我々の時における神の目的

2 Peter 3:8-9
P. G. Mathew | Sunday, April 28, 2019
Copyright © 2019, P. G. Mathew
Language [English]

序論

2ペテロ3:8–9で使徒は我々の時における神の目的について話す。それは我々の生活の目的である。一つの目的を目指すよう我々に人生を与えておられる。それは我々が主イエスを信じて救われることに他ならない。

神は永遠で時間を超えておられ、時間をも創造された方である。詩編の記述者によれば、我々は長命でも70年~80年程度である(詩編90:10)。メトセラは999年生きたが、我々はそれよりもずっと短いであろう。

神の恵みによって我々は時間の中に生きるようにされた。詩篇にはこうも書かれている、「神はわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました(詩篇139:13)。イザヤ書でもこう言われている、「あなたを造り、あなたを胎内に形作り、あなたを助ける主はこう言われる、『わがしもべヤコブよ、わたしが選んだエシュルンよ、恐れるな。』」(イザヤ44:2)。 そして、主はエレミヤに言われた、「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」(エレミヤ1:5)。我々の時間は神からの贈り物であり、神を賛美し、永遠に楽しむためである。

神は、母の胎内で我々を形作る前から我々を知っておられた。パウロは書いている、「神はあらかじめ知っておられる(愛しておられる)者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」(ローマ8:29)。彼はまた言った、「神は、御前にきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選ばれた」(エペソ 1:4)。テサロニケの信仰者にも言っている、「しかし、主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとされた」(2テサロニケ2:13)。神が我々を愛され、永遠から我々を選ばれたのである。神に対する罪の悔い改めと主イエス・キリストへの信仰によって恵みによって救われたのである。堕落した人間の中から、神は我々を愛し救い出された。そして、神の意志に従って生きる人として、その目的が与えられ、それは悔い改めと信仰によって救われることである。

それぞれが神に救いを叫び求めよ、「我々の罪に対する神の怒りから救われるにはどうすればよいのですか」。使徒行伝2章にこう書いてある、「人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、『兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか』と言った。すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがた一人一人が罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒行伝2:37­–38)。また、ピリピの看守も真夜中に叫んだ、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝16:30–31)。

悔い改めと信仰はコインの両面である。真の悔い改めがある場合は、信仰がある。その逆もある。我々は人生のすべてを悔い改めと信仰によって生きるものである。

神から与えられた我々への時間はいつでも終わる可能性がある。あなたが、80年生きる保証はない。究極、今日命が取られるかもしれないのだ。我々の人生の目的は、いつの時代においても一つである。それは再三言うが、悔い改めと信仰によって救われることである。

即ち我々の命は明日保証されているわけではない。だから、パウロが言っている通り、今こそ救われるべき時である。神の言葉が我々に伝えらえたら、それが我々にとっては、大事な救われるべき時なのである。その真実を彼は言っている、「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(2コリント6:1–2)。

ルカ16に例話として出てくる金持ちは、重要なことは全てやってきたと考えており、特に多くのお金を稼いだ。しかし、罪を悔い改めて神を信じ、救われることが重要だとは考えなかった。突然、彼は亡くなり、霊で地獄に行ったのである。火と苦痛に続く苦痛を通される地獄で、ついに聖書を信じたが、それは遅すぎた。5人の不信仰な兄弟を思い出し、主なる神に奇跡を願ったが、その奇跡は起こらず、答えがあった、「彼らには聖書がある。悔い改めて聖書の神を信じるべきである」(ルカ16:19–31)。

死後に悔い改めはない。それで、私はあなたにもう一度尋ねる:あなたは今日死がこないと確信できるか?答えはノーだ。永遠の神だけがそれを知っておられる(イザヤ46:10)。したがって、この箇所から考えよ。それは、「滅びるか、悔い改めるか、のどちらか?」ということだ。

1. 悔い改めなければ、滅びる

あなたが今悔い改めなければ、地獄で永遠に滅びる。主イエスは地獄について多くを語っておられる。私も地獄があることを信じる。主イエスは言われた、「悔い改めなければ、あなたがたも同じ様に滅びる」(ルカ13:5)。

