復活の主イエスを信じると告白する

Romans 10:9-13
P. G. Mathew | Sunday, March 27, 2016
Copyright © 2016, P. G. Mathew
Language [English]

最近、ナンシー・レーガンが94歳で亡くなりました。 問題は、「彼女の魂はどこに行ったのか」ということです。その息子は、死んだら魂がどこへ行くのかを確信しているようです。無神論組織のスポークスマンとして、彼は次のように述べています。

主イエスによれば、私たちが死ぬと、魂の行く場所は天国か地獄の二つしかありません。死んだら自分の魂がどこに行くか知っていますか?魂が死からよみがえり、父なる神の右に座っておられる主イエス・キリストの天国に行くために、私たちは皆、自分の神からの召しと選びを確かめなければなりません。

死はすべての人にやってきます。しかし、主イエスを信じる者にとって、キリストにあって死ぬこと、信仰にあって死ぬことは益です。聖書は、信じる者の死は良いものであり、祝福されていて、貴重であると言っています。キリストにあって死ぬ者は、永遠に主とともにいるということです。そして神の臨在の中には喜びが満ちあふれており、イエス・キリストが死と復活によって私たちのために命と不滅を明らかにしてくださったので、主イエスのもとには永遠の喜びがあります。

時が満ちて受肉されたイエスは、イザヤのこの預言を成就されました、 「わが義はすみやかに近づき、わが救は出て行った。わが腕はもろもろの民を治める。…地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ」(イザヤ51:5; 45:22)。

私たちは次の 3つの点を考えてみたいと思います。キリストの復活の歴史的事実。 復活が私たちに教えてくれること。そして私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの復活を踏まえて私たちが何をしなければならないのかということです。

復活の歴史的事実

イエスの復活は歴史的事実です。 「すべての歴史は彼の物語である」という言葉があります。

彼とはイエス・キリストであって、歴史の主権者を意味します。リベラル派の寵児である牧師/神学者のカール・バルトは、聖書の無謬性を信じていませんでした。 したがって、イエスの復活の歴史性を信じていませんでした。 彼が書いた「教会教義」の第3巻で、バルトは次のように言っています、「この生涯の後、人間は現実ではなく、神の心の中に永遠に存在する」。このような根深い愚かな考えは、聖書やイエスご自身の証言、使徒的目撃者の報告と矛盾しています。1しかし、使徒行伝でルカは書いています、「テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが教えはじめてから、お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるしました。イエスは苦難を受けたのち、自らの生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた」(使徒1:1–3)。また、アグリッパ王の前でパウロは同じことを証言しています、「しかし、わたしは今日に至るまで神守りを受け、このように立って、小さい者にも大きい者にもあかしをなし、預言者たちやモーセが、今後起るべきだと語ったことを、そのまま述べてきました。すなわち、キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえって、この国民と異邦人とに、光を宣べ伝えるに至ることを、あかししたのです」。パウロがこのように弁明をしていると、フェストは大声で言った、『パウロよ、おまえは気が狂っている。博学が、おまえを狂わせている』。パウロが言った、『フェスト閣下よ、わたしは気が狂ってはいません。わたしは、まじめな真実の言葉を語っているだけです。王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対しても、率直に申し上げているのです。それは、片すみで行われたのではないのですから、一つとして、王が見のがされたことはないと信じます』」(使徒26:22–25)。復活は、私たちが聖書の最初の部分を信じるならば、神は無限であり、人格を持っておられ、全能だということです。その聖なる神を信じるその信仰は合理的です。パウロは福音を次のように宣言しています、「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである」(1コリント15:3–8)。

聖書には、イエスの復活の目撃証言が記されています。 力ある聖霊による霊的再生がなければ、人はこの神聖な真理を抑圧し続けます。彼らは神の言葉を拒絶し、彼らの心は真理に敵対しています。 愚か者は心の中で「神はいない」と言い、愚か者は心の中で「復活はない」と言います。

旧約聖書はメシアの復活を予言している。詩篇16:10は言う、「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである」。また、イエスが旧約聖書の予言を成就することについて、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」(ルカ24:45–47)。キリストが死からよみがえらなければ、悔い改めも赦しも救いもありません。

主イエスご自身、福音書の中で何度かご自身の死と復活を予告されました。例えばマタイ16:21に、「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた」と書いてあります(マタイ17:23, 20:16-17; 26:32も参照)。

