ。人生の列車事故のようなことが起こるかもしれない状況で、邪魔をしないでおこう、と思って何も言わず行わない。それが起こった後で、まさかその人のところに行って、「大丈夫ですよ」とあなたは言うのか?残念ながら、それは主にある真の兄弟姉妹のすることではない。牧会においても、それは真の牧師のすることではない。ある教会の牧師に尋ねたことがある、「あなたの教会で、誰かが罪深い関係にあることを知ったらどうしますか?」。 彼は、「罪深い関係であると証明されることは通常ないので、我々は当事者を愛し、その問題について祈るでしょう」と答えた。これは決して、牧会とは言えない。キリスト者の交わりでもない。そればかりか、それは決して愛ではない。
これに関連して、マシュー牧師は、罪を犯した兄弟のために祈らなければならないと言っている。罪を犯している兄弟に立ち向かい、助言する責任もある。我々は、主にある兄弟姉妹を見守るために、神によって任命された管理者なのである。[2]
この管理者という概念は、牧師や他の指導者だけに該当するのではない。主にある兄弟姉妹全てに当てはまる。我々は兄弟の番人なのである。これについて、次のようにエゼキエルに言われた。「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたはわたしの口から言葉を聞くたびに、わたしに代って彼らを戒めなさい。わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』(悪は人を死に追いやるのであるが)と言わないなら、すなわち、あなたが彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、その悪い道から離れるように語らないなら、その悪人は自分の悪のために死ぬ。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。しかし、もしあなたが悪人を戒めても、彼がその悪をも、またその悪い道をも離れないなら、彼はその悪のために死ぬ。しかしあなたは自分の命を救う」(エゼキエル3:17–19)。
我々はお互い兄弟の番人である。我々がその責任を負うかどうかにかかわらず、主なる神は我々の責任を問われる。我々が何も言わなければ、その沈黙に対して責任がある。何も責めない、戒めない、言わない、と決心しているとすれば、それはすべきことをしないという罪である。我々は、この点で失敗したことになる。だから、聖書を通して見るように、すべての信仰者は牧会の責任を負っているのである。大切な箇所は、マタイ18:15である。主イエスは、「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら」と始めておられる。我々は何をすべきか?その当人に向き合うために、長老に伝えるべきであろうか。その罪を悔い改めるように、祈ればよいのだろうか。たしかに、罪を犯している兄弟のために祈るのは良いことであるが、それは主イエスがここで言っておられない。友人に話し回ることでもない。主イエスは言っておられる、「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる」と言われた。これが、向き合って忠告することである。
ヤコブも言っている、「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる」(ヤコブ5:19–20)。仲間の信仰者に罪を悔い改めさせるなら、その人の善のためだけではなく、教会全体のためにもなる。これは、神の聖なる教会を建てるための重要な働きなのである。
マシュー牧師は、次のように述べている。罪人は自分自身を傷つけるだけでなく、神の集会全体をも傷つけるので、この忠告という使命は明白であり、重要である。[3]では、他の人々を忠告することの意味、方法、そしてその理由を考えてみよう。
正すための忠告
第一に、他の人に忠告することを考える場合、2種類の忠告を認識したい。その一つは、誰かに罪を悔い改めるように忠告することである。主にある兄弟を見て、その人が罪を犯しているのに気づく。その当事者がその罪をどのように考えるかに関わらず、罪の悔い改めを呼びかけなければならない。聖書には「盗むな」と書かれている。だから、誰かが盗むのを見たら、当事者に盗まないように忠告しなければならない。別の箇所で、聖書は、「あなたの両親を敬いなさい」と命じているが、両親を尊敬していない兄弟姉妹を見たならば、その当事者に忠告すべきである。主イエスは言われた、「あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい」(ルカ17:3)。これらは、正すための忠告である。
