主イエスは救い主と審判者の両方である

2 Peter 2:4-10a
P. G. Mathew | Sunday, November 04, 2018
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Language [English]

2ペテロ2は、教会には偽物の教師、牧師、司祭がいる、と教えている。主なる神は彼らを必ず罰される(2ペテロ2:1を参照)。2ペテロ2:4–8で、ペテロは聖書からの3つの例を引用し、この点を証明し、9節と10節で結論を出している。

神はどんな者にも対処する方法をわきまえておられる。なぜなら、神は、唯一の救い主イエスを信頼せず、逆に嘲る邪悪な者すべてを裁かれるのだ。使徒ヨハネはこう言っている:「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネ3:18, 36)。

邪悪な者たちは、現在もそして死においても罰せられる。彼らはまた、キリストの最終裁きの日に罰せられます。主イエスご自身は言っておられる、「このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう」(ヨハネ5:28–29)。2ペテロ2:4–10aから5つのポイントについて話したい。

罪を犯した天使は罰せられた

この箇所には、神が悪しき者を罰するという3つの例がある。先ずペテロは書いている、「神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた」(4節)。

神は御自身の栄光のために、あえて罪が神の造られた完全な世界に入ることを許された。この悪の介入は謎である。天使たちはアダムとイブが滅ぶ前に既に罪を犯した。自らを誇る罪によって、ルシファーと天使の3分の1が堕落した。これは、黙示録12:7–9、ルカ10:18、ヨハネ12:31、イザヤ14:12–17、エゼキエル28:11–19で述べられている。

例えば、イザヤ14に書いてある、「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる」(イザヤ14:12–15)。

エゼキエル28で、悪魔の罪はそのプライドであることが指摘されている:「あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした」(エゼキエル28:15–17)。

主イエスは十字架によって悪魔と悪霊どもを負かされた。こう書いてある、「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」(へブル2:14–15)。ヨハネは書いている、「罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである」(1ヨハネ3:8)。

世界には悪魔の家族と神の家族の2つの家族がある。大多数の人々は悪魔の家族に属している。主イエスは言われた、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ」(ヨハネ8:44)。

神を信じないこの世は、エバとアダムを騙した悪魔、即ちサタンの支配下にあり、罰せられている。悪魔と悪霊は、天と地のすべての権威を持たれる主イエスの完全な支配下にある。

これら堕落した天使は天から落ち、もはや救われることはない。実際、神は罪を犯した天使のために救いの計画をもたれないのである。彼らは拘束され、神の完全な支配下にある。

悪魔とすべての悪霊は、裁かれる時が定められていることを知っている。これを示唆する記録を聖書に見る:「それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。すると突然、彼らは叫んで言った、『神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか』」(マタイ8:28–29)。ユダは書いている、「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた」(ユダ6)。

堕天使は、三位一体の神の完全な支配下にあって拘束されている。先に見たようにペテロは書いている、「神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた」(4節)。神は救い方と罰し方をわきまえておられる。

主イエスは悪魔とすべての悪霊に打ち勝たれた。悪魔と悪霊は神の民に反抗する。我々が悪魔に誘惑されて罪すことがないよう、主イエスに倣って彼らに打ち勝つべきである。そのためには次のことを心がけよ:

  1. 神に従え。すなわち主なる神と、主が与えておられる権威に従え(ヤコブ4:7)。
  2. 悪魔に抵抗せよ、悪魔に従うな。ヨセフは言った、「この家にはわたしよりも大いなる者はありません。また御主人はあなたを除いては、何をもわたしに禁じられませんでした。あなたが御主人の妻であるからです。どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」(創世記39:9)。
  3. 悪魔はあなたから逃げていく、と悟れ(マタイ4:1–11;ヤコブ4:7)。
  4. ヨハネ5:18の言うことを聞け:「すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない」。

キリストは、すべての悪霊、邪悪な人間を裁くために再び来られる。こう書いてある、「そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである」(黙示録20:10)。マタイ25は教えている、「それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ』」(マタイ25:41)。