空の墓、イエスの頭と体を覆っていた衣服、それは、アリマタヤのヨセフとニコデモによって重さ75ポンドの高価な香辛料が注がれた衣服等に関する証言です。日曜日の早朝、栄光に満ちた主イエスの肉体が、墓の衣服を残してどこかに消えたのです。

イエスは彼が選んだ多くの人々に現れ、昇天の40日前に彼らに指示を与えられました。 また、マグダラのマリアと他の女性たちにも現れられました。 彼はペテロにも現れられました。エマオに向かう途中の二人の弟子にも現れられました。2階の部屋で10人の使徒に現れられました。後で、トマスを含む11人の使徒に、そしてご自分の兄弟であるヤコブにも現れられました。 彼は、また一度に500人以上に現れられました。ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちに現れました。そして、彼の昇天を目撃した使徒たちや他の人々に現れました。 最後に、彼はイエスの敵であるタルソのサウロに現れ、その結果サウロは復活された主イエスを信じました。

イエスの復活の体は肉体的には変化しています。 それは現れたり消えたり、鍵のかかったドアを通過したりすることができます。それは天に向かって昇ることができるもので、実際に昇りました。

イエスは、後に亡くなったラザロのように蘇生を経験しませんでした。 これまでのところ、決して死ぬことのない、霊によって設計された肉体を持って育てられたのはイエスだけです。

イエスの復活は、イエスを信じるすべての人の復活を保証します。パウロはこのように宣言しています、「わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう」(1テサロニケ4:14)。 こうも言っています、「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たちである」(1コリント15:20–23)。

キリストが死からよみがえる必要がありました。 それは神の命令でした。主イエスはいわれました、「キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」(ルカ24:26)。それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する。こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる」(ルカ24:44, 46)。

復活したイエスの体は、目に見える釘跡のある肉と骨の体であり、食べたり飲んだり、触ったり握ったりできる体です。 エマオの弟子たちは、イエスがパンを裂いたとき、彼の手の釘跡を見て信じ、「私の主、私の神!」と叫んだトマスを疑いました。

キリストの復活は私たちに何を教えていますか?

イエスの復活は、多くの真理を教えてくれます。 次の点を考慮してください:

  1. イエス・キリストは神です(ローマ1:3–4).
  2. イエスご自身が、自分は神であると主張し、次のように述べました。「私と父なる神は一つである」 (ヨハネ10:30)。そしてユダヤ人はこれを知って次のように言いました、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」(ヨハネ10:33)。
  3. イエスには罪がなかったので、死と悪魔は彼を墓に留めることができませんでした。 罪の報酬は死ですが、イエスには罪がありませんでした。だからペテロは宣言しました。「神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである」(使徒2:24)。
  4. 私たちの身代わりになられたイエスの贖いは、父なる神に受け入れられました。 それは神がイエスを死からよみがえらせたことがその証拠です。十字架の上からイエスは言われました、「すべてが成し遂げられた」(ヨハネ19:30)、父なる神はこれに対して、「アーメン」その通りである、として彼を復活させられたのです。
  5. イエス・キリストはすべての人間の裁判官です。 他の誰も裁判官ではありません。 よみがえられたイエス・キリストだけです。だからペテロは言いました、「それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです」(使徒10:42)。すべての未信者は、それを認めるかどうかにかかわらず、死からよみがえり、生涯嘲笑したイエス・キリストによって裁かれます。
  6. イエスのこの最も成就困難な予言、つまりイエス自身の復活が実現したとすれば、イエスの教えはすべて真実です。 彼は真実です。 彼は嘘をつくことができません。 彼は死ぬことができません。 彼は人をだませないのです。
  7. イエスだけが我々の罪を赦すことが可能です。なぜなら、信じる者の罪の為に死なれたからです。
  8. イエスは私たちを義とされます。それはご自身の義を与えることによってそうされるのです。パウロは言っています、「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」(ローマ. 4:25)。
  9. イエスは私たちを霊的に再生されます(1ペテロ1:3)。
  10. イエスは私たちを清められます。パウロは書いています、「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである」(1コリント1:30)。つまり、私たちの聖化、栄光化、体の贖いです。
  11. 恐れを抱いていた使徒たちは、キリストの復活によって変えられ、恐れを知らなくなりました。ペテロとヨハネはこう宣言しました。「神よりも人の言うことを信じることが、神の前で正しいかどうかを判断してください」。これは、私たちは人の言うことよりも、神いわれることに従います、という意味です。「私たちの見たこと聞いたことを語らないではいられません」とも言っています(使徒4:19–20)。これは、彼らが自らの目で見た復活の証拠であって、イエスの復活は歴史的事実です。
  12. キリストの復活は、日曜日がキリストの復活の日であったため、土曜日の礼拝から日曜日の礼拝への劇的な変化が起こりました。
  13. 自らの死によって、イエス・キリストは私たちの死を滅ぼされました。こう書いてあります、「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」(へブル2:14-15)。イエスとその死と復活を信じるなら、死のとげはなくなります。
  14. イエス・キリストは、死と復活によってすべての敵を打ち負かされました。ヨハネも書いています、「神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである」(1ヨハネ3:8b)。キリストの働きのおかげで、彼を信じる私たち悪魔に抵抗することができ、それゆえ悪魔は私たちから逃げます。
  15. キリストの復活は、裁きと救いのために正しい者と正しくない者の復活があることを保証しています。それは将来起こります(ヨハネ5:28–29; 使徒24:15)。
  16. イエスは二度と死なれません(黙示録1:18)。
  17. イエスは永遠に生きておられるので、私たちも永遠に生きます(ヨハネ14:19)。
  18. イエスは私たちに永遠の命と永遠の安全を与えてくださいます (ヨハネ10:10, 28–29)。この世の人々は自分のお金を信頼しています。しかし、私たちは、死からよみがえり、私たちの罪のために死に、義と認められるためによみがえられたイエス・キリストを信頼しています。
  19. イエスは永遠に神/人間であり続けます。カルケドンの信条が述べているように、彼は神/人であることをやめることは決しありません。
  20. 私たちは永遠に神と共に生きます。私たちはキリストとともに死に、キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえり、新しい命を生きる立場に今あります。今、私たちは天の領域でキリストと共に座っているのです(エペソ 2:6)。

キリストの死と復活を考えると,わたしたちは何をしなければなりませんか

では、キリストの死と復活は私たちの生活にどのような影響を与えるのでしょうか。聖書は言っています、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ10:9–10)。

私たちがしなければならないことは2つあります。 第一に、私たちの罪を完全に解決するために死に渡され、私たちの義と認められるためによみがえられたイエス・キリストを信じなければなりません。救われるためには何をしなければなりませんか。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)。

第二に、イエスに対するこの信仰は、イエスが主であること、つまり主権者であられる神ご自身であることを公に告白することです。この信仰と告白は常に不可分に結びついています。私たちの告白は私たちの信仰を証明し、私たちの信仰は生涯にわたって同じ告白を生み出します。私たちは信仰と告白によって生きています。

イエスは神であられます。私たちが信じる、信じないに関わらず、彼はすべての被造物の主です。 私たちの信仰と告白が彼を主にするのではありません。彼は神のひとり子としての主です。へブル書にはこう書かれています、「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである」 (へブル1:3)。パウロは書いています、「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ2:9–11)。これは神の御計画です。

私たちは心で信じなければなりません

私たちには罪の赦しが必要であり、それにはキリストの完全な義が必要です。私たちには永遠の命が必要であり、罪、死、悪魔、神の怒りからの救いが必要です。私たちはあらゆる束縛からの自由を必要としています。神との和解が必要です。(PGM) イエスの中にのみ、これらすべてを見つけることができます。ですから、イエスを神、救い主、主、私たちの罪のために死に、死からよみがえられた方として信じてください。彼は王の王であり、主の主です。彼は私たちの預言者であり、祭司であり、なだめの捧げものとなられた方であり、王であられます。それは、彼が私たちに命じ、私たちが彼に従うことを意味しています。彼に従わないなら、私たちは救われません。

イエスは私たちの罪の罰、罪の力、罪の汚れから私たちを救ってくださいます。まもなく、彼は私たちを罪の存在そのものからも救ってくださいます。

他に神はなく、他に救い主はいません。福音は、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。イエスを通して、神が私たちのところに来られました。ジョン・マレー師の優れた著書「神の贖い:それは私たちのために達成され適応された」に書かれているように、彼は死んで再びよみがえり、選びの民の罪からの贖いを成し遂げました。

