主イエスは再び来られる、 第2・第3
2 Peter 3:10-14P. G. Mathew | Sunday, June 30, 2019
Copyright © 2019, P. G. Mathew
Language [English]
はじめに
イエス・キリストは、父なる神の計画を果たし、選ばれた罪人を救うために、この堕落した世界に来られた。これは、創世記3:15、イザヤ53、詩篇16で具体的に約束されている。イエス・キリストは、次の再臨で、創造物全体を裁くために栄光と共に来られる。
2ペテロ3:10-12は、この世の罪と悪を除くために火をもって、主イエスは再臨される、と言っている。「我々の神は、燃え尽くす火である」(へブル12:29)。悪魔、福音を信じることを拒む邪悪な人間、すべての敵を裁くために再臨される。彼は生者と死者を裁かれる。主イエスは父なる神の子であらるため、神が裁く権威を子なる神である主イエスに与えられた。ペテロは言っている、「そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされた方の御旨を求めているからである」(ヨハネ5:27–30)。主イエスは悪しき者を地獄の永遠の罰に送り、すべて彼に属する聖なる人々、即ちキリストの花嫁を、罪のない新しい天と新しい地で、主なる神と天使たちと共に住まうようにされる。
主イエスは大いなる栄光と地からをもって来られる。黙示録19:11–18にこう書いてある、「またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、『忠実で真実な者』と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。彼は血染めの衣をまとい、その名は『神の言』と呼ばれた。そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒船を踏む。その着物にも、その腿(もも)にも、『王の王、主の主』という名がしるされていた」。
あなたがどんなにお金持ちでも、それはあなたを救うことができない。学位はあなたを救うことができない。あなたに何かの輝きがあっても、それもあなたを救うことはできない。あなたの美しさもあなたを救うことはできない。あなたの力もあなたを救うことはできない。科学技術もあなたを救うことはできない。主イエスだけがあなたを救うことができる。主イエスだけがすべてを創造されたのである。主イエスだけが世界の光、道、真理、命である。主イエスだけが復活の命である。
我々は、キリストの花嫁に喩えらえており、全世界にいる主イエスを信じる者のことである。我々を愛する故に、そして罪から購うために最高の代価を、主イエスは支払われた。我々の罪のために死んで、その代価を完全に払われたのである。
パウロは書いている、「しかし、聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。そして、それを神は、聖霊によってわたしたちに啓示して下さったのである」(1コリント2:9–10a)。
イエス・キリストへの信仰がなければ、何の希望のない。それは全ての人にとって同じである。パウロは言っている、「またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」(エペソ2:12)。友よ、キリストがいなければ、我々は何の力もない、罪人であり、神の敵でさえある(ローマ5:6–10)。
神に感謝せよ。主イエスは、誰であっても悔い改めて主イエスを信頼する者を救われる。主イエスは、我々の罪の代価である死を代わりに払われたのである。ローマ6:23は言っている、「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。
彼に信頼する者は、キリストの宝である。我々は宝物とされているのである。キリスト所有である。キリストの花嫁とも喩えられている。キリストのセグーラ、それは最も高価な宝石である(マラキ3:17)。それが我々の真の姿である。
I.天体の崩壊
天体の崩壊はキリストの再臨の時に起こる。主イエスが天体を火により破壊されるのである。ペテロは書いている「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」(2ペテロ3:10–12)。火によってすべての被造物を罪の影響から清められる。この堕落した世界を終わらせられる。
アブラハムはこの罪深い世の中を信頼しなかった。へブル11:10にはこう書いてある、「彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である」。アブラハムは新しい天と新しい地を、待ち望んでいた。そして、14~16節にはこう書いてある、「そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、新しいエルサレムの都を用意されていたのである」。
再臨に関しての説教をそれほど聞かないのはなぜか。信仰者を自称している者でさえ、やがて火で破壊されるこの世界に信頼を置いているからだ。豊なこの世の生活、お金を信頼しているのだ。彼らは主イエスが再臨して、自分の人生の計画を台無しにするなど、全く望まない。彼らはパウロが1コリント7:31で言っていることを理解していない、「世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである」。へブルの記者が言っていることにも耳を傾けない、へブル12:27に書いてある、「この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している」。彼らは、主イエスが言われたことも理解していない。ルカ 21:34–36:「あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。主イエスが我々をそこから救われるのである。
主イエスは再び来られる。そう約束された。小羊の怒りは悪しき世に対して表されるのである。「地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。そして、山と岩とにむかって言った、『さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか』」(黙示録6:15–17)。