洪水で神が破壊された古代

二つ目の例は5節:「世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された」。

古代の世界は無法、無神、そして邪悪になった。創世記6:5–8は言う、「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる』と言われた。しかし、ノアは主の前に恵みを得た」。そして、こう書いてある、「しかし、ノアは主の目の前に好意を得た」。ノアは救われた。

自らを誇り、神とたてられた権威に背くようになった邪悪な者にどう対処するかを神はわきまえておられる。彼らを滅ぼした後、墓から引き上げて永遠の地獄に投げ込まれるのである。

神は、ノアとその家族8人を除いて、邪悪な全世界を滅ぼされた(創世記6–8)。 神は、世界を憐れむがゆえに、彼らが悔い改めるために、ノアに120年の間説教をさせた。ノアは、神は、悔い改めず福音を拒否する人々を怒られ洪水で滅ぼす、と説教した。ノアが造っていた箱舟は、そこに入れば救われるものであった。箱舟は我々の救い主イエス・キリストを象徴している。他に救いはない。救い主はいない。「救われるためにはどうしたらいいのですか?」と聞けば、ノアは答えたであろう、「私が造っている箱舟に入れば救われます。これこそ唯一の救い、これが神の方法です。神が、救いの計画を全て私に託されたのです」と。

しかし、7人の家族以外に、誰もノアに耳を傾けなかった。ノアは頭がおかしく非科学的だと思ったのだ。ノア牧師の計画は完全に失敗する、と彼らは思っていたのだ。しかし、事実は、8人を除いてすべての者が完全に滅んだのである。

神は救われるたった8人の少数を選ばれた。他の者たちは福音を聞いても、それを嫌った。お金や教育、権力を愛し信頼したのである。

創世記7章では、主ご自身が箱舟の扉を閉められた、と書いてある。ノアとその家族が神を信頼し、救われるために箱舟に入ったように、我々も福音を信じ、皆救われることを願っている。ルカ13章が記録しているように、「誰かが[主イエス]に尋ねた、「主よ、救われるのはほんの少数だけなのですか」。主イエスは言われた、「狭い扉から入れ、なぜなら、多くの者が入ろうとしても入れなくなるからだ。その家の者が立ち上がって扉を閉めると、あなたはそれを叩いて、『開けてください』と嘆願するだろう。しかし、彼は『あなたがどこから来た人かわかりません』と答える。するとあなたは、『あなたと一緒に食事したことがあります、あなたは私たちの通りで教えていました』と言うかも知れない。しかし彼は答えるであろう、『私はあなたを知らない。どこから来たのかも知らない(呪われた者よ、出ていけ!)』」(ルカ13:23–27)。今が恵みの時救いの日なのだ(2コリント6:2)。今、あなたはこの福音を牧師から聞いている。しかし、あなたの生きている間はつかの間であり、その終わりは早いのである。悔い改めて主イエスを信じ、今救われよ。

へブル11:7に書いてある、「信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった」。また、ルカ17:26–27で、主イエスは言っておられる、「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした」。

神はソドムとゴモラを焼き尽くし灰にされた

3つ目の例は、ソドムとゴモラに対する神の裁きである。ペテロは書いている、「ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとされた」とペテロは書いている(6節)。

神の怒りはソドムとゴモラの邪悪な民を焼いて灰にした。主なる神は焼き尽くす火である。これが最初の焼き尽くす裁きである。これらの都市の住民は真の神と律法を知りながら拒否し、神を畏れず敬わず、あらゆる放縦な生活をしていた。ユダも書いている:「ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている」(ユダ7)。その後も、神による火の裁きは行われた。神の怒りは多くの者を灰にしたのである。

これらの者達は、神がどういう方かを知り、何を望んでおられるかを知っていた。パウロは書いている、「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される」(ローマ1:18)。人は罪を犯すたびに、良心の叫びの中に存在する神の知識をかき消している。自分に嘘をつき、「私は無神論者だ」とでも言うかもしれないだろう。しかし、実際には、神の支配されるこの世界には無神論者は存在しない(PGM)。パウロは書いている、「なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり」(ローマ1:21–22)。愚か者が言うことは、「神は存在しない」である(詩篇14:1)。パウロは続ける、「そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた」(ローマ1:28)。

