神による人の心の診断

Romans 3:3-20
P. G. Mathew | Sunday, May 25, 2008
Copyright © 2008, P. G. Mathew
Language [English]

ある日曜日の午後スコットランドでのことだ。小さな革バッグを持った男が歩いて来るのを、2人の若者が見てバッグの中にはカメラが入っていると思い込み、写真を撮ってほしいと頼んだ。すると、男は2人の写真は既に撮ったと答え、革のバッグから聖書を取り出してローマ3章を読み始めた。そこには、彼らの罪深い状態と救い主の必要性が書かれていた。

聖書は我々人間の罪深さを映す鏡である。同時に、その罪を取り除く神の子羊、イエス・キリストがおられることも明らかにしている。旧約聖書の神の御言葉がユダヤ人に与えられていたのは彼らの強みである。しかし、ほとんどのユダヤ人は旧約聖書が神の言葉と信じていなかったので、イエス・キリストという約束されたメシアも信じなかった。

ローマ人3:3-20で、ユダヤ人、異邦人にかかわらずすべての人の罪深い心について神が語っておられる。この箇所から、我々人間の罪の状態、罪深い行い、その原因、そしてこれが及ぼす結果について話したい。

I. 私たち人間の罪の状態

人間はその心が堕落している。境遇が豊かでも貧しくても、教養があってもなくてもである。そして、だれもが神とその御心について実は知っているのである。創造物を見ても自らの心を見ても、それは人間の目に明らである。人間は神とその御心を否定して生きている。すなわち真理を拒絶し、偽りを抱いて生きている。パウロは書いている、「彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた」(ローマ1:28)。人間が自ら選んだ歪んだ心(ギリシャ語でアドキモン)を、神がなすがままにされたのである。従って、人間は常に真実より嘘と邪悪を好み、無神論に走る。「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う」(詩篇14:1)。したがって、人間の不義とその生き方に対して神の怒りが今注がれているのである。

罪人である人間は悪に満ちている、パウロは、人間が「あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者」だと言っている(ローマ1:29)。ローマ3:3-8では、歪んだ罪深い心がどのようなものかを、当時のユダヤ人を例にパウロは言っている。それは何度福音を伝えても、その都度妨害してくる者たちの姿である。彼らの歪んだ疑問とはいったいどのようなものか。

A. 歪んだ者の疑問

  1. 我々が神を信じないのは、そもそも神が我々との約束を破っているからではないのか?

最初の疑問は、神がユダヤ人と結ばれた契約についてである。「神を信じない者がいたとしても、その不信仰が神の忠実さを無にしてしまうでしょうか。」(ローマ3:3-4)。ユダヤ人は神の言葉を託されていたが、それを信じることを拒み、メシアであるイエス・キリストを受け入れることを拒んだ。パウロは問う、「もし、ユダヤ人のうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、神の契約は無になるであろうか」。答えは、「決して無になることはない」である。

人間が失敗したからといって、神の永遠の目的が無効になったり、挫折したりしない。神の忠実さは人間の忠実さによって測られるものではない。なぜなら、神が自らに対して忠実な方であるからだ。従って、神の関心は私たちの祝福ではなく、ご自身の栄光にある。パウロはこう断言する、「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである」(4節)。神は常に忠実で信頼できる方であり、それは世界中のあらゆる人間の罪と不誠実さに影響されない。パウロはこの点を詩篇51:4節から説明している。ダビデがバテシバとその夫に対して犯した罪は、同時に神に対しても犯された。神はダビデを正しく裁かれた。これをダビデは認めている。「それは、あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである」(4節)。神はダビデを罰されたが(2サムエル12:9-12)、ダビデとの契約を忠実に守り続けられた。

2サムエル23章でダビデは言っている、「まことに、わが家はそのように、神と共にあるではないか。それは、神が、よろず備わって確かなとこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。どうして神はわたしの救と願いを、皆なしとげられぬことがあろうか」(2サムエル23:5)。ダビデの救いは、神が救い主イエス・キリストを遣わして彼との契約を守られることにかかっていたのである。ダビデの邪悪さは、神の不忠実さを招いたのではなく、むしろ神の忠実さと栄光を明らかにした。ダビデの不忠実さは、むしろ神の忠実さを証明し確立した。

  1. 私の不義が神の義を高めるのなら、神が罪人を罰するのは不義ではないか?

