神に従え

1 Peter 2:13-17
P. G. Mathew | Sunday, May 21, 2017
Copyright © 2017, P. G. Mathew
Language [English]

前書き

前回、1ペテロ2:11-12から、真のキリスト者は、神の言葉に従う聖なる生活をし、この道徳的に暗い世界に星のように輝く、ということを学んだ。神によって選ばれた罪人は、主イエス・キリストを信頼し、心から父なる神を礼拝する。

今、我々はペテロ2:13-17を検討したい。この手紙でペテロは、神への従順を主題としている(ペテロ2:13,18; 3:1,5、22; 5:5)。

「服従」は神の言葉である。多くの人が想像するように、悪魔の汚い言葉ではない。我々は主なる神に服従し、主イエスのように悪魔に抵抗しなければならない。そうすることによって、父なる神を喜ばせ、悪魔に勝利された(ヤコブ4:7)。ギリシア語のフポタッソト という言葉が用いられており、これは命令を受けて、自分自身を従わせ、神が支配者に委ねた権威の下に自分を置くことを意味する。即ち、従うことを意味する。

我々は、主なる神が委任されたすべての権威に従わなければならない。しかし、もしもその権威が、絶対的な主権者である神に対して罪を犯させるように要求した時には、我々は服従してはならない。

神に服従することなく(すなわち、神に従うことなしに)、激しいライオンのように我々を飲み込む悪魔に抵抗することはできない。我々が罪を犯すと、我々を盗んで殺し、破壊するために来る悪魔に口実を与えている(ヨハネ10:10)。特に家族、教会、国家の3つの機関に対して、主なる神が任命したすべての者に従わなければならない。

全ての人間は、聖書の神か、それともすべての嘘の根源である悪魔のいずれかに服従する。全くこの例外はない。我々は、「だれからも全く自由である」という人間の自立自存を唱える思想は全くの嘘だ。アダムは悪魔に従うことによって神に従うことを拒否した。その結果、すべての人間が罪を犯し、霊的に死んだ。パウロはこれについて話している、「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」(ローマ5:12)。

アダムのすべての子どもは、罪人として生まれ、罪の中で、罪を遂行し、永遠の滅びに向かっている。主イエスだけが我々を罪から救うことができる。罪がないからである。彼は完全な正義により、我々の罪のために死に、完全な犠牲を払われた。パウロは、「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、我々の主キリスト・主イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ6:23)と宣言している。他に救い主はいない。

キリストは我々の罪のために死んだので、彼に信頼する者は罪から自由になっている。罪からの自由は、実際には、我々の主イエスに従う自由である。だから主なる神が命じておられるすべての権威に従うことができる。この節から4つの点を検討したい。

1. 神が与えたすべての権威に従う(13-14節)

ペテロは、「あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。」(13-14節)。これはまさにパウロがローマ13:1-3で語ったことと同じである。彼は次のように書いている、「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。」主イエスは「カエサルのものはカエサルに」と言われた。こうして、我々は税金を払い、政府の指示に従う。民主主義であれ君主制であれ、政府の本質に違いはない。パウロは国家の性質を定義していない。主イエスはカエサルとその知事ピラトに対して神が与えた権威を認めた。実際、主イエスはピラトに言われた、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい。」(ヨハネ19:11)。

しかし、我々は、その権威を委ねられた当局が罪を強いるならば、それに従うべきではない。そのような状況では、必要であれば不従順のために罰を受ける用意が必要となる。それは、当時の権威者が「福音を伝えないように」と命じたときに、使徒たちがしたことである。ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない。」(使徒4:19-20)。後に、大祭司はペテロと他の使徒たちにも言った、「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ。」(使徒5:28)彼らは大祭司に、「人間に従うよりは、神に従うべきである。」と言った(使徒5:29)。

エジプトの助産師は、へブル人の子を殺してしまえ、と命じられた時にエジプトの権威者に異議を唱えた。こう記録されている、「しかし助産婦たちは神をおそれ、エジプトの王が彼らに命じたようにはせず、男の子を生かしておいた。」(出エジプト記1:17)。これはネブカデネザルが作った像を拝むように命じられた時、へブル人の3人の青年たちにも当てはまる。シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません。」(ダニエル書3:16-18)。当局が我々に罪を強いるなら、我々は服従してはならない。