これは、主イエスに従わないすべての反律法主義的な自称キリスト者にも当てはまる。 イエス・キリストに従う必要がないことを教える邪悪な福音主義者がいる。彼らはのろわれており、地獄に行くことは明らかである。主イエスは言われた、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。』」(マタイ7:21–23)。実際の翻訳は、「あなたを知らなかった。私から離れよ。お前は、反律法主義者である!」。従わない者は反律法主義者である。へブル3:18–19は言っている、「また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる」。へブル4:6は言う、「そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかった」。そして、へブル4:11にはこのように書いてある、「したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」。
II. 正義が満ちる新しい天と新しい地
主なる神がすべての創造物を火で破壊し、罪に染まっている世界を全て浄化し、義だけが宿る新しい天と新しい地にされる。主イエスに信頼する本物の信仰者がすることはなにか?
まず、罪を悔い改め、主イエス・キリストに人生を捧げ、イエス・キリストに従い、悔い改めと信仰を証明することである。以下のことを考えよ:
• ローマ10:9. パウロは、「「自分の口で、イエスは主であると告白するなら」と始めている。主イエスを自分の主であると言うなら、主イエスに従う奴隷(ドゥ-ロス)であるはずだ。だから、我々の仕事は主の意志を聞いて行うことである。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」。何から救われたのか?神の怒りからである。
• 使徒行伝20:21. パウロはエペソの長老に言った、「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである」。
• 使徒行伝26:20. 全ての者が悔い改めて主なる神に従うように、とパウロは教えている。「まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました」。
• 2コリント6:2. 主イエスはまだ再臨されていない。キリストに信頼することを待っておられる。「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。今というときに、悔い改めて主イエスを信頼すべきだ。それは主イエスに従うことから始めよ。
• マタイ28:20. 主イエスは、全世界に出て行け、と命じておられる、「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」。世界に向けて、何を教えるべきか?神とは誰なのか?神は霊であり、永遠不変の方である。その知恵、力、聖さ、正義と真実は究極である(ウェストミンスター小教理問答、問4)。最初の質問、それは、人の第一の目的は何か?である。答えは、神の栄光を表すことである。即ち、神に従い、敬うことである。永久に神を喜ぶ心が求められている。
この世に信頼すべきではない。その中にある物、お金も含めて信頼すべきではない。主イエスは言われた、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24).もしお金を求めるなら、その背後には悪霊という偶像の存在がある。
お金を信頼していた金持ちは死に、彼の霊は地獄に行った(ルカ16章)。 彼は驚いた。天国に行くと思っていたのだ。彼にはお金があったので、毎日高価な紫色のローブを着ていた。 しかし、彼は地獄に行った(ルカ16章)。ヨハネは書いている、「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」(1ヨハネ2:15–17)。
III. 以下の特徴をもつ聖い教会に所属せよ
我々がすべき2番目のこと、それは、特定の特徴を持つ聖なる教会に所属することである。
聖なる教会の第一の特徴は、敬虔で、よく聖書に学んだ牧師が、権威と明快さをもって神の言葉を語っている、ということである。そのような牧師は、人々を持ち上げたり、富や権力の影響を受けたりしない。聖なる教会のこの重要な印、これに関して次の聖書の箇所を参考にせよ:
• 2テモテ 2:15: 「あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい」。ジョン・ガーシェナー著、「真理の言葉の誤った分け方」(Wrongly Dividing the Word of Truth)を読みなさい。[1] 福音主義教会の殆どは、神の言葉を間違って分ける傾向がある。 しかし、良い教会では、牧師が神の真理の言葉を正しく扱う。
• 2テモテ3:16–4:6: 「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言をのべ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳にここちのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
• へブル13:17: 「あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない」(へブル13:17)。敬虔でよく学んだ牧師は、誰にを任命されて牧師になっているか?それは、聖書が言っているように、神の子イエス・キリストご自身である。エペソ4:11–12は言っている、「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせる」。主イエスは御自分の教会を愛しておられるからこそ、本物の牧師はみな昇天されたキリストからの贈り物なのである。パウロは使徒言行録 20:28で次のように警告している、「どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧会させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」。イエス・キリストは我々の為に最高の代価を支払われた、だから我々は神の相続人であり、神に属している。