ロトと二人の娘を除いて、ソドムとゴモラの邪悪な人々は火で焼き殺された。邪悪な女性ロト夫人も焼かれ、塩の柱になった。彼らは地獄にいる。火の中、苦痛の中、悲惨の中で、最後の裁きの日を待っている。主イエスは彼らについて話された:「ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした」(ルカ17:28–29)。

神はロトを永遠の滅びから救われた

ペテロは言っている、「この義人は、彼らの間に住み、彼らの不法の行いを日々見聞きして、その正しい心を痛めていたのである」(8節)。

ロトの叔父は信仰者であるアブラハムであった。ロトは信仰者ではなかった。おそらくエジプト人と結婚していたと思われる。その人が誰と結婚するかに注意せよ。彼は家畜の群れをたくさん所有しており、金持ちではあった。ヨルダンの草原を選んで、叔父アブラハムを離れた、と創世記13章に記録されている。ロトは自分のために物事を選択した(創世記13:11)が、神はアブラハムのために物事を選択されたのだ(創世記13:14)。我々は、常に主なる神が我々のために選んでおられることを選ばなければならない。決定は必ず結果をもたらす。

ロトは結局ソドムに行き、邪悪な人々の間に住んだ。4人の王がソドムを破り、ロトと彼の家族、すべての持ち物を略奪した。しかし、アブラハムはその4人の王を倒し、ロトと家族、そしてすべての所有物を取り返した。しかし、ロトはアブラハムと一緒に行くのではなく、やはり邪悪な都市ソドムに戻って暮らした。このように、ロトは2回も間違った決定をした。

アブラハムが神に従い、ロトのために執り成したおかげで、ロトは2人の娘(ただし、財産や妻以外)と共にソドムから救い出された。こう書いてある、「こうして神が低地の町々を滅ぼされた時、すなわちロトの住んでいた町々を滅ぼされた時、神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された」(創世記19:29)。ロトは多くの間違った決断をした。パウロは、警告と共にその後の書簡に書いている:「不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか」(2コリント6:14–15)。

しかし、神はロトに忠実であられるがゆえに、ロトがソドム人の邪悪な生き方をしないように守られたのである。ロトが救い出されたことについて、主イエスご自身もルカ17:29で言及しておられる。ロトの誤った決断により、彼はソドムで苦しみの生活を送り、最終的に、妻、娘、そしてすべての財産を失った。ソドムとゴモラが破壊された後、ロトは悲惨で孤独な余生を暮らしたのである。彼の霊的生活は、1コリント3:14–15に形容されている:「もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう」。しかし、神は彼を恵みによって救われた。

結論(9–10節)

ペテロは、9節を「こういうわけで」という言葉で始めている、「こういうわけで、主は、信心深い者を試練の中から救い出し、また、不義な者ども、特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩み、また、権威ある者を軽んじる人々を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである」(9–10節)。

この箇所の結論は、主イエスは救い主であり同時に審判者であるということだ。ギリシャ語のテキストの4-7節に、「エイ(もしも)」という言葉が4回出てくる。これは指示の意味をもる条件節であって、これらの条件がすべて真実である、ということだ。これらの条件が真実であり、9節から10a節の結論も真実である。

結論 1:「主は神に従う者をその災いから救い出される

神を畏れて従う者とは誰か? 彼らは神の民である。パウロは言う、「あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ2:12-13)。またこう言っている、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ2:10)。

神は、神を畏れ従う者たちにあえて困難を通らせ導かれるが、「見よ、私はあなたを助け、あなたを救うために常に共にいる」と言われる。2コリント1:8でパウロは、「このことを知らずにいてもらいたくない」と言っている。つまり、思考を働かせよ、と言っているのだ。彼らが教会には行っているが、正しく思考を働させていない。このようであってはならず、実際は、教会に行くと共に、新しくされた知性を最大限に活用する必要がある。パウロは書いている、「兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる」(2コリント1:8–10)。