予防的な忠告
見落とされがちだが非常に重要なもう一つの忠告がある。それは予防的忠告である。 人が罪を犯すまで待ってから悔い改めるように言うだけではいけない。特に、彼らが罪に至る方向に向かっているのを見たら、その当事者がそこから遠ざかるよう警告する必要がある。
本物の教会の働き、本当の忠告は誰かが罪を犯す前にこれを避けさせることにほかならない。火災予防は、火災が発生した後に消火するよりも常に有益である。火が始まるのを待つと、何かを失い、あるいはすべてを失う。罪は火のように常にダメージを与える。
予防的な忠告の例は箴言7にある。忠告の必要な若者がいる。彼はまだ姦淫を犯していないが、判断力を欠いる。「そうすれば、これはあなたを守って遊女に迷わせず、言葉巧みな、みだらな女に近づかせない。わたしは思慮のない者のうちに、若い者のうちに、ひとりの知恵のない若者のいるのを見た。彼は巷を過ぎ、女の家に行く曲りかどに近づき、その家に行く道を、たそがれに、よいに、また夜中に、また暗やみに歩いていった」(箴言7:5, 7–9)。
我々が良く知っている人なら、その人が良い方向ではなく、悪い方向へ向かっていることが解るときがある。その状況では、予防的な忠告を実践すべきである。あくまでも例えであるが、自分が姦通の罪に至る危険な方向に進んでいるとしよう。そのとき、主にある兄弟が、自分に向き合って、「あなたは罪の危険な方向に向かっている」と言ってくれるとする。その兄弟は、大きな危険から守られるように導いてくれているのである。
忠告の方法
我々はどのように忠告すべきか?当事者に対する深い関心と兄弟愛を持って忠告すべきである。パウロが言っている、使徒20章で、彼はミレトスのエペソの長老たちに、教会立ち上げていた時を振り返って言っいる、「だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがた一人々々を絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい」(使徒行伝20:31)。パウロは、昼も夜も忠告していたのである。一生に一回だけというような無関心なものではなく、常に進行中であった。なぜ、涙を流して忠告した、と言っているのか。それは、魂の重荷であったからだ。霊的で永遠の幸福への愛情のある関心から出てくる重荷である。コリントの教会にパウロは書いている、 「わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児としてさとすためである」(1コリント4:14)。パウロは我が子のように忠告を緩めない。それは彼の愛からであった。
罪の懸念がある当事者に対して兄弟愛に基づいて向き合っているか、真にその兄弟の霊的状態に関心があるかどうかは、そのキリストにある信仰者の友を本当に忠告するかどうかによって明らかになる。勿論、敬意を保ちつつ、愛からであることを明らかにしつつ向き合わなければならない。聖書は、「愛をもって真理を語れ」と命令している。どのように言ったとしても、それが真実ならば、言われた当事者はそれを聞くべきである。しかし、霊的な態度によりけりで、当事者が聞いた忠告を受け入れにくい場合がある。だから、我々はこのために祈るべきである。当事者の幸福のために、忠告するのであるという、正しい態度が必要である
何故忠告すべきか
なぜ私たちは他人を忠告すべきか?忠告の言葉が純粋な動機からかけられる点が重要である。兄弟愛から行われる忠告、信仰の友がキリストにおいて成長するのを助けるという目的が必要である。これについて、コロサイ1:28–29でパウロがはっきり書いている、「わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである」。
ここで重要なのは、議論で勝ったり、自分を上に置いたり、単に批判する動機で忠告してはいけないということである。ただ、互いを忠告せよ、という言葉だけを合言葉にすることで、教会内に問題を起こすことにならないように注意しなければならない。他の人の問題を解決しようと批判に終わるのであれば、教会の一致にとっては良くない。さらに、他の人のごたごたに介入するのが好きな者もいる。いわゆる聖書が暇人と呼んでいる者である。兄弟愛ならば、時には、些細なことを見逃す必要があるだろう。いずれにせよ、お互いを混乱させるために教会があるのではない。
だから、特にあなたがその当事者に関与していない場合は、その当事者に関わるべき人に助言を求めるべきである。多分、あなたはその人を離れて見た時に、言うべき忠告を持ったかもしれず、まずは教会の指導者たちに行き、「その人に正しい忠告となるでしょうか?」と尋ねるのが最善である。結局のところ、あなたはその人の状況を充分把握していないかもしれない。だから、キリストのからだである教会を築き上げる目的で、お互いを忠告するように注意しなければならない。
