健全な思考
2 Peter 3:1-2P. G. Mathew | Sunday, February 17, 2019
Copyright © 2019, P. G. Mathew
Language [English]
ペテロの第二の手紙を通してこれまで説教をしてきた。この手紙の第2章では、使徒ペテロが神の聖なる神の教会にいる偽教師について語っている。こう書いている、「しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。また、大勢の人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである」(2ペテロ2:1–2)。これは教会の歴史を通して起こっている。我々の主イエスの兄弟であるユダは、彼の手紙で警告している、「そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである」(ユダ4)。
多くの教会は、アンチノミニアニズム(反律法主義)が支配するサタンの宮となっている。 その哲学は、「主イエスも信じるが不道徳も許される」である。主イエス御自身が言われた、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ7:21–23)。主なる神の御心を本当に知る教会に属し、我々は神の国を目指すべきである。しかし、世の中には人々を地獄へと導く多くの偽教会がある。
ペテロはそのような再生していない偽牧師ついて2ペテロ2章で語っている。また、2ペテロ3:1-2では、読者が健全な思考をするようにと書いている、「愛する者たちよ。わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり、これらの手紙によって記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせようとした。それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである」。
種蒔きのたとえ話では、良い土壌は再生する人々を表している。4種類の土壌はすべて教会の中に存在する。初めの3種類の土壌に属する人々は、真の教会となることを邪魔するようになる。そのような者は再生しておらず、したがって健全な思考をもたない。しかし、ペテロは残された再生可能な人々に対して、健全な思考を促している。そこで第一に、不健全な思考が何であるかを知り、次に、健全な思考について見ていく。
不健全な思考
アダムのすべての子供たち即ち我々は全員堕落し、屈折いており、物事を正しく考えることができない。主なる神を中心として、聖書的に考えることはできず、聖書の教えを憎んでいる。そのような人の状態について語る次の聖書の箇所を考えてみよ。
- 創世記6:5:「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた」
- 詩篇10:4:「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。」
- 詩篇14:1: 「愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。」
- ヨハネ8:44:「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。」世界中には多くの大学があるが、特に、「神はいない」と毎日うそをついている。彼らの神は科学である。しかし、聖書は科学の礎である神について語る。
- エレミヤ17:9:「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」神のみが、人の心の姿を知られるのだ。
- マタイ15:19: 「悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくる。」
- ローマ3:4:「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。」この箇所は、人類全てが堕落していることを教えている。
パウロは、ローマ5:6–10で言っている、「再生していない人間は、死んでおり、弱く、不信心で、罪びとであり、神の敵である。」実際、新約聖書を通して、人が再生していない状態を教えられている。
- 1コリント2:14:「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。」
- ローマ1:18:「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。」”
- ローマ1:21:「なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。」
- ローマ1:24:「ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。」
- ローマ1:26:「それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代えた。」主なる神は、人々を彼らの欲望に引き渡され、彼らは罪の快楽を楽むようになった。しかし、それは一時的なことにすぎず、神の裁きが来る。
- ローマ1:28:「それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代えた。」ローマ1:29–31で、パウロは人々が毎日犯している罪について長々と書いている。実際、32節で、そのような邪悪をさらに促進している人々もいると言っている。
- エペソ2:1–3:「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。」これは人の罪に対する神の怒りに他ならない。
- エペソ4:18–19:「彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。」即ち、悪しき行いに余念がない。
- 2ペテロ2:19:「この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。」彼らは、自由を与える、と吹聴しあなたを騙す。罪の奴隷にされるのだ。
ウェストミンスター小教理問答の質問4教えられているように、彼らは、「神は存在しない」という嘘によって再生不可能な状態に落ち込んでいる。「神とは誰か?」という答えは、次のようになる。「神は無限で永遠なる方である。三位一体の創造主、贖い主であり、すべてを超越し、聖霊によって我々に内在され、その力は全能で、全知、どこにでも居られる方である。聖書の神を信じないことは、不健全な思考へと人を導く。
