喜ぶべき良い知らせ
Luke 2:1-14P. G. Mathew | Sunday, December 23, 2018
Copyright © 2018, P. G. Mathew
Language [English]
「御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである』」(ルカ2:10–11).
科学者リチャード・ドーキンスは、彼の本「神気違い」で、神を信じる者は欺かれていると述べている。[1]それは、ドーキンスがなにも崇拝していないということを意味しない。彼は、永遠にほめたたえるべき創造主ではなく被造物を崇拝しているのである(ローマ1:25参照)。しかし、我々は欺かれてはいないというのが事実だ。聖書は、罪が欺きをもたらすと言っている。そして、この世の人々は神を知らないがゆえに希望がない、と教える。従って、ドーキンス博士が悪いニュースと悲観主義しか語れないのは、この物質的世界が単に偶然の産物でしかない、と信じているために喜ぶべき良い知らせなどには全く縁がないからである。
大きな喜びの知らせを今日あなたに告げよう。父なる神が我々に贈られた、御子キリストである。肉体をとってお生まれになったときには、布に包まれ、その後墓服に包まれ、最後は永遠の栄光の体をまとわれた。このクリスマスシーズンに、多くの人が両親、友人、親類から贈られたプレゼントを開けるが、開けてみてがっかりするかもしなない。またある人は、わずかな喜びを経験するかもしれない。
天の国から我々に与えられる贈り物も、その包装を解く必要がある。紀元前8世紀、イザヤが預言している、「ひとりのみどり子が我々のために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。政治はその肩にあり、その名は、霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君、ととなえられる」(イザヤ9:6)。
友よ、我々にとって最大の必要は物質的なものではなく、神から来られた方である。ジョン・マレー師は、これを神と人の「つながり」と表現している。これは、「すべてが神に属していて、同時に人に属する方」キリストのことであり、「罪深い肉の姿」とってこられたのである(ローマ8:3)。即ち、「肉によればダビデの子孫から生れ」(ローマ1:3)、「神は御子を女から生れさせ」(ガラテヤ4:4)、「人間の姿になられ」(ピリピ2:7)、「キリストは肉において現れられた」(1テモテ3:16)。マレー師は結論している、「本来神の御子であられる方が、罪深い人間の姿となられた。それは罪のない方が我々の為に罪となられるためである」。[2] 使徒ヨハネは宣言する、「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1:14)。
この神の人キリストは、処女マリアの長子となられた。この特異的な処女降誕は、聖書が教える必須のエッセンスの一つである。この贈り物を開けると、壮大で永遠の喜びを経験するであろう。これを開けるには、御聖霊の助けと、我々の思考、意志、感情の全てが必要である。歴史家ルカは、ユダヤ地域でこのキリストの福音について研究するにあたり、この処女降誕の真実についての証言を直接マリア自身から受け取ったのである。
喜ぶべき良い知らせについて3つのこと、その約束、実行、そして宣言、について話したいと思う。
I. 約束されていた良い知らせ
(ルカ1:26–38)
天使ガブリエルが、ガリラヤのナザレに住んでいた十代の貧しい経験な少女に遣わされた。ガブリエルは、マリアが神の恵み受けたことを告げた。このことは彼女を喜ばせた。彼女に対して「祝福された女性」と呼びかけており、処女であるにもかかわらず、彼女が男の子を産む、と宣言した。処女がどのように子を宿すことができるでしょうか、というマリアの問に対し、ガブリエルは、聖霊なる神がそれを成し遂げられる、と伝えている。
神は人に理解できないことを説明される。無からの創造の奇跡、処女降誕、死者の復活、新しい天と新しい地、これらは理解し難い。これらすべては人にとっては謎であるが、神ご自身がその答えである。 神はすべてのものを創造された。神は、処女降誕を行われ、イエス・キリストを死から復活させられた。神は我々をも死から復活させられるであろう。そして、神は新しい天と新しい地を創造されるであろう。
ガブリエルは、「神には不可能はない」とマリアに言った。これは神御自身のサラへの言葉を思い起こさせる:「主にとって不可能なことがあろうか」(創世記18:14)。これは、聖書に記録されているすべての奇跡に対する神の説明である。
高齢のゼカリヤとは違い、10代のマリアは神の約束の言葉を信じた、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)。彼女は、すべての信仰者が信じるべき、「主なる神は三位一体」、「我々はキリストの奴隷ある」を知っていたのだ。我々は、神に対して降伏し、その意志を実行すべきである。実際、パウロも自分自身を「パウロ・ドウロス・クリストウ・イエソウ」、即ち「私パウロは、キリスト・イエスの奴隷」と自称した。あなたは、イエスがあなた自身の主であることを告白しただろうか。あなたはマリアのように、「主の御心がわたしのうちにもなされますように」と告白しただろうか?
