十字架の神学

1 Peter 4:1-6
P. G. Mathew | Sunday, October 29, 2017
Copyright © 2017, P. G. Mathew
Language [English]

1ペテロ4:1-6

1ペテロ4:1-6で、使徒は十字架の神学について教えている。キリストが十字架で苦しんで死なれたのは、我々が罪を赦されるためであり、神に喜んで従うようになり、罪から清められた人生をおくるようになるためである。こう書いてある、「それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない。死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである」。

十字架の神学

ペテロはこう書き始める、「キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである」(1節). 十字架の神学それは何か?それはペテロが書いている、「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである」(1ペテロ3:18, 22)。洗礼はキリストと霊的に一つとされ、信仰によってキリストと共に死んで復活することを象徴する。

パウロも、「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」と書いており、十字架の神学について同様のことを教えている。 続けて書いている、「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(ローマ4:25; 6:3–4)。

イエス・キリストの贖いの死と復活によって、我々は神と和解させられた。そして今、主なる神との交わりが与えられている。イエス・キリストによって、現時点で神の国に属している。神の国は、聖霊による義と平和と喜びがある場所である。以前は、我々も罪に死んでいた。悪魔の支配下にあった。神の敵であった。しかし、キリストは我々の罪のために死んで、これを解決された。父なる神と和解させてくださった。聖霊によって生まれ、正しいとされ、主なる神に受け入れられたのである。良い木となって良い実を結ぶようになった。神を愛する心が与えられ、言葉に表現できない喜が与えられ、主なる神の意志にそって生るようにされた。

かつて岩や棘にまみれていたが、神は我々を良い土にした。神の言葉を大切にし、それに従って生きるようになった。種は発芽して、パウロがエペソ人の2:4-5,10で言っているように、全く変えられた。こう書いてある、「あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」。人は、表面的に悔い改めと信仰を真似することはできても、神によるこのような再生を造りだすことはできない。だから、パウロは言っている、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」。

イエス・キリストが自らの体をもって我々の罪の苦しみを受けられ、代価を支払われたので、決して滅びることがない永遠の命が我々に与えられた。そして、敵である悪魔は我々を神の手から奪うことができない。

主イエスによって義とされたので、我々は過去、現在、未来のすべての罪を赦された。現時点で、神との平和を保っており、これによって人知を超えた神が与える平和の中にいる。「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」(ローマ8:1)。

このように、十字架の神学は我々に永遠の自由を与える。今、主なる神の子供とされ、正義を実行すべく主なる神に仕えている。また、神の恵みの座に近づくことができる。なぜなら、キリストは我々の罪の痛みを受けられた、「我が神、我が神、あなたはどうして私を見捨てられたのですか!」と叫ばれた。パウロは次のように説明している、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:21)。これを二重の取引と呼ぶ。キリストは我々の罪のために十字架上で死んで、完全な正義を与えてくださった。これによって、義である神は、我々が神の御子キリストの衣をまとい、義と認めてくださる。キリストは、その一度の死によって罪の問題を解決した。我々の罪のために再び死ぬことはない。この犠牲によって罪の問題が解決したのである。父なる神はこの完全な犠牲を受け入られた。その証拠はキリストの復活である。従って、イエス・キリストは、彼に信頼する我々に神の知恵、正義、聖さ、贖いを与えられたのである。

キリストは我々の罪の代わりに死んで埋られた。そして復活し、この問題を一気に解決れた。今や、我々はこれを信じてキリストに結びつき、共に霊的な死と復活をしたのである。バプテスマは、そのことの象徴である。キリストはぶどうの木、我々はその枝であって、生活の中で神の栄光の実を結ぶのである。

