サタンの会堂の偽牧師

2 Peter 2:1-3
P. G. Mathew | Sunday, October 14, 2018
Copyright © 2018, P. G. Mathew
Language [English]

2ペテロ2:1–3では、使徒ペテロがサタンの会堂の偽牧師について警告している。「サタンの会堂」という言葉は、黙示録2:9と3:9に出てくる。

いわゆるキリスト教の牧師の大多数は、キリストによって召されたり、送られたりしていない。主イエスは真の牧師によって牧会される真の教会の頭である。真の牧師は神から遣わされており、昇天されたキリストからの贈り物であり、聖霊によって任命されている(2コリ2:17; エペソ4:11; 使徒20:28)。第二ペテロ1:19-21が明言するように、真の牧師だけが、神の恵みの主要な手段、即ち偽りも誤りもない神の言葉を説く。

偽りの牧師や司祭は霊的に新生していない。したがって、彼らは真の福音、聖書にある福音を説教することができない。[1] 彼らは異なるイエス、異なる福音、異なる霊を説いている。彼らは自分の考え、自分の言葉(2ペテロ2:3)を説いている。それは、実際は悪魔の言葉である。パウロは書いている、「こういう人々は偽使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、その仕業に合ったものとなろう」(2コリント11:13–15)。

マーティン・ロイド=ジョーンズ師は、2ペテロ2章は聖書の中で最も恐ろしい章の1つであると述べている。[2] これを書いた時には、ペテロは十字架につけられて教会を去るところであり、神の教会に潜入して破壊している偽の牧師について教会に警告した。

悪魔は神の聖なる教会の敵である。全世界が悪魔の支配下にある。霊的に再生した人々のいる真の教会だけが、邪悪な者を破門にして教会戒規を行使し、悪魔に抵抗する。教会が教会戒規を行使を拒否した場合、邪悪な者がその教会を支配し、真の信者たちは去る。真の神の民が去るか、邪悪な民が去るか、のどちらかである。1ヨハネ2:19は言っている、「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである」。

キリストの聖なる教会では、必要であれば反抗的な者は追い出される。追い出された者は、神の言葉が説教されていないサタンの会堂で歓迎される。しかし、我々の権威は神のみことばにある。イザヤは言う、「人々があなたがたにむかって、さえずるように、ささやくように語る巫子および魔術者に求めよ、という時、民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるであろうか。[3] まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない」(イザヤ8:19–20)。そのような偽牧者は霊的に新生していない。

イスラエルの偽預言者

ペテロは書き始めている、「しかし、民の間に、偽預言者が起ったことがあ」(1節). 哀歌2:14は言っている、「あなたの預言者たちはあなたのために人を欺く偽りの幻を見た。彼らはあなたの不義をあらわして捕われを免れさせようとはせず」と語っている。我々の教会ではキリストの血によって罪がきよめられるために神の言葉によって罪を明らかにする。しかし、この箇所は言っている、「欺く預言者はあなたのために人を迷わす偽りの託宣を見た」。

聖書の至る所で、そのような偽預言者について記述されている。例えば:

  • エレミヤ23:11:「『預言者と祭司とは共に神を汚す者である。わたしの家においてすら
    彼らの悪を見た』と主は言われる」。
  • エレミヤ23:14:「しかしエルサレムの預言者のうちには、恐ろしい事のあるのを見た。
    彼らは姦淫を行い、偽りに歩んだ」。
  • エレミヤ23:21:「預言者たちはわたしがつかわさなかったのに、彼らは走った。わたしが、彼らに告げなかったのに、彼らは預言した」。
  • エゼキエル22:28:「その預言者たちは、漆喰でこれを塗り、偽りの幻を見、彼らに偽りを占い、主が語らないのに『主なる神はこう言われる』と言う」。