地獄に行った金持ちは、聖書を笑いものにしていた。2ペテロ3:3–5が言っている通りである、「まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し」と始まっている。あざける者には野心と欲望があり、主イエス・キリストとは何の関係も持とうとしないし、実際にない、「彼らは、『主の来臨の約束はどうなったのか』と言うであろう」と続ける。すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成った、と聖書は言っている。言い換えれば、彼らは、聖書が言っているイエス・キリストを信頼できないと言っている、「先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」。しかし、彼らは嘘を信じている。言い換えれば、彼らはイエス・キリストを信頼できないと言っているのだ。

あざける者は、聖書を神話と嘘の本として扱う。 聖書の神を否定する愚か者である人々は、自然主義、偽科学、心理学、哲学などを信じている。彼らは神の真実以外のすべてを信じており、聖書を信じることを拒否する。ペテロは教えている、「愛する者たちよ。わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり、これらの手紙によって記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせようとした」(2ペテロ3:1)。彼は、真理のみを教える聖書について語っている。

あざける者には倒錯した心が宿る(ギリシャ語:アドキモン[名詞])。そして、ローマ人への手紙1:28では、罪人に倒錯した知性を与えるのは神御自身であると言っている。即ち、そのような者たちは正しく考えることができない。彼らは、神が真実であり、嘘をつくことがなく、約束されることを全て行われる、という聖書の教えを故意に忘れる。たとえば、数千年経った後、主イエスキリストは来られ、創世記3:15の約束を果たされた。これは、プロトエヴァンゲリオン、最初の福音として、旧約聖書に記述されている、「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。数千年後にガラテヤ4:4–5でパゥrは書いている、「それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった」。

神の時間は我々と異なる。イザヤ55は言っている、「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。
天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:8–9)。

だからペテロは書いている、「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである(8節)。ペテロは「主にとって一日は千年である」と言わなかった。 彼は「千年のようである」と言っている。「である」と「ようである」は違いがある。一部の人々は、主イエスが6000年後に戻ってくると思っていた。これは創世記1:31に基づく理解である、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である」。彼らにとって、「6日間」は「6000年」を意味した。しかし、これは適切な聖書解釈ではない。

8節でペテロは、「この一事を忘れてはならない」と強調している。この節では、イエスが生者と死者を裁くために再び来られることを信じない、あざける者たちについて語ってはいないことに注意せよ。むしろ、彼は、主イエスを信じる真の信仰者たちに、「神がアガペトイ(「愛される」ギリシャ語のテキストでは5回使われている)」と話している。これらは再生された者たちであり、自らの罪を悔い改め、永遠の救いであるキリストを信頼した者たちである。これらの人々は聖書を読んで、正しく、健全に思考する(2ペテロ3:1)。「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」(8節)。

あざける者は主イエスが再び来るとは信じていないので、今の世で、単に多くの金を稼ごうとするだけである。彼らは単に欲望に生きており、その気持ちは、「人生は短い。食べて、飲んで、幸せに暮らそう。地獄や天国もない。短い人生、罪もなにもかも、できるだけ多くの楽しみを味わおう。いずれ、動物のように死ぬんだから…。」

しかし、主イエスは再び来られる(ルカ12:35–40)。「夜に盗賊が来るように来られるからである」(PGM)。父なる神のみがその日をご存知であり、主イエスご自身も言っておられる、「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マタイ24:36)。

それまでの間、貧しいラザロのような真の信仰者は死んで、聖なる天使たちによって天の国に運ばれる。ルカ16:22に書いてあるように、「この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた」。因みに、天使たちは神の民仕えるに霊である。主イエスを信じることをせず、限られた時間罪と人生の喜びを追い求める者たちはいずれ死を迎える。彼らの霊は地獄に入り、火と苦しみを経験する(ルカ16:23-31参照)。人に待っているのは、神の国か地獄かのどちらかである。

2. 悔い改めて救われよ

主なる神は、すべての約束を果たす、と約束しておられる(コリント第二1:20)。テトス1:2が語るように、神は嘘をつかれない。そこでパウロは、「信仰の」使徒であると自称して言っている、「偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みにもとづくのである」。

神は真実であり、常に真実を語られる。悪魔は嘘つきであり、常に嘘をつく。以下の聖書の箇所を考慮し、自分自身の救いについて考えよ。我々は、自らの召しと選びを確かなものとしておかなければならない:

  • 民数記23:19:「神は人のように偽ることはなく、また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、語ったことで、しとげないことがあろうか。」
  • ヤコブ1:17:「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」
  • ローマ3:4: 「断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、『あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため』と書いてあるとおりである。」
  • ヨハネ14:6: 「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。』」
  • ヨハネ17:17: 「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」
  • ヨハネ8:44:「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。」