健全な思考
では、ペテロが言っている健全な思考とは何か? 検討したい7つの側面がある。
あなたは再生しなければならない
健全な思考はキリストによって再生した者には可能である。愚かな者は言う、「神はいない」(詩篇14:1)。「新生していない者は、悪魔から出てきた者である。悪魔は偽りの父である」(ヨハネ8:44)。悪魔は、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけである(ヨハネ10:10)。 地獄は存在する。それは、悪魔とそれに属する者たちに準備されている。それに属する者たちとは誰か?悪魔の輩と神の国に属さない落ちた人たちである。
再生された者だけが神を畏れる聖なる思考ができる。再生した者のみが聖書的に考えることができる。その考えはキリスト中心の考え方である。もしもあなたが再生されていないなら、フィリピの刑務官が救いを求めたように、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」と叫ぶべきである。その答えは、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」である(使徒行伝16:30–31)。
我々は神の国を理解し体験するには、霊的に再生する必要がある。主イエスは言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない…よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」(ヨハネ3:3, 5)。ペテロは言った、「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」(1ペテロ1:3)。
主なる神の最大の奇跡は、イエス・キリストの復活である。罪の中に死んでいる人間を救い出す神の業である。こう書いてある、「わたしは清い水[1]をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる(エゼキエル36:25–27)。聖霊の働きによって我々は神を信じるようになる。
自分自身が霊的再生するのに、我々は何もすることができない。それは神の働きである。我々は本質的に罪のなかに死んでいるからである。パウロは書いている、「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである (エペソ2:4–5,10)。
種まきのたとえで、良い土地は再生する者のことである。種まきは御言をまくのである(マルコ4:14)。ここで農夫は神の言葉を伝える牧師のことである。「良い土地」とは再生している者のことであり、神の意志に30、60、100倍の従順による収穫をもたらす。再生している者は、神の言葉を理解する心を持つ。神の意志を理解して従い、その心は再生する。
再生した人だけが、本当に悔い改めて信じたのである。悔い改めと信仰は、再生した人への神の賜物なのである。このように新生した神の子は、内在する聖霊によって信仰によって生きる。エゼキエル書が言っている、「主なる神に従うように、神の霊はその心に働かれる」。
新生した者は、新しい思考、意志、感情を与えられる。だからこそ、神が考え、意図し、感じられるように、考え、意図し、感じるようになる。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである(1コリント2:12)。「我々にはキリストの思いがある」とパウロは言っている(1コリント2:16)。だから、再生した人々だけがキリストの心を持つことができる。彼らだけが、神の言葉を理解し、神が彼らに感じて欲しいと思うことを理解できる。パウロは書いている、「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ2:12–13)。彼は言う、「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである」(ローマ5:3–5)。
これが神の方法である。我々がイエス・キリストのように、良い目的のために試練を与えられる。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった(ローマ8:29)。
ヤコブは書いている、「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、様々な試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである」(ヤコブ1:2–3)。我々は試練を好まない。しかし、主なる神は反論を許されない。神の子供たちには、神を畏れ清くあることを求められる神であられる。パウロは言っている、「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである」(1ペテロ4:12–13)。健全に思考する再生している者のみがこのように神を賞めたたえることができるのである。
新生している者は神に愛されている
第二のポイントとして、新生している者は神に愛されているということである。ペテロは「親愛なる友よ」(2ペテロ3:1, 8, 14, 17)という言葉を使っているが、この訳は不正確である。このギリシャ語「アガペトイ」は愛されている者という意味であるが、その「愛」はアガペーという語源をもつ。
我々は神の最愛の子であって、主イエス・キリストにあって神から愛されている(2ペテロ1:17)。神は我々を永遠から予知しておられた。ジョン・マレー師は、ここで用いられている「予知する」という言葉を「永遠に愛される」ことを意味していると教えている。我々は、神のために生き、喜びつつ試練を通るには、そういう理解が必要である。
我々は御子主イエス・キリストにおいて、永遠の昔より神から愛されている。エペソ5:25に「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい」とあるように、御子も我々を愛される。また、エゼキエル書34章には、悪い羊飼いが羊を食いものにする、ということが書かれている。主なる神は、「私はあなたに良い羊飼いを与える」と約束しておられる。ヨハネ10章では、キリストが教会を愛し十字架で命を捧げる善い羊飼いであることが、4回繰り返されている(11,15,17,18節)。
