イエスをののしる者
2 Peter 3:3-4P. G. Mathew | Sunday, March 17, 2019
Copyright © 2019, P. G. Mathew
Language [English]
今日のテキスト、2ペテロ3:3−4で、使徒ペテロは、最後の日即ち主イエスの再臨の前に、教会に何が起こるのかを警告している。神をののしる者は神の聖なる教会に忍び込み、聖書とイエスを嘲笑する。しかし、聖書は、我々の永遠の救いは主イエスである、と言っている。
これらの詐欺師は恥ずべきことに、人間の哲学、心理学、世俗文化、進化論などを信じており、聖書が教える神と主イエスを否定している。罪深いことに、人間にやがて訪れる裁きと地獄がある、ということを否定する。
神をあざける者とはどういう者のことか。詩篇53:1にはこう書いてある、「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった」。善を行う者はない。愚か者は、心の中で言うのである、「神など本当はいないのだ」と。悪魔は自らがそのようなあざける者であり、全てのそのような嘲る者の父祖であるのだ。主イエスは言われた、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ」(ヨハネ8:44)。
アダムとエバは悪魔の嘘を信じ、彼らは死んだ。彼らの子供たちは全員、霊的に死んでおり、罪人として生まれた。神は真実であるが、悪魔とアダムとエバは神とその永遠の真理を嘲笑するようになった。それのみか、罪が一切ない唯一清い方である主イエスをあざけっている。こう書いてある、「それから、彼らはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った、『キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか』」(マタイ26:68)。
この書の初めにパウロが書いている、「民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。また、大勢の人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない」(2ペテロ2:1–3)。イスカリオテでない弟子ユダが書いている、「そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の主であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである」(ユダ4節)。
キリストをあざける者は全て悪魔の子たちである。彼らはイヌでありブタである。ペテロは書いている、「ことわざに、『犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、泥の中にころがって行く』とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである」(2ペテロ2:22)。彼らはこのような罪をもつ。それは永遠の滅びである地獄にいくためにほかならない。
ここから7つの点を取り上げる。
I. 注意を払え
ペテロは、「まず」(3節)と言って始めている。このギリシャ語のプロトンという言葉、それは「何よりも先に」という意味で、最も重要なことに注意を払えということである。即ちペテロは聖書の霊感について語っている。
すべきことは、ペテロが警告しているように、神の言葉の説教に注意を払うということである。あざける者は、イエスの福音をまげようとキリストの教会に来ている。「注意しなければ、あざける者はあなたをそそのかし、キリストに背いて罪を犯すようになる」と警告している。真の教会から出て行く者は皆罪を犯しているのだ。そのような者達は、自分たちが神の言葉に注意を払わなかった結果、だまされた者達なのである。
そのような偽キリスト者のことペテロは忠告している、「大勢の人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである」(2ペテロ2:2)。悪霊は、不注意はキリスト者を探し回っている。主イエスはこのことに関して言っておられる、「多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わす」(マタイ24:5)。 パウロは言っている、「わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れをあらすようになることを、わたしは知っている。また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう」(使徒行伝20:29–30)。これが今日の福音派のありさまである。いたるところで神の真理をまげる行いが横行している。パウロは書いている、「御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善の仕業である」(1テモテ4:1–2)。
注意を払え。神をあざける者、彼らに関する警告をペテロはしている。それは真の信仰者にとって非常に重要である。我々は、この警告に細心の注意を払うべきである。そうすればだまされない。あざける者は、アンチノミニアン、反律法主義者である。ペテロはまた書いている、「愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい」(2ペテロ3:17)。
II. 我々は神の言葉を理解すべきである
第二にペテロは言っている、「あなた方は理解すべきである」(3節)。本物の教会では、考えることが求められる。聖書は、我々が再生した頭脳を用いて聖書を学ぶことを要求する。聖書は誤りのない神のことばである。ペテロは言った、「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」(2ぺテロ1:20–21)。聖書は神の言葉。我々は神のことばを喜び、これを学び、喜んで神の命令を聞き、祝福されるべきである。