我々は罪の力から解放されている

1節で言われているように、キリストは罪を解決し、罪の支配から我々を解放された。次の点が重要だ。

  • 1ペテロ2:24: わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
  • 2コリント5:14–15: なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての神の民の罪のために死んだ以上、彼らすべてが死んだのである。そして、彼が彼らのために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
  • ローマ6:6-7: わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
  • ローマ6:10–12: なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認めるべきである。だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせてはならない。
  • ローマ6:18: 罪から解放され、義の僕となった。何と言う自由であろうか!
  • ローマ6:22: しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
  • コロサイ1:13–14: 神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。

十字架の神学が我々を守る

ペテロは言った、「あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい」(1節)。言い換えれば、十字架のこの神学の鎧として身につけよ、と命じているのである。そして、誘惑するサタンに抵抗すべである。神の言葉が真実であること、キリストが間違いなく聖書の通りであること、これによってサタンに対抗できるのである。信仰者であると自称してはいてもその実を否定する愚かなキリスト者は、基本的に心が神学に向いていない。そのような人々は、だれかの話に心打たれ、涙を流すことはあっても、その涙に実は何も意味もない。ローマカトリック教会、正教会、プロテスタント教会だけでなく、福音派の教会も、今改革が必要である。人間的な教えの奴隷状態から、我々は今、解放される必要がある。そのためには、正しい十字架の神学が必須である。

感情に頼るのではなく、優れた知性によって受けとめるキリストの教えに注目すべきである。悪霊が主イエスを試みた時、主イエスは聖霊の力と神の言葉で悪霊を撃退された。主イエスは、神の言葉に従われた。「ゲグラプタイ」というギリシャ語で「そう書いてある」という意味である。このように宣言して、主イエスはサタンに勝たれる。 同じように、我々もこれに従うことによって神に服従しなければならない。このように悪霊サタンに抵抗すれば、彼らは逃げていく。

我々は、再生されており聖霊を宿していて、キリストの思いを与えられている。パウロは書いている、「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」(ピリピ2:5)。こうも言っている、「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」(1コリント2:16)。あなたは、キリストの思いを持っているか?

十字架の神学の鎧を見に着けよ。パウロはさらに書いている、「夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか」(ローマ13:12)。彼は真実の光である神の言葉について話す。あなたの願いは何か?聖書はその願いについて何と言っているか?聖霊によって生まれたなら、主なる神の聖書の言葉に従って願い求める。「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」(エペソ6:11).

我々は戦場にいる。敵は、キリストの死と復活によって敗北した。キリストのみが主である。だから、聖書が教える通り、悪魔が敗北したことをイエス・キリストの名によってまず宣言せよ。

  • 創世記3:15: わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう。
  • へブル2:14–15: このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。
  • 1 John 3:8–9: 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。
  • 黙示録1:18: また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。
  • テトス1:1: 神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた者たちの信仰を強め、また、信心にかなう真理の知識を彼らに得させるためである。

もしも、今あなたが神の前にへりくだった生活をしていないなら、あなたは悪魔の子である。すぐに悔い改めよ。

キリストは我々の罪を担われた。これは、先ず神が我々信仰者を選ばれたからである。罪を犯している悪魔とその闇の国から、我々は神の国へと移された。かつて闇であったのに、今や、主の光の中に置かれ、神の御心を行っている。このように悔い改めと信仰によって、キリストの弟子として聖霊によって生きている。

神の意図されることに向かって生きよ

そこでペテロは言っている、「それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである」(2節)。自分の欲望のためではなく、神の意志のために生きている。常に「神の意志は何か? 聖書は何を語っているか?我々は邪悪な人間の欲望のために生きていない。キリストにあって、罪に死んで、今は主イエスのように、神の言葉に従って生きるのである。

完全に自由な人間はどこにもいない。しかし、神に従っていないなら、それは悪魔に従っている。従って、すべて主を信じていない者は悪魔に従っている。しかし、もし再生されれば、主イエスを我々の主として告白し従うであろう。主なる神に従うことが我々生き方となる。そこでパウロは言っている、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)。彼はまた言っている、「すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない」。これこそ神に従うという意味である(テトス2:11–14)。