教会の偽牧師

旧約聖書の偽預言者について話した後、ペテロは警告する、「あなたがたの間にも、偽教師が現れるであろう」(1節)。2ペテロ2:1–3には、ギリシャ語の5つの未来形動詞がある。御聖霊は、将来キリスト教会に何が起こるかを警告している。御聖霊と御言葉に従って警戒しないと、教会は失敗する。

長老たちは、一致して御言葉と御霊によって教会を治めるべきであり、でなければ偽の奉仕者は教会の内外から来る。ペテロは、使徒20:28–31で警告している:「どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧会するために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがた一人一人を絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい」。

何年もここで、私は警告している。ヨハネは書いている、「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」(2ヨハネ7節)。

破壊的な異端

ペテロの最初の警告は、これらの偽牧師が「密かに破壊的な異端を持ち込む」ということである(1節)。「破壊的な異端」とは、福音を否定し、偽りの牧師とこれに追従する者の両方を永遠に滅ぼす教えを意味する。パウロはまた、そのような誤った教えについて警告している:「しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである」(ガラテヤ1:8–9)。

教会内外から偽牧師たちは出てくるが、あからさまに次のようには決して言わない:「皆さん、私が偽牧師です。私は異端と偽りの教義を教えます。私はイエス・キリストを信じていません。イエス・キリストも私たちのような罪人だったと思います。彼は良い人生を送ろうとしたが、他の皆と同じように死んだのです。私は奇跡を信じていません。私は地獄や天国を信じていません。私は罪も十戒も信じません。ルカ16に出てくる金持ちが生きたように私はたくさんのお金を稼ぎ、良い人生を送りたいのです。パウロはたしかに『富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばり金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした』(1テモテ6:9-10)と言っていますが、私は聖書を信じません。私は気分を良くする聖書の箇所を選んで教えます。私は霊的再生、悔い改め、または信仰を信じていません。私はすべての宗教は同等の価値があると信じています。私は科学を信じています。地球温暖化や寒冷化、気候変動を信じています。人口中絶は良いと信じています。私はフェミニズムを信じています。」彼ら偽りの牧師たちは、以上のようにあからさまには言わない。

偽牧師は密かに行動する。彼らはこれらことを公に言わない。実際は、「すべての人は良い人間として生まれており、徐々に良くなっている」と信じている。したがって、これらの偽の牧師たちは、人々を霊的に滅ぼす、この鍵「 」内の偽りの教えを密かに紹介するのである。即ち、偽教師は使徒の教えに反対しており、結果あらゆる形の悪を促進していく。新約聖書のあちこちにこれに対する警告がなされている:

  • 1テモテ4:1–2:「しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである」。
  • 2テモテ3:1–5:「しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい」。
  • 2テモテ4:3–4:「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう」。
  • ユダ4:「そのわけは、不信仰な人々[偽牧師]がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである」。
  • 1テモテ5:15:「彼女たちのうちには、サタンのあとを追って道を踏みはずした者もある」。

偽教師

これらの偽教師はイエス・キリストを否定する、「自分たちをあがなって下さった」(1節)。これら偽の司祭や牧師は、福音の中心である、イエス・キリストの神性、贖いの犠牲、復活、昇天、神の座、再臨、審判を否定する。このような者達はイエスを主であると告白するが、教義や考え方によってその主権を否定する。彼らのような大多数の信仰者は、アンチノミアン(反律法主義)の生活をする。主イエスが天と地のすべての権威を受けられたことを拒否する。畏れおののいて主イエスの救いを純粋に教えることを拒否する。結局、彼らは主イエスではなく悪魔に従っている。

ペテロの書簡の他の箇所でも偽教師について教えている、「この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである」(2ペテロ2:19)。彼らは主イエスではなく悪魔に従っている。誰もが主イエスか悪魔かのどちらかに従うのである。

主イエスは、偽りの司祭や偽りの牧師について警告された、「偽預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである」(マタイ7:15)。また、こう言われた、「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ7:22–23)。

多くの教会はサタンの会堂であり、偽りの牧師によって牧会されている、「偽キリストたちや、偽預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。見よ、あなたがたに前もって言っておく」(マタイ24:24–25)。