我々は聖書を理解しなければならない。ルカ24:45に書いてある、「そこでイエスは、聖を悟らせるために彼らの心を開いて言われた」。パウロは書いている、「わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである」(1コリント2:12)。我々に代償なく語られる神の言葉、は語っている、「わたしたちはキリストの思いを持っている」(1コリント2:16c)。キリストの心を持っている者だけが、神の言葉を理解でき、救いの道を理解できる。イエス・キリストが誰であるかを理解することができる。
再生していない心は神の言葉を理解できない。のみならず、むしろ神の真実を偽造する。そのような者について、パウロは言っている、「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」(1コリント2:14)。神のことばは常に聖霊の助けによって理解されるのである。
聖書は、神の約束を成し遂げられた救い主イエス・キリストを中心に教えている。創世記3:15に原福音書、最初の福音書があり、このように語っている、「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。イエス・キリストは悪魔を倒し破壊するためにおられる。こう書いてある、「子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」(へブル2:14–15)。
復活の後、主イエスは、まさにこのキリスト中心の聖書について、エマオへの道を歩んでいる弟子たちに語っておられる、「そこでイエスが言われた、『ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか』。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」(ルカ24:25–27)。後に主イエスは弟子にエルサレムで言っておられる、「そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、『こうしるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民にのべ伝えられる。』」(ルカ24:45–47)。悔い改めができることを感謝せよ。罪が赦されること、救われることを喜べ。
聖書は、敬虔で霊に満たされた神の人たちが、キリストの考えかたをもつべきであると要求している。ペテロは書いている、「愛する者たちよ。わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり、これらの手紙によって記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせようとした。それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである」(2ペテロ3:1–2)。
ののしる者は神の言葉を理解できない。イザヤに語られている、「わざわいなるかな、彼らは悪を呼んで善といい、善を呼んで悪といい」、これは神を信じない者の視点である。彼らは、「暗さを光とし、光を暗さとし、苦さを甘さとし、甘さを苦さとする」のである。イザヤは彼らに対して預言している、「わざわいなるかな、彼らはおのれを見て、賢いとし、みずから顧みて、さとしとする」(イザヤ5:20–21)。
そのような者について、パウロは言っている、「彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた」(ローマ1:28)。世界の賢者は「無知、不誠実、無情、無慈悲な者」となっている。彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている」(ローマ1:31–32)。ののしる者の思考は腐っている。
III. 終わりの日
「終わりの日」(3節). 歴史は直線的である。終わりに近づいている。すでに言ったように、我々は最後審判の日、主イエスの再臨までの期間にいる。最初来られた時、主イエスは我々のために苦しまれた。主イエスはすべてを創造し所有者である。
主イエス我々罪人の代わりに清い命を捧げられた。それでも人々は彼をあざけり、十字架につけた(マタイ26:67–68)。主イエスの顔を叩いて拳で殴った。他の人は彼を十字架につける前に平手打ちした。我々の罪のために死に、義とするために自らの清い命を与えられた(ローマ4:25)。 主イエスは、敵から彼に属する人々を救うために再び栄光を帯びて来られる。
IV.あざける者が来る
ペテロは言う、「終りの時にあざける者たちが、あざけりながらやって来る」(3節)。詩編1:1にある、「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである」。
初めから、悪魔は神のことばをののしっている。神は言われた、「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記2:17)。しかし悪魔は言った、「あなたがたは決して死ぬことはない」(創世記3:4)。悪魔は神の言葉を嘲笑し、神に従わないようにアダムとエバをそそのかした。彼らは悪魔に従い、命を失うことになってしまった。神が言われたとおりである。悪魔は最初から嘘つきであり、すべての嘘の父祖である。
ののしる者は聖書を偽造する。彼らは主イエスをあざける。 彼らは敬虔な牧師をあざける。彼らは聖書的な説教を嘲笑します。彼らはキリスト者をあざける。彼らは十戒をあざける。聖書倫理をあざける。彼らは福音をあざける。彼らは裁き、地獄、そして天国の存在をあざけり、キリストの再臨や教えを疑わせる。奇跡を嘲笑させ、特にキリストの死からの復活、世界の創造、神の新しい天地をもの笑いにする。