国家の機能は次のとおりである:
1.国家は悪党を処罰し、法と秩序を促進する。神は家庭内、教会内、国家内での無秩序に反対する。

2.国家は、法を遵守している人々、良い行いをしている人を賞賛する。

3.国家は国民の防衛と福祉を促進する。

4.国家は、聖書が教える唯一の真実で生きておられる神を礼拝することを促進する。この三位一体の神の以外を拝むことは、は悪霊を崇拝していることである。パウロは次のように書いている、「人々が供えている物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えているのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。」(コリント10:20)。

主イエス・キリストのみが父なる神によってすべての権威を与えられているのである。従って、すべて神によって権威を委任されている者は彼を礼拝し、従う。そこで、以下のように聖書に書かれている。

  • 箴言8:15-16:「わたしによって、王たる者は世を治め、君たる者は正しい定めを立てる。わたしによって、主たる者は支配し、つかさたる者は地を治める。」
  • マタイによる福音書28:18「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」
  • ピリピ2:9-11:「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」
  • 黙示録1:5:「また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放されるように。」
  • 詩編2:9-12:「おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを打ち砕くであろう」と。それゆえ、もろもろの王よ、賢くあれ、地のつかさらよ、戒めをうけよ。恐れをもって主に仕え、おののきをもってその足に口づけせよ。さもないと主は怒って、あなたがたを道で滅ぼされるであろう、その憤りがすみやかに燃えるからである。すべて主に寄り頼む者はさいわいである。」

国家の他に、神が委ねておられる権威を通して支配しておられるものとして、家族がある。すなわち最初に神が定められた最小の権威である。子供たちは両親に従わなければならず、両親はキリストに従い、子を支配する権威を与えられている。妻はすべてのことで、主のために自分の夫に従順でなければならない。ただし、もしも夫が罪を強いるならば、服従することはない。

夫の権威はキリストから直接来る。1コリント11:3は、人の頭(かしら)はキリストである、と教えている。キリスト者の両親は、そして夫は、肉体的、霊的な祝福をもって、子どもたちが従順になるように権威を行使しなければならない。彼らには、神の聖なる委任によって、子どもたちを虐待する権利はない。

教会は神の権威をゆだねられている。キリストを生きた石の基礎として教会がつくられるべきである。地獄の門は真の教会に勝つことはない。主イエス・キリストは、教会の栄光であり、教会を守る火の壁である。主イエスは言われた、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)。

キリストは教会の頭として教会を治めておられる。キリストは教会を構成する我々を祝福するため、訓練を与えられる。我々の人生において、神が与えられる規律を経験するのであるが。キリストは、我々個々人のどの部分を訓練するかを心得ておられる。パウロはこう書いている、「すなわち、主イエスの名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。」(1コリント5:4-5)。また、「あなたがたの中に、弱い者や病人が大勢おり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。」(1コリント11:30)という理由もある。主イエス・キリストは、教会を治めるために世話する者を任命しておられる。我々霊的な牧者であり、責任を負っている。

  • へブル13:17:「あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。」
  • 1コリント16:15-16:「兄弟たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたが知っているように、ステパナの家はアカヤの初穂であって、彼らは身をもって聖徒に奉仕してくれた。どうか、このような人々と、またすべて彼らと共に働き共に労する人々とに、従ってほしい。兄弟たち、これらの者、そして仕事に加わったすべての人に服従させ、働いて欲しいと強く勧めます。」
  • 1テサロニケ5:12-13「兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。」
  • 1テモテ5:17:「よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。」
  • 1ペテロ5:1-2:「そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。あなたがたにゆだねられている神の教会を牧会しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。」
  • 使徒20:28:「どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧会させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。」
  • エペソ4:11-13:「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、完全な人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」

我々が従うべき最終的な権威、それは主イエス・キリストである。従って、キリストが与えられた権威を乱用するすべての者は厳しく罰せられるのである。パウロは次のように書いている、「その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。」(2テサロニケ1:9-10)。へブル書の記者は書いている、「『復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する。』と言われ、また『主はその民をさばかれる。』と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。」(ヘブル10:30-31)。

すべて神によってたてられている権威は、神の栄光と主イエスの下にある人々を治めて、祝福されるのである。良い羊飼いである主イエスは、その民である羊を、彼らに何もかけたとろこのない者となるように導かれる。

