神が共におられるなら我々はどのように生きるべきか?

Genesis 39:1-12
P. G. Mathew | Sunday, July 30, 2006
Copyright © 2006, P. G. Mathew
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インマヌエルという称号は何を意味しているか?「我々と共におられる神」ということである。もし神が共におられるなら、どう生きることができるか? ヨセフの人生からこの問に答えたい。主なる神は生きておられ、完全で永遠の真実なる神であられる。全知、全能であり、無限、最も賢明で、最も聖なる、最も愛に満ちた方である、そして主権者であられる。もしも、この主なる神が共におられるなら、我々はどう生きるべきか?子供として、10代の若者として、大人として、既婚者として、生きるべきか? どのように成功、誘惑、苦しみ、迫害に対処すべきか?また、死に直面してもどうか?

我々が本物のキリスト者であれば、神は我々と共におられることは確かである。実際、主なる神は、御聖霊を通して我々に内在され、我々と共に働いておられる。我々の前を進まれ、また我々の後を守られる。我々がセオファニーと呼んでいるように、アブラハム、イサク、ヤコブに対して主なる神が顕現されたようにではないかもしれないが、たしかに御聖霊を通して真実の神が我らと共におられるのである。聖書に教えられているように、我々は御聖霊の宮であり、永遠に我々と共におられる。

聖書の中で神が明らかにされたこの現実に信頼するとき、我々はその光の中で生き、神を恐れ、神を愛する。主なる神の考えられるように考えるようになる。我々は、すべてにおいて熱心になるだろう。キリストが我々を愛されるゆえ、我々は誘惑に抵抗し、勝利をおさめる。即ち、キリストが我々を自由した、その自由の中で生きる。例えば、子であれば両親に、従業員であれば上司に従うであろう。自らの身をおろそかに扱うことや、けがれに染まることなく、むしろ主なる神に敬意を表すように生きる。一人一人が、主なる神に仕えるようになる。ヨセフとダニエルのように、十代の若者のように輝くであろう。我々の結婚は、キリストの教会との関係を反映するであろう。福音を恥じることなく、熱心にそれを宣言するであろう。恐れることなく、福音の反対者に対抗する。もし主である神が我々と共におられるなら、反対する者や世の中のいかなる力も恐れる理由がなくなる。神が共におられたら、罪を意図的に行うだろうか?怠け者になれるであろうか?死を恐れるようになるだろうか?

次に、この事実に基づく生き方をしたヨセフの足取りを見る。

I. 神はヨセフと生涯を通して共におられた

契約の主は、ヨセフと生涯を通して共におられた。実際、創世記3012節に、彼の誕生は奇跡であった、と記録されている。彼はヤコブの十一人の息子、ラケルの息子でもあった。ラケルには最初子供がなかったが、主なる神はついにその胎を開かれた。従って、彼自身の誕生自体が奇跡であった。詩編13913は言っている、「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました」。主なる神が、我々同様ヨセフを創造されたのである。

アブラハム、イサク、ヤコブと違って、ヨセフはそのようにすばらしいセオファニーを経験していなかったようである。しかし、彼の生涯を通して、主なる神は出生から継続して共におられた。ヨセフはこの事実を信じ、その光に照らされて生きていた。彼は父ヤコブから主なる神について学んだ。ヤコブはヨセフを一族のリーダーにした。それは、相応しい色の長袖の衣服を与えたことにも象徴される。

ヤコブはヨセフにアブラハムやイサクが信頼した神の栄光について教えた。ヤコブに、神は何度か顕現された。創世記28:15で、主なる神がヤコブと契約を結んでおられるところが記録されている:わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。創世記31:3ではまた、こう記録されている、「主はヤコブに言われた、『あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にいるであろう』」。創世記46:4でも同じことが書いてある。 創世記48:15には、ヤコブの息子ヨセフに向けた最後の言葉がある:そしてヨセフを祝福して言った、『わが先祖アブラハムとイサクの仕えた神、生れてからきょうまでわたしを養われた神、すべての災からわたしをあがなわれた方よ、この子供たちを祝福してください。またわが名と先祖アブラハムとイサクの名とが、彼らによって唱えられますように、また彼らが地の上にふえひろがりますように』」(創世記48:15-16)