神は問題を通して神の民を救う方法を知っておられる。主イエスが十字架にかけられた時でさえ、主なる神は盗賊を救われた。主イエスは彼に言われた、「今日あなたは私と一緒に天の国にいる」。ステパノは石打ちの刑に合っているときも、天の国の情景を見せられた。ウェストミンスター神学校の創立者、グレシャム・メイチェン師も、召される直前に天の国の情景を見せられ、その栄光について言い残している。使徒ヤコブ、ペテロ、パウロは殉教したが、天の国に行った。

信仰者の人生は常に安楽で好ましいことばかりだ、との幻想を持つべきではない。2コリント人11章で、パウロは主が与えられた困難の数々を列挙している:

彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難にあった(2コリント11:23–26)。

私自身も、特に偽兄弟からの多くの危険にさらされた経験がある。へブル書の著者は、信仰者が直面する問題について以下のように言っている:

ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた (へブル11:35b–38)。

信仰者として様々な困難に会うことについてパウロは書いている、「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(1コリント10:13)。ある者にとっては、その試練から逃れる道が死かもしれない。たしかに、主イエスは盗賊の罪に問われ、十字架につけられている者に、「今日あなたは私と一緒に天の国いるであろう」と言われた。ヨハネは言う、「すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない」(1ヨハネ5:18)。パウロは宣言する、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ8:28)。

主はイザヤを通して我々を励ましておられる:

主が言われる—ヤコブ、イスラエルよ。あなたを想像した方がこう言われる: 「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である。わたしはエジプトを与えてあなたのあがないしろとし、クシュとセバとをあなたの代りとする」(イザヤ43:1–3)。

パウロはその人生の最後にローマ帝国の牢獄で書いている、「主はわたしを、すべての悪のわざから助け出し、天にある御国に救い入れて下さるであろう。栄光が永遠から永遠にわたって主にあるように、アァメン」(2テモテ4:18)。彼はその後どうなったか? まもなく、斬首されて天の国に行ったのである。

結論2:「神に従わない者を裁きの日まで 閉じ込めておかれる

ペテロは言う、「主は、不義な者どもをさばきの日まで閉じ込めておくべきことをよくご存じなのである」(9節)。不義な者の裁きのために神によって定められた日がある。彼らは死に、裁きの日に、地獄において罰せられる。主イエスは、不義な者について言われた、「そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」(マタイ25:46)。ヨハネは書いている、「このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(黙示録20:15)。それは神に信頼しない者がいるところである。彼らがキリスト者を今は自称しているが、既に遅いのだ (ルカ16:19–31を見よ)。

結論3:神に敵対して世の欲にまみれた生き方

ペテロは言う、「特に、汚れた情欲におぼれ肉にしたがって歩んでいる者」(10節)。欲望はこの悪しき世を支配しているが、ペテロは書いている、これらの聖書の記録を通して、「尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである」(2ペテロ1:4)。ヨハネは言う、「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」(1ヨハネ2:16–17)。

パウロは肉の欲について次のように書いている、「もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない」(ガラテヤ5:18–21)。

結論4: 権威を軽んじる者

10節で、ペテロはまた言っている、「主なる神は権威ある者を軽んじる人々を罰される」。不義な者は権威を軽んじる。特に天と地のすべての権威を受けた主イエス・キリストを軽んじる。彼らはまた、両親や牧師、警察などの公共の権威を軽んじる。

天と地のすべての権威は、我々の主イエス・キリストが持たれる。パウロは書いている、「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる」(ローマ13:1–2)。聖書はまた言っている、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない」(へブル13:17)。

あなたはどうか? あなたは神を信頼しない者か?もしそうなら、あなたの最後は永遠の罰である。悔い改めて主イエス・キリストを信じるように、神の憐れみによって私はあなたに助言する。そうすれば、救われる。あなたは神を畏れて生きているか?そうならば、貴方は遠の命に向かっている、主イエスは、そのような者の最後について言っておられる、「そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」(マタイ25:46)。

我々はどうすべきか?主イエス・キリストを信頼せよ、そうすれば救われる。どうか、「主よ、罪人である私をあわれんでください」と祈った取税人のようになれるように。 彼は確かに義とされ、救われ、主なる神と共にいることを喜んだ。