神は忍耐して待たれる。短気なのは我々である。前にも言ったように、神は創世記3:15で、すべての嘘と嘘つきの者たちを滅ぼす、と約束された。救い主は、処女マリアから生まれ、律法の遂行を完成するために生まれ、我々の贖いを完成された、「神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである」(1ヨハネ3:8b). へブル書の記者は言っている、「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」(へブル2:14–15)。

神は創世記3:15の約束の後、数千年にわたって悪魔を滅ぼすために御子を遣わされた。神はいつも時間どおりに行われるのであって、決して遅くも早くもない。御自分の時間割に従って約束を果たされる。神の言葉には神の権威が宿っている。従って、約束を果たすのが遅すぎたり、忘れたりということはない。神は、我々が期待する時ではなく、神の時に約束を果たされる。

だから主イエスは、約束しておられるように、この世を裁くために来られる。このように言われた、「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう…そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」(マタイ25: 31, 46)。

神は、約束され通り、邪悪な者を滅ぼすために、120年待った後、洪水をもたらされた。主イエスが復活と昇天の後、1世紀に再臨されることを人々は期待していた。しかし、その後二千年が過ぎた。その間は、選びの民は死んだ後ラザロのように神の国に行き、罪の中にある者はサタンの国に行ったのである。

だから、ペテロが言っている、「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった」(使徒行伝3:19–21)。主イエスは再び来られる。今日来られるかもしれない。だから、来臨が差し迫っていると言えるのだ。我々は、だから、敬虔に神を畏れる生活をして、御心を行い続けなければならない。

神は忍耐される方で、我々とは異なるタイムスケジュールでことを行われる。主は必ず再臨される。しかし、神の忍耐は、我々の目に遅れとして見えるであろう。特に神の選びの民、永遠の主が愛される者たちの為に忍耐される。出エジプト34:6–7に書いてあるように、「主は彼の前を過ぎてのべられた、『主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者を決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者』」。そしてパウロは書いている、「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか」(ローマ9:22–23)。神の民は、神の栄光を表すために存在している。

忍耐強い神は、選びの民すべて、まだ生まれていない民も、福音を信じ救われるようにされる。最後一人が救われた後、約束通りキリストは再臨されるのである。次の聖書の箇所を見よ:

  • マタイ24:14:「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界にのべ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」
  • 1コリント15:51–52 「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」
  • 詩篇78:5–7:「主はあかしをヤコブのうちにたて、おきてをイスラエルのうちに定めて、その子孫に教えるべきことをわれらの先祖たちに命じられた。これは次の代に生れる子孫がこれを知り、みずから起って、そのまた子孫にこれを伝え、彼らをして神に望みをおき、神のみわざを忘れず、その戒めを守らせるためである。」
  • 使徒行伝2:39:「この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである。」

主は選びの民に対して忍耐強く、誰も滅びることを望まず、彼ら全員が悔い改め、救いに来るように願われるのである。ペテロも書いている、「また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである」(2ペテロ3:15)。神は、すべての選びの民が福音を聞き、悔い改め、イエス・キリストを信じ、救われるように、再臨を遅らせておられることを、恵みであると考えよ。

我々が真の信仰者であるなら、焦ってはならない。むしろ、常に福音をシェアーする準備をしておき、清い生活を送り、世の中の光にならなければならない。主はその時が来ら再臨される。それまでは、世界伝道と、生活を通して神の栄光を表すことが、我々の任務である。預言者ハバククが言っている、「この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる」(ハバクク2:3–4)。

主の再臨の時まで、我々には取るべきところがある(ルカ19:13、KJV)。それはお金儲けではない。主の事業に従事することだ。主の事業とは何か? 福音のミナ取引のことである。我々が神の言葉を理解して、あらゆる分野で神の言葉伝えなければならない。学校、職場、教会、家庭で神の栄光を表し、自分の子供が神を愛するように成長するよう育てよ。

歴史上の多くの人々は、イエスの再臨を目撃しない。彼らの中には仕事もせず、このために生活にも困るような者を出てくる。このような者につても、聖書は言及している、「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい」(1テモテ5:8)。かれはテサロニケの信仰者を教えて言った、「そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうす。ば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう」(1テサロニケ4:11–12)。これは、他人を助けるべきではないという意味ではない。使徒行伝2, 4, 6章に記録されているように、当時のキリスト者はいつも助け合ったパウロはテサロニケの信仰者に言った、「また、あなたがたの所にいた時に、『働こうとしない者は、食べることもしてはならない』と命じておいた」(2テサロニケ3:10)。主イエス御自身も大工として働き、母親とる他の人たちを支えまた。