これら偽りの司祭や牧師、そして彼らについていく膨大な数の信者は、キリストによって滅ぼされ、やがて永遠の地獄に送られる。彼らは地獄に、永遠の火に、苦痛に、苦しみに送られる。

大勢の者が彼らについていく

ペテロは言う、「大勢の人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである」(2節)。偽牧師は一般的に多くの支持者を持つ。だから、彼等は主イエスのたとえにある最初の3つの土地であって、未再生の信者で構成される教会を営む(ルカ8:1–15)。 彼らは罪を愛する実りのない偽信者である。神によって選ばれておらず、霊的に再生していない。不従順の子であり(エペソ2:2のギリシャ語のテキストを参照)、従順の子ではない(ペテロ1:14のギリシャ語のテキストを参照)。

真の信仰者は神に従う。ヨハネは書いている、「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」(1ヨハネ2:3–6)。

偽りの司祭や偽りの牧師は、不従順な未再生の子、すなわち悪魔の子であるため、誤りなき神の言葉を、その通り説教することを拒否する(ヨハネ8:44)。 彼らは、パウロがガラテヤ5章で指摘しているような、肉の働きを促進する偽の福音を説く:「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない」(ガラテヤ5:19–21)。

偽牧師は人々を楽しませ、喜ばせるために説教する。ペテロは言う、「彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう」(3節)。彼らは物語を語る。また、人々を興奮させるものを見つけるため、色々な世論調査のようなことを行う。それは、まるでロックンロールの悦に入っているようなものだ(PGM)。罪と悔い改めについてはめったに説教しない。彼らは、イエスが主であり、我々がイエスの奴隷である、とは言わない。聖なる生活をおくるべきであるとは語らない。信仰について話しているようであるが、気持ち的に同意(精神的同意)しているのであって、そこに真の信仰の忠実さ(本当にイエスに信頼する信仰)はない。 彼らは「イエスは主である」と言っていても、「イエスは私の主である」とは決して言っていない。この微妙な違いに注意せよ。

「イエスは私の主である」と言わない、ということは、「私はイエスの従順な奴隷だ」と言っていないのである。このように、偽牧師は人に受け入れやすい信念を勧める。彼らは、「自分で罪を犯し続けたとしても、イエスを信じなさい」と言う。多くの人々はそのような聞きやすいメッセージを説教してくれる教会に行きたがる。なぜなら、彼らが説く偽物の福音は、「私たちは罪を犯すが、神は赦してくださる」であるからだ。彼らの目標は、教会を大きくし、献金もそれなりに稼ぐことであって、人々に喜ばれることを説く。つまるところ、「罪が増すところ、恵みも増すのです。より大きな罪人は、より多くのより多くの神の恵みと赦しを体験します」と教える。そのような教会には自然と多くの人々が集まる。[4]

彼等は次の聖書の箇所を正しく教えない、ローマ6:4:「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」。また、次の箇所も正しく教えない、エペソ2:10:「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。次の箇所も熱心に教えない:ピリピ2:12–13:「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。

彼らは福音に泥を塗る

これらの牧師達は彼らの教えと生き方によって福音を冒涜する。ペテロは書いている、「大勢の人が彼らの放縦を見習」。アセルギア「放縦」という言葉が使われている。ペテロは続けて言っている、「真理の道がそしりを受けるに至るのである」(2節、著者の翻訳)。

我々は清い生活に召されている。パウロは書いている、「[神は] ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された」(2ペテロ2:7)。ペテロはまた言う、「過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう(1ペテロ4:3)。カルビンは言っている、「キリストの教会に入ってくる人々の10人に1人が、信仰の純粋さを最後まで保つ」。私は、それが100人に1人もいない、と言おう。[5]