ヨセフはある時点で、ヤコブが足を悪くした理由を尋ねたかもしれない。ヤコブは、意図的に彼を傷つけた天使との格闘のことを説明し、彼の愚かな自己理解ではなく、信仰によって生きる重要性を教えたかもしれない。

主なる神がヨセフを生まれ変わらせたことを理解しなければならない。エノクが神と共に歩んで、神を喜ばせたように、ヨセフも神と共に歩むことを学んだ。既に10代の時から神が共におられると知っていたので、ヨセフは聖なる生活を送っていた。創世記37:2では、ヤコブの子孫が次のとおりに記録されている。ヨセフは17歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。彼はまだ子供で、父の妻たちビルハとジルパとの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。具体的には、祭司エリの子供と同様、ダン、ナフタリ、ガド、アシュルなどは邪悪なことをしていた。しかし、ヨセフは彼らに加わらなかった。

彼の父親が嫉妬深い兄弟たちを探しに行くようヨセフに命じたときも、主なる神はヨセフと共におられた。主はヘブロンからシェケムまで、そしてドタンまで60マイル以上の長い旅のあいだ、主なる神は彼と共におられた。邪悪な兄弟が、衣服を剥がして彼を水もない穴に投げ入れたときも、ヨセフと共におられた。その暗闇で彼は一人ではないのである。主は穴から彼を救い出された。彼は兄弟たちに懇願して、自分をイシマエル人の奴隷として売却しないように訴えたが、兄弟たちはそれを聞きいれなかった。主なる神は、その間も彼と共におられ、イスラエルの民の救いの計画を進めておられた。エジプトでも、主は彼と共におられた。ヤコブの愛する子ヨセフであったが、実の兄弟たちによって二十シェケルの銀貨で奴隷としてエジプトの市場で売られた。しかし、主は彼と共にいて、ポティファルが彼を購入するように仕向けられた。彼は、卑劣な仕事に加担せず、奴隷として働いた。ヨセフは苦しみの理由を理解してはいなかったが、目に見えない神に信頼し、自己憐憫に陥ることを拒んだ。主なる神は、ヨセフに知恵を与え、彼の手を通してポティファルに繁栄をもたらされた。主がヨセフと共におられたからである。

創世記39章には、主がヨセフに行われたことが記されている、2節に書いてある、「主がヨセフと共におられたので、主は彼を富ませられた」。この「富ませられた」とは、彼が一生懸命働いて、主なる神が彼を繁栄させたということである。受動的な意味ではない。神が彼を単に繁栄させたということではないのである。3節には、「ヨセフの主人は主なる神が彼とともにおられることを知った」とある。我々が一生懸命努力するとしたら、それは主が我々と共におられる、ということである。そして、主が我々を繁栄させると、それは人々に見えるようになる。「主なる神が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを解った」のであり、そのような彼とは、流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」(詩篇1:3)人であるからだ。さらに、創世記39:4には、「そこで、ヨセフは彼の前に恵みを得、そのそば近く仕えた。彼はヨセフに家をつかさどらせ、持ち物をみな彼の手にゆだねた」と記録されている。つまり、これはヨセフにとっては今で言うところの、昇格であった。ヨセフは家の主任者になり、実際に王を除いてヨセフより大きな権限を持つ者はいなかった。「彼がヨセフに家とすべての持ち物をつかさどらせた時から、主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ」(創世記39:5)。ここの記録をたどると、その後ヨセフが牢獄に追いやられることになる。しかし、21節を見ると、「主はヨセフと共におられて」23節には、「獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた」と記録されている。

即ち、獄中おいても、おどろくべき主なる神はヨセフと共におられたというのである。調理役の者の見た2つの夢を、ヨセフは、主なる神のみがそれを解釈できる、と宣言した。主はヨセフの困難な状態にかかわらず、夢の解釈を彼に授けられた。後に、彼はファラオの2つの夢を解釈するように求められた、「ヨセフはパロに答えて言った、『いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう』」(創世記41:16)。神は彼と共におられ、その困難な夢を解釈させられた。「またパロはヨセフに言った、『神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない』」(創世記41:39)。ここでもヨセフは成功した。それは主なる神によるのである。