忠告するに相応しい資格
「さて、わたしの兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互に訓戒し合う力のあることを、わたしは堅く信じている。」ローマ人への手紙第15章14節には、忠告するにふさわしい資格について書かかれている。キリスト者は全て、信仰の兄弟姉妹に忠告する資格がある。パウロがこの指示をすべての信仰者に与えているのはそのためである。彼は、その条件を教えている。それは、「善意と知識がなければならない」と彼は言っている。
善意に満ちている
まず、「善意に満ちている」ということである。この「善」という言葉は、道徳的優越性である。しかし、それは人間ならではの道徳性ではない。それは、聖霊によって我々の内に創造されなければならない。パウロは言う、「すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない」(ローマ3:12)。
我々はみな悪い木として生まれている。神の再生の働きによらなければ、良い木にはならない。しかし、このように罪に死んでいたが、キリストと共に生かされて良い木とされた。その木は本当の良い実を実らせる。この善意に満ちているという意味は、我々が、まずキリスト者となり、実り豊かな良い木になっていることである。そうでなければ、本当の善意はない。聖霊の働きによって我々の中に神の善が満ちているので、我々は悪しき思想や行いに反対する。
言い方を変えると、我々は、他の人の生活の前に、自分自身の生活をきれいにする必要がある。主イエスは山上の説教で言われた、「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう」(マタイ7:3–5)。
信仰者は、信仰をもたない者からの叱咤にも耳を傾けるべきである。 偽善者としてふるまえば、他人が我々の忠告を受けるのが難しくなる。偽善者パリサイ人であってはならない。マタイ23:4で、主イエスは偽善者のことを言っておられる、「重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない」(マタイ23:4)。
人々に飲みすぎないように、と言っている酔っ払いや、一生懸命働くよう人々に勧めている怠け者は偽善者である。善意に満ちているなら、聖なる生活をすべきで、それが他の人を忠告する資格を与える。そのような模範を示すとき、他の人にキリストに従うように忠告できる。
この道徳的優秀性は、人々に忠告しないための言い訳にはならない。 むしろ、自身の罪を悔い改めて、他の人々に忠告するよう、彼らに向き合わなければならない。言い方を変えると、ローマ15:14にあるように、「さて、わたしの兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互に訓戒し合う力のあることを、わたしは堅く信じている」のである。神の言葉は、「誰に対しても忠告するな」ではない。そうではなく、「忠告することができるように自分を整えなさい」である。主イエスは、「あなたの兄弟の目にあるおがくずを気にするな」とは言われなかった。「あなたの兄弟の目からおがくずを取り除くのを助けよ」と言われたのである。
知識に満ちている
第二の条件は「知識に満ちている」ことである。聖書に明らかにされている神の具体的な意志に基づいていなければならない。他の人への忠告を効果的にするためには、神の言葉についての十分な知識を持たなければならない。言い換えれば、他の人に正しい方向を示すため、正しい方向が何かを知る必要がある。我々はそれを明らかにする神の言葉から、正しい方向を知るのである。
忠告は聖書的なものでなければならない。ノウセテオについて述べたように、神の言葉を頭の中に入れるべきである。なんでも頭に入れればいいのではない。個人的な好み、空しい人間の編み出した哲学、心理学、世俗的な有名人の知恵を使って、人々に忠告することはできない。聖書からのみ人々に忠告できるのである。
だから、「菜食主義者になる必要がある」とか、「みんなと一緒に子育てをすべきだ」といったこの世の安易な忠告はどれもだめである。すべて世俗的な知恵は、神の言葉とは何の関係もない。聖書にこう書いてある、「パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか』」(マルコ7:1–5)。パリサイ人は、主イエスと弟子たちを忠告すべきだと考えた。神の言葉に違反するのではなく、人々の習慣に従わない弟子たちを叱責した。主イエスは、これに対して言われた、「人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる」(マタイ15:9)。