そのような人々は福音を冒涜する。神が洪水によって古代の世界を破壊したとき、たった8人が救われた。現代、大教会でよく教えられている簡単な合言葉だけの信仰は誰をも救えない。偽の福音は偽の信仰、偽りの希望、偽の信者を生む。神はアダムとエバに、「あなたが善と悪の知識の木の実を食べると必ず死ぬ」と言われた。しかし悪魔は、「それを食べても、決して死なない」と言った。この悪魔の教えは、大教会の偽牧師の福音と同じである。神が「食べて死ぬ」と言われたことを、「食べて生きる」と言っている。悪魔は、常に神の言葉を否定する。

また、クリスチャンが罪深い生活をしていると、主イエスの福音と真理の道が冒涜される。真のクリスチャンの清い生活は、福音を魅力的なものにする。だからペテロは命令している、「異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう」(1ペテロ2:12)。主イエスご自身が言われた、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)。我々が清い生活を行うことは必須である。主イエスは言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)。聖なる生き方は、道、真理、そして命である主イエスに栄光をもたらす。

この書簡の最後でペテロは教えている、「このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなく傷もなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい」(2ペテロ3: 11–12, 14)。

欲深い牧師

ペテロは言う、「彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう」(3節)。貪欲な牧師たちは、お金とそのお金で買うことができるものを崇拝している。これら自分で勝手になった、司祭や牧師は霊的に再生されていない。彼らの父親は悪魔である。彼らは嘘つきであり、異なるイエス、別の福音、別の霊を説く。彼らの多くは、道楽(アセルゲイア)を特徴とする汚れた生き方をする。

そのような者達は貪欲である。彼らにとってお金が中心であって。これに反対する聖書の教えを憎んでいる。それゆえ、主イエス・キリストの人格と業を憎んでいる。彼らの主に実際的な目標は、やはりお金を稼ぐことであって、健康、富、権力、名声についても決して否定的な説教をしない。彼らの実生活には、大なり小なり不道徳が見られる。結果として、彼等の道を歩んだ者は、聖書に出てくる、アカン、バラム、シモン・マガス、ユダ、デマス、アナニア、サッピラ等であり、これらの人々は、結局、主なる神よりも金銭を愛したのである。次の点を考えよ。

  • アカンは主なる神へささげる金品を盗んだ。神は彼と家族を殺し、遺体を焼かれた(ヨシュア7章)。
  • バラムは金銭のためイスラエルに罪を犯すよう勧めたため、殺された。彼は偽預言者であった(民数記25; 31:8、16)。
  • シモン・マガスはペテロから聖霊を金で買おうとし、これによって金儲けをしようとした。ペテロは、は彼に金を以て地獄に行け、と言った(使徒8:20)。
  • ユダは破滅の子である(ヨハネ17:12)。彼は泥棒であり、主イエスの財布の番をしていたが、その中から盗んでいた。また、主イエスを裏切り、銀貨30枚を儲けた。しかし、その後罪悪感にさいなまれ、金を捨てて首つり自殺を図った。ユダのような者は預言者ミカによって言われている、「そのかしらたちは、まいないをとってさばき、その祭司たちは価をとって教え、その預言者たちは金をとって占う。しかもなお彼らは主に寄り頼んで、『主はわれわれの中におられるではないか、だから災はわれわれに臨むことがない』と言う」(ミカ3:11)。貪欲なユダは地獄に行った。主イエスに信頼することを拒み、金を崇拝する世界中のすべての人々も、ユダと同じ地獄に加わるであろう。特に、偽りの祭司や偽りの牧師たちは、自らの作り話を語ることで、神の民からだまし取っている。
  • デマスは、パウロと共に福音のために苦しむことにうんざりした。それで、パウロと福音を離れ、金を稼ぎにテサロニケに行った(2テモテ4:10a)。
  • アナニアとサッピラは神への献金を盗んだ。神は教会で彼らを殺された(使徒5)。