主はヨセフの結婚に際しても彼を導いておられる。創世記41:51-52に書かれている、「ヨセフは長子の名をマナセと名づけて言った、「神がわたしにすべての苦難と父の家のすべての事を忘れさせられた」。また次の子の名をエフライムと名づけて言った、「神がわたしを悩みの地で豊かにせられた」。ヨセフは死に面しても言っている、「ヨセフは兄弟たちに言った、『わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがたを顧みられる』」(創世記50:24-25)。伝道師ステパノもヨセフについて、「神はあらゆる苦難からヨセフを救い出した」(使徒行伝79-10)と言っている。

しかし、神がヨセフに何らかの奇跡的な姿で現れたとは記録されていない。ヨセフと共におられた主なる神の臨在を彼は知っており、その事実に照らして彼は自分の生活全てを見ている。主なる神は、彼を祝福しポティファルの家の主人に、そして刑務所の次官に抜擢されるよう、導いておられる。さらにヨセフは祝福され、エジプトの宰相とされた。ヨセフの成功の理由は何か? それは、主なる神が彼と共におられ、ヨセフが主の知恵によって懸命に努力していたことにある。結果、主なる神が彼の上司の目にとまるようにされ、成功と好意を与えたのである。それは、神が我々と共におられることを知って生きる時に、現在に生きる我々にも起こる。我々はより高い権威、つまり、主なる神は我々に内在されることを知るべきである。主権者であられる神が喜ばれるように我々が生きる時、神が我々に成功を与えられる。

II.主なる神はヨセフが誘惑された時も彼と共におられた

神はヨセフの生活全てを通して共におられたことが、特に主人の妻に誘惑されたときの経緯からはっきりとわかる。ジェームズ・ボイス博士は、創世記の解説で、この誘惑について次のように指摘している:

1.  これは人間に与えられている性の欲求に基づいていたので、その誘惑であった。性はそれ自体悪ではないが、しかし聖書的秩序の外で性的欲望を満たすことは神の前に悪である。

2.  この誘惑は、ヨセフがいわゆる我々で言えば、家や教会から離れていたときに起こった。若者たちよ。特に大学で修学する年齢になったとき、常に主なる神いつも共におられることを覚えよ。多くの若者は、遠く離れた大学に行きたがるのは、どういう理由か?それは拘束されることから解放されたいという願望である。教会から離れ、両親から離れ、神から離れたい、と幼稚にも考えるのである。

3.  この女は、政府の要人ポティファルの妻であり、ヨセフはポティファルの奴隷であった。な人でした。彼は誘惑を免れるために、仕事を辞めることはできなかったのである。

4.  この誘惑は、ポティファルの財産管理の責任者に抜擢されてから、即ち昇進後すぐに起こった。人生で成功を収めた時に気をつけよ! それは誘惑が最も強くなる時である。ダビデは、50代の時にこの誘惑に会った。成功の後、たしかに誘惑は来た。バテシバはウリアの妻です、と人が彼に言っても、「それは問題ではない」と彼は言い返している。成功を収めた者は、特に注意せよ。

5.  ヨセフに対する誘惑は繰り返し来た。一度だけではない。ヘブライ語「ヨムヨム」という言葉、即ち「毎日、毎日、間断なく」という意味である。

6.  この誘惑が来る絶好のタイミングというのがあった。誰も家にいなかっということである。しかし、主はヨセフと一緒におられ、ヨセフは主なる神が共におられることを知っていたのである。我々が、強い誘惑に会うときに役立つ聖書の言葉がある。それは、詩篇139:7-10である:「わたしはどこへ行って、あなたの御聖霊を離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。わたしがあけぼのの翼をかつて海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます」。誘惑がきても、主なる神は我々から離れておられないことを知れ。主なる神は我々を助け、そこを切りぬけ、誘惑に勝利するようにされるのである。