2. その理由

ペテロは、13と14節の命令の根拠を15節で述べている。「善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。」信仰者として我々は、神によってたてられている権威に従う理由がある(PGM)。なぜなら、我々の良い行いと神への従順によって、神の民を迫害する愚かで無知な人々を沈黙させるのは、神の意志だからである。主なる神を信じない者は、聖書の真の神の知識を全く知らない。 彼らは、被造物や、心に残っているわずかの良心や、福音のメッセージが彼らに迫り、主なる神を提示する。しかし、そのような神の知識、神の働きを彼らは常に心の中で、思考の中で抑えつけるのである。従って、神は彼らを堕落した心に引き渡される。パウロはこのことについていくつかの箇所で語っている:

  • ローマ1:18-20:「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。」
  • ローマ2:14-15「すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。」
  • ローマ1:28「そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。」すべての不信者には、堕落した心があります。不信心者は知識のない無実の人ではない。前にも述べたように、彼らには知識がありますが、創造から、良心から、そして福音から、彼らに来る知識を抑圧します。
  • ローマ10:3:「なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。」
  • 1コリント15:33-34:「まちがってはいけない、『悪い交わりは、良いならわしをそこなう』。目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。」

だからペテロは、良い行いによって、我々を中傷する人々の口を封じることは、神の御心だと言っている。良い行いをするよう我々は期待されている。パウロは書いている、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(エペソ2:10)。ペテロはまたこう言っている、「このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。」(1ペテロ4:1-2)。

3. 自由人としての生活(16節)

そして、ペテロは次のように述べている、「自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由を悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。」(16節)。すべて主を信じない者は罪の奴隷である。彼らの親は、彼らの利己心、自分がどうしたいかということ、彼らが愛してやまないもの、それは悪魔の奴隷状態を表している。彼らは偶像を崇拝するとき、彼らは悪魔を崇拝しているのである。彼らは主なる神を喜ばせることは決してできない。パウロは言う、「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。」(ローマ8:6-8)。「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。彼らは虚偽で死んでいる。彼らは悪魔の意志を行うことに忙しいである。」(エペソ2:1-3)。

我々は真理そのものであられる、主イエス・キリストによって自由にされている。だから、真に自由な人として生きることができる。彼らと同様に、我々は罪の奴隷であった。しかし、そのような我々はすでに生きてはいない。パウロは次のように教えている、「しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、清さに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。」(ローマ6:22)。御聖霊は、我々を再生して、罪から救われる。パウロはまた、「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」と述べている(ローマ8:2)。

主イエス・キリストは我々を罪とすべての敵から救われた。今、我々を主なる神の御手から奪うことができる者はいない。キリストの中にいる結果、我々は征服者以上の存在である。死に直面してさえ、我々は神の前に出るのである。米国で最も偉大な神学者でる、ジョナサン・エドワーズの死を前にした言葉は、「私は主なる神を信頼しており、何も恐れていない。」であった。あなたはどうだろうか?ペテロはまた、「自分に与えられた自由を、隠れた悪しき行いに用いてはならない。」と言っている。ウィリアム・バークレイ博士は、福音を信じていなかったが、「恵みの教義が間違って用いると、罪の言い訳となってしまう。」と言っている。[1] ヨハネ8章の罪深い女を救われた主イエスは彼女に言われた、「これからは罪を犯さないで生きよ。」。主の豊かな赦しの恵みによって、我々は正しい、良い行いができる。

神は謙虚な者に恵みを与えられる。恵みは我々に必要なすべてである。パウロは次のように書いている、「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。」(2コリント9:8)。パウロはまた、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」と言っている(ピリピ4:13)。

現代の福音主義者の中には、「罪が多いところには恵みが増し加わる。だから、罪を犯しても大丈夫。神の大いなる恵みを得よう。」と言っている者がある。パウロはローマ6:1-2で、これに対する反論をしている、「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか?」ここで用いられているギリシャ語は「メゲノイト」、「神は禁じられる」KJV)である。それは可能な限りの否定である。パウロはまた書いている、「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)。

今日の福音主義が反律法主義によって打ち負かされるのである。 [2] 「キリストの恵みと自由」というキャッチフレーズは、ゆるい生活のための方便に使われている。そのような反律法主義を擁護する者は、福音を忘れてしまう。しかし、我々は、罪の奴隷から神の奴隷になること、正義を行うこと、罪と呵責の拘束から解放されている。主イエスは言われた、「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか?」(ルカ6:46)。