そこで、ペテロは言っている、「過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている」(3–4節)。

我々の以前の姿はどうだったか?パウロが書いているように、「かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。(霊的に死んでいた)」(エペソ2:2). しかし、我々は変えられた。だから、1ペテロ1:14が言う通り今は変えられているから、「従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず」に生きよ。罪を犯す者は、神を知らない。

パウロは書いている、「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」(ローマ8:14)。ペテロは言っている、「わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」(使徒行伝5:32)。人が神に従わなければ、その人はキリスト者ではない。実際、主なる神に反抗する者は悪魔の子である。

へブル人への手紙の著者は主イエスについて言っている、「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、」(へブル5:8–9)。「従順であるすべての人」とは主イエスを自分の主人であると信じている者すべての人の意味である (マシュー牧師の訳)。主イエスは言われた、「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:18–20)。主イエスはまた言っておられる、「わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」(ヨハネ8:29)。主イエスは父なる神に常に従われた。そして祈られた、「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました」(ヨハネ17:4)。

本物のキリスト者は、罪と滅びの縄を悪魔にもらってしまったが、キリストにこの縄を解いてもらい、代わりにイエス・キリスト癒しの絆につながれた者である。キリストに従うことによって、我々は、怠惰や欲望、酒ではらすこと、あらゆる肉欲と下劣な行いや心、そして神を神として崇めない偶像礼拝をことごとく捨て去ったのである。 パウロは言う、「それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである」(1コリント6:9–10)。彼はまた言っている、「だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。」(コロサイ3:5–10)。

贖われていない状態にある人は罪の快楽を、七十年または八十年の間にわたって求め続けるであろう。しかし、詩編作者は言っている、「あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」(詩篇16:11)。

我々は神の前に、神の民にふさわしく生きるために、以前のように下水を飲むような無駄な生活を捨て去って、主なる神に祝福される生活と交換していただいたのだ。従って、現時点でキリスト・イエスの国のすべての霊的祝福に恵まれ、キリスト共に神の国の市民権を所有している。

下水道の生活から、新規一転して、神が与えられる聖なる生活を送るようにされた。だから、主なる神に頼らない者、今も下水道の生活を当然の生活とあきらめての生きている者たちは、我々がなぜそんなに聖なる生活を送ろうとしているのかが全く理解できない。そこで、彼らはキリスト者を、あることないことで中傷することがある。歴史上でも、真の信仰者を殺すことさえ見られる。ヤコブは言っている、「あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか」(ヤコブ2:7)。ペテロもこのことに関して、明確な良心を保つべきだと言っている、「しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じるであろう」(1ペテロ3:16)。

イザヤは、「わざわいなるかな、彼らは悪を善と呼び、善を悪と呼んでいる」と預言書に書いている (イザヤ5:20)。これは、主なる神を信じない者たちのねじれた心が言わせるのである。パウロは言っている、「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない」(ガラテヤ5:19–21)。

我々も、このような罪の世の中に染まって生きていた。しかし、今は聖霊の実を実らせるように生活している、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」(ガラテヤ5:22–23)。

我々がかつてどういった者であったのか、知りたいだろうか?そうなら、放蕩息子(ルカ15)を見れば一目瞭然だ。悪霊につかれた人であったかもしれない。裸でさまよっていた者、暴れて鎖を壊していた者であったかもしれない。しかし、主なる神はその者のところに来られ、狂人状態から救い出された。今は、正気に返って服を着て穏やかに座っている(ルカ8:35)。主イエスは言われた、「すべて重荷を負って苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)。

主を信じない者は全て狂った心を持っているといえる。主を信じない者は、実際には十戒と逆の生き方をしていても気づかない。これに対して、キリスト者はそのような狂った生き方に戻れと言われても、それは無理である。なぜなら、神の霊がどうしても彼を正気にさせるからだ。