ののしる者はののしるだけである。イザヤ28:14, 22にある、「それゆえ、エルサレムにあるこの民を治めるあざける人々よ、主の言葉を聞け。それゆえ、あなたがたはあざけってはならない。さもないと、あなたがたの縄目は、きびしくなる。わたしは主なる万軍の神から全地の上に臨む滅びの宣言を聞いたからである」。
パウロは書いている、「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」(ガラテヤ6:7–8)。言い換えれば、蒔いたものを人は必ず刈りとる。レビ記26章で、自分の罪の支払いがあることが繰り返されている(レビ記26:41、43)。泣いている場合ではない。我々は、この人生でも払うことになる。蒔いたものを必ず刈り取る。悔い改めずに罪を犯し続けるならば、我々は永遠の破壊に行く。しかし、御聖霊に従えば、永遠の命を得る。
ののしる者は罪の喜びを称える。Iコリント15:15で、あざける者たちが主張するとおりに、主イエスが死からよみがえらなかったなら、我々に望みは全くない、とパウロはいっている。これに対して我々の態度は、次のようになれる、「もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか。もし死人がよみがえらないのなら、『わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ。』まちがってはいけない。『悪い交わりは、良いならわしをそこなう』」(1コリント15:32b-33)。なぜキリスト者の家庭で育った者が、しばしば悪くなるのか。彼らが悪い者たちと関わったということが原因である。詩編1はそのような者たちに警告している。彼らは、イエスを嘲笑し、福音をそのまま説いた牧師を嘲笑したのである。ました。ののしる者たちは死んだらそのままで、生き返ることはない単なる生き物だと思っている。主イエスの裁きに立つこともないと思っている。彼らは嘘を信じているのだ。イエスはそのような者を甦らせ、裁き、さらに地獄に送られる。ルカ16章で語られている金持ちは、神の言葉と裁き、地獄をあざけっていた。しかし、毎日贅沢に暮らしていた。しかし死んだとき、彼は地獄へ送られ、火の中、苦しみの中で、おそらくあざけりを止めたであろう。彼は聖書が真実であることを地獄で理解した。それはまさに神の言葉であったのだ。
神をののしる者は高ぶっているのである。詩編は言う、「高ぶる者は大いにわたしをあざ笑います。しかしわたしはあなたのおきてを離れません」(詩篇119:51)。高ぶる者は、だいたいにして自分自身を神としている。実際、彼らは悪魔である。悪魔は世界で最も誇り高い生き物なのだ。神は、悪魔とその追随者たちのために地獄を準備しておられる。彼は最後の日にそこに送られる。主イエスは言われた、「それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ』」(マタイ25:41)。神は高ぶる者に反対される。
主は、あざける者を甦らせ裁かれる、「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう」(ヨハネ5:22, 28–29)。我々は、動物のようではない。 (PGM)主イエス・キリストの声を聞き、我々は甦らされ、裁きに立つ。
ヨハネは書いている、「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はその仕業に応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(黙示録20:12, 15)。
主イエスは、羊と山羊の喩えを話された、「そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」(マタイ25:46)。
V. あざける者達が欲情のままに生活する
ペテロは言っている、「あざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活する」(3節)。あざける者は欲望に動かされ、あるいはお金への欲に動かされ、自らがまず自分のお金で罪の喜びにふける。
再生しない者は罪の快楽によって活気づけられ、実際には罪の奴隷となる。ペテロは言っている、「特に、こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない」(2ペテロ2:10a)。権威ある者はだれでもそしる。これは、自らの親や、牧師、警察、そして主なる神を含む。ペテロはまた言っている、「この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである」(2ペテロ2:19)。パウロは書いている、「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである」(ローマ6:16)。
これを理解したであろうか?ユダは使徒の一人だった。彼は罪の快楽に興味を持っていたので、お金を集めた。しかし、ユダはどうなったか?悪魔は彼に入り、聖餐の後、ユダは出て行って主イエスを裏切った、30枚の銀貨を得るために。後に罪悪感は彼を苦しめ、彼はすべての金を捨てたが、自分首を吊って地獄へ行ったのである。主イエスは言われた、「わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした」(ヨハネ17:12)。犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、泥の中にころがって行く様に、彼らは神に対する罪な反逆を続けるのだ(2ペテロ2:22)。彼らは、神に対して不法者であり(2ペテロ3:17, マタイ7:23)。あざける者は、中絶や幼児殺害を支持しており、十戒に反対している。しかし、神の裁きは、神の真理を絶えず邪魔する彼らに下されるのだ。パウロは書いている、「聖書に書いてあるとおり、『神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている』だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない」(ローマ1:24, 26, 28)。