• 箴言20:15: 「金もあり、価の高い宝石も多くあるが、尊い器は知識のくちびるである」。これは、神の言葉を説く真の牧師について語っている。牧師だけでなく、神の知識について語る人は、宝石のような存在なのである。そのような人々は神の聖なる教会の特徴である。しかし、神は特に牧師を遣わしておられる。ローマ10章にこう書いてある、「しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。のべ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうしてのべ伝えることがあろうか」。この、「遣わす」と言う言葉は、聖なる受け身表現で書かれており、神ご自身が福音を伝えるために遣わしておられる、という意味である。
聖なる教会の第二の特徴は、聖書に記されている通り、二つの霊典というものを行うことである。即ち、信仰者のバプテスマと、主の聖餐式である。主の聖餐式は、主イエスが再臨されるまで主の死と復活を宣言することである。キリストはすべての罪のために我々の代わりに死なれた。彼は我々のすべての罪をかぶり、その罰を受け、地獄を自分自身に負われ、十字架で地獄に行かれた。そして主イエスは、復活し、完全な正義を与えて下さったのである。従って、神は我々を見られる時、キリストの完全な義に囲まれている状態を見られるのである。これこそ我々が宣言すべきことである。
聖なる教会の第三の特徴はキリストの弟子としての訓練があるかどうかである。訓練とは、聖書に従って生活すべき道を教えることを意味する。もし、その生活基準から外れているなら、何度も矯正されるべきである。さらに、聖書に従うことを拒むのであれば、教会はそのような者を教会から追い出す責任がある。真の教会は聖書に反抗する人々を追い出すのである。そのような規律を実践している教会を尊重して、パウロは次のように書いている、「現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。しかし、わたし自身としては、からだは離れていても、霊では一緒にいて、その場にいる者のように、そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている。すなわち、主イエスの名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである」(1コリント5:1–5)。そのような人は、キリストにあって新生している者であれば、苦難の後に救われるであろう。
四つ目の特徴は、交わりである。キリストの教会は神の家族であるため、差別はないはずである。人種や民族に関する、またいかなる社会的な差別も教会内にあってはならないと我々は信じる。我々は、神の家族の中でお互いを愛し、また世界中の様々な人種・民族で構成されている。我々は、実際的な行動をもってその愛を示す。たとえば、教会の兄弟・姉妹が、本当に衣食住に困っている場合、教会はその人を助ける。それが「愛し合う」という意味である。使徒言行録はこれについて何度か書いている:
• 使徒言行録2:45: 「資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。
• 使徒言行録4:32–37: 「信じた者の群れは、心を一つにし、思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。 たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた。クプロ生れのレビ人で、使徒たちにバルナバ(「慰めの子」との意)と呼ばれていたヨセフは、自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。
• 使徒言行録6:1–4: 初代教会でも忌むべき民族間差別が存在した。「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、『わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう』」。
主イエスは、「2、3人が集るところに私もそこにいる」と言われた。我々の教会は、主なる神がその中におられることを信じている。キリストが中心におられる。御聖霊も中心におられる。そして、我々は、罪を悔い改めて告白する。罪を犯すかもしれないが、悔い改めて神の赦しを求め、主に従うことによって悔い改めを証明する。主なる神が言われることに聞き従いたいと願っている。
IV. 期待して望む(第三)
我々は何を望むべきか?それは、主イエス・キリストが再臨を期待して望むことである。12、13、14節で3回、ペテロはギリシヤ語の動詞(プロスドカオ)を繰り返している。これは真剣に期待することを意味する。人々は、そしてある種のクリスチャンでさえ、イエスが戻ってくることを望まない。 どうしてか?それは、休暇や娘の結婚式の計画が台無しになるからだろう。
あなたは毎日何を望んで生きているか?もっとお金を稼ぐことか?それとも、キリストの来臨を望んで生きているか?主イエスが戻ってこられる準備はできているか?あなたは主に会えるように、聖なる者となるよう努めているか?へブル12:14は言っている、「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」これは我々の基準ではなく、聖書の基準である。主なる神が言われた、「自らきよくなるように努めなさい。我々は、キリストの似姿に変えられていくべきである。
パウロはこれについて教えている:
• 2テモテ4:8: 「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」。あなたは主の出現を待ち望んでいるか?