また、聖書が教えること以外に別の条件を加えたいという者もいた。パウロはまた、こういう者達の問題にも直面していた。彼はコロサイの信仰者たちにこう書いている、「もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、『さわるな、味わうな、触れるな』などという規定に縛られているのか。これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のある仕業らしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない」(コロサイ2:20–23)。
忠告は神の言葉に従ってなされる。だから、一生懸命働くようにと誰かに忠告する場合、それは神の言葉に従ってなされている。神の栄光のために一生懸命働くことの重要性である。主の聖日を守るように忠告する場合、それは主なる神の明確な戒めに従うように忠告しているのである。子供たちに対して、両親に従うように忠告すること、夫が妻を愛するように、妻が夫に従うように忠告すること、これらは全て聖書の教えに基づいた忠告である。「まず神の国を求めよ」、これは聖書が全ての人類に求めている神の命令である。我々は、兄弟姉妹の私生活にそれらを適用することが求められているのである。兄弟姉妹のたどっている道が、主なる神の導かれる道でないことに気づいた場合は、忠告すべきである。
忠告を受け入れる
三つ目は、忠告を受け入れるということである。互いに忠告し合うことである。最近マシュー牧師は、これは双方向であるということを説教された。矢印は両方向に進む必要がる。他人を忠告するだけではなく、人の忠告を受け入れなければならない。だから二重の義務である。
時に、他の忠告を上入れることのほうが、他に対して忠告するよりもずっとたやすい。これが苦手だという人がいるだろう。しかし、特にプライドが高い人にとっては、他人の忠告を受け入れることは、謙虚さを必要とするので困難なことである。いずれにせよ、「ほっといてくれ」や「放っておけ」という考え方は避ける必要がある。これはとても大切なことで、ある者は、「邪魔をするな」とばかりに、向き合われるのを嫌がる。しかし、神の前に謙虚となり、忠告の恩恵を受けよ。
箴言は、忠告を受けることを教えている:
- 箴言12:1: 「戒めを愛する人は知識を愛する、懲しめを憎む者は愚かである」。忠告を嫌うことは愚かである。それは得を高めるのであって、忠告を避けると破壊にいたる。
- 箴言12:15: 「愚かな人の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる」。
- 箴言15:10: 「道を捨てる者には、きびしい懲しめがあり、戒めを憎む者は死に至る」。ある人が人生の道を離れたとしよう。彼は正しい方向に戻れるよう修正できる。しかし、修正を嫌うなら、すでに命の道を離れているので滅びを招くであろう。
- 箴言15:12: 「あざける者は戒められることを好まない、また知恵ある者に近づかない」。あざける者は、話しかけられると憤慨する。牧師や長老から忠告されると憤慨する。そのような人は賢い人とは相談しない。それは、祝福に至る道を示されても拒否し、忠告を無視していることを意味する。
- 箴言29:1: 「しばしばしかられても、なおかたくなな者は、たちまち打ちやぶられ助かることはない」。かたくなな者とは、忠告を聞かないことを意味する。叱責を聞くのを拒否したらどうなるだろう?突然破壊される時が来る。しかも治療なしの状態である。叱責、忠告は、正に救済策であった。しかし、もう救済策はない。彼はそれを拒否したのである。他の人にできることは既に何もない。計画Bはない。それは神の言葉であった。しかし、かたくなな人はその救済を拒否した。
我々が忠告を感謝して受け入れるのを、主なる神が助けてくださるように。我々の心がこの詩篇の作者と同じようになるように。「正しい者にいつくしみをもってわたしを打たせ、わたしを責めさせてください。しかし悪しき者の油をわがこうべにそそがせないでください」(詩篇141:5)。
適用
適用として、忠告を受入れる5段階を検討したい。この段階のどこに自分がいるのかを考えよ。
忠告を聞かない
その第一段階は、忠告を聞かないことである。忠告されたときに、それを完全に拒否する。そのような人は、自分自身を守るために素早く忠告を拒否する。自分を正当化し、言い訳をし、他人を責める。そうすることで、忠告を受けることに失敗する。
忠告を受け入れる