マリアに生まれた子は、ダビデの玉座を与えられる神の子である。永遠の王であるキリスト、彼はすべての悪を征服し、その民全てのために神との平和を来たらせる方である。神は、キリストによってその民をすべての敵から救いだされる。悪魔の頭を押しつぶす者、その救い主は女性から生まれさせた神ご自身からの贈り物である。地上のすべての神の家族、ユダヤ人も異邦人も、真の祝福を与えられるアブラハム、そしてダビデの末裔である。この方こそ、マリアの子イエスである。
神は彼にこの名前を選んだ。はじめの女性イブがそそのかされ、世界に呪いが広がった。しかし、神を信頼する女性マリアを通して、神の子が世に与えられ、すべての神の民に永遠の祝福をもたらした。 ジョン・マレー師が言うように、彼は超自然的な降誕による超自然的な人である。彼はすべての汚れから人を超自然的に清くされる。[3]マリアは、この処女降誕によって、恥、中傷、疎外、貧困、離別、石打ちの刑を受けることになる。それにも拘わらず、主なる神の宣言を信頼した。主なる神があなたに試練を与えても、あなたは神を信頼するか?主イエスは言われた、「この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。
II. 良い知らせの到来
(ルカ2:1–7)
何世紀も前、ミカはキリスト降誕の正確な場所を預言してこう言っている、「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである」(ミカ5:2)。主イエス・キリストは永遠であるということだ。
キリスト即ちダビデの子はダビデの町で生まれるように預言されていた。そしてその時が来て、ベツレヘムで生まれておられる。この超自然的な人は完全な人間性を持っておられた。主イエスご自身が言っておられる、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」(ヨハネ8:58)。主イエスは、私は「在る」という者である、と自ら神ご自身が人間の肉体をとってきておられると言われた(出エジプト3:14を参照)。
キリストがベツレヘムで生まれることは神による予告であった。ナザレの貧しい妊娠中のマリアは、ダビデの末裔ヨセフと婚約して、ナザレの南80マイルに位置するベツレヘムで主イエスを産むことになる。神御自身の預言通りの結果である。
シーザー・アウグストゥスは紀元前27年から西暦14年までローマ皇帝であった。彼はジュリアス・シーザーのはと子ガイウス・オクタヴィアンを養子とした(PGM)。彼は後にローマ皇帝となり、内戦をすべて終結させ、パックス・ロマーナを確立した。紀元前27年、元老院は彼にアウグストゥスの称号「高貴な者」を与えた。これは「神」を意味する場合もある。人々から救世主と呼ばれたアウグストゥスは、当時世界で最強の人物であった彼は自らの意志で、ローマ帝国全土で課税目的の人口調査の勅令を出した。人口調査のためにユダヤ地方の人々も先祖の出生地に行かなければならなかった。
このシーザー・アウグストゥス令の発令で、ヨセフとマリアも登録のためにダビデの街ベツレヘムに行った。ミカの預言の通り、救い主イエスがベツレヘムに生まれられた。こうして、全ての主権者である父なる神の意志を果たす一環を担ったのである。同様に、裏切りの弟子ユダや、パリサイ人、律法学者、サンヘドリン、大祭司、ローマ総督ピラト等の手により、主イエス・キリストは十字架刑にひき渡され、神は、我々の罪の贖罪の死を成し遂げられた。