VI. キリストの再臨を信じない者そして最後の審判
ペテロは次に、「彼らは言う、『再臨はいつくるのか?』」と書いている(4節)。神をあざける者は、主イエスが世界を裁くために再臨されるとは信じていない。「そんなことは信じない」と言っている。主イエスの贖いの業や、復活、メシアが敵を裁き、信じる人々を救うために再臨するとは思っていない。あなたは、主を信じるべきである。しかし、彼らは、エレミヤとイザヤの時代にもいた。神の言葉の真実性に疑問を投げかけた者たちだ。エレミヤは言った、「あなたはわたしのほめたたえる者だからです。彼らはわたしに言います、『主の言葉はどこにあるのか。今、それを出して見せよ』」(エレミヤ17:15)。彼らにとっては、ほんとは嘘、嘘はほんとなのである(イザヤ5:20)。イザヤは預言して警告している、「彼らは言う、『彼を急がせ、そのわざをすみやかにさせよ、それを見せてもらおう。イスラエルの聖者の定める事を近づききたらせよ、それを見せてもらおう』と」(イザヤ5:19)。あざける者たちは、「そんな神の約束など存在しない」と言っているのである。
主イエスの時代にも、ののしる者は主イエスを信じなかった。我々も、自分が信じられることを都合よく選ぶことはできない。主イエスについての次の真理を考えよ。
· 道であり、真理であり、命である(ヨハネ14:6)。
· 復活であり命である(ヨハネ11:25)。
· 世界の光である(ヨハネ8:12)。
· 「アブラハムが生まれる前から私はいます」と言われた永遠なる方 (ヨハネ8:58)。
· 宇宙の創造者である。彼の命令によって、全宇宙は存在するようになった(ヨハネ1:3)。
· 自分が羊のために命を捨てる善き羊飼いである (ヨハネ10:11)。
· 全ての者を裁く方である(ヨハネ5:22)。
· 全ての主である(ピリピ2:11)。
· ご自分に属する民を守り贖われる(へブル1:3)。
我々は、旧約聖書と新約聖書の両方の、神の言葉全体を信じる。 ウェストミンスター信仰告白の最初の章では、神の言葉全体の絶対的な確実性と権威について語っている。我々は次のペテロの言葉を信じる、「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」(2ペテロ1:20–21)。聖書を通して神は語っておられる。
あざける者は聖書を信じないので、彼らはイエスを物笑いにし、彼を嘘つきと呼ぶ。 主イエスは最後の審判者として栄光をおびて来られることを、数回約束しておられる。例えば、次のことばである、「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。羊を右に、やぎを左におくであろう。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」(マタイ24:30, マタイ25:31–33, 46)。主イエスは、必ず再生され、ののしる者をすべて裁かれる。
あざける者たちは自然主義的な世界観を持っている。彼らは聖書の神によって創造された閉じたシステムの無神論的統一主義の見方を持っている。 彼らは、物質は永遠である、それが自然に存在するようになった、生命が非生命から生まれた、そして人間が進化を通して動物から生まれたと信じている。彼らは、無限の、聖なる、主権を持っておられる、全てを超越されると同時に我々人間に個人的に関われる創造主、救い主、そして審判者がいるという聖書の見解を、偽りとしている。彼らは道徳的な法則を持たない。あるいはすべての道徳的価値が相対的であり、地獄も天国もないと信じている。彼らは最終的な裁きはなく、聖書は神話の本であると思っている。ユダのように、彼らが仕える唯一の神はお金であり、それによって彼らは罪の喜びを追求することができる、と信じている。主イエスは言われた、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24)。
VII. 大きな嘘
ののしる者は言った、「先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」(4節)。パウロはローマ9:5で言っている、「父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである」。彼らはメシアを待ち望んでこの世を去った。アブラハム、イサク、ヤコブその他諸々の神の民は、同様に神の約束を信じていた。こう書いてある、「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。主はアブラハムを救い、義とされた。こうも書いてある、「イスラエルはまたヨセフに言った、『わたしはやがて死にます。しかし、神はあなたがたと共におられて、あなたがたを先祖の国に導き返されるであろう。』」(創世記48:21)。また、「ヨセフは兄弟たちに言った、『わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがたを顧みて、この国から連れ出し、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう。』」(創世記50:24)。彼らイスラエルの族長は信仰者である。彼らは神の言葉を信じていたので、救世主と審判者としてのメシアの到来を信じていた。