第二段階は、忠告を受け入れる。この「受け入れる」という言葉は、しかし完全な肯定の意味ではない。ただ外見的に忠告に同意し、その場しのぎの物分かりのよい態度である。その忠告に反対したりはしない。時には、罪を認め、忠告してくれた人に感謝するかもしれない。しかし、結局、本当の変化はない。従って、忠告を受け入れないのと同じである。ただ、前者よりきれいに見えるだけである。それが問題を解決するための忠告であっても、「そう言われるのは嫌いで、本当は憤慨している」とその人は思っている。そのような人は本当に悔い改めないし変わらない。結局、第一段階と同じである。
忠告を聞く
三つ目の段階は、肯定的である。それは忠告を聞く人を表す。つまり、与えられた忠告に基づいて実際に悔い改め、変えていくことである。その人は間違った方向に進んでいた。しかし今、忠告を聞いて、方向を逆転させ、今正しい方向に進んでいる。例えば箴言15:5 に書いてある、「教訓を捨てる者はおのれの命を軽んじ、戒めを重んじる者は悟りを得る」。
忠告を求める
信じられないかもしれませんが、矯正以外の何かがあります。 四つ目の段階はそれより優れており、忠告を求めている。これは重要なことである。そのような人は、兄弟姉妹や長老などに対して、忠告を自ら求めいき、その生き方は正される。「私を放っておいてくれ」とは雲泥の違いである。彼に話しかけるとき、彼は聞く準備ができている。彼は、前もって自分の思い取り下げ、忠告を求めます。彼は言う、「あなたが見たとおり、私が考えていることがそれです」。彼は忠告を求めることで恩恵を受ける。我々の牧師が何度となく言ってきたように、聞くべきことを聞きたいと思っている者は、行くべき方向に行けるようになる。その心の扉は開いているのである。しかし、多くの人はそうではない。牧師が私を忠告してこられた場合、私は耳を傾ける。あなたはどうか?
忠告を愛する
しかし、それよりも優れている段階は、忠告を愛することである。箴言9:8は言っている、「あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう。知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する」。我々は忠告を求めてそれに注意するだけでなく、それを愛すべきである。忠告は決して気持よいものではない。命を与えてくれるような忠告を与える愛と勇気を持つ人々に深く感謝し、その忠告を愛すべきである。
箴言25:12は言っている、「知恵をもって戒める者は、これをきく者の耳にとって、金の耳輪、精金の飾りのようだ」。それは金よりも価値がある。我々は、忠告に深く感謝し、叱責を与えてくれる人が兄弟愛から行っていることを知る必要がある。これこそ、主にあって本当に兄弟姉妹を愛するということである。
あなたはどうか?どの段階にいるか?主なる神に祈り、示していただくべきである。祖の段階を認識し、謙虚に主に祈れ。もし、4段階にいれば、あなたは自ら忠告を求めているだろう。他の人の忠告を求め、尋ねていくだろう。自分自身の評価に頼ってはいけない。「私は第五の段階いる」と自分で思っても、あなたを良く知っている人は、「いいえ、あなたは第二段階だよ」と言うかもしれないのだ。実際に聞いてみよ。本当に知りたいのであれば、我々は尋ねなければならない。
我々は兄弟の番人である。それが主なる神が我々に与えてくださった仕事なのである。あなたが受け入れるかどうかに関わらず、それは命令である。それゆえ、我々はお互いに忠告することを真剣に考えるべきである。我々は、自分が聖くされるだけでなく、キリストの体である教会全体が聖くされることを目指さなければならない。こう書いてある、「それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである」(エペソ4:12–13)。
私たちは、教会の中で罪に立ち向かうための愛と勇気の霊を、神に感謝します。 このようなノウセティックな方法とは何かを教えてくれた我々の牧師にも感謝します。兄弟姉妹に適切な忠告を与え、また謙虚に忠告を受けることができるように、主なる神が我々すべてを聖霊で満たされるように祈ります。 アーメン。
[1] P. G. Mathew, The Normal Church Life: An Exposition of the First Epistle of John (Secunderabad, India: OM Books, 2006), 279–280.
[2] Mathew, Normal Church Life, 280.
[3] Mathew, Normal Church Life, 281.
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