シーザー・アウグストゥスは、パックス・ロマーナの外交平和を確立したが、哲学者エピクテトスは、「皇帝は陸海の戦争を終結させ平和を与えてくれるかもしれないが、我々の心に平和を与えることはできない」と言った。心の平和、それは人間にとって外向きの平和よりも切望されるものだ。[4] 神は御子を送られ、この平和を与えられた、「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」とパウロは言った(ピリピ4:7)。
ヨセフとマリアはベツレヘムに早く到着した。すぐに、彼女は陣痛を感じ始め、出産の時が来た。彼らは、ベツレヘムにある家々のドアをノックし始め、お産のための部屋を探した。しかし、誰もそのような手の焼ける困難を望まず、救い主である生まれたばかりの赤子の産声を聞きたいとは思わなかった。ユダヤ人にとっては、お産の女性は汚れていると思われていたし、助産を助ける者もいなかったのである。
即ち、ベツレヘムの人々は司祭やレビ人のように振る舞ったのだ。負傷した旅人が道で死んで行くのを見て反対側を通り過ぎた(ルカ10章)。人々には、マリアと新生児のための部屋がなかっただけでなく、それに関わりたくなかったのである。ヨハネは後に言っている、「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」(ヨハネ1:11)。
この貧しい夫婦はナザレに小さな家を持っていた。しかし、ベツレヘムで、彼らはホームレスの状態にならざるを得なかった。何年もの後主イエスは言っておられる、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(ルカ9:58)。しかし、最後に、彼も頭を置く場所、つまり十字架を見つけた。パウロは我々に言っている、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである」(2コリント8:9)。
遂に、主イエスは牛が飼われていた洞穴で生まれられた。母マリア自身が布で彼を包み、飼い葉桶に寝かせた。そこに神ご自身が寝かされているのである。我々が、主なる神の中に住むために、主なる神がホームレスになったのだ。主イエスは言われた、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」(ヨハネ14:1–2)。
III. 宣言された良い知らせ
(ルカ2:8–20)
世界の歴史で最も重要な出来事は、神の子の誕生そのものである。天がこの誕生を発表したのである。通常、我々が出産の報告を友人や親類にするように、主なる神も、ダビデの子である御子イエスのマリアからの誕生を告げられたのである。
神はこの素晴らしい出来事の真相を、誰に最初に開示されたか?シーザー・アウグストゥスか、ヘロデ王またはサンヘドリンか、あるいは大祭司か。最初の者が最後となり、最後の者が最初になる、と書いてある通り、神はこの驚くべき救いの出来事を、当時人々から軽視されていたベツレヘムの羊飼いに開示された。羊飼いは、神殿で犠牲とされる羊を飼っていた。
正統派のユダヤ人は羊飼いを儀式律法的に見て汚れていると考えていた。羊飼いは嘘つきとみなされ、法廷で証人となることも禁じられていた。しかし、神は、天使たちから福音を聞く者として、羊飼いを選ばれた。1コリント1章に書かれているように、神は人間を扱う方法をわきまえておられる:
兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか(1コリント1:26–31; 20)。
神は天使を通して、御子という贈り物をこれらの取るに足らない軽視されていた羊飼いに与えられた。我々もこの贈り物を受け取ろう。
この神の贈り物とはどのような方か?
布に包まれ、洞穴の飼い葉桶の中に寝かされているこの赤子は誰か?