歪んだ疑問の2つ目は、神の正義に対する挑戦である。パウロは警告している、「もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか . . .もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか」(5-6節)。この歪んだ疑問は、言い換えるとこう言っていることになる、「パウロ、あなたは要するに、我々の不義が神の義を明らかにし、我々の罪が神の義を確立していると言っている。では、神が我々に怒りを下すのは不当ではないか」。人間の心はここまで堕落しているのである。つまり、「もし神の真実が、自分の偽りで一層明らかにされるなら、神の栄光となるから良いことじゃないか?」と言いたいのである。即ち、「人間が罪を犯したら、神の栄光がより明るく輝くための暗い背景を提供しているのだから、我々は神に実質的な恩恵を与えているのだ」と歪んだ主張をし、「どうして、我々はなおも罪人としてさばかれるのだろうか?」と疑問を投げている。「我々の罪が神の栄光をもたらしているのだから、本来、感謝されても当然だ」と言っているのである。

これらの反律法主義者たちは、目的は手段を正当化するというある種現代的な主張をしている。ここでパウロは、ヤハウェを全世界の終末論的な裁き主とみなすユダヤ教の根本的な信条を取り上げて言う、「もしこの主張が正しいなら、神は世界を裁くことはできない。すべての人の罪が神の栄光をさらに輝かせていることになるからだ」。すべてのユダヤ人は神が世界を裁くと信じていたが、「世界」と言ったとき、それは異邦人のことを指しており、自分たちがこの最後の審判から免除されると信じていたのである。

しかし、人間の罪が神に栄光をもたらすなら、神は異邦人をさえ裁くことができるだろうか。パウロは、この歪んだ疑問を退けて言った。神は聖なる方であり、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、すべての罪人を裁かれる。これは歪んだ疑問であり、目的は手段を正当化することはない。

3.私の罪が神の栄光を増すのなら、なぜ私は罪人として断罪されるのか?
3つ目の歪んだ疑問はこうである。「しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか」である(7節)。パウロは、この疑問が次のことへと続くといっている、それは「むしろ善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)ということである(8節)。パウロは、もはやこの歪んだ疑問に対して答えず、神が私たちに対して下した裁きは正当であると断言している。

B.人間の悲惨な状態に関する聖書の証明

創世記に記載されている創造、人間の堕落、そして罪の贖罪を信じなければ、ことの現実を知ることはない。人間は生まれながらに堕落していて、歪んだ心を持つ。これこそが、歪んだ疑問の根源であり、反律法主義の原因である。

パウロはすべての人が罪の下にあると結論する(ローマ3:9)。まず、異邦人が罪人であることを証明し(ローマ1:18-32)、次に、ユダヤ人も罪人であることを証明した(ローマ2:1-3:8)。両者に違いはない。すべての人は罪人である(ギリシャ語:フーフ・ハマルティアヌス、「罪の力の下にある」)。罪はいわば主人であり、人間はその奴隷である。我々は自らの力で罪の支配から逃れることはできない。パウロは罪の普遍性について語っている。

創世記に、「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた」と語られている(創世記6:5)。これは罪に、内在性、遍在性、持続性の三つの側面があること、即ち人間の完全な堕落を意味する。エレミヤはこう宣言する、「人の心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか」(エレミヤ17:9)。この奴隷状態を知る者はいない。神だけがそれを知っておられる。

神は人の心を診断される。主イエスは、罪と汚れは外からくるものではなく、内側から出てくるものであり、悪い心が源泉であると言われた、「すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、 22姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」(マルコ7:21-23)。エペソ2:1-3はまた、人間は生まれながらに罪と過ちの中に死んでいて、同時にサタンの支配下にあると言っている。

すべての人間は例外なく全員罪人である。だからこそ、聖書はすべての人に関係する。神学校で私はこのように教わったことがある。あなたが福音を説けば、あらゆる人がそれに耳を傾けるべきである。教育を受けた人であれそうでない人であれ、金持ちも貧乏人も。人は皆罪人であり、救われるために福音を聞かなければならない。神の言葉は人を差別せず、すべての人を平等に扱うからである。