イエスにあって、救い、義、贖いが来ました。私たちは何をしなければなりませんか? 悔い改め、イエスを信じ、告白することです。しかし問題は、石のような心をもつ罪人がどうして信じることができるのかということです。罪びとである人間はイエスを信じるのが嫌いなのです。すべての人は神の前に罪を犯し、霊的に死んでいます。すべてが死の悪臭を放ち、神とその真実を憎んでいます。

霊的再生がなければ、神からの新しい性質を受けとらなければ、福音を理解することも、イエスを信じることもできません。私たちは新しい心を必要としています。私たちは汚れており、清められることが必要です。私たちは聖霊が来られて私たちの内に住まわれる必要があります。それはエゼキエルが予言しています、「わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる」(エゼキエル36:25–27)。

私たちは生まれ変わらなければなりません。 人がイエス・キリストを信じないのは、その人が生まれ変わっていないからです。 主イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。それが、人が罪の奴隷である理由です。人間は同じことを何度も繰り返します。私たちは生まれ変わらなければなりません。しかし、これを自分たちの力で達成できません。しかし、神は私たちのためにこの奇跡を行われます。それは、神が働かれるのであった、私たちはこのことにおいて受け身であることを意味しています。これは奇跡的な神の働きです。

神ご自身が私たちを新しく創造され、新しい能力を与えてくださいます。今、私たちは、イエスが与えてくださった信仰によって、イエスを信じることができます。今、私たちはイエスが主であると告白することができます。今、私たちは救いを体験することができます。これがピリピのリディアに起こったことです。彼女がパウロの福音の説教を聞いていると、主は彼女の心を開いてくださいました。ルカは次のように書いています。「主は彼女の心を開いて、パウロのメッセージにこたえるようにされた」 これが再霊的再生です。「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うリディアという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は『もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい』と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った」(使徒16:14–15)。

人は福音を聞くとき、イエスが神/人間であること、神の律法に完全に従ったこと、私たちの罪のために死に、私たちを義とするために死からよみがえられたこと、そしてイエスがすべての支配者であることを全身全霊で信じなければなりません。すべての被造物を彼が救われること、悔い改めて彼を信じるすべての人を彼が救われることを信じる必要があります。イエスが歴史の主であり、生きいている者と死んだ者を、自らの正義で裁かれるのです。その力と偉大な栄光をもって再び来られることを信じなければなりません。主イエス・キリストに信頼し、生涯にわたって主を愛し、恵みによって神に従うなら、その人は救われます。そうすれば、イエスはその人のすべての罪を赦し、義と認めて神の聖なる家族に迎えてくださいます。その人は、神の聖化の清めを経験し、最後まで信仰を貫き、栄光を受けて神と共に永遠に住むことができるようになります。

イエスに対するそのような信仰は、キリストの事実に対する頭での理解という死んだ信仰ではありません。そのいう頭だけの信仰ならば、あくまでも信じているのです。それは善行のない信仰です。それは安っぽい恩寵、あるいは単なり信念です。また、それは信じる決心をすれば救われる、という決心主義であって単なる妄想です。 しかし、今日では多くの神学校、教会、牧師によってこれが教えられています。それは、「イエスを信じる決心をしていれば、罪を犯してもよい」と言う教えであり、致命的な反律法主義の毒です。それは、そのような人々を広い道に向かわせやがて地獄に導く「一方通行の愛」という異端の教えです。

真の信仰は、イエス・キリストに対する「Fides est fiducia」(信仰は信頼です。言い換えれば、「私は自分のすべてと私が持っているすべてを今そして永遠にイエスに委ねます。私は自分の十字架とキリストの軛を負い、死ぬまで毎日イエスに従います」ということです。

パリサイ人は福音を憎みます。彼は自分自身の義によって救われることを求めていますが、それは神の目には汚物にほかなりません。罪の中で身ごもり、罪人として生まれ、一生罪だけを実践している人が、聖なる神に受け入れられる善をどのように行うことができるでしょうか。彼にはできません。しかし、神は取税人の心を開き「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と叫びました。彼は救われて家に帰り、神の義を身にまといました (ルカ18)。