全ての人間はやがて裁き主に会う

生きている者、死んだ者、すべての者が裁き主である主イエス・キリストに会うことになる。主イエスに信頼して生きる本物の信仰者を中傷し、迫害し、殺す者は、やがて全ての権能を与えられているキリストによって裁かれる。ペテロは書いている、「彼らは、やがて生ける者と死ねる者とを裁く方に、申し開きをしなくてはならない。死人にさえ福音が伝えられたのは、彼らは肉においては人間として裁きを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである」。これはかつての殉教者について事実であるが、これらの殉教者も我々も主なる神の霊に従って生きているのである(5–6節)。だから、以下のようにも書いてある。

  • ヨハネ5:22–23: 「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない」もし誰かがイエス・キリストを信じることを拒むならば、その者は父なる神とキリストを嘲笑している。その者は、そのままの状態で神の裁きの座に出なければならない。
  • ピリピ2:6–11: キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
  • 使徒行伝17:31: 神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである。
  • マタイ25:34: イエスは言われた、よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。
  • マタイ25:41: 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである。
  • へブル10:31: 生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。

イエス・キリストの創造による我々も、自らの生き方をもって彼の前に出なければならない。主イエスは言われた、「あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう」(マタイ12:36)。

キリストは唯一の審判者である。誰もが主イエス・キリストに申し開きをしなければならない。主なる神の造られたこの世界を目の当たりにし、また、自分の良心に照らし合わせて、だれもがこの神に対して申し開きをしなければならないことを、おぼろげながら知っているのである。ある者は、福音の説教を通してこれをはっきりと知る。しかし、多くの者はその真実を抑えて生きている。その時がきたら、「私はほんとにそんなことは知らなかった」と言い訳できる者は一人もいない。パウロは書いている、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。」(ローマ1:20)。全ての者がキリストの裁きに服するのである。パウロはまた書いている、「そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう」(ローマ2:16)。

終わりの日、主イエスは主により頼む者を正しいとされる。そして、自らの財力、美しさや栄光、能力に信頼する者たち、すなわち主イエスにより頼まず、自身に頼み、自分を信じる偶像礼拝者を責められる。そして、後者を永遠の火、苦しみ、すなわち永遠の滅びに入れられる。本当の信仰者は罪のない、決して滅ばない、神の国に住まわせる。その裁き主は、イエス・キリストである。ヨハネはその時の主イエスの姿について次のように黙示録に書いている、「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、『恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。』」(黙示録1:12–18)。

次の章で書いている、「またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、『忠実で真実な者』と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。彼は血染めの衣をまとい、その名は『神の言』と呼ばれた。そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、そのももにも、『王の王、主の主』という名がしるされていた」(黙示録19:11–16)。

さらに、ヨハネは以下のように書いている、「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はその仕業に応じ、この書物に書かれていることにしたがって裁かれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのその仕業に応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(黙示録20:11–15)。

いったいこの裁判官は誰のことか? 彼はすべてを創り、すべてを支配し、すべてを裁かれる。あなたの名前は、はたして天に書かれているだろうか?主イエスは言われた、「悪霊があなたにおののいて逃げることを喜ぶな。むしろ、あなたの名前が天に書かれていることを喜びなさい」(ルカ10:20)。どうしたら、あなたの名前が小羊であるキリストのいのちの書に書かれているとわかるのか?福音を聞いて、今、主イエス・キリストを信じるなら、あなたは永遠の死から永遠の命へと移されている。あなたは死後では何もできない。今日こそ救いの日である。

むしろ放蕩息子の話を思い出せ。父なる神のところに戻るため、自らの背きの罪を悔い改めよ。神と人との間の唯一の仲介者である主イエスのみに頼り、主なる神のもとに戻れ。あなたの罪を告白し、救われよ。そうすれば、あなたは永遠に天の父と一緒に住むことができる。アーメン。