キリストは我々を愛し、罪の身代わりとなって十字架で死なれた。我々を買い取るための最高の代価を払われた。主イエスは尋ねられた、「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができよう」(マタイ16:26)。今、キリストご自身が全世界を所有しておられるのである。しかし、我々が世界を所有できたとしても、キリストのように我々自身の救いを買い取ることはできなかったのである。我々に対するキリストの愛は、天国でも地上でも最高なものである。
我々は神の家族、教会である。それが、教会を大事にする理由である。ヨハネは書いている、「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」(1ヨハネ3:16–18)。
羊を愛するのは牧師だけではない。すべて神から生まれた信仰者は、神の聖なる教会にいる他の信仰者の世話をする責任がある(PGM)。それこそ、キリスト中心の考え方です。
教会に対する神の愛はいかに大きいか?それについてパウロは言っている、「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31). 彼はまた言っている、「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:38–39)。
永遠から永遠に至るまで、神は我々を愛される。それだけでも充分であるが、我々が罪を犯したとしても、神の我々への愛は変わらない。しかし、我々を愛しておられるならば、御聖霊は決して我々から離れないであろう。
神は我々の思考を刺激される
ペテロは言う、健全な思考へと導くために覚るべき3つ目のポイント(1節)は、神ご自身が我々の思考を刺激されるということである。
聖霊が宿られると、人々は再生させられる。しかし、時には、霊的に眠っていることもある。しかし、神がこの眠りから起こされる。聖霊が我々を目覚めさせられる。御聖霊は、これを喜んでされるのだ。神の言葉の説教に耳を傾けると、それは人々を復活させる。神を畏れる人が敬虔な助言をする、それを聞いた人は復活するのである。我々が神を賛美するとき、礼拝するとき、働いていても、眠っていても、聖書の言葉を読んで理解するうちに、主なる神は、我々が神の意志を実行するように導かれる。
我々を復活させるために、主なる神は聖書の言葉を使われる。ペテロは、二つの手紙で教えている。神の言葉は、我々を喚起し、目覚めさせ、健全に、正しく、純粋に、清く、思慮深く考える者としていく。そのような聖書中心の考え方は、神の民にとって正しい考えである。
聖霊が宿る再生された人は、聖書全体が語るキリスト中心の考え方をするように啓発されている。
キリスト中心の思考
健全な思考とはキリスト中心の思考である。エマオの途上で弟子に、「イエスが言われた、『ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか』。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」。「そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、『こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる』」(ルカ24:25–27; 45–47)。
キリスト中心主義がなければ、聖書は意味をなさない。創世記1:1とヘブル1:1–3が明言している神を信じることなしに聖書の意味はない。創世記1:1はこう言っている、「初めに、神は天と地を創造された」。へブル1章にかかれている、「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである」(へブル1:1–3)。キリスト中心の思考なしに何事も正しく理解することはできない。
真実であられ生きていおられる主なる神に関して、主イエスを信じない者は正しく理解できないのである。聖書のみが神の言葉であり、真実である、ということも解らない。だからペテロは言った、「なぜなら、聖書の預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」(2ペテロ1:21)。またパウロは言った、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」(2テモテ 3:16–17)。聖書のレンズを通さなければ、真実を知ることはない。
主イエスご自身、聖書が真理であることを信じておられる
イエスご自身、聖書が真理であることを信じておられる。ルカ4:4、8に、悪魔がイエスを誘惑したとき、イエスが悪魔に抵抗されたことが記録されている。主イエスは「ゲグラプタイ」(こう書いてある)と聖書を引用して悪魔を退けられた。言い換えると、「聖書は私の権威である。それに従え」と言っておられるのである。
主イエスは聖書の預言に従うべくこの世に来られた
イエスは聖書が真理であることを信じておられるだけでなく、それに従うことを通して、聖書に書いてあることを成し遂げられた。詩篇40編はキリストについて語っている、「その時わたしは言った、『見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」(詩篇40:7–8)。イエス・キリストは神の律法を喜びに思っておられた(詩篇1)。
あなたは神の律法を喜んでいるか?他の箇所で、主イエスは言われた、「私の食べ物とは、私を送ってくださった父なる神の意志に従い、その仕事を終えることです」(ヨハネ4:34)。主イエスは、父なる神の御心を理解するだけではなく、それに従われたのである。主イエスはまた言われた、「わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」(ヨハネ8:29)。従順は神との交わりをもたらす。それは我々が持てる最高の祝福である。イエスは言われた、「しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう」(ヨハネ14:31). 神との交わりを持つことができるように、神の言葉を愛し、それを行えるように、そして神との交わりを持てるように。
イエスは神の業を行うために来られた。言われた、「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネ 17:4)。イエスの事業は十字架での死を含んでいた。神は我々の贖いを計画し、キリストはそれを成し遂げられた。そして、聖霊はそれを神の選びの民に適用される。