神をののしる者たちは、今も昔も同じだと主張するが、そうではない。人は神に背いて、全てが変わってしまっているのである。神の創造はとても良かった「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である」(創世記1:31)。しかし、イブとアダムが悪魔の嘘を信じ、神に従わなくなったとき、罪が入り、罪を通して死がもたらされた。我々が住む世界は、堕落した罪深い世界に住んでいる、と主なる神は言っておられる。さらに、神は今も人間の世界で行動しておられる。かつて、洪水で人の悪を滅ぼし、8人だけを救われた。また、ソドムとゴモラを火で破壊し、ロト達を救われた。
あざける者が言うこととはうらはらに、真実は神や歴史の中で活動的であられるということだ。神は歴史の主であられる。また、イエスは主であられる。父なる神からすべての権威を与えられ、審判者として来られる。そのとき、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰すことになる(ピリピ2:9–11)。しかし、その時は救われるには遅すぎるのである。
だからあなたに命じる、今すぐ、己に仕えようとする罪を悔い改めて、救われよ。今という時に、主イエスの前にひれ伏せ。主イエスのみが全ての主であることを受け入れ、主イエスに従って生きるようにせよ。
あなたがまだ主イエスをあざける立場にあるのなら、そこから即座に退け!彼は、約束した通り、またやって来られる。今はまだ来ておられないことを、神に感謝せよ。あざける者の中にも、心を変えて信じ救われるようになることを、願っておられる。それゆえ、今はまだ来ておられないと知れ。しかし、決して明日まで待ってはいけない。パウロは書いている、「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた。』見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である (2コリント6:2)。
注意せよ。主イエスは確かに来られる。悪魔は嘘を言うが、主イエスは常に真実である。主なる神に嘘はない。主イエスに対する嘲りを信じるな。キリスト教諸国にいる者の殆どの人間は主イエス・キリストを捨てた。しかし、主イエスは、信じる者をあざ笑われない。主イエスは今も戦っておられ、常に勝っておられる。主なる神は言われた、「わたしがパロの心をかたくなにするから、パロは彼らのあとを追うであろう。わたしはパロとそのすべての軍勢を破って誉を得、エジプトびとにわたしが主であることを知らせるであろう」。彼らはそのようにした」(出エジプト記14:4)。そして、神は実行された。彼らを海に投げ込まれた。
神は決して敗北されない。常に勝利される。我々人間は負ける。我々は、自分の両親や他の人間の権威に対して「勝つ」と思うかもしれないが、主イエス・キリストに勝つことは決してできない。彼こそ、王の王、主の主である。こう書いてある、「彼はパロの戦車とその軍勢とを海に投げ込まれた、そのすぐれた指揮者たちは紅海に沈んだ」(出エジプト記15:4)。
主イエスは再び来られる。以下に重要点をまとめる:
1. 主イエスは、我々の贖いを成し遂げるために、我々が通るべき苦しみを代わりに受けられた。John Murray教授の著書「Redemption Achieved and Applied」を一読せよ。
2. 主イエスは栄光を帯びて再び来られる(マタイ24:30、25:31) 金持ちが地獄を信じていなかったように、あざける者は同様に彼を信じない(ルカ16)。
3. 来られる時はだれにも知らされない;父なる神のみがご存知である (マタイ24:36)。
4. 盗人のように突然その日は訪れる、誰も予想しない時に(マタイ24:43)。
5. だから、我々は目を覚まして祈り、清い生活を行おう(2ペテロ3:11, 14)。
6. キリストは、だれの目にも確認できるように、公共の場に来られる。全ての目が彼を見る(Mark 13:26)。ヨハネは書いている、「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン」(黙示録1:7)。
7. 主イエスは、自らが直接来られる。代理で天使が来たりするのではない。天使は言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1:11)。主イエスを再び見ることがないならば、我々が死んだ後、結局主イエスを見ることになる。
8. 主イエスは、ある者には救いを与えるために来られる。そして、他の者には裁きを与えるために来られる(ヨハネ5:28–29)。パウロは言っている、「これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう」(ローマ2:16;マタイ25:31-46)。確かに、知らされていないことがある。主なる神が秘密とされていることがある。主イエスは勿論それを知っておられる。
9. 主イエスが来られるのは再臨として来られる。へブル書の記者が書いている、「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」(へブル9:28)。
10. 主イエスが来られる時は差し迫っている(2ペテロ3:10)。あなたは主イエスに会う準備ができているか?でなければ、今主イエスを信じ、自分の罪を告白し、彼を信頼し、そして「罪人である私を憐れんでください」と祈れ。主イエスはあなたを、神の前に義なる者とされる。彼を信じなさい。主イエスは今あなたを救われる。こう言っておられる、「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない」(ヨハネ6:37)。主イエスは、来る者を一人も拒まず、永遠の救いを与えられる。
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