サタンの会堂

大教会の多くはサタンの会堂である。彼らには、キリストが造られた聖なる教会の真のしるしが欠けている。

  1. 御言葉の説教―神の霊感を受けた、間違いのない、そして誤りのない言葉。
  2. 洗礼と主の晩餐の正しい執行。
  3. 悔い改めることを拒否する邪悪な者を戒規すること、即ち教会から破門すること(1 コリント5:4–5)。

サタンの会堂では、イザヤ5:20を説く。良いことは悪いことであり、悪いことは良いこと、であるという具合である。彼等は進化論やエセ科学を教え、神の奇跡を否定し、常に新しい人気のアイデアに飛びつく。永遠の命を与える聖書が教えるキリストを信じない。信仰的な言葉に精神的同意をすることでイエスへの信仰がある、浅はかに判断する。

サタンの会堂の牧師たちの中には、道楽と腐敗の生活が見られる。彼らは人間の哲学を説く。イザヤはそのような者について預言している:「見よ、火を燃やし、たいまつをともす者よ、皆その火の炎の中を歩め、またその燃やした、たいまつの中を歩め。あなたがたは、これをわたしの手から受けて、苦しみのうちに伏し倒れる」(イザヤ50:11)。

サタンの会堂では、偽牧師が純粋な神の言葉を説教しない。彼らは自分の言葉、自分の考えを教える。自ら作り上げた話を教える(2ペテロ2:3)。 サタンの会堂では、説教者と人々はサタンを崇拝していることになる。主イエスは言われた、「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:10)。

パウロは彼等について書いている、「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば…」(ローマ9:22)。現代の教会の人々の大多数は滅びに向かって歩んでおり、神の怒りの対象となっている。他の箇所でパウロは言う、「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」(ピリピ3:19)。パウロはコリントへの手紙の最後で言っている、「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ。マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)」(1コリント16:22)。ユダは書いている、「ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている」。福音が説教されなかったためである(ユダ7)。

結論

我々の死後、地獄から天国へ、または天国から地獄への脱出はない。おそらく我々のうち何人かは、今日か来月、あるいは来年死を迎える。だが、再臨が来るまでは、我々は全て死を迎えるであろう。

地獄から天国へ、または死後から天国へと移ることはない。主イエス・キリストへの信仰によって、今地獄から天国へ、永遠の死から永遠の命へと移ることができる。

信仰者の泥棒に主イエスは言われた、「今日あなたは私に楽園にいるであろう」。今という瞬間、あなたは死から生へ、地獄から楽園へと移ることができる。イエスは言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハネ5:24)。

今が受け入れられる時である。今あなたは神の言葉を聞いている。パウロは書いている、「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(2コリント6:1–2)。ユダは言っている、「神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい」(ユダ21)。

選びの民の足は、御聖霊によってキリストの聖なる教会に導かれ、福音を聞き、唯一の救い主である主イエスを信じ、主と告白して永遠の救いに招かれる。パウロは書いている、「[もしも神が]栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか」(ローマ9:23)。 我々全てが神の慈悲を受け、神の栄光に迎えられる確信が与えられるよう、主なる神が助けてくださるようにと祈る。

[1] ウェストミンスター信仰告白 第一章「聖書について」を参照

[2] D.マーティン・ロイド=ジョンズ著「2ペテロの講解説教」(Edinburgh: Banner of Truth, 1983), 123.

[3] 言い換えると「聖書」

[4] 例えば、以下のサイトを参照: https://www.huffingtonpost.com/2012/01/19/best-paid-pastors_n_1214043.htmlhttps://www.forbes.com/sites/mfonobongnsehe/2011/06/07/the-five-richest-pastors-in-nigeria/, https://www.forbes.com/sites/andersonantunes/2013/01/17/the-richest-pastors-in-brazil/

[5] ジョン・カルビン著「新約聖書講解: 使徒パウロのへブル人への書簡と1及び2ペテロ」David W. Torrance and Thomas F. Torranceによる編集, William B. Johnstonによる翻訳 (Grand Rapids: Eerdmans, 1979), 346.