そのような反律法主義派に対して、主はこう言われる、「わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイ7:23)。言い換えれば、「地獄に行け!」 – 悪魔と天使のために準備されている地獄。我々罪人は、神の律法に完全に従うことができない。しかし、この呪われた状態から我々を救う方がおられる。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ6:23)。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法の呪いからあがない出して下さった。」(ガラ3:13)。我々は聖なる生き方をするために、内在する罪の支配から解放されている。「しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、清さに至る実を結んでいる。その終りは永遠のいのちである。」(ローマ6:22)。ペテロは先にこう書いている、「従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである。」(1ペテロ1:14-16)。

主イエス・キリストは、我々を罪の支配から自由に解き放ち、罪を犯さない自由を与えて下さったのである。だから、罪と戦え。へブル書の記者は言っている、「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。」(ヘブル12:14)。

4. 我々の義務

最後に、ペテロは我々の義務が何であるかを教えている。彼は4つの命令をしている、「すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。」(17節)。まず、我々は、神の似姿に造られた人間を尊重しなければならない。ローマ帝国には6000万人の奴隷が住んでいた。彼らは一般市民の権利を持たず、時々物として扱われた。実際、初期の教会のほとんどの人々は奴隷であった。しかし、神の家である教会では、差別はない。パウロはこう書いている、「そこには、もはやギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。」(コロサイ3:11)。

主イエス・キリストに属する者は、人を軽蔑してはならない。我が国(米国)は、胎児を女性の権利で殺す。胎児は権利を持たない非人として扱われている。しかし、キリスト教徒は、胎児も含めすべての人を尊重するのである。

第二に、我々は同じ信仰を持つ者を、お互いに兄弟姉妹として愛するべきである。愛についてコリント13章を学べ。教会は、様々な背景の人々で構成されているが、そのほとんどが貧しい人々である、「人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」(1コリント:26-29)。キリストは彼に信頼する人々を深く愛し、その罪のために死なれたのである。

第三に、我々は神を恐れなければならない。無限あり、かつ我々と個人的に関わられ、神聖かつ全能であられる主なる神、そして裁判官である救い主を畏れ続けよ。神の畏れは我々が罪を犯さない清い生活に導く。モーセは民に言った、「恐れてはならない。神はあなたがたを試みるため、またその恐れをあなたがたの目の前において、あなたがたが罪を犯さないようにするために臨まれたのである。」(出エジプト記20:20)。また、他の聖書の箇所にはこう書いてある、「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。」(伝道の書12:13-14)。

第四に、我々は上にたてられている権威者を敬うべきである。権威を委ねられた者を指して言っている。子供たちよ、両親に従え。そうしないならば、かならずや後の日に、その代価を支払うことになる。主イエスを信じる者よ、あなたの牧師に従え。そうしないならば、キリストの権威を軽んじることになり、主なる神はあなたを厳しく扱われるであろう。あなたが従業員であれば、雇用主に従え。学生は教師に従え。権威を委ねられている者は神によって任命されているから、それが、大統領のような国家の指導者であれ、警察官であれ、税務署であれ、その他のすべての権威に従え。

結論

結論として、我々は以下の質問を考えよ:
1.主イエスをあなたの主と告白することによって、あなたの罪のために死に、義とするために復活された主イエスに対して、あなたはひれ伏したか?ピリピ人の看守とその家族は、ひれ伏して主イエスを信じ、バプテスマを受けてピリピの教会に加わった。あなたは、主に対して降伏したか?
2.あなたは、主イエスに従う弟子として、神の栄光と永遠の祝福のために神が委ねておられる権威に従うか?
3.あなたは主イエスを信じる者として、この道徳的に暗い世界で星として輝き、あなたの人生を見た選びの民が、罪から救われているか?

あなたは聖霊で満たされているか?聖書は我々に聖霊で満たし、良い働きをするように力を与えられる。即ち、すべての人を敬え。同じ信を持つ兄弟姉妹を犠牲的に愛せ。神を畏れよ。すべての委ねられた権威に従え。我々がこれらのことを行い、主なる神が我々を祝福され、助けられるようにと祈る。

[1] ウィリアム・バークレー著:「ヤコブとペテロの手紙、毎日の聖書研究シリーズ」(フィラデルフィア:ウェストミンスター、1976年)、207 p

[2] チャールズ・ライリー著:「キリスト教生活のバランス」

ゼーン・ホッジズ著「絶対的な自由」

タリアン・チュルビジョン著:「一方的な愛」=反律法主義を促進する誤った福音解釈の例である。