ユダヤ人は聖書が最終的な権威であることを理解していたので、人間が完全に堕落していることを証明するのに、パウロは旧約聖書から六つの個所を引用するだけで十分であった。

1.「義人はいない。一人もいない」(10節;伝道の書7:20)。神は律法に完全に従うことを我々人間に求めておられる。しかし、堕落以来、すべての人の心は歪んでしまい、考えも生活も正しい人はいない。J. B.フィリップは、「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」即ち、人間がいかに曲がっているかがわかるようになるのである、と言っている(ローマ3:20)。[1]

これが、多くの人が聖書を読みたがらない理由である。聖書を批判する神学者や高等批評家は皆、聖書が断言している事実、つまり、人間は罪人であり、聖書が私たちについて語っていることに耐えられないということを明らかにするからだ。そして、私たち自身が聖書を読まないのも、同じ理由である。つまり、自分の罪と向き合いたくないのだ。ある人は、聖書が私たちを罪から遠ざける、でなえれば、罪が私たちを聖書から遠ざけると言った。私たちは罪人であるため、聖書が私たちの邪悪さを暴露するため、聖書を嫌う傾向がある。しかし、まさにそれこそが、私たちが聖書を読むべき理由なのだ!それは、病気を診断してもらい、癒されるために医者に行くようなものだ。同じように、私たちは自分の問題が何であるかを正確に知るために、聖書を読まなければならない。聖書は私たちの根本問題が何かを教えるのみならず、どのようにそこから救われるかも教える。

だから、パウロは義なる人はいないと言っている。D・マーティン・ロイド=ジョーンズはこう言っている、「どんな優れた人、どんな高貴な人、どんな博学な人、どんな博愛主義者、どんな偉大な理想家、どんな偉大な思想家であっても、神の律法の試験に合格する者は一人もいない。下げ振りを放して建物の垂直性を試してみれば、人間は全て基準から外れていることが分かる」。[2] だからこそ、我々は聖書を最初から最後まで読むべきなのである。

2.「理解する者はいない」(11節; 詩篇14:1-3, 53:1-3)。我々は自分が理解しているかのように他人に語っていることが多い。神だけがすべてのことを知っておられ、聖書の中で「理解する者はいない」と、人間の本当の状態について語っておられる。普遍的な罪の影響により、人間は神について正しく知ることはできないばかりか、一つの被造物すら正しく理解ない。まず神を知らなければ、最も単純なことさえ理解できない。実際、ほとんどの人間は真実を嘘と見なし、嘘を真実と見なし、無限で人格を持たれる神を否定する。それは、彼らに霊的な理解力がないからである。彼らは神のみを締め出した閉鎖世界を信じており、復活、天使、悪霊、創造主、救い主、天国、地獄、そして永遠の審判を否定する、まるでサドカイ派のような者ものである。このような非合理的な唯物主義者は進化論を信じるが、神の創造は信じない。パウロは、生まれながらの人間は霊的な事柄を理解せず、愚かなものだと言っている(1コリント2:14)。霊的な事柄はこのような人間を激怒させ、闘争させる。

生まれながらの人間は神を畏れないため、実は賢くない。神を畏れることは知恵の始まりだからである。パウロは不信者の心についてこう言っている、「そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている」(エペソ4:17-19)。パウロは言っている、「この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである」(2コリント 4:4)。なぜ人々は聖書とイエス・キリストを憎むのか。それは彼らの理解力が鈍っているからである。

3.「神を求めるものはいない」(11節;詩篇14:1-3; 53:1-3)。人間の心は歪んでいるだけでなく、意志も歪んでいる。人は三位一体の神、すなわち父、子、聖霊、即ち聖書の神を求めようとしない。だからといって、人に宗教心がないわけではない。実際、人は宗教―偶像崇拝という偽りの宗教、神が忌み嫌う悪魔に触発された宗教―に通じている。人は被造物、悪魔、木、蛇、雄牛、鳥、そして人間を崇拝する。しかし、真の生ける神を拝し、従おうとはしない。ローマ5:10, 8:7にあるように、生まれながらの人間は聖い神の敵なのである。