大多数の人々は、主イエス・キリストを信じません。彼らはイエスを地獄に行くまで嘲笑します。 神は心の貧しい人を救ってくださいます。

だからわずかな人が救われるでしょう。こう書いてあります、「イザヤはイスラエルについて叫んでいる、『たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。主は、御言をきびしくまたすみやかに、地上になしとげられるであろう』」

(ローマ9:27)。

私たちは口で告白しなければなりません

ですから、キリストの死と復活をまず信じなければなりません。第二に、告白しなければなりません。信仰は内面的なものですが、告白は外面的です。イエスは言われました、「心からあふれることを、口が語るものである」(マタイ12:34b)。聖霊が私たちを満たすとき、初期の弟子たちがしたように、私たちはイエスについて話します。「すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに語り出した」(使徒2:4)と書いてあります。それはエペソ5:18–20の「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、 詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。 そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝しなさい」という勧めに通じます。私たちは聖霊に満たされ、聖書に満たされたるときに福音を語ります。パウロは次のように勧めています「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイ3:16)。

私たちがイエスを主であると告白するのは、聖霊によってのみです。悪魔が人を支配するとき、彼はイエスを呪います。ですから、人々がイエスの名前を呪うのであれば、それらの人々は悪魔に満ちていると結論付けることができます。パウロは言っています、「そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも『イエスはのろわれよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(1コリント12:3)。

イエス・キリストについて証しをするために、私たちは絶えず御霊と聖書に満たされなければなりません。 私たちはイエスの秘密の弟子になることはできません。 私たちは世界の光であり、隠れることのできない丘の上の都市です。ですから、人々があなたの善行を見て天の御父を賛美できるように、あなたの光を人々の前に輝かせてください。

使徒行伝第11章にあるように、イエスがご自分を信じる罪人を救われるように、私たちは信仰を分かち合い、生涯を通じてキリストの証人でなければなりません。「さて、ステパノのことで起った迫害のために散らされた人々は、ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には、だれにも御言を語っていなかった。ところが、その中に数人のクプロ人とクレネ人がいて、アンテオケに行ってからギリシヤ人にも呼びかけ、主イエスを宣べ伝えていた。そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった」(使徒11:19–21)。私たちは皆、イエス・キリストを絶えず信じ、証ししなければなりません。キリストは私たちのために死に、私たちを義とするためによみがえられました。だから私たちは信じ、告白します。

私たちは何を告白しますか?「イエスは主です」と告白しなければなりません。言い換えれば、私たち一人一人が「イエスは私の主です。彼は私の神であり、私の救い主です。彼は私の契約の主であり、私は彼に従う僕です。彼は悪い木である私を良い木にし、御霊の良い実を結ばせてくださいました」と言うべきです。パウロは言います、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ2:10)。イエスご自身が言われました、「善人は良い心の倉から良い物を取り出し。悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである」(ルカ6:45)。神が私たちを良い木として造り変えられるなら、私たちは良い実を結ぶでしょう。

イエスは贖いの死によって、私たちの罪と罰を取り除いてくださいました。彼の贖いの死は、神の怒りを私たちから遠ざけ、神とその私たちの間の和解を確実なものにされました。彼の死は、主イエスに仕えることができるように、私たちを罪への奴隷状態から自由にされたのです。私たちはかつて悪魔の奴隷でした。今、私たちは主イエスの奴隷です。このイエスへの奴隷ということは、私たちの完全な罪と死からの自由のことです。

私たちは、よみがえられたイエスがすべての被造物の支配者であることを告白しなければなりません。彼は万物の創造者であり、維持者です。彼は王の王であり、主の主です。彼は救いの信仰において彼を呼び求めるすべての人の救い主です。

リストの最初の来臨は、彼の死と復活によって私たちの贖いを成し遂げることでした。人は彼に何をしましたか?彼らはイエスに唾を吐き、殴り、嘲笑し、十字架につけました。 彼らは彼を埋葬し、彼の墓を封印しました。しかし、神は彼を死からよみがえらせ、彼は天に座り、今すべての被造物を支配しておられます。

イエスは私たちの栄光ある主であられます。このよみがえりのイエスにひれ伏さないということは何を意味するのでしょうか。やがて、イエスは再臨され彼を拒否する敵を裁かれます。信者であろうと未信者であろうと、誰もが彼に降伏し、彼を主として告白しなければならないということです。詩篇作者はこう宣言しています「それゆえ、もろもろの王よ、 賢くあれ、地のつかさらよ、戒めをうけよ。恐れをもって主に仕え、おののきをもってその足に口づけせよ。さもないと主は怒って、あなたがたを道で滅ぼされるであろう、その憤りがすみやかに燃えるからである。すべて主に寄り頼む者はさいわいである」(詩篇2:10–12)。