主なる神はヨセフと共にいて、のがれる道を与えられた。この難局をのりこえようと彼は知恵をつくしたことに注目せよ。彼は情に流されず、ポティファルの妻に対して理性的に対応した。

まず、彼は彼女の招きを断った。拒否したということは、脆弱な決断を意味しておらず、強い拒絶を意味する。そして言った、「私の主人は私を信頼しておられます。その信頼を裏切ることはできません」。ヨセフは、契約を守る人であった。「あなたは彼の妻です」と彼は明言した。悲しいことに、同じことがダビデに起きた時、そうはならなかった。時は、律法が与えられる以前の時代である。しかし、彼は「これは悪です」と判断して、そう明言したのである。

ヨセフは「姦淫は神の目に大きな悪です」と言った。英語の新改訳は、「邪悪」というヘブル語で訳している。ヨセフは、「私の神、聖なる、知恵にあふれる主なる神が、私に命を与えられた。主なる神は私と共におられる。私はそのような悪いことをどうして行うことができますか?」と表明した。これは、姦淫が神の律法に違反している、と明言しているのである。その通り。それは配偶者に対する罪である。すべての人間に対する罪でもある。そして、究極的には神御自身に対する罪である。ダビデは、姦淫について後に悔い改めて、「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」(詩篇51:4)と言っている。ヨセフは姦淫が大犯罪であると知っていた。ヨセフは現代の我々に対しても言っている、「姦淫は、あなたの国でも大罪である」と。道徳は良いか悪いかだけであり、そこに相対主義はない。

最後に、ヨセフは危機を逃れた。臆病者ではなく真の勝利者である。逃げることは、誘惑に対する勝利の道なのだ(PGM)。今日コンピュータとインターネットの中で、どれだけ多くの人間が、ポルノや様々な淫乱に冒されて人生を無駄にしているだろう? 聖書は、もしあなたの目が罪を犯させるなら、その目をえぐり出して捨てよ、と言っている!

もしも誘惑されたときは、次の神の言葉を覚えよ。1コリント10:13:「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」。そして、1コリント6:18: 不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである」。また、2 テモテ2:22にも同じことが書かれている、「そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい」。

あなたが神の子供であれば、神はあなたを罪の支配から解放した。でなければ、あなたはキリスト者ではない。キリスト者であるということ、それは大きな変化が既に起こったことを意味する。イエス・キリストは、罪の力からあなたを解放した。「だから、もしキリストがあなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである」(ヨハネ8:36)のである。あなたはもはや罪の奴隷ではない。以前はそうであったとしても、今はそうではない。罪からの自由を与えられた。それは、今あなたが神の奴隷であるからだ。

神が我々と共におられる、という真理は我々の倫理を支配するのである。これは日々の行動に影響を与える。さもなければ、我々は簡単に誘惑に屈するであろう。サムソンの問題は、ダビデのように性的不道徳であった。箴言5,6,7は、姦淫が自己破壊をもたらし、人々を傷つけることを命じ示している。夫の復讐を予備、尊厳を損ない、恥にまみれさせる。そこから、のがれることは不可能である。この国では、姦淫を称賛する者がいるかもしれないが、神は称賛しない。愚か者だけが姦淫を行うのである。そして、聖書は箴言7:23で、姦通が大罪であるとはっきり明記している。

III. 主なる神はヨセフと共におられ、知恵を与えられた

神はヨセフ知恵を与えて、現実を正しく捉えさせられた。ヨセフがエジプトの宰相となり、さらに自分を捨てた兄弟の訪問のことを聞かされたとき、主なる神がすべてこれらの出来事を通して何をしようとしておられるかを悟ったのである。ヨセフは、セオファニーや奇跡は経験しなかったのである。主なる神は、突然天より降って、ヨセフが聖なる生活を送れるようにと、直接励ましに来られたのではなかった。もしあなたが、そのような鳥肌の立つような奇跡の体験だけを求めているなら、おそらくそういうことは決して起こらないと保証できる。もし、あなたがキリストの真の信仰者であれば、まず主なる神があなたの中に聖霊によって宿っておられることに気づかけ。これを先ず信じ、あなたの思考、言動、行動を、主なる神によって適切に支配していただく必要がある。