4.「全ての人間が神に背いた」(12節; 詩篇14:3; 53:3)。これに例外の人間が一人もいないということを覚えよ。すべての人間は神の道、真理の道から、偽りの広い道へと背を向けた。すべての人間は地獄への道を歩んでいる。「悪しき者の道は滅びる。」(詩篇1:6) 皆が故意に背を向けたと、ギリシャ語では意味している。人間はこう反論するであろう、「私は真理も光も欲しくない。自分の問題はどうでもよい。神の道を憎む!」。イザヤは言う、「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ53:6)。悲惨な状態だ。

5.「すべて無価値な者になってしまった 」(12節; 詩篇14:3; 53:3)。これには例外がない。人間は神にとって無価値で役に立たないものになった。腐った牛乳か肉になったのである。神にとっても、自らの人間にとっても役に立たない存在である。神の一般恩寵によって、人間は月に行ったり新薬を発見したり、社会になんらかの貢献はできる。しかし、究極的に重要な事柄においては、人間は無価値で役に立たないのである。

II. 罪深い人間の行い

パウロは人間の悲惨な状態を述べた後、人間の行為がいかに罪に満ちているかを聖書に基づいて教えている。

6.「義人はいない、一人もいない」(12節; 詩篇14:3; 53:3)。人々は自分の正義をひけらかしたがる。イザヤはそれを見て、「人の正義はすべて汚れた布切れのようなものだ」と言った。パウロはそれをさらに推し進め、「我々の正義は糞のようなものだ」と言っている。(PGM) 罪人が神を信じるようなるまで、そのすべての行いは、死んだ行いと呼ばれる。それは神の栄光のためではなく、自分の栄光のために行われるからである。良い行いとは、神を信じる者によって、神の栄光のために行われる。

1サムエル15には、サウルがアマレク人と戦った様子が記録されている。戦いから戻ると、彼は早起きして自分のために記念碑を建てに行った。これは、神を信じない者が自分の栄光のために行う行為である。しかし、主イエスは言っておられる、「人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる」(ルカ 16:15)。

7.「彼らの喉は開いた墓である」(13節; 詩篇5:9)。罪人の喉は、開け放たれた墓のようで、そこから悪臭が立ち上っている(ヨハネ11:39)。この表現は、人々飲み込むという意味にも取れる。イエスは「心から出ることを口は語る」(マタイ12:34)言われた。そのような人は内側から悪臭を放ち、人々を滅ぼす。

8.「彼らの舌は嘘を言う」(13節; 詩篇5:9)。これはつまるところ、罪人は絶えず嘘をつき、自分の思い通りにするためにお世辞を言うことを意味する。哲学者、政治家、教授、牧師、広告主、自分の親も含め、その他多くの人々が嘘をつくのを聞いてきた。進化論、地球温暖化、地球寒冷化、人間の生来の善良さ、すべての宗教の平等といった嘘を聞いてきた。罪人は騙されるだけでなく、自分の言葉で他人を騙す。罪の悔い改めを求めない、偽りの教えを説く説教者も同様である。即ち、「私たちの偉大な神は愛の方です。あなたが悔い改められないことはちゃんとわかっておられます。ですから、今の生活を改めなくてもかまいません。あなたは必ずしも聖くなる必要はないです。それでも神はあなたを義と認められます。必ずしも誠実さがなくてもいいのです。それがあなたらしい信仰です。清くなろうとしなくても全然とがめられないのが本物の愛です。神はそんなあなたをいつも愛して下さいます。もちろんあなたは、イエスを自分の主人とする必要はなく、従わなくても構いません。あなたなりにイエスを信じましょう」と教えているのである。私の見解では、そのような嘘をつく説教者は、嘘をつく教授や哲学者よりも危険である。

9.「彼らの舌には毒蛇の毒がある」(13節; 詩篇140:3)。ヨブの妻が夫に与えた助言はこうである、「神を呪って死ね!」(ヨブ2:9)。これはまさに毒であり、人を殺すことを目的としたものである。どれほど多くの人間が舌を使って人を欺いていることか。彼らはお世辞を口にするが、その意図は他人を破滅させることだ。ロイド・ジョーンズは次のように書いている。