• ローマ5:5: 「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。御聖霊は、イエス・キリストのみに希望をもつようにと我々を励まされるのである。
• ピリピ1:20–21: 「そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」。
• ピリピ3:20–21: 「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」。
ヨハネも再臨のことをについて言及している:
• 1ヨハネ 3:2: 「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである」。我々は栄光の御姿に変えられる。それは、我々の体もイエス・キリストの復活の栄光の体と同様の体に変えられることを意味する。
• 黙示録22:7: 「見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。
• 黙示録22:12: 見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう」。
使徒言行録3:5–10の記録を見ると、ここでペテロはプロスドカオという言葉を用いている。その障害者は、とにかくお金を稼ぐことを望んでいた。しかし、代わりに、彼はキリストの救いを受けたのである。その男は彼らから何かを得ると期待して、ペテロたちに注意を向けた。そこで、「ペテロが言った、『金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』。こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、踊りあがって立ち、歩き出した」。お金の代わりに、彼はキリストを得たのである。「そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った」。これがキリストの救いが、人にさせることである。
金や銀は誰も救うことができない。主イエスだけが救う。神の国は、聖霊にある神の義、平和、喜びである。マタイ 6:33は言っている、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」。「ただ衣食があれば、それで足りるとすべきである (1テモテ6:8)。実際主なる神はこれまで我々を養ってこられた。
主イエスは彼の民に栄光を与えるために再び来られ、我々はそれに向かっている。その時に、主イエスの似姿に全く変えられるであろう。パウロは書いている、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」(ローマ8:29)。我々は神の家族であると知っているか?主なる神には家族がいて、我々の長子がイエス・キリストである。我々の人種や体の特性は何の関係もない。どれだけ金持ちか貧乏かも関係ない。神の家族に属し、神は私たちを愛しておられる。神はあらゆるニーズを満たしてくださる。主イエスは再臨において、花嫁であるところの我々に栄光を与えられるのである。
V.キリストの花嫁として清く生きよ
明日ではない、今、聖なる生活をせよ。今、悔い改め、主イエス・キリストを信じ、救われよ。私たちの行動は神への信頼を反映すべきである。でなければ、イエスは主であるとの告白は嘘である。そして、聖霊の力によって、直ちに、正確に、喜んで神に従うことを喜ぶ誇るべき神の奴隷である。すべてを支配しておられる神への信頼を実践せよ。パウロは書いている、「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(1コリント10:31)。神が我々をそうさせてくださるように!主イエスは父なる神に完全に従われた(ヨハネ 4:34, 8:29, 14:31, 17:4, 19:30)。彼は罪を犯されなかった。
聖書は、神への恐れが我々に罪を犯さないようにすると言っている。なぜ人は罪を犯すのか?それは神を恐れないからである。我々は、神が誰なのか理解していない。永遠、無限、不変の恐るべき方である神の前では、すべては有限可変である。従って、神への畏れは、我々を罪から守るのである。
神への畏れは、人を神に従わせる。従順にさせてくださるのである。箴言19:23は言っている、「主を畏れることは人を命に至らせ、常に飽き足りて、災にあうことはない」。我々は、畏れおのいて救いの達成に向かうべきである。主なる神を畏れ仕え、おののき且つ喜べ。神を恐れ、悪を憎め。
ヨセフは神を畏れ、ポティファルの妻に言った、「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」(創世記39:9)。ヨセフは主なる神を畏れていた。そして主イエスは言われた、「父よ、御心ならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、御心が成るようにしてください」(ルカ22:42)。