選択の余地はありません。イエスが主(Kurios Iêsous)であられる場合、私たちに他の選択はないのです。またイエスの主権は包括的なものです。イエスは創造物のすべてを支配しておられます。すべての聖なる天使とすべての聖なる民を支配しておられます。そして彼は、悪魔とすべての敵を支配されます。

再生した(生まれ変わった)人々は、御霊の力によって告白します。イエスが教会と世界の主であり、すべての主であると告白します。やがてイエスの敵もそのように告白することになります。しかし、その時には、キリストが悪魔と悪魔に仕えるすべての人々を地獄に送られます。その時に、彼らは、送られたあとでキリストを主であると告白します。それは、強制降伏と強制自白です。

イエスは主です、という告白は神によって与えられ、また要求されています。私たちは自分が望むことを告白することはできません。神が要求されるのと同じ告白をしなければなりません。

信じる者が告白するとき、それは神とその民の前で、私たちがイエスに完全に服従するという拘束力のある公の宣言です。そして、私たちの告白には法的効力があります。「そのとき私はまだ若かったので告白できなかったのです」とか、「それから気が変わってしまったからです」とか、「信じられなかったのです」などの言い訳をしても、主ご自身が私たちの告白を知っておられます。

私たちは神の義を信じ、神が私たちのすべての罪を赦され、キリストの義の衣を与えられます。 イエス・キリストは私たちの義であり、聖であり、栄光です。彼は再び来て、ご自身の持っておられる輝かしい栄光の体を私たちに与えられます。パウロは宣言しています、「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」(ピリピ3:20–21)。パウロはまた言っています、「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである」(Iコリント15:51–53)。私たちにはキリストの栄光に満ちた将来があります!

では、イエスを主として告白するにはどうすればよいでしょうか。

  1. 洗礼を受けるときに告白します。
  2. 教会での公の礼拝で告白します。
  3. 毎日家庭礼拝で告白します。
  4. 学校でも、特にキリスト教の学校で告白します。
  5. 仕事場で告白します。
  6. 私たちの住む世の中で告白します。
  7. 私たちが誘惑にあったときも告白します。
  8. 私たちが苦しみにあったときも告白します。
  9. 私たちが死に直面しても告白します。
  10. 私たちが天の御国で告白します。

パウロは言う、「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共に御前に立たせて下さることを、知っているからである」(2コリント4:13–14)。

イエスは再び来られますが、その時は再びロバには乗ってこられません。彼はすべての王の王、すべての主の主として白い軍馬に乗ってこられる、書いてあります。彼はすべての敵と戦われ、勝たれます。

「またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、『忠実で真実な者』と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。その着物にも、その腿にも、『王の王、主の主』という名がしるされていた」(黙示録19:11–16)。

神はあらゆる場所のすべての人々に、悔い改めて信じるよう命じておられます。 神は、あらゆる場所ですべての人を愛し、彼に従うよう命じておられます。ですから、この復活祭の日曜日に、キリストの名によって、歴史的な目撃証言に基づいて、悔い改め、イエスとその復活を信じるように、あなたに勧めます。これはイエスが疑っていたトマスに言われたことです、「イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』」(ヨハネ20:29)。私たちは、イエス・キリストが死なれ、葬られ、復活された歴史的事実に関する目撃証言に基づいて信じています。

あなたはどうですか?キリストを信頼していないなら、いつ信じて悔い改めるつもりですか。今こそ神の恵みの時です。今が救いの日です。神の意志で、あなたは生かされています。神の意志で、あなたは福音を聞くためにここに導かれてきたのです。そして、神の御心において、あなたは神が遣わした人を通して福音を聞いています。

この輝かしい復活の日曜日に、福音が永遠の命の香りとなることを祈ります。罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じるなら、あなたは救われます。

1 J. A. Schep, “Resurrection,” The Zondervan Pictorial Encyclopedia of the Bible, vol. 5, Merrill C. Tenney, gen. ed. (Grand Rapids: Zondervan, 1980), 71.