主なる神は我々の中に内住まれるだけではなく、我々を常に見守られる。へブル4章にこう書いてある、「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない」(12-13)。この国では、巷で姦通がまかり通っている。それは昔なら重大な犯罪であったが、もはやそうではない。人は、望むことは何でも許されると勘違いしている。しかし神の前ではそうではない。

セオファニー、奇跡、不思議、鳥肌体験、聖書すらない状態で、ヨセフは主なる神を信頼して毎日生活していた。ファラオは、彼が霊で満たされた人であることを認めていた。我々自身も聖霊に満ちた生活をすべきである。のみならず、我々は代価を払って買い取られたのである。我々の体は聖霊の宮である。従って、自分たちの体をもって神の栄光を表さなければならない。

ヨセフは自分に起こっていることが解り始めた。創世記45章は、ヨセフに起こったこと、そして起こるであろうことを、本人がどのように解釈したかを教えてくれる重要な章である。4節にはこのように書いてある、「ヨセフは兄弟たちに言った、『わたしに近寄ってください』。彼らが近寄ったので彼は言った、『わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です』。のちにヨセフは彼らに向けて言っている、『あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました』」(創世記50:20)。言い換えれば、ヨセフは、主なる神は良き神であられ、主権者であり、悪い人間の行為でさえ、これを通してご自身の計画を実現させられる、ということ知っていた。

創世記45:5に、ヨセフが学んだ知恵が語られている: 「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです」。彼は言っていた、「あなたがたは私を異邦人に売ったが、神は神の民を養うために私を先駆者として送られたのだ」。7節には、「神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです」とかいてある。ヨセフは彼に何が起こったのか理解し始めていた。8節を見ると、「それゆえ、わたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です」とある。さらに同じ節で、神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、」9節で、「またエジプト全国のつかさとされました」とはっきり言っている。

もう一度創世記50:20を見てみよう。ヨセフがイスラエルの歴史記録を正しく解釈している、「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました」。主なる神は、我々がする経験を通して、実際それを通っている時には理解できないのであるが、救いの計画を成し遂げられるのである。パウロがローマ8:28に書いている、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」。

IV. ヨセフが苦しむときにも神は共におられた

ヨセフは恐ろしい苦しみを経験したが、主なる神は彼と共におられた。彼は父ヤコブと良い親子関係であったが、その後22年間その父親に会うことができなかった。父ヤコブは、ヨセフが野生動物に殺されたと考えていた。しかし、神はそれが間違いであることをヤコブに示しておられない。主なる神は、「あなたの息子はまだ生きている」とお教えになってもよかったと我々は考えてしまう。主なる神は、ヤコブがこの苦しい状況を通して、霊的に成長するように主なる神は仕向けられたのである。

苦しみの意味を考える必要がある。イザヤ63:9には、「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、その愛とあわれみによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」とある。奇妙に思えるが、我々が苦しむ時に、主なる神も共に苦しんでおられるのである。それは神が我々の大祭司として我々の痛みを感じ、それに対処されるからである。神によって定められた苦しみを通して、我々に真の敬虔が完成されるのである。

パウロはこれを知っていた。苦しみは、忍耐、人格、そして神の栄光の中にある希望を生むことを。苦しみを通して、救い主イエス・キリストの到来に希望を持つようになるのである。過ぎ去っていくこの世界よりも、確固として存在する天の国、永遠の命を我々は、愛するようになる。この世界のものが我々の意識の中で大きく映れば映るほど、それらは奇妙にも暗くなっていくであろう。第二コリント4章でパウロは言っている、「このしばらくの軽い患難」は我々の目の前にやってくるが、永遠と比較すると知れているのである。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」(説教者の訳)。へブル書の記者は言っている、「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(へブル12:11)

ヨセフは苦しみによって訓練を受け、その中で聖なるもの、敬虔なもの、正義の実を得た。主なる神の存在は、すべての苦しみの中で我々に力を与えるであろう。兄弟たちは彼を残酷に扱い、衣服を剥ぎ取り、20シェケルでエジプトの奴隷として売り払ったときも、再び売られて刑務所に投げ込まれたときも、主なる神はヨセフと共におられた。