- 彼は聖なる者(ルカ1:35)、我々とは異なり、超自然的な保存によって罪なく生まれており、罪人を救うために罪のない生活を送られた。
- 彼は神の子(ルカ1:32、35)、人として受肉された永遠に存在され、人間性を身につけて貧しくなられた。預言者イザヤは、「大能の神、インマヌエル(神、我らと共にあり)、とこしえの父、平和の君」と呼んでいる(イザヤ9:6, 7:14)。預言者ミカは、「その出るのは昔から、いにしえの日からである」と言っている(ミカ5:2)。「私は在る」と言われる当のご自身である。
- 彼はキリスト(ルカ2:11)、救世主、旧約聖書で約束された油そそがれた救い主、すべての敵を打ち負かし、捕虜を解放する強者であり、悪魔を縛り、我々を自由にし、終わりのないジュビリーの年を宣言される。
- 彼は主(ルカ2:11)、神であり主権者である。布に包まれ飼い葉桶に寝かされているのは、イスラエルが信じてきた神ヤハウェご自身である。ジョン・マレー師が言ったように、すべてを創造された主なる神が、生命体となり、不死身が人間になられた。神が動物の飼い葉桶に眠っておられるのだ。
- 彼は永遠の王(ルカ1:32–33)、ダビデの契約を成し遂げられる、神がはダビデの末裔として約束された永遠の王である。イザヤは、「その政治と平和とは終りがない」(イザヤ9:7)と言って居る。主イエスは永遠に支配されるゆえ、その絶対的な主権を受け入れないならば、誰も救われることはできない。「彼に降伏して救われよ」は、現在もガブリエルのメッセージである。
- 彼こそ救い主(ルカ2:11)、旧約聖書に語られる救い主である。マリアは彼を「私の救い主」讃えている(ルカ1:47)。マリアも救い主を必要とする罪人の一人であり、自分に宿る子が彼女をすべての罪から救うのでる。シーザーは救世主とも呼ばれたが、彼は罪人であり、人々を罪から救うには無力であった。布に包まれて眠っている赤子は、主なる神との平和を確立され、罪人を救うために与えられたのだ。他に救世主はいない。
- 彼はイエス(ルカ1:31)、その名は「主が救われる」という意味である。マリアやヨセフが命名したのではなく、父なる神御自身がつけておられる。それは、偉大なジョシュア、その使命は彼の民を彼らの罪から救うという意味である(マタイ1:21)。そしてあなたは救われ、私は救われる。主のみをほめたたえよ!
あなたはその送り物を開けたか?
あなたに聞いてみよう:あなたは彼が救いに来た一人か? 彼はあなたを救われる。我々の罪のために死ぬために、神が人間になった。罪の報酬は死であるが、彼は十字架につけられた。神/人であるイエス・キリストは、神の敵である罪人即ち人間が神と和解し、神との平和、他人との平和、内なる平和を享受できるように、我々の代わりに犠牲として死なれた。パウロは言う、「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:21)—それは単なんなる義ではなく、神の義となる、という意味である。ミカはベツレヘムで生まれるこのメシアについて預言し、「そして [主イエス]が彼等の平和となられる」(ミカ5:5)と言った。だから、彼は我々の平和、イエス・キリストは我々の平和である。彼は十字架を通して我々のために神とのこの平和を達成したのである。パウロが言っている:
キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を伝え、また近くにいる者たちにも平和を伝えられたのである。というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである(エペソ2:14–18)。
布に包まれ静かに眠るこの赤子は、やがて埋葬の布に包まれることになる。我々が神との平和を受け、死ぬまでその平和に生きるために、彼は我々の死の代価を払わなければならなかった。彼はまた、埋葬の布を取り除き栄光の衣を着られる。天のすべてが、したがって、父なる神の御前に大喜びで歌う:「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(ルカ2:14)。
この赤子は、神の栄光を明らかにされた。たしかに、主イエスは父なる神に祈っておられる、「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました」(ヨハネ17:4)。神の目的は、たしかにイザヤの言う通り、この主イエスによってなし遂げられた。そして、主イエスは、「天におられる我らの父なる神よ、あなたの御名をあがめます」と祈るようにと教えられた。