選びの民が悔い改めて戻ってくるのを神は待たれるが、至る所から戻るように命令されてもいる。それは彼らが罪を憎み、御心を常に行うことを喜ぶためである。神はすべての民に悔い改めて主を信じ、お互いを愛するように命じられる(使徒17:30、1ヨハネ3:23)。我々の神は命じられる方である。

先に述べたように、神への悔い改めと主イエス・キリストへの信仰は、同じコインの両面である。本物の信仰者は、人生のすべてを悔い改めと信仰によって生きる。パウロはこのような生き方を使徒行伝26:20で言っている、「まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました」。生涯、神の御心を行おうとする者は、本物の悔い改めの人生を証明している。

再生した信仰者は、神からの悔い改めと信仰の賜物を受ける。使徒行伝5:31でペテロは、主イエスキリストについて言っている、「神は、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである」。悔い改めは、信仰と同様、神からの賜物である。パウロは書いている、「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」(ピリピ1:29)。我々は、賜物として悔い改めと信仰を与えられる。

悔い改めて信じるならば、それは放蕩息子が返ってくるのに似ている(ルカ15章)。 我々は父のもとに戻り、罪を告白し、従順な生活を送る。そして、エペソ4:28にあるように、「盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」。かつて人の物を盗む者は、働いて、困っている者に与えるようになる。

それは、大きな変化だ。だからパウロは言っている、「しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(エペソ4:20–24)。

我々は神を愛する。それは神が我々を先に愛されたからである(1ヨハネ4:19)。おパウロは書いている、「しかし、主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとされたのである」(2テサロニケ2:13)。

神が引き寄せ、キリストが引き寄せない限り、誰も救われることはできない。神ご自身が我々を生き返らせなければ、生きない。主イエスは言われた、「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない…わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ6:37, 44)。また言われた、「そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」(ヨハネ12:32)。そしてパウロは書いている、「すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである」(ローマ11:32)。神は選びの民を憐れまれる。

主イエスは、約束されたように、審判者として栄光のうちに来られる。聖書は、真理として特にキリストの再臨を拒否するあざける者の全てを裁かれる、と教えている。しかし、彼らは主の再臨を否定し、罪とお金などのこの世の幸せを追求し続ける。しかし、預言の通り、キリストは再臨され、すべてあざける者が裁かれ、永遠の罰を受けるために送られる。

神はなぜ再臨を遅らせておられるのか?それは我々の悔い改めを待っておられるからだ。神は聖霊によって我々を導き、神のみ言葉を聞くようにされた。だから、今日、もしあなたが神の声を聞いたら、悔い改めて我々が、天の民として喜ぶようにと祈る。「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」(ルカ15:7)。

ローマ9でパウロは言った、「かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか」(ローマ9:23)。神が我々に慈悲を与えられることは、神の栄光である。神の栄光がどのようなものか、それは頭の中で想像することさえできないが、パウロまた言った、「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすればどうであろう」(ローマ9:22)。

主イエスは言われた、「それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ』」(マタイ25:41)。しかしこうも言われた、「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。』」(マタイ25:34)。

だから、2ペテロ3:8–9の教訓は単純だ。主イエスが再臨される。だから、悔い改めるか、でなければ滅ぶかのどちらだけだ!以下を考えよ。

  • ルカ16:14–15:「欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで彼らにむかって言われた、『あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる』。」
  • マタイ16:26:「芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。」
  • ルカ10:20:「しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい。」
  • 2ペテロ1:10: 「兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない」。「私は生まれ変わったでしょうか?」とあなたは尋ねるかもしれない。しかし、私は全知全能ではない。しかし、私は牧師であって、自分に任されている羊を知っており、私の羊は私を知っている。こう書いてある、「兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。」

十字架上で、隣の囚人は主イエスに言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」主イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:42–43)。主イエスは最初に死んで甦り、天の国にてその囚人を迎えられたのである。私の祈りは、み言葉を聞いたすべての人が、罪を悔い改めて、主イエス・キリストを信じ告白することである。