イエスは父なる神によって与えられた業を完成された。だから書いてある、「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが完成した』と言われ、首をたれて息をひきとられた」 (ヨハネ19:30)。イエスが業を終了されたという証拠は何か?それは、我々の救われたということ、神の子とされたということである。イエスは言われた、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)。イエスのいのちは私たちの中に流れ込んでおり、父なる神の栄光のために実を結び、より多くの実るようになる。聖書の神を信じることがないと、人は嘘つきになる。神は真実であり、すべての人は嘘つきである。
聖書全体を信じる
ペテロは結論を言っている、「それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである」(2節)。言い換えれば、我々は聖書から都合の良い部分を選ぶのではない。そうではなく、聖書全体、すなわち聖なる預言者の書と、使徒たちを通して救い主によって与えられた命令を信じるべきである。他の場所でパウロは言った、「神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである」(使徒行伝20:27)。それこそ教会がすることである。
聖書の最大の奇跡はイエス・キリストの復活である。キリストの復活がなければ、救いはない。キリストがよみがえらなかったのなら、復活すると言っておいて、そうしないならばそれこそ嘘つきである。その場合、彼自身も救い主が必要となる。
パウロはこの奇跡を信じないフェストとアグリッパ王に、この奇跡について説明した。フェストはアグリッパ王に言った、「ただ、彼と争い合っているのは、彼ら自身の宗教に関し、また、死んでしまったのに生きているとパウロが主張しているイエスなる者に関する問題に過ぎない」(使徒行伝25:19)。ギリシャ哲学は、死者が復活しないと主張する。事実、彼らにとって死が救いなのである。しかし、パウロは何と言ったか?「神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか」(使徒行伝26:8)。キリストの復活に疑問をもつならば、その人は愚かである。
神は全能であり、その力と知恵は無限である。この神は死者を蘇らせる。嘘をつかない。パウロはテトスに手紙で伝えている、「偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みに基くのである」(テトス1:2)。
健全な思考には、聖書と聖霊に満たされなければならない。それをするために神の言葉を聞け。聖書は、神はキリストに一致する、と語っている。聖書は、神が一人一に個人的に語られる、と教ええている。我々を叱責し、慰め、訓練し、神に従うよう思い出させる。
この教会では、我々は神の言葉を宣べ伝える。聖書は、弟子たちが使徒の教えに専念した、と語っている(使徒2:42)。そして、ペテロは使徒行伝6:4で言っている、「わたしたちは、もっぱら祈りとみ言のご用に当ることにしよう」。「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:18–20)。
我々は神の言葉に従うべきである。だから母親が言ったら、子供たちは従う。父親が言ったら、子供たちは従う。牧師が言ったら、我々は従うべきである。
イエスは言われた、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ヨハネ15:7)。また言われた、「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」(マタイ7:24)。
神に感謝せよ。我々の教会は、聖書の言葉権威、聖霊の権威を説く。神の言葉は健全な思考を可能にする。「人は心に考える通りの者である」。正しい思考は、正しい行いを生む(箴言23:7)。
ここにいる皆さん、主イエス・キリストは我々の中に今おられる。イエスは言われた、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)。イエス自身が我々と共におられる。彼の目は燃える火のようで、我々の良い業を見られる。健全な思考を持ち、神のご意志を健全に行えるように助けられる。イエスは言われた、「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」(ヨハネ15:3)。
聖書に付け足し、聖書から差し引いてはならない。キリストを中心とし、その救いを中心として聖書を理解するため、敬虔で学識に富んだ牧師が必要である。これがこの教会のやり方である。
イエス・キリストは花嫁を持つ、それは我々である。だからこう書いてある:私は、急流や稲妻のような響きの大声で叫ぶように聞こえた:「その時には、人々は死を求めても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げて行くのである。これらのいなごは、出陣の用意のととのえられた馬によく似ており、その頭には金の冠のようなものをつけ、その顔は人間の顔のようであり、また、そのかみの毛は女のかみのようであり、その歯はししの歯のようであった。「ハレルヤ!我々の主なる神、全能者の支配と栄光を喜べ。子羊の結婚式の日が来る。花嫁の準備は整った。」彼は花嫁である教会、選びの民を迎えられる。教会は神の言葉を聞き、実行し、聖なる生活を送る。美しく清潔で上質の生地は、彼女に着せるために与えられた」(上質な生地とは、聖くされた者の義の行い)。「上質の生地で作られた鮮やかな色の清い服を着せられる」(上質の生地とは聖なる者による清い行いのことである)(黙示録19:6-8)。
詩編1編にかかれている言葉を考えよ。これを主イエスが実践された。神に喜ばれる者の喜びは主の律法にある。「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」(詩篇1:1–3)。
聖書に感謝しよう。霊的再生を神に感謝せよ!健全な思考を神に感謝せよ!神の言葉を喜び感謝せよ!我々は益々祝福され、祝福され、そして祝福されるであろう。
[1] John Murray師は、ここでの「清い水」とは神のことばを説教することである、と教えている。
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