「神の心にかなう人々と共に地に平和があるように」とは、神の選びの民に、唯一の救い主キリストを通しての救いが来ることを言っている。「彼の名はイエスです。御自身の民を救う方」とも書かれている。もしも、あなたが彼の民でなければ、彼に降伏することを拒否するであろう。これは、主イエスの顔につばを吐くようなものである。しかし、キリストは地上のだれよりも高く上げられた方であって、キリストに対してすべての人が膝を屈め、すべての舌がイエス・キリストが主であることを告白し、父なる神の栄光を見るであろう。
我々の罪ゆえに、神の対して大きな恐れが生じる。しかし、我々は主に対してハレルヤという大きな歓喜の声を出すのである。それは神の民すべての歓喜であり、悔い改めと信仰による救いを得、心にイエスを信頼しているからだ。マリアや羊飼いもそうであった。
我々全員に天からのこの贈り物を受け取れるよう、神が助けて下さるように。神の聖なる者、神の御子、主、永遠の王、救い主、この世界の希望、それはイエス・キリストである。もはや赤子の布や、葬りの布に包まれておらず、栄光に包まれており、神の右手の玉座に座っておられる。マタイ25:31-46で読んだように、彼は再びこの地に栄光と共に来られ、彼の民に栄光を与え、敵を滅ぼされる。
したがって、結論として、私はあなたにキリストを信頼するように嘆願する。彼は、悲惨、混乱、呪いを取り去り、真実の平和を与える方である。あなたを救い出され、神の子としてくださる力を持っておられる。今日、キリストを心に受け入れよ。マリアとヨセフ、天使と羊飼いと共に、永遠の賛美で神を賛美せよ。
ルカ7章で、主イエスは罪深い女性にこう言われた、「あなたの罪は赦された。安心して生きなさい」。彼は我々にも同じことを言っておられる、「あなたの罪は赦された。安心せよ」。ある姦淫の罪に問われた女性に、主イエスは言われた、「もう罪を犯してはならない」。ある取税人は、「罪人である私を憐れんでください!」と祈った。彼が義とされて帰っていった、と我々は学んだ。私はあなたに言う、あなたの罪は赦された。神との平和をもって、今日クリスマス、世界で唯一の救い主イエス・キリストの誕生をおう。
[1]ドーキンスの本の前提は彼の序文で表現されている通り、「私のタイトルの『神即ち妄想』の『妄想』という言葉は、それを専門用語であると見なす精神科医を混乱させた。しかし今のところ、私は『妄想』に固執するつもりであり、この言葉を使う理由を正当化する必要があると考える。ペンギン英語辞書では、『妄想』を「誤った信念または印象」と定義している。Microsoft Wordに付属の辞書は、『妄想』を「矛盾する証拠に直面しても、誤っている信念にしがみこうとする、特に精神障害の症状」と定義している。この本の最初の部分は宗教的信仰に対して語っている。それが精神障害の症状であるかどうかについて、私は“Zen and the Art of Motorcycle”「禅と二輪車の芸術」の著者ロバート・M・ピルシグが、『ある人が妄想に苦しむとき、それを狂気と呼ぶが、多くの人々が妄想に苦しむとき、それを宗教と呼ぶ』と宗教を喩えている。私の本の意図は、宗教的な読者が私の本を読んで、それを読み終えた時、無神論者になっていることである」。Richard Dawkins, The God Delusion (Boston: Houghton Mifflin Company, 2006), 5.
[2] John Murray, Collected Writings, vol. 2, Systematic Theology (Edinburgh: Banner of Truth, 1977), 132.マレー師はまた、彼のエッセイで処女降誕を信じる絶対的な必要性を教えている:“William Barclay and the Virgin Birth,” Collected Writings, vol. 1, The Claims of Truth (Edinburgh: Banner of Truth, 1976), 340–343.
[3] John Murray, Collected Writings, vol. 2, Systematic Theology (Edinburgh: Banner of Truth, 1977), 132.
[4] Norval Geldenhuys, Commentary on the Gospel of Luke, New International Commentary on the New Testament series (Grand Rapids: Eerdmans, 1979), 112.
Thank you for reading. If you found this content useful or encouraging, let us know by sending an email to gvcc@gracevalley.org.
Join our mailing list for more Biblical teaching from Reverend P.G. Mathew.