これは動物学的な意味で非常に優れた描写だ。猛毒を持つ毒蛇は、舌の根元に毒の牙を持つ。顎の中には毒を造る袋があり、毒蛇は獲物に食いつくときに頭を後ろに反らして牙を突出させ獲物を噛む。袋の中の毒は牙を通って傷口に注入され、獲物は瞬殺される。聖書は、毒蛇が毒を使ってどのように獲物を殺すかを正確に描写している。[3]

10.「彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている」(14節; 詩篇10:7)。

11.「彼らの足は、血を流すのに速い」(15節; イザヤ)。世界の歴史は殺戮と殺人の歴史である。全ての殺人の背後には悪魔がいる。主イエスは言われた、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ」(ヨハネ8:44)。こうも言っておられる、「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:10)。

12.「彼らの道には、破壊と悲惨とがある」(16節; イザヤ59:7)。邪悪な者たちは津波、台風、地震のようである。我々は、それらが来ては破壊と悲惨を残していくのを目にしている。王国や文明の歴史は、破滅と悲惨の歴史だ。

13.「彼らは平和の道を知らない」(17節; イザヤ59:8)。わが神は言われる、「よこしまな者には平安がない」と(イザヤ57:21)。イエス・キリストは平和の君である。イエスから離れた者には平和がない。海の波のように落ち着かない。

III. 人間の悲惨な状態の原因

すべての悲惨、罪、そして邪悪の原因は何か?ここでもパウロは聖書を引用している、「彼らの目には神への畏れがない」(17節; 詩篇36:1)。主イエスは神を恐れず、人を人とも思わない裁判官について語られた(ルカ18:2)。

神を畏れないとどうなるか。やがて我々はすべてを恐れるようになる。詩篇はこう言っている、「愚か者は心の中で『神はいない』と言う」。(詩篇14:1)。邪悪な人々の行為はすべて神への畏れなく行われる。我々が罪を犯さないようにするのは、神への畏れである(出エジプト20:20)。神を畏れる者はヨセフのように悪を避ける、「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」(創世記39:9)。神への畏れが彼を支えた。ダニエルもまた、神への畏れから罪を犯すことを拒んだ。金の像にひれ伏して拝むことを拒んだ3人のヘブライ人の子供たちも同様だ。

何より、主イエス・キリストは、どんなに厳しい誘惑に遭っても、常に神を畏れておられた。イザヤは、主を畏れる霊が彼の上に臨むと言っている(イザヤ11:2)。御聖霊はまた、私たちが主を畏れるように導かれる。ダビデは言った、「わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない」(詩篇16:8)。彼は神を意識した人生についてこう語っている、「私は主を私の前に置き、主が私の考え、言葉、行いを統べ治めるようにした」。

パウロが「彼らの目には神への畏れがない」と言うとき、これはすべての罪人が最悪の罪を犯しているという意味ではない。むしろ、罪人のいかなる行為も神は許されないという意味である。罪人にとって最善の行為でさえ、それは自分自身の栄光のために行われる。私たちは神のもとへ行き、「私はあれこれしました。ですから、私を義と認めてください」と言えるだろうか?決してできない!主イエスはこういう人々について、「邪悪で不義な時代”」と言われた(マタイ12:39, 16:4)。

IV. 結論

パウロはこう締めくくっている、「わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている」(19節)。つまり、聖書はあなたに語っている。ユダヤ人は旧約聖書を与えられていた。彼らも律法の下にある者である。異邦人もそうである。彼らは被造物を通して神の啓示を受けただけでなく、律法を守るようにと彼らの心に刻み込まれていた。だから、すべての人は神の律法の下にあり、神を知っていが、神を賛美し、感謝することを拒む。むしろ、真理を偽りに変え、被造物を拝んでいる。しかし、神の言葉は生きていいて、それは神の御言葉と呼ばれている。神は私たちに語りかけておられる。あなたは神の御言葉に耳を傾けているか?