真の信仰者とは、神から生まれた人々である。霊的再生は最も重要なことである。神によって再生していない限り、悔い改めたり信じたりすることはできない。なぜなら、人は本来神に対しては死んでいるからである(エペソ2:1–5)。それは、未再生の人々が世界で素晴らしいことを達成できない、ということを意味しない。彼らは、神が与える一般音恩寵によってそうすることができる。しかし、神の国に入るには、我々は再生されなければならない。
我々は世の光である(マタイ 5:14)。霊的に再生したので、我々はこの暗闇の世界で輝くのである。悔い改めて主イエスを信頼し、従うために救われている。ペテロは、神の民について言っている、「イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように」(1ペテロ. 1:2)。神が我々を救う目的は何か?それは、天地のすべての権威を受けておられる主イエス・キリストに従うことである。主は真の支配者である。
ペテロはまた言っている、「従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである」(1ペテロ 1:14–16)。
本物の信仰者は、父なる神のように清くなるべきである。霊的再生する前は、我々の父祖は悪魔であった(ヨハネ8:44)。我々は罪と咎の中で生きていた。それは下水道に住むような状態であったのだ。しかもそこで非常に活発であった。朝、昼、夜、罪を楽しんでいたのである。神に向かって死んでいた。しかし、「あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かしてくださった」(エペソ2:4–5)。我々は神の作品であり、神の恵みによって、父なる神に従い、その似姿を反映できる。神によってとされた者は、聖化の段階がある。清くされること、聖化は神によって義とされている事実を証明する。このような本物の信仰者は反律法主義者ではない。
J.I.パッカー著、Concise Theology(神学の手引き)は、6種類の反律法主義に関して注意を呼びかけている:
1. 霊肉分離的反律法主義:このような反律法主義は、次のように教える、「救いは魂のためであって、神は我々が体で何をするかなど気にされない」。
2. 精神論的反律法主義:これはある種の主観主義で、聖書が何と言っているかに関係なく、「霊が私に語った」と言う。本当のところは、そのような反律法主義者に対して、御聖霊は聖書の権威を拒否するようにと一切言っておられない。
3. キリスト中心反律法主義:キリストは律法を守られた。だから、我々は守る必要はもうない、と教える。代わりに、我々は罪を繰り返し犯し犯すことができる!と妄語する。
4. ディスペンセーショナルな反律法主義:それとは知らずに、ほとんどの福音主義者とすべてのペンテコステ派は、ディスペンセーションを信じている。これは、我々は今恵みの分配の中に生きているので、どんなに罪を犯しても、それでも自分自身をキリストの属する者と呼ぶことができる、と妄語する。
5. 弁証法的反律法主義:これは、カール・バルトやエミル・ブルンナーによって教えられた。彼らは聖書の権威と聖書の道徳法の権威を否定し、罪を犯すことに許可を与えた。
6. 状況的反律法主義:これは、「愛」によって動機付けられている限り、ある状況では、姦通や嘘、離婚や両親への不服従は許される、と教える。しかし、そのようなことは聖書の命令に明らかに反する[2]。
しかし、我々は聖書の完全な権威を受け入れる。聖書の中で、神は我々に語られる。神は、旧約聖書では姦淫は間違っていたが、今では許されている、などと言っておられない。神は不変である。
以下、聖化に関わる聖書の箇所を見よ:
• 2コリント3:18:「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」 我々は、日毎に神によって変えられる。
• 1コリント6:9–11:「それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。」
• コロサイ3:1–5:「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」
• ガラテヤ5:22–24:「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」
• ローマ8:14:「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」。御聖霊は聖書によって我々を導かれる。
• ローマ6:1–4:「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」聖霊の復活の力によってこれが可能である。聖霊は真の信仰者全てに与えられている。