詩篇105:17-18にも記録されている、「また彼らの前にひとりをつかわされた。すなわち売られて奴隷となったヨセフである。彼の足は足かせをもって痛められ、彼の首は鉄の首輪にはめられた」。このように、ヨセフは長年にわたり奴隷生活を送った。他に誰もいなかったが、しかし、神は彼と共にいて彼を励まされた。彼は調理人の首長にも忘れられ、さらに2年間刑務所に残されたが、主なる神は彼と共におられた。

兄弟姉妹よ、神はすべての苦しみの中で我らと共におられる。この真理を離れるな。主は我々を救い、助け、励まし、力を与え、導き、戦いに勝たしめ、必要な物を与え、痛みも涙も征服されてなくなる天の国の家に我々を住まわせされる。

だから、「私は世の終わりまであなたと共にいる」と言われた主イエスに従え。我々の罪の代価を完全に払われた方、神の御子主イエスに従え。我々が罪人であったにも拘わらず、栄光の息子として迎えて下さり、神の国に帰郷させる如く、そこから来られたのである。しかし、我々は彼を受け入れなかった(ヨハネ1:11)。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、咎ある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、咎ある者のためにとりなしをした」(イザヤ53:3, 5, 12説教者の翻訳). この聖なる僕の姿をとってこられた主イエス・キリストを知ることは、多くの者を義に導かれる。彼に信頼する者は永遠に義とされることを、主イエスご自身が宣言されるのである。

このキリストは、我々と共におられる。 これは事実である。我々はこれを信じている。神は、揺るがされるな、と言われた、嘘をつくことのない神が、我々と共におられる。神の書かれた言葉を信頼せよ。この真実を信じ、この真実に基づいて、生活をせよ。

これがヨセフの信仰である。彼は神と共に歩き、神は彼と共におられた。ヨセフのように、我々は罪の支配から解放された。 イエス・キリストが、我々を罪の支配から自由にし、神を愛し神仕えることができるようにされた。

ヨセフのように、我々は毎日誘惑してくる異教の世界に住んでいる。しかし、神は我々と共におられて、行うすべてのことで繁栄を与えられるのである。我々が誘惑された時、神は我々を助け、勝利する道を開いてくださるのである。主イエスは、暗い世界で光のように輝くように我々を助けられる。主イエスを信頼して生活する時に、我々は世に勝つ。

この主があなたと共におられ、勝利に導かれ、あなたを天に導かれるか? もしそうでないなら、今、あなたは自らの罪を悔い改め、その代価を死で払われ、あなたを正義にするために甦ったキリストに信頼されるように。次のように祈れ、「私は、その主イエス・キリストを信頼する。私は自分の罪を悔い改めます。私は、あなた、主イエスの言葉を信頼します。私の神となり、私と共におられることを信じます。ヨセフのように純粋で力に溢れる勝利の生活をさせてくだい」。

あなたが、もしも今キリストに背いた状態で生活しているのなら、直ぐキリストに帰れ。主なる神の助けを求めて祈れ。主なる神は、御聖霊であなたを満たされる。あなたの体を生きた犠牲として、主イエス・キリストに捧げよ。罪と悪、悪魔と悪霊、この世に認められることへの願望から背を向けよ。キリストに目を向けよ。キリストはあなたを救い、あなたと共におられるのである。おそらく強い誘惑に直面するだろう。しかし、我々の神は悪魔よりも強大な方であられ、最も強く、最も聖なる、最も賢き全ての主権者なのである。あなたを助け、あなたを解放されるであろう。彼はあなたと一緒に住み、あなたと共に歩かれる。神はあなたのためにおられ、あなたを導き、あなたに大きな理解力を与えられるであろう。あなたに新しい心、新しい意志、新しい愛を与えられる。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント5:17). キリストは、あなたを聖霊で満たし、今日のみならず、毎日ヨセフのように生きるようにされるだろう。アーメン。