律法の目的は何か。パウロは続けて、「すべての口がふさがれるためである」(19節)と言っている。これは神の法廷にいるような状況を表している。神は裁判官であり、私たちは被告である。私たちは話す時間を与えられるが、話すことができない。口を閉ざされているのだ。私たちは自分が有罪であると分かっている。だから、弁護の余地はなく、話すことができない。これが、私たちが神と向き合う時に起こることである。

パウロが挙げる二つ目の理由は、「全世界が神のさばきに服するため」(19節)である。すべての人は神の裁きの下にあり、弁解の余地はない。パウロは他の箇所で特に異邦人についてこう書いている、「神の、見えない本性、すなわち、永遠の力と神性とは、世界の創造以来、被造物によって知られ、明らかに認められているので、人々に弁解の余地はありません」(ローマ1:20)。彼はユダヤ人にもこう言った、「だから、あなたたちには弁解の余地はない」(ローマ2:1)。それゆえ、すべての口はふさがれ、全世界は神の裁きの下にある。私たちは皆、神の前に罪人として立つのである。

これは神の診断である。律法を守ることによって神の前に義と認められる人はいない。なぜなら、すべての人が罪人であるため、神の要求通りに律法を守ることは誰にもできないからである。イエスは、心の中で自分を善人と考えて祈っているパリサイ人のことを語られた。パリサイ人は、「イエス・キリストも十字架も私には必要ない。自分で自分を救えるのだ」と言っていた。しかし、パリサイ人は自分の罪を背負って家に帰ったのだ(ルカ18:9-14)。

パウロもまた、かつては自分の義を誇示し、「律法の義については落ち度のない者であった」(ピリピ3:6)と言っている」。しかし、神が彼を捕らえられた時、パウロは自分の義が汚物であることを知ったのである。

律法は私たちを罪に定める。主イエスは、自分の行いに頼っている者たちに、「不法を行う者たちよ、わたしから離れ去れ」と言われた(マタイ7:23)。詩篇は言っている、「生ける者はひとりもみ前に義とされないからです」(詩篇143:2)。自分自身を救うことは不可能である。

では、律法の目的は何か。律法を通して、我々は罪を知る。神の律法は我々の人生を映す鏡だ。だからこそ、律法を常に読まなければならないのである。律法は我々の問題、我々の罪を映し出す。しかし、その罪を赦すことも、我々を義とすることもできない。実際、律法は我々の罪を明らかにし、断罪し、罪を改善するのではなく、むしろ悪化させる。律法は我々の顔の汚れを映し出す鏡だが、顔をきれいに洗うことはできない。我々を清めるには主キリスト・イエスが必要である。律法は世の救い主であるイエスを指し示す。律法は我々がどれほど曲がっているかを示すまっすぐな定規であるが、我々をまっすぐにすることができるのは主イエスだけである。

これが、我々の心に対する神の診断である。その曲がった状態、行い、原因、そして結論だ。誰も自分自身を救えないことを知っている。罪深い人間に希望はあるか?罪人に効く薬はあるか?新しい心を得ることはできるか?

答えはイエスだ。聖書は我々の問題を明らかにするだけでなく、治療法も与えている。ローマ3:21-26で、パウロは我々を癒す薬を与えている、「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」。 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである」(ローマ1:16-17)。

その取税人は、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と言った。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この者のみであったと書いてある(ルカ18:13-14)。十字架に架けられた盗人が言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。そこで主イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:42-43)。イエスは我々のように失われた罪人を探し出して救うために来られた。我々は、「驚くばかりの恵みなりき。この身の汚れを知れるわれに」と歌うことができる。主イエス・キリストが我々を罪の力とその支配から解放し、恵みの力、キリストの支配の下に置いてくださったことを神に感謝する。我々は、皆義とされて家に帰り、跳びはねて神を賛美するだろう。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(2コリント5:21)。主イエス・キリストをこのように信じていない人がもしいたら、神がその人に悔い改めと信仰を与え、キリストに立ち返って救われるようにしてくださいますように。

 

[1] http://www.ccel.org/bible/phillips/CP06Romans.htm

[2] D. Martyn Lloyd-Jones, Romans: The Righteous Judgment of God, Exposition of Chapters

[3] Lloyd-Jones, 211.