• マタイ7:21–23:「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」。
• マタイ24:24は、彼らがこれらのことを悪霊の力で行った、と言っている、「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」
• ローマ10:9:「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」「主」ということは、我々が主イエスの僕、即ち神の言葉に書いてあることに聞き、これを行うことを意味する。
• 1コリント10:31:「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」主イエスは父なる神に従われた。ヨハネ17:4及び17:6e:「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、御名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました。」
• 1コリント6:19–20:「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」
我々の体は我々自身のものではないことを知っているか?不信仰者の体でさえ彼自身のものではない。しかし、それ以上に、我々はキリストの血によって贖われている。そのために、キリストは最高の代価を支払われ。キリストは私たちの罪のために死なれた。だから、自分の体で神を敬わなければならない。
VI.主イエスの再臨を早めよ、という命令
ペテロは、我々に「極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」と教えている(2ペテロ3:12)。
どうやって主イエスの再臨を早めるのか? ギリシヤ語スプードンタスは、英語の「速度」を表している。即ち、聖なる生活と福音宣教によってキリスト再臨の接近速度を上げよ、という意味である。 救われているだけで満足していてはならない。福音を他と分かち合い、主イエスを指し示す責任があることを認識せよ(PGM)。「悔い改めて主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたは救われる」と人々に告げよ。
どのようにして再臨の接近速度を上げるのか?
1. 断食と祈り。断食は旧約聖書にも新約聖書にもある。
2. 聖霊と神の言葉で満たされよ(エペソ5:18;コロサイ3:16)。言い換えれば、聖書を読み、意味を理解せよ。聖霊は理解できるように導いて下さる。
3. 自宅で家族の礼拝をせよ。テモテは幼少より聖書を教えられた(2テモテ3:15)。
4. 神の聖なる教会でのみ礼拝する。純粋な福音を教えていない教会には行くな。 世界には福音を正しく伝えない教会がたくさんある。
5. 聖書によって聖霊に導かれた聖なる生活を毎日生きよ。
6. キリストが我々を愛されたように、兄弟姉妹のお互いに対して犠牲的な愛を行え。兄弟がお金を持っていないとき、彼らにお金を与えるべきであることを意味する。使徒言行録の中で、弟子たちは財産を売り、使徒たちの足元にお金を持ってきたので、彼らの間に貧しい人がいなかった、と記録されている。キリストが我々を愛してくださったように、我々は互いに犠牲的に愛すべきである。キリストは我々の救いのために死なれた。 キリストは教会を愛し、命をささげられた。そのように、夫は妻を愛するべきである。
7. 神が赦してくださったように、お互いを赦せ。他人を赦さずに死ぬ人がいる。神が我々を赦されたら、我々の罪をもはや思い出されない。
8. 聖書の言葉を実践するに説教された聖書の言葉を聞け。 「牧師が言った言葉を繰り返したり、「ポイントは3つあった」と覚えていたりするだけでは十分ではない。聖書を実践せよ。主イエスは言われた、「もしあなたが私のこれらの言葉を聞いて、それを行うなら」と言われた(マタイ7:24)。そして、御聖霊は我々にそれをする力を与えられる。
9. 改革神学を学べ。キリストの言葉で満たされよ。最も正しい神学は、ルターとカルバンの改革神学である。彼らは、聖霊の力を経験し、神が人に対して行われるところの選び、予定、再生とは何かを理解した素晴らしい人々である。
10. 信仰を分かち合う、伝道する。家族から始めよ。主イエスは言われた、「あなたがたは聖霊があなたに臨んだ後、あなたは力を受けます。そして、あなたがたはエルサレム、ユダヤ全土、サマリア、そして地の果てまで、わたしの証人となるであろう」(使徒言行録1:8、KJV)。世界の隅っこで神の言葉を伝えている。あなたも、どこにいても同じことせよ。「ただで受け取ったのだから、あなたもただで与えよ」(マタイ:8)。
11. あなたの家庭で神の国を建て上げよ。パウロは教えている、「しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である」(1コリント11:3)。キリスト者の家庭では、夫はキリストの権威の下にあり、妻は夫の権威の下にある(エペソ5:21–33)。夫は、「キリストが教会を愛し、自らの命をささげられたように、あなたの妻を愛せ」と教えられている。妻に対して、イエス・キリストの恵みと知識を教えることは夫の責任である。そして、子供たちは両親の権威の下で生活せよ(エペソ6:1–4)。
12. 貧しい人々、特に教会に属する貧しい人々に施せ。また、教会の人々に限らず、すべての貧しい人々に思いやりを施せ。
13. 病人を訪問せよ。
14. もてなしを実践せよ。教会に来て、だれとも語ることなく、逃げるように帰るべきではない。彼らは兄弟姉妹であり、彼らがどうしているのかに関心を持て。へブル10:24–25は言っている、「愛と善行とを励むように互に努め、 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」。
15. 霊の一致を保て。教会で口論するな。1コリント1:11では、パウロはコリントの教会に争いがあったと言っている。自己中心は争いを引き起こす。これを避けよ。
16. この世とこの世のものを愛すな。代わりに、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神、主を愛し、隣人を自分のように愛せ。聖書は我々が決してこの世のものを愛してはならないと教えている。
17. 良き働きに励め(エペソ2:10; テトス2:11–14)。
18. 家族を養え。あちこちにうろつき回って、自分の家族を養わずに神の働きをしているふりをするな。パウロは警告している、「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい」(1テモテ5:8)。働く日は週に6日ある。
19. 神からの召しと選びを確実化せよ。どのようにしてか?あなたも、もしかしたら今日死ぬかもしれないからだ。ギリシヤ語原文では、召しと選びを確実にするための努力を惜しむべきではない、と書かれている。この人生で必要なことはただ一つである。救われていることを確認すべきである。
20. いつでも、主なる神に会う準備をせよ(マタイ25章)。神の国とその義をまず求めよ(マタイ6:33)。
主イエスの再臨を早めることができる。我々の信仰を伝え、全ての選びの民が救われた後で主は再臨される。主イエスはこのように祈れと言われた、「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」。そして、黙示録22:20にはこうある、「これらのことをあかしするかたが仰せになる、『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ」。
VII.はたして、主イエスは花嫁である教会に清い美しさを見られるだろうか?
2ペテロ3:14にはこう書いてある、「愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなく傷もなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい」。清さは、我々の責任である。次の箇所を学べ:
• 1テモテ6:14–15: 「わたしたちの主イエス・キリストの出現まで、その戒めを汚すことがなく、また、それを非難のないように守りなさい。時がくれば、祝福に満ちた、ただひとりの力あるかた、もろもろの王の王、もろもろの主の主が、キリストを出現させて下さるであろう。」
• 1テサロニケ3:13: 「どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように」。
• 1テサロニケ5:23–24: 「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。」
• 1ペテロ2:11–12: 「愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。」神は聖なる民を迎えられる。
• エペソ5:25–27: 「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清く傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである」。
• 黙示録19:6–8:「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣(それは主の聖徒の義の行い)を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである』」。聖化は御聖霊と我々が協力することによって成る。「恐れおののきながら、自分の救いを達成せよ。それは、あなたがたの中で働いておられる主なる神が、御心を喜んで行われるためである」。神は我々に願いを起こさせ、それを実現されるのである。
VIII.我々は、あらゆる努力をしているだろうか?
我々は努力をする。しかし、主イエスが来られたとき、我々に黒い部分が少しもない状態を見られるだろうか?とがめられるところのない従順さと、主イエスとの平和を達成し、新しい天と新しい地に迎えらえるかどうか?これを考えよ。
• イザヤ65:17: 「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない」。神は我々に健忘を与えてくださるであろう。特定の事柄、自分たちの罪でさえ、我々は忘れている、ということだ。それは相当恵まれた状況である!言葉にできない喜と栄光に満ち、新しい天と新しい地には限界はないであろう。
• イザヤ66:22: 「『わが手はすべてこれらの物を造った。これらの物はことごとくわたしのものである。しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔いる』と主は言われる。」
• 黙示録22:1–4:「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。」罪がなく、義が宿る新しい天と新しい地である(2 ペテロ3:13)。それは究極に美しいところといえる。
• へブル3:1: 「そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。」 (黙示録. 3:17-18). 我々は主イエスに注目すべきである。二心の者は、あらゆる面で不安定である。
• へブル12:2:「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」この世では様々な問題がある。しかし、神は我々を助けられる。
• 1ペテロ1:19: 「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」
• 1ヨハネ2:28: 「そこで、子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、御前に恥じることがないためである。」
• 1ヨハネ3:2-3: 「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼が聖い方である様に、自らをきよくする。」
• 1 ヨハネ4:17: 「わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。」
• へブル12:14: 「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」栄光から栄光へと私たちが主なる神のように聖なる者に変えられるよう、神が助けてくださるように。
これだけではない。平和について:
• ローマ5:1: 「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」
• ヨハネ14:27: 「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」
• ヨハネ16:33a:「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。」
• ピリピ4:7: 「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守るであろう。」突然何かの問題があなたを阻んでも、神の平安があなたに来る。
新しい天と新しい地において、どのような者が神と共に住むのか?答えは、聖なる人々である。ヨハネの黙示録22:14は教えている、「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」。
想像を絶する美しさが、新しい天と新しい地にはある。それを期待せよ。
• 使徒言行録 3:19-21:「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった。」これは、新しい天と新しい地、罪のない所には想像を絶する美しさがある、ということだ。
• ローマ14:17: 「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。」繰り返すが、我々の喜びの経験には欠陥があるため、そのような本当の喜びが何であるかを想像することはできない。
• マタイ19:28: 「イエスは彼らに言われた、『よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう』。」
罪の喜びは一過性である(へブル11:25)。しかし、正義には永遠の喜びがある(詩篇16:11)。我々を待っているものについて考えよ。新しい天と新しい地で、主なる神と共にいることは、正に永遠の喜び、言葉にできない喜びであり、栄光に満ちているであろう。
聖書は内側と外側について語っている。 内側は天の国で、外側は地獄である。 次の聖書の箇所は、外側について語っている:
• 黙示録21:8: 「しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受けるべき報いである。これが第二の死である。」
• 黙示録22:15: 「犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。」
• 黙示録20:15: 「このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」
• マタイ25:41, 46: 「それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう。」
内側についての聖書の言及、それは新しい都市の内部に形容されている。
• 黙示録22:14: 「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。」
• 黙示録21:1-4: 「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』」。
結論
この罪深い世に生きながら、我々は何を求め、何を切望しているか?ヨハネ は言っている、「わたしたちもこの世にあって彼のように生きている」(1 ヨハネ 4:17). What我々は何に期待しているか?我々の状態は、現時点でキリストの様であるか、世の光であるか?それとも、この世に溶け込んでしまっているか?主なる神ではなく、家族、お金、外見の美や輝き、能力により頼んでいるか?健康や名声か?これらはどれも我々を救えない。それとも、一次的な罪の喜びに浸っているか?それとも、永遠の義、新しい天と新しい地、選びの天使が仕える聖なる栄光の神の存在されるところを、第一に求め、これらを喜びとするか?次のことを考えてみよ:
• 1 ヨハネ2:17: 「世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」。
• へブル13:13–14: 「したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、御もとに行こうではないか。この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。」これは新しいエルサレムと呼ばれている。
• テトス2:11–14: 「すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。」主イエスは我々を償うために最高の代価を払われたので、我々は主なる神に属しており、お金ではなく、主なる神が我々のものである。銀金は我々にはない。
• マタイ6:19–21: 「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。」
主なる神が我々の宝となり、我々が神の宝になるように。我々が神の財産となること、これが今は理解できなくても、救い主イエス・キリストに感謝して従い、自分に与えられている召しと選びを確かなものにするよう主が助けてくださるように、主イエスの御名によって祈る。
[1] John H. Gerstner, Wrongly Dividing the Word of Truth (Brentwood, TN: Wolgemuth & Hyatt, 1991).
[2] J. I. Packer, Concise Theology (Wheaton, IL: Tyndale